明石の町屋に伝わる「茶碗屋の娘」

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 明石に伝わっている明石音頭や数え歌で唄われ続けてきた、樽屋町の茶碗屋の娘は実在したのでしょうか。伝えられている歌は
  [明石音頭9番の歌詞]
  コリャ 九つとサーノエンエノエー (コリャエンエノエー)
  コリャ ここは明石の樽屋町  (アードッコイドッコイ)
  コリャ 今に伝わる茶碗屋の コリャ かわいい娘の一踊り
  (コリャ ヤッチョロマカセ ドッコイサノセ)
  [明石音頭(播州音頭の口説きか?) 歌詞]
  ここは播州明石の町ょ 町の繁華はェ樽屋の町ょ
  茶碗問屋でェ 明石屋という 娘お糸はェつぼみの盛り(中略)
  器量がたたって このありさまは ありし昔の その物語
  [明石音頭の歌詞]
  明石の樽屋町茶碗屋の娘 きりょうは一番 姿は二番
  歌に作ろか 音頭にとろか 五月幟(のぼり)の絵に描こか
  [手毬唄か数え歌と思われる]
  明石樽屋町 茶碗屋の娘 きりょうが一番 姿が二番」
  一に高松、二に津山、三に明石がなければよい
 
 『あかし昔ばなし』(神戸新聞明石総局編1983年)「茶碗屋の娘」から、言い伝えを紹介をしますと、昔々、明石の樽屋町の茶碗屋にお糸さんという器量良しの娘がいました。お糸さんは“樽屋町小町”と言われる程の美人に育って、15、6歳の頃には歌にも囃されるようになりました。その内、瀬戸屋の息子との婚約の話もまとまりました。しかし、お糸さんの美しさに惹かれた、国替えで明石に来たばかりのお殿様が、お国入りの行列の籠の中からお糸さんを見初めて、御殿女中にあがるように命じました。困った両親も町役人に頼みましたが、殿様は聞き入れませんでした。お糸さんは親や許嫁にも迷惑がかかると歎いて、明石川に身を投じて亡くなりました。
 
 橋本海関著『明石名勝古事談』によりますと、幕末文政の頃にお糸の父は谷屋茂兵衛。茂兵衛はお糸が美人ですが、スタイルが余り良くないので、哀れみ、音頭を作り一芝居を打って、お糸を売り出したとしています。この話には裏があり、茂兵衛の店の茶碗は土も良く色つやも良いのですが、形が少し劣るというので、店の茶碗の宣伝用に使うために、この歌と話を作った、としています。
 一方、『大蔵谷村史』によりますと、この殿様は、その後、お糸の祟りで狂い死にしたと伝えています。そして、この殿様は本多政利としています。政利は延宝7(1679)年に、大和郡山から明石6万石で入封しましたが、わずか3年で奥州の岩瀬藩に1万石で転封(左遷ですね)させられました。さらに、その11年後にはお家廃絶、本人は牢死。相当悪政、圧政をしたと言われていて、映画の題材にもなりました。
 
 戦後間もなく、樽屋町の陶器店の店主、高尾功さんが船上町にある密蔵院の墓地に「茶碗屋」と彫られた墓(写真)を見つけ、無縁となっていたこの墓を住職に頼んで、懇ろに供養を頼み、今も残っています。この話から高尾さんの先祖にお糸さんがいたと言う話が広がりましたが、今の店主の安博さんは「先祖ではありません」と話しておられます。

茶碗屋の墓(密蔵院)

 吉川音頭、播州音頭の流れにあり、さらに、盆踊りの口説きも入り、一方で子供の数え歌にもなった「茶碗屋の娘」の話は、樽屋町の繁盛ぶりを伝える話でもあります。