地質学者・生物学者 安藤保二氏著、町割図・成定氏

78 ~ 79 / 107ページ
 一冊の冊子があります。『思い出の明石樽屋町』の題で、題の下には平成八年八月末日安藤保二79才と書かれ、古い丁名の入った樽屋町の略画が描かれています(図参照)。

冊子『思い出の明石樽屋町』

 随分以前に、明石市の高齢者大学・あかねが丘学園の関係者から「中々、面白い冊子が手に入ったのでコピーして差し上げます」と手渡され、帰宅して目を通すと、その内容に懐かしさと言うか、ホッコリした温かい何かを感じました。当時は、勝手に「あかねが丘学園」の生徒さんの作品と思っていました。
 今回、城下町調査を実施し、樽屋町の担当になり、あらためて読み返して思いました。先の太平洋戦争で明石の市街地は米軍の空襲により焼け野原になりました。樽屋町もほとんどが焼失しました。そのため、江戸時代から、明治、大正、昭和戦前と市内でも一番に繁栄した「樽屋町商店街」の往時は偲べず、個人の家に伝えられてきた古い文書も失してしまいました。そんな中で、この冊子は貴重な記録であることが分り、付随する手書きの戦前の商店街地図(昭和54年6月成定調)も大切な記録であることに気付きました。
 樽屋町商店街での聞き書き調査と並行して、安藤保二さんを探して、この冊子の使用をお願いし、話を聞きたいと樽屋町、日富美町、材木町に居住の安藤さんを訪ねましたが、不明のままです。「あかねが丘学園」の事務局を訪ねて、過去の生徒さんの名簿から探して貰いましたが不明でした。ただ、その時、若い職員さんから「安藤保二さんでこの辺の化石を調べていた人がいます」と情報を貰い、友人などに当り、ネット検索をして、地質学者で貝の標本を明石市立文化博物館に寄贈された、安藤保二さんにたどり着きました。20年以上前の電話帳で調べ、同姓同名の方が市内に居られることが分って、取りあえず、その住所を訪ねました。
 奥さんの礼さんが出てこられて「多分、主人だと思います。書かれた時の年齢から見て間違いないし、主人は樽屋町の出身です。主人は18年前に亡くなっていますが、主人のことを覚えておられた方が居て、大変に嬉しい。是非、お使い下さい」とのことでした。この冊子は亡くなられる数年前に書かれたものです。後日、この『思い出の明石樽屋町』と『明石太寺の思い出』、『明石生き物』の三部作を合本にしたのを譲り受け、市史編纂室におさめました。
 もう一人、戦前の樽屋町商店街の作図をした「成定」さんとは誰なのか?聞き書き調査の中で、多くの方が「図の中にある、成定三龍圓製薬の人だと思う」と言われ、住宅地図を頼りに、探しましたが、以前に成定と書いてあった所はアパートになり、不明でした。明治16年に出版された『神戸兵庫明石豪商独案内の魁』(愛知県西尾市岩瀬文庫蔵)には西新町に『成定三龍圓製薬』として載っていて、江戸時代から続いていそうです。もし、これを読まれてご存知なら、お教え下さい。また、聞き取り調査をした方の中には、同じ冊子を10冊持っておられる方もいて、結構、配布されているのではと思います。
 今回は、これを再録し、読まれた方は自分なりに追加、訂正、加筆したり、また、樽屋町以外の方は、皆さんのお住まいの所の昔の姿を再現してみてはどうでしょうか。
 樽屋町にはこの図の中にも出てきます、「小野重商店」の店主、小野政種氏が書かれた私家版冊子『播磨に生きる-小野家のルーツ探究-』『たこ焼きルーツは玉子焼き「向井流玉子焼」秘伝探究』などがあります。今回の調査中、多くの方が小野さんの本を持っておられ、尊敬の念で小野さんのことを語っていただきました。地域を愛する人がいて、愛される地域がある。それが樽屋町だと思いました。安藤氏の労作で、昔の樽屋町を思い出してみて下さい。
 注)元の文章で時代に即さない箇所は削除し、明らかな間違いについては訂正をさせて頂きました。また、元の文章のニュアンスを出来る限り残しながらが、字と字の間が空きすぎて読み難い文章は、最小限ですが詰めさせて頂きました。