そして、太平洋戦争末期の空襲で樽屋町はほぼ全焼し、江戸から明治、大正の雰囲気は一気に無くなりました。無くなったのは、人、建物だけでなく、それぞれの家に伝えられてきた文書なども蔵もろとも、灰燼に帰してしまいました。一瀬さんの家は代々佐野屋を名のり、戦争中、お父さんが「蔵の中の物を疎開させよう」と提案したのですが、祖父が「蔵が燃えるはずがない」と言ったために、全部燃えてしまいました。一瀬さんの祖母の話では江戸時代には港の船年寄をしていて「ご家老もよく来ていたと聞いている」と話をしていたそうです(今回の調査で、古い昔話は祖母から聞いたという人が多くあった)。『神戸兵庫明石豪商独案内の魁』には「諸紙・荒物類佐野屋清八」とあります。
明治16年『神戸兵庫明石豪商独案内の魁』(愛知県西尾市岩瀬文庫)より | ||
以下、挿し絵付で掲載 | 以下、文字のみで掲載 | |
郵便局 樽屋町 | ||
諸紙・荒物類・薬 | あら物・手拵えるい商 | 内外科醫 柳川春山 |
醤油商 小西安右衛門 | ||
実綿・篠巻・米穀ほか | 並ビニ 賣薬商 | 肥物商 卜部萬造 |
醤油酢商 伊藤庄兵衛 | ||
宇治御茶所 御菓子所 | 賣薬商 | 三木彦右衛門 萬染物 並ビニ肥物商 |
いろは 色波幾之介 神戸大阪融通為換取組所 金銭両替 西洋物品所 | ||
青物商 末廣 | ||
賣茶 製茶所 | 松村利助 明石ねりびん付 並ビニ かもじ製造所 | |
[注]西新町で三龍圓成定庄兵衛で記載 | ||
明石玉製造商 | ||
明石玉製造商 | 明石三番丁 山口堂醫院 高田甚吉 ※総合内科的広告あり | |
本家 通天香 |
一方、戦国時代末の別所氏・三木城落城の後、江戸時代初めに浜光明寺と一緒に明石に移って来た言い伝えがある三木洋介さんの家は三木城に加勢に行く前は、姫路の英賀保出身との言い伝えです。「先の戦災では江戸時代から残っていたとみられる蔵の屋根に不発の焼夷弾が3発突き刺さったまま焼け残って、戦後しばらくは、この蔵で祖父が暮らしていたそうです。うちの家は代々、彦右衛門を名乗って明治生まれの曽祖父・彦右衛門で10代目と言っていたそうで、古い墓石には“三木屋”とあります。洋介さんのお父さんは京都の会社に勤め、三木さんも宇治市で育ち、後年、介護のため樽屋町の実家に帰ってきました。」三木家は江戸時代、米問屋などをしていたそうで『神戸兵庫明石豪商独案内の魁』では「萬染物、肥物商三木彦右衛門」とありました。
江戸時代からの伝承を持つお店の『田中食品』の田中松生さんは「享保頃(1700)からと聞いています。こんにゃくを商っていました」とのことで、『米谷商店』の米谷高明さんは「私で七代目です。米や酒を商ってきましたが、空襲で全焼し、今の店より東の所で店を再開したと聞いています」とのことでした。
また、明治26年に「誘蛾灯」を売っていた初代が、風で火が消えるのでガラスの笠を扱う様になった『立田ガラス店』は、それから金魚鉢など種々のガラス製品を商い始め、今は立田久江さんが店先でステンドグラスを作る教室を店内で開いて、ガラス店は息子の宏樹さんが5代目を継いでいます。
戦争、空襲の記憶はまだ生々しく伝えられています。先の戦争では、物資が無くなり、商品が統制され、店が開けなくなり、働き手の店主、息子、店員たちが戦地に取られて、女性と子どもで店を守り、それも戦争末期になると、子どもたちは郊外や田舎へ疎開していきました。
