思い出の明石樽屋町 平成八年八月末日 安藤保二79才

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昔の樽屋町は賑やかな大通り
 明石樽屋町は西、大観橋を渡って林崎村・大久保村を経て加古川村・姫路に通じる。北は明石川に沿って三木・西脇に通じ、東は中町本町を通って須磨神戸に通じる。交通の要衝である。
 私はその西端近くの一寸大きな商家に生まれ、幼年期をそこで過ごした。
 大正6年(1917)に生まれてから、昭和10年(1935)に上京するまではともかく樽屋町にいた。途中事情あって五分一丁という横丁へ移ったがそこも樽屋町のー部であった。
 今では静かな町になっているが、当時は人通りが多く大きな商家が軒を連ね、特に盆前、秋の誓文払い、年末には道一杯に人が通っていた。その上、石炭(方言ゴへダ)・豆粕などを運ぶ馬力車、農家の人が牛車を曳いて通る。犬が走る。
 その賑やかな所へ子供相手、大人相手の行商人が色々な売り口上を述べながらやって来る。時には奇術・人形遣いがやって来る。たまに戸閉めの店があると、時には露天商が店を出す。今の樽屋町からは想像出来ない賑いであった。
 当時の私の楽しみは約三つあった。まず近所の店のヒヤカシ。また、表に立って人通りを眺める。最後は明石川の大観橋の袂にあった涼み台へ兄姉にくっついて行く事で、時には飴湯・八幡巻にありつくことであった。ただしこれは夏だけの楽しみであった。
 
道路
 もちろん舗装道路なんて気の利いたものはない。二間幅くらいだったか当時としては大通りであった。馬や、牛が車を牽いて絶えず通る。排泄物が落ちる。父が舌打ちをして怒る。舗装のつもりか、砂利が撒かれる。また父が怒って道の真ん中へ寄せる。両方からやるので道はカマボコ型。歩き難い事、夥しい。石炭を積んだ馬力が通る。大きな塊が落ちる。父が「拾ろとけ」と叫ぶ。これはフロの燃料になった。
 
近所歩き
 その頃の樽屋町の商家は実に活気があった。まず隣の饅頭屋さん。ホカホカの饅頭が蒸し上がる時のあの匂い。今思い出してもヨダレが出る。青葉のころのカシワ餅の蒸し上がり。貧乏を忘れて大皿に盛り上げて食べに食べた。屋根の上には、干し羊羹・金ぎょく糖が干してあった。大きな猫がノッシノッシと踏んで通った。誰も怒らない。
 麩屋さん これは見るのが楽しい。カンカンにイコッタ炭火の中ヘ、鉄の管を放り込む。その中に全く少量のネタが入っている。おじさんが項合いを見て鉄管を開ける。ブァっと膨れ上がって麩が現れる。見事である。
 カシワ屋さん 円盤型の鶏篭から沢山の鶏が首だけ出して叫んでいる。そのうちから取り出された鶏一羽。見る見る内に首を切られて羽をムシられ、胸肉・モモ肉・キモ・スナズリ・卵に分解される。見事な早業であるためか、残酷さはない。
 煎餅屋さん 小さな丸い煎餅で巴と、羽のぶっちがいの紋がついていた。自動的に焼けるとかで、ベルトに乗ってドンドン良い匂いを立てて出て来た。この店はすぐツブレた。「余りハイカラな事をするのであかん」と大人が言っていた。
 セトモノ屋さん 明石民謡に「明石樽屋町茶碗やの娘、器量一番姿は二番云々」と言うのがあった。近所の人々の噂ではあの家がそうで、その娘というのは、あのお婆さんだとか。頭はツルツルであった。別に今、ツルツルでも、昔、美女であったということとは矛盾しないが。何だか寂しい感があった。
 サンパツ屋さん 別に見物には行かなかったが、時々引っ張って行かれた。バリカンは両手で柄を掴んでやるスゴイ奴であった。「大ブシイヤヤー!」と泣き叫んだことを覚えている。サンパツ屋のオッチャンは鬼に見えた。そのサンパツ屋の兄ちゃんがエイゴイン(英語の子供語)を読んでいるというので二階の窓の下ヘ聞きに行った。それは、明石にも中学校が出来た記念すべき年であった。(大正12年-1923)
 そのほか 米屋さんも玄米から白米が出来るのは見ていても面白かった。また、湯葉屋さんがあって、見ていると楽しかった、と姉から聞いた。私が人心ついたときはなかった。残念。
 
