1 樽屋町の概要

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 樽屋町は太平洋戦争末期の空襲によって大半が焼け野原となり、江戸時代から、明治、大正、昭和初期の面影をほとんど残していません。ただ、「樽屋町」と言う地名は今でも多くの人に知られています。それは、盆踊りなどで耳にする『明石音頭』の一節、「明石、樽屋町、茶碗屋の娘~」の音頭の歌詞で、子どもたちでも知っているのではないでしょうか(“茶碗屋の娘”は別記コラムで)。
 江戸時代の明石の地誌『明石記』では、享保6年(1721)の東樽屋町は総数110戸(本家59戸、借家51戸)、人口476人(男253人、女223人)となっています。西樽屋町は総数93戸(本家53戸、借家40戸)、人口458人(男231人、女227人)です。
 当時、城下町の中心、明石町の総戸数が1903戸で、総人口8922人ですから、東・西樽屋町には10%近くが住んでいたことになり、大変な賑わいを見せていたのでしょう。東・西樽屋町には紺屋町、大工町も含まれていて職人の町の雰囲気ですが、明治16年に出版された『神戸兵庫明石豪商独案内の魁』(愛知県西尾市岩瀬文庫)を見ると、様々な商人や医者が住んでいました。また、『明石記』には明石の職人の戸数も書かれていて、樽屋53戸、檜物師14戸とあり、紺屋11戸とあります。大工はおよそ100人とあり「大工さんたちの虚空蔵講(こくうぞうこう)の定宿は樽屋大工町助左衛門方なり」とあります。
 また、「大工町は今の天祖の丁なり」と記されています。樽屋町には通りの町として、天祖丁、五分の一丁、一番丁、二番丁、三番丁がありました。天祖について『明石名勝古事談』(橋本海関著1917)に、樽屋町の南、材木町にある臨済宗・龍谷寺の天祖和尚の住まいから由来しているとしています。また、五分の一丁は明石港帆別役所の役人が住んでいたことに由来(舟の入港税を五等分し、その五分の一が役人の取り分)。一番丁から三番丁は、ここに明石藩の人足組の一番組から三番組があったことから由来しています。これらの丁については、今回の聞き書き調査でも、60代以上の多くの人が、路地として遊んだ記憶の中に残っていました。天祖の南の突き当りは龍谷寺の北塀にある「北向き地蔵」(写真①)で、そこから北へ向かって、今も少し路地が残っていました(写真②)。

写真①北向き地蔵


写真②

 余談ですが、江戸期の明石の町屋の詳細が記してある『明石記』の中に気になる記載がありました。職人の項の少し後に、“藝瞽女(ごぜ)(盲目の女芸人で三味線を弾き唄う)”が城下に一人、船上村に“瞽女”が4人いるとあります。越後を中心に日本海側を北海道から若狭辺りまで移動した、三味線弾き語りの女旅芸人として近年まで活動していた“瞽女”が江戸時代には明石で活躍していたことを知り、違った形での城下町の生き生きとした姿を垣間見ました。
 
 江戸期から明治初めにかけての樽屋町は店の入れ替わりはあったと思いますが、全体としては大きな変化もなく、北は三木から、東は舞子からも買い物客が来ていたと言われています。今の県道718号線(旧の浜国道250号線)、そして、その昔の西国街道をはさんで東西に商店が立ち並び、城下町の繁栄を支えてきました。通りをはさんでの商店の推移については別表を参照して下さい。(『神戸兵庫明石豪商独案内の魁』(愛知県西尾市岩瀬文庫明治16年)に記載の店舗、安藤保二氏『思い出の樽屋町』の戦前街並みの図、昭和33年の神戸地学協会作成の地図、そして、現在、町内に立っている案内看板(写真③)から、比較作成しました。)
商店街の推移の比較一覧表1商店街の推移の比較一覧表2商店街の推移の比較一覧表3
商店街の推移の比較一覧表
写真③-1
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写真③-2
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