聞き書きした多くの人が70代から80代の方で、空襲の記憶が鮮烈に残っていました。戦前は散髪屋をしていた『安尾書店』の安尾万代さんは「空襲のときは大観橋の下に避難しました。大観小学校側の国道2号線の下を通っていたトンンネル、通称“穴門”に多くの人が避難しました。焼けてしまった商店街から南を眺めると、家は焼けて何も無くて、淡路島が丸見えでした。父が戦死し、残された母と昭和25、6年頃から少しずつ食料品を売り始め、30年代には本屋も始めて、切手や子供相手に文房具やお菓子もおきました。その頃は、ようけお客さんも来ていました。最近は寂しいものです」と。垂水区の多聞の山まで近所の人と避難したお好み焼き屋の『みーさん』の黒田なが子さんも、避難した山の上から燃え上がる明石の町が見えたそうで、空襲の翌日は、明石川岸に並ぶ焼死体や、焼け跡を見た記憶や、明石小学校での炊き出しなどは鮮烈に覚えておられました。『みーさん』は戦前から戦後しばらくはカフェーをしていて「父がしていました。女給さんも5、6人いて、よう繁盛していて、遠くから職人さんたちが自転車で来ていました。戦後しばらくして、姉がお好み焼き屋に変え、その後、私が引継ぎ玉子焼きもしています」とのことでした。隣の『荒井タバコ店』も荒井利英さんの話では「昭和7年まで下駄屋でしたが、職人の父が亡くなった後、昭和13年頃に母がタバコ屋を始めました。空襲で何も無くなってしまいましたが、戦後、また、タバコ屋を始めました。」とのことでした。
戦争は終わったものの、家や店も無く、売る商品も少ない中で、焼け残った材木を集めトタン葺きのバラックを建てる人、戦後しばらくして建てられた復興住宅から立ち直る人と、活気が少しずつ出てきましたが、商売をやめていく人も多くいました。一方で、他の地から新天地を求めて焼け跡の空き地に店舗を出す人も多く、現在、店を続けておられる半分近くは戦後すぐから22年頃に移って来られました。現在、商店街会長をしておられる「片山洋品店」の片山均さんの話では「私の家も戦後に店を始めました。七夕大売出しとか誓文(せいもん)払いの時は大変な賑わいでした」。コラムで紹介している“茶碗屋の娘”に縁のありそうな「茶碗屋の墓」を船上町の密蔵院墓地で見つけた『高尾商店』の高尾功さんの息子さんの安博さんも「うちの店も戦後、21年頃に父がここで商売を始めた」と話しておられ、『前川洋品店』『溝端自転車商会』『菅田仏壇店』『履物専門店かさたに』のいずれもが戦後すぐに店を開かれました。少しずつ商品も店に並び出し、20年代終わり頃から30年代末頃にかけてが、戦後一番にお客さんが多かったと、皆さんが口を揃えて話されます。当時の繁栄ぶりを示す20年代末頃の大売出しの写真が『片山洋品店』と『よいこや片岡』に残っていました(写真④と⑤)。
写真④
写真⑤
『よいこや片岡』の片岡幹雄さんの話では「大正12年に今のところで父が“籐品店”を始めましたが、戦災でみんな焼けてしまいました。店には父と兄と姉が居て空襲に遭いました。私は母と姉と弟の4人で岩岡に疎開していました。そして、終戦後すぐの昭和20年11月に焼け跡に、板張り、トタン葺きのバラックの復興住宅家が建ち、家族7人で住み始ました。父は直ぐに店を開けたかったのですが、売る商品がなく色んな品物を並べて、細々と商売を始めました。昭和24年の明石の闇市の火事の後くらいから物が出回り始めて、商いを再開し、昭和26年には“片岡乳母車店”の看板をあげました。この頃、商店街の道幅が広げられ、私とこら南側の商店街が南へ下げられました。それまでの店の入口は、今の道の真ん中の所にありましたから、10m以上下がりました。また、樽屋町と本町の境の道を南に行くと“坊主橋”がありました。“天祖”の通りは今は無く、材木町の龍谷寺の北の塀にある“北向き地蔵”が“天祖”の通りの突き当りでした。天祖やウマヤ丁、五分一丁などの地名を無くしてしまった。みんな意味があり町の名前がつけられていたのに」と片岡さんは悔しそうな表情で話されていました。話に聞いた“北向き地蔵”に行くと、北側に懐かしい路地が、少しだけ残っていました(写真①と②)。
復興の最中、明石にも戦後の象徴の一つ闇市がありましたが、昭和24年2月に火事で焼失し、近辺の家屋も類焼しました。戦災で焼け残ってこの火事にあった人、戦災に続き二度の火災に遭った人と様々です。しかし、闇市の焼失は戦後復興のスタートにもなり、柳のある銀座商店街が建てられ、同じ時期の24年から26年にかけて、昔の浜国道、今の県道718号線が幅6mから20mに広げられました。先の大売出しの写真は広がった頃の写真です。まさに、戦後の復興を象徴するかの工事で、南側の商店は海の方に後退して、道幅を広げました。南の商店街の玄関は今の道路の真ん中あたりにありました。しかし、この拡幅工事が後で客足が減る原因になるとは誰も思いませんでした。それまで、南北の商店街を気軽に行ったり来たりできたのが、行き難くなり、モータリゼーションの発達に伴い乗用車を使った買物が増えて、お客さんは駐車場を必要としました。さらに、都心に大型のスーパーが進出してきました。
そして、昭和46年には今の明石郵便局の東にあった明石市役所の庁舎が海辺の中崎に移転したことで、人の流れが大きく変わって、客足の減少の一因となりました(神戸市でも昭和32年に市庁舎が兵庫区から今の生田区の場所に移転したことなどから新開地の客足が大きく減少し三宮が繁華街に)。樽屋町商店街の店舗の推移についてはP73の「商店街の推移の比較一覧表」を見ていただければ、一目瞭然です。
商店だけでは生計が立ちいかなくなると、主人は働きに出て、奥さんが店を守る店舗が増えてきます。特に販売を中心とした店では女店主が活躍することになります(聞き書きをした何軒かはこのパターンで、ある時期、店主の男性は地域から離れて就職し、退職をしてから地域に戻って店を手伝う。しかし、子どもたちに受け継がせても子どもたちが生計を立てられない、という現状はここの商店街だけの問題ではないでしょう)。
樽屋町(本町から)
時代の大きな変化は、それぞれの店舗に様々な形で影響を及ぼしていきました。
例えば、若者が携帯電話中心の生活形態になり、携帯には初めから時計の機能が付いており、あえて腕時計を買わない人が増えてきています。今、60代の世代は子どもの頃、中学に入ると自転車を買って貰い、高校に入ると腕時計を買って貰い、自転車、腕時計は若者のシンボルでもありました。時代の変化は、戦前から続いてきた時計店を閉めざるを得なくなり、自転車屋さんもお客さんが様変わりしていきます。『よいこや片岡』は少子高齢化社会の中で、店に並べる商品を乳母車から高齢者専用の手押しのシルバーカー専門に変えていきました。
樽屋町(樽屋町西詰交差点)
ただ、これまで漠然と商店街の近年の盛衰は高度経済成長期・バブル期・バブル崩壊期を境にしていたと思ってきましたが、大観橋を渡って最初の交差点を少し左に入った所にあり、戦前から営業をしている銭湯『三光湯』の聞き書きで、藤本和栄さんは「客足が大きく減ったのは“阪神淡路大震災”から」だと言います。樽屋町商店街近辺は戦災復興の中で家屋を急作りしたため内風呂のある家が少なく、震災後、建て直した時に初めて内風呂を作ったので、銭湯には行かなくなったと言うことです。震災が影響しているとは初めて知り、平成になってからの店舗の推移には、震災が絡んでいる可能性も、今後、考えていく必要がありそうです。
樽屋町(大観橋から)
今、樽屋町で商いをしている店舗の中で、後継ぎが決まっている店舗は少数で、大半は「私の代で終るのかなあ」と言いながら「食べられない商売を子どもに継がせられない」と言うのも本音です。
また、商店も何を売って行けばよいのか、迷う時期に来ています。経済成長期に店舗を増やした洋品店も、今は高齢者向けの商品を中心に並べ、地域に根差し、地域限定で樽屋町から市内に店舗展開していた小型スーパーのチェーン店ですら店を閉めて、全国展開のスーパーに変わりました。
一方で、『花澤仏具店』のように、最近、親戚の仏具屋さんが店じまいされた後、移って来られたお店もあります。また、『高雄モータース』は実家の酒屋を閉められた後に、新しい商いを始められ、『千歳寿司』は45年ほど前にお父さんが始めた『お好み焼きよふけ』を引継ぎ、寿司店も開いています。『高雄モータース』、『千歳寿司』ともいずれも40歳代の新しい世代の店主です。
これから商店街を活性化させ、存続させていくのは個々の商店主の知恵だけではなく、社会全体の構造のあり方を根本からとらえ直し、行政と民間が協同で考えていく“現代の宮本武蔵”プロジェクトが必要ではないのでしょうか。