物売り・大道芸人
1 子供相手の物売り
 タンダのオッチャン 何を売っていたのか 覚えていない。ただ、このオッチャンが来ると後をついて随分と遠くまでついて行った。車を引っ張っているのだが、その車の飾りが実に見事であった。特に覚えているのは海軍記念日には、満艦飾をした軍艦の飾りでオッチャン自身も海軍大将?の礼服であった。おツリを受け取り損なって落とすと「オミ(海)ヘ落ちた」と笑わせた。徹底的に「オッカケて」遂にオッチャンの家を見つけた時は嬉しかった。しかし、母は呆れていた。
 チョンベはん アメを売っていた。柔らかいアメを手で延ばしてチョキチョキと鋏で切り、ニッキ(肉桂)入りの砂糖をまぶす。人形が座っていて「チョンベハンでホイ」と言う掛け声で人形が手に持った箱を上げる。出た札と手持ちが合うと「オマケ」が貰えた。目が悪かったとかで「オカーハンが死んだ時泣いて、泣いて、それで目が悪うなった」と言っていた。皆半信半疑であった。チョンベハンは大した芸人で前から見ると、娘さん。クルット回ると、フンドシ姿の裸人問。落語も上手だったと覚えている。地蔵盆などには座を組んで、チョンベハンを初め、明石のセミプロ芸人が芸を競うた。
 キビ団子 カンカラ・カンカラと小さい臼を叩きながら歌を歌って来た。よくは覚えていないが「3ッツ?の年で湯に入り、何才かで串差して~中略~オキビチャンのアーツ、熱ツ」とか言うのであったと思う。
 「エビラ堂のパン、パン」 いろいろのパンを満載した陳列を車に載せてふれて来た。これは相当後まで続いた。
 カリカリ屋 大きなブリキ缶を肩にかけて「雨が降ってもカーリ、カーリ」カリカリ屋のオッサンと言った。売っていたのは何だったか?買ってもらえなかったので解らない。
 「津山名産フワフワ」 それこそフワフワに焼いたかき餅のようなものだったと思う。ほんとに津山から来ていたのか。私も若い時東京で明石名産チクワだの。タコの八ちゃんなどと言って東京九段下などで売っている怪しげな出店を見て、いやな気持ちになったことがある。あのフワフワはどうだったのだろうか。
 「煎りたてマメー」 妙り豆やが来る。柔らかくしたサルえんどうに砂糖をかけてもらうと天国の味がした。近頃、見かけないが、ミツ豆なんて、統一の取れないシロモノより雑味があってグンと美味であった。
 シガラキ屋 近項見ない物に「信楽」と言うものがある。売り声は忘れたが、何だか黙って来たような気もする。モチ米を管状の木綿の袋に入れて茹でる。それを糸で薄く切って竹串に差す。氷の上に載せて冷やす。砂糖をまぶして出来上がり。簡単であるが夏には絶妙であった。近項、なんだか急に懐かしく思い出される。
 肉テン屋 子供の洋食とも言った。メリケン紛を薄く。鉄板の上に流してすじ肉のミヂン切り・干しエピ・コンニャク・ネギなどをパラパラと撒く、薄っぺらな物である。これに辛いソースを刷毛で塗る。そして、新聞紙に載せる。ペロペロ食べる内に舌の部分には新聞の活字が写っている。構わないで食べる。現在はお好み焼・広島焼きなどと言っているが、私にはあの子供の洋食が懐かしい。
 おデンさん 味噌田楽である。お定まりのコンニャクを三角に切って串に差し、茹でてある。これを引き上げてアズキ色のアヤシゲな布巾の上で、デンデンと水気を切る。そこで、オデンサンの語源を子供なりに納得する。最後にゴマ入りの甘い味噌の溜まりにザブっと浸ける。そのとき、新聞紙に載せてもらったか、木ッパにのせてもらったかは覚えていない。
 玄米パン 今では「蒸(む)しパン」と呼ばれているものと思うが、よく覚えていない。売り声があまり上手なので何か近寄り難い感があった。何とか何とか(この間に製造所、効能が入る)最後に「玄米パンのホヤホヤ」で終わる。
 
