魚の棚で育った立花富雄氏が、昔の思い出を綴った随筆集『都連都連の万に(つれづれのまに)』を昭和45年に出版されています。その中に「魚の棚今昔物語」「魚の棚懐古」の章があり、これらは魚の棚の歴史を語る貴重な資料となりますので、その一部を紹介させていただきます。
「魚の棚今昔物語」
“戦前は道巾も今の半分くらいで、東魚町のほとんどが鮮魚の卸屋と、かまぼこ、ちくわなど練製品の製造業で、朝は夜の明けぬうちから午前中賑わって、午後は閑散とした町であった。”
“この魚の棚の西の端、南角に湯葉の製造屋があった。表の油障子に独特の書体で障子一枚に一字づつ湯葉と大きく書き、うす暗い屋内では四角な大鍋で、大豆をすりつぶした汁を煮て表皮をすくい上げて湯葉を作っていた。東西の通りはほとんどが、つぶし屋といわれた練製品の製造業者が多く、南北の通りは魚屋が多かった。かまぼこ屋も、魚屋もそれぞれの家に屋号があって、その家族の者まで姓を呼ぶより屋号で呼ぶ方がわかりよかったという。”
“細工町には、板昆布を足ではさんで、とろろ昆布を削っていた昆布屋や、足踏みの石臼や、手廻しの粉ひき臼でひいた粉を売る店、かたいせんべいの紅梅焼を焼いて売る店などがあった。魚の棚の南北の通りは、生魚や焼魚の店が多く、季節によってグチの塩焼や、ベラの串焼、鯖の丸焼などを焼いていた。大正から昭和初年にかけて、この魚の棚が最も繁昌したのは毎年十月の秋祭りと、十二月、年の暮れで、秋祭りの時季には、かまぼこ、ちくわなどの製造に連日徹夜の日が続き、町中がわきかえる程賑わったものである。市内はもとより、近郊の神出や、岩岡方面、三木市、小野市方面まで販路を持っていた。”
「魚の棚懐古」
“十二月もなかばになると町は活気を呈してくる。正月用のかまぼこやちくわの製造の準備である。道路上まで原料のグチ、ハモ、エソなどを入れたトロ箱が積み上げられ、大きなサメが店先に横たわっていたこともある。手作り作業のかまぼこ職人も、臨時に雇入れて、町の人口がふえる。”
“正月用の餅米と、雑煮を焚く豆がらは下肥をとりにくる百姓屋がその代償として持ってきたものである。三十一日は早く仕事を終って迎春の準備をととのえ、明くれば、元旦、家々には戸を締めて、定紋を染めた幕を張り、くぐり戸をはいれば、松竹梅や鏡餅を飾って名刺受を用意して年始客を迎えた。”
“二月の初午には、町内のお稲荷さんの祭りがある。稲荷社の通路入口に‘正一位鍋玉稲荷大明神’の幟を立て、各家庭からお供えの紅白の餅が大小さまざま三方にのせて、社前いっぱいに供えられた。子供たちは一日中太鼓をたたき、釜たきの神事などが行われた。”
“四月八日は、おづき(卯月)八日といって、お釈迦さんに供える‘てんと花’が各戸の裏庭や物干台の上に立てられた。竹竿の先に‘もちつつじ’と春菊の花を十字にくくりつけたもので、朝早くからこの‘てんと花’を田舎から売りに来ていた。”“町内には柿本神社の人丸講があって、日参の当番があり、春の祭礼には、その神事の左大臣を東魚町から、右大臣を西魚町から一名づつ出して神幸式の供奉をした。講中の十五才になった長男に限るしきたりであった。向う三軒、両隣を単位とする蛭子(えびす)講は一年づつ輪番で蛭子神のご神体を家庭で祭り、一月十日には西宮の蛭子神社に詣でて、講中が集って宴を開く。その当時すでに隣組の組織ができていて交際の範囲としていた。七月になると東魚町の行者尊、細工町の弁財天の夏祭りがはじまる。”
“行者尊では大護摩を焚き、弁財天では、掛小屋で仁輪加や素人演芸会が催された。”
“旧暦八月十三日から盆の三日間はどの店も休業して、表にすだれをつり、盆のお迎え提灯に灯を入れ、ひる間からご詠歌の鉦の音が聞こえる。”
“東西の通りの西の端に‘布袋堂’という饅頭屋があった。分大餅や、田舎饅頭、おこぼなど、大きなのが弐銭銅貨一個で買えた。”
“東西の通りの北側の家の裏、追手町との間に小さな溝が流れていて、めだかや、おたまじゃくしが泳いでいた。この溝は昔の明石城の外堀の跡で、栄町から市役所の南側を通り、追手町と東魚町の間を通って、細工町の中程から南へ下り、海へ流れていた。”