元禄年間(1688~1704)の末頃に、明石藩士太田小左衛門が記した『采邑私記』には、「王子村は税米高が251石4斗9升6合、波門崎の砂浚渫(しゅんせつ)の作業は免除、及び厩の税と鷹を飼育する銀などは大蔵谷村と同じ、古くは駅馬5匹がいたが、現在は市中に加えられている。」とある。藩からの課税が大蔵谷村と同等であることから、王子村は大蔵谷村に比肩する規模の村であったことがわかる。
享保6年(1721)頃に長野恒臣によって書かれた『明石記』には、明石藩の町や村々の石高、人数、家数をはじめ、寺院・神社の由緒、高札場や一里塚の位置、名所・旧跡、橋の数にいたるまで詳細に記されていて、当時の領内の様子が詳しくわかる。『采邑私記』の記載を引用した部分も多い。また、村方の人数・家数・古記録などは宝永元年(1704)頃に各村から藩へ提出させた「指出帳」を元に記されている。
『明石記』「大井本」には、「林崎庄王子村は石高251石4斗9升6合、この村は以前、北の方角にあった。池田氏の時代、慶長14年に今の所へ移す。古村を古王子村と名づける。」とある。王子村は、慶長14年(1609)に北の方から移ってきたというのである。確かに、慶長16年(1611)頃に描かれたという『慶長播磨国絵図』(天理図書館蔵)には、山陽道が明石川を西へ渡ってすぐの位置にこの村が「王子町」として記されている。古村を古王子村とする事例は、鳥羽村にも残されていて、以前に明石市旭が丘の小字名のなかに古鳥羽(あっとば)があった。言い伝えでは、“アットバ”が鳥羽村の発祥の地で、古い村が火災で全滅したので一部が王子村へ逃れ、一部が現在の鳥羽の地に移り住んで鳥羽村をつくったのだといわれている。
『慶長播磨国絵図』(天理図書館蔵)を参考に作成
明石川下流域にあった村々が、中世から近世へという時代の動きに合わせて移行・移動したことが『慶長播磨国絵図』と『元禄播磨国絵図』(国立公文書館蔵)の比較からわかる。中世における明石川下流域での中核集落であった枝吉(しきつ)村は吉田村と村名を変え、わさか村は山陽道が通過する段丘面上の「かにか坂村」へと村を移し、その後に和坂村という村名で統合されている。また、鳥羽村は、北方から現在の位置に村を移していることもわかる。そして、王子村については、『明石記』によれば村が北の方から移ってきたとなっている。
『元禄播磨国絵図』(国立公文書館蔵)
『海から知る考古学入門』には、この個人または集団が、居住地を離れて新たな土地へ移り住むことを移住とすると、「先の居住地を故郷(本貫(ほんがん))として、そこに住む縁者たちとさまざまの繋(つな)がりを保ちつづけることがある(移住A型)。これにたいして故郷を棄てるというか、先の居住地との関係をたち切って移住してしまう場合もある(移住B型)。」の二つのタイプがあるという。近世の新田開発によってつくられた「鳥羽新田村」(鳥羽村)、「松陰新田村」(松陰村)、「清水新田村」(清水村)などは移住A型、中世から近世にかけの「王子村」、「鳥羽村」は移住B型、そして「かにか坂村」(和坂村)は移住A型から「和坂村」への移住B型という変則的な移住に分類できる。
明石川下流域にみられる村が移動・移行した要因は、何といっても万治(まんじ)元年4月(1658)に完成した林崎堀割による「いなみ野台地」の開発といえる。神戸市西区平野町を流れる明石川から野々池まで延長5,374mの水路は、和坂・鳥羽の村々において新田開発を促進させた。「いなみ野台地」と呼ばれる標高が20mを超える平坦な地形は、灌漑用水を確保することによって広い区画の水田を生み出していった。
続いて考えられるのが、明石川下流域では度重なる洪水によって安定した微高地が形成されたことによって、東から延びてきた山陽道とほぼ一直線に結ばれる道路が設定できるようになった。伊川・櫨谷川・明石川の平野部で収穫された米、瀬戸内海から運び込まれる塩・魚などの海産物、陸上交通と海上交通の要衝で経済活動を展開するために王子村は村を移したのである。
また、枝吉村の地名の由来について今後検討を加えなければいけないが、“シキツ”は「職津」でないかと考えている。「職津」の「職(しき)」とは、元来土地支配上の職務のことであるが、職権に伴う一定の収益権限も「職」と呼ばれていたようである。古代から中世にかけて、枝吉村の地域が政治の中心であったことは、明石川流域で最大の吉田王塚古墳、明石郡衙跡と考えられる吉田南遺跡、台地上に築かれた枝吉城などから推し測ることができる。そして、明石川流域にある今津村・高津橋村・上津橋村・下津橋村などの集落は、共通する津から、農業を営みつつ船つき場や渡し場の機能も備えていたといえる。物資が集散する所に形成された村々があり、その中核をなすのが職津であったと推察する。近世になると、明石地域の政治・経済の中心は明石城下町へ、明石川下流域の要は陸上交通と海上交通の接点となる王子村へと移っていった。このように枝吉村の保持していた中枢機能が移行していったことによって、村の名称を吉田村に変更したのだと考える。
『元禄播磨国絵図』(部分)
次に、王子村の「オウジ」の地名であるが、広く『日本書紀』に登場する、億計(おけ)と弘計(