2 大人相手の物売り
 お刺身屋 ピタっと身についた股引きを穿いた、イナセな兄ちゃんが「カツオ?の刺身、オバケの刺身」また「カツオの塩から」とか呼び声を上げながら小さな桶を片手で支えて売りに来た。子供心に、あんな少しの品物を売って商売になるのかなあと思った。
 「煮豆屋」 チリンチリンとベルの音でやって来るのが「煮豆屋」さん。粉ふきの金時豆・えんどう豆・あづき等々、皆美昧しかった。それに、ニシンの煮付けは天下一品だった。あのベルの音が懐かしい。
 「ラオ仕換え」 ピーーーーと、音を立てているのは「ラオ仕換え」である。我が家は誰もタバコを吸わないので、あの音は単なる雑音であった。でも、眞鍮でピカピカ光っている装置は何か魅力的であった。
 金魚屋 「金魚エー金魚エー」。近頃まで夏の風物として馴染んだが、今は聞かない。日照りの暑い盛りをわずかの水のなかで揺られている金魚。早く何処かの家に引き取って欲しいものと思った。
 ジャコ屋 お婆さんが「鮒にモロコいりまへんかー」と売りに来た。浅い桶の中で大きなフナが横になってアップアップしていた。気の毒な気持ちがしたが、あの方が酸素の供給がうまくいってフナも楽だったに違いないと思う。賢い婆さんだった。
 タコ屋 「タコ。タコ。タコ。タコー」と叫んでタコ屋のオッサンがやって来た。車の上にタコの入った桶を積んでいる。タコが売れるとタコが逃げ出さないように、木槌で桶の蓋をコンコン叩いて閉めていた。それでもオッサンの通ったあとにタコがのたくっている事があった。そのタコをどうしたかという事については覚えていない。
 イワッショー 夏の夕方には「いわっしょー(鰯よー)」の声が町に響きわたった。自転車に乗った「イワッショー」のオッサンが当津の市場を飛び出して町の方へ全速力で駆け抜けて行く。ボヤボヤしていると怒鳴りつけられた。おカミさん達は鍋をもって軒下に立つのである。何匹なんて勘定しない。掴んで鍋にほり込んで走るのである。男らしい商売である。
 タケノコエー 春、「タケノコエータケノコエー」僅かなたけの子をイカキに入れて、天びん棒で担いで来る。一年中で一番嬉しい季節であった。「あの時分に死にたい」と私の母が言った。ほんとにそうなった。
 セメン菓子 ドンドン太鼓を叩いて虫下だしの薬を売るのである。天王寺鳥居前、岩崎大開堂。今でもある。昔は回虫を持っている人が多かったのでドンドンのお世話になったが、小学校で駆虫薬を飲ませた事と、下水が発達して回虫と縁がなくなって、ドンドンを聞かないようになった。
 「烏丸枇杷葉湯(びわようとう)」 夜になると「カラスマル、ビワユートー」の声が聞こえて来る。姿を見たことはない。「アメユー」(飴湯)の声がする。これも見たことはない。箱入りムスコであった。近頃知ったことであるが、ビワユトー(枇杷葉湯)はビワの葉等を煎じたもので、暑気払いになるという。
 マッサージ屋さん ピーーというもの悲しい音がする。マッサージの人らしい。これも姿を見たことはない。夜は外へでない習慣だった。
 
3 大道芸人
 私の家の向かいは大きな古着屋さんで、どういう訳か戸が閉まっていることが多かった。そこが大道芸人・露天商の定場所であった。
 人形使い 古い箱を据えたと思ったら、蓋を開けて大きな人形を取り出して、義太夫に合わせて人形を使った。子供にはサッパリ分からない。道の北側からボヤーっと見ているうちに人垣も解けて、荷物をまとめてあとは何もなかったような有様であった。
 中国奇術 ジャンジャンジャンジャン、ドラの音に釣られて人が集まる。小さい男の子が逆立ち、バックテン見事な演技・そのうちにオ父ツアンが剣を飲み込む。子供が泣きながらお金を集めて回る。終わる。人が散る。
 磨き粉 「お鍋さんの おケツも こんなに奇麗になる」とのセリフを覚えて、ご披露して家族の顰蹙を買った。
 五目並べ 今でも縁日等でお目にかかる。ただ当方はヒマだから一部始終を観察している。商売人とサクラの客とが交代するのを見て、おっちゃんは不思議な事をするものと言う事を知った。良い経験であった。
 戦傷軍人会の薬販売 10人位だったか、連隊旗のような旗を掲げて戦傷軍人が集まって歌を歌って気勢を上げる。それから分散して各家を訪問して相当強引に薬等を売り込む。私の母は病身であったので、付け込まれる事を恐れて逃げ隠れしていた。子供心に向かいが集合場所になるのは嫌だったのを覚えている。
 
大観橋界隈
 第2国道の明石大橋ができるまでは明石最大の橋であった。特に夏になると。西の袂によし簀張りの涼み台が出来た。簡単な腰掛けがあって夕方には三々五々団扇片手に川風に吹かれ、暮れ行く明石川の風情を楽しんだ。飴湯とか、八幡巻きを売る屋台もあって風味を楽しめた。また近頃、戦後侵入した帰化植物に押されて見なくなった、マツヨイグサ類が宵を待ちかねて開いた。「宵待草のやるせなさ」そんな歌は知らなかった。
 だが、このもの静かな明石川も長雨の梅雨ともなると地獄の形相となった。水量の増した時、橋の上に立つと橋が揺らいでいるのが分かった。「揺れている、揺れている」と興じた。無謀と言うか、勇敢と言うか。時には、家が流れて来ることもあった。夜の内に増水して、朝起きると家の中まで浸水して、履物やら便所の紙までプカプカと浮いていた。酷くなると、大人の肩車に乗って親戚ヘ避難した。大したことにはならなかったが、当時は度々そのようなことがあった。その後は河川改修で氾濫の事は聞かない。
 川の西側に大西座という芝居小屋があって、相当な芸人が来演したという。そのような時には幟が立ち並んで、芝居の終わった時は橋の上は、帰り客で賑った。華やいだ風情であった。
 
お祭りあれこれ
 樽屋町の表通りにはお寺・お宮はなかった。横丁にはそれらしいものがあったようである。五分一丁のお地蔵さん、天祖の愛染さんなどが独特の風物であった。浜の方にあったイワイさん(岩屋神社・)サナギさん(伊弉諾神社)の春・秋のお祭りには行列・神輿・マカセが通りを練り歩いた。私の子供心を刺激したのは昭和天皇のご即位を祝った「御大典」の、今で言うパレードであった。
 五分一丁(ごぶいち)のお地蔵さん 今、日富美町と言われているようだが、樽屋町の横町に五分一丁という通りがあった。新浜の漁業地への通路であった。結構人通りもあり、夏は例のイワシ売りの通り道であった。その西側(通りは南北)にお地蔵さんはあった。小さなお堂の横に地獄・極楽のペンキ絵があった。極楽の絵は覚えていないが、釜ゆでやら、針の山の絵などを見てオゾマしく思った。夏が終わろうとする地蔵盆の時になると、この界隈は俄然活気づいた。まず寄付金集め、これが付近の顔役の腕の見せところ。お供えの集合。お婆さんのお経。メインエベントは飴湯の接待。この調合が難しい。洗濯やのオッチャンの特技。寄付した家へはヤ力ンで配給。テンヤワンヤで子供ソッチのけのお地蔵サンで夏が終わる。
 天祖の愛染さん 愛染さんと言うからにはお不動さんがあったのだろう。それも分からない程、不信心である。が、お祭り?だけは万障繰り合わせてお参りした。樽屋町の東の方に芸者さんの何かがあったらしく、このお祭りには芸者さんのお参りが多く、艶めかしい風情があった。私は何故か回り灯篭を買って貰うのが毎年の習慣であった。
 イワイさん(岩屋神社)サナギさん(伊弉諾神社)の祭り
 両神社共に浜の近くにあるので、漁師さんがよく活躍した。特にマカセと言う布団太鼓は見事であった。ドーン、ドーンと腹に響く太鼓の音、海で鍛えた漁師のオッサンのお尻。迫力満点。ただ、いけないのは行列。鉾を先頭にテングさんがやって来る。天孫降臨を模して、天孫を迎える猿田彦というのであろうが、大きな目、赤い顔、突き出た鼻、ピンク色の大袈裟な衣服。子供を怯えさすに充分であった。
 昭和天皇「御大典」当時、私の家は大通りから横丁の五分一丁へ越していたので、お祝いのパフォーマンスを見ようと思えば、通りまで出かけなければならなかった。と言っても、3、40米位だった。印象が深かった割りに、案外覚えていない。ムシロに穴を開け、そこから五六人が赤い布でつつんだ頭を出して「梅干し土用干し」と叫んで走った。仕立て下ろしの立派な着物を着た壮年の男の一団が、義太夫の太棹の音を響かせて、静々と通った。大きな亀の作りもののなかヘ入って、頭と手足を出して四つん這いに歩いて来る男。何処から来たと問えば、岡山からと答えた。一同ウーンと唸った。今晩で奉祝行事は終わりと言う晩、棒に大きなコンニャク四枚突き刺して「今夜でしまいや、コンニャク四枚や」と喚いて回った。盛大な(?)やや馬鹿ばかしいパレードであった。
 
終わりに
 今の樽屋町は立派な佇いである。だが昔の樽屋町とは違う。私がヨダレを垂らしながら、終日眺めたあの樽屋町はない。あの後、明石はいろいろの変化があった。国道(現在の二国)が通った。くるま(自動車)が走った。兵庫電鉄と神姫電鉄が一本になった。商店街の中心が現在のJR明石駅に移った。最後の留めは「空襲」があったことであろう。
 人々の生活はすっかり変わった。和服を着て下駄を履いて歩く人を見ない。大道芸人よりテレビのタレン卜に目が移った。買い物は自家用車で郊外のディスカウントショップへ。子供は通りの物売りよりデズニーランドに向かう。エライ変わりようである。将来どうなるのだろうか。誰ももう一度、樽屋町の賑いを期待しない、また、出来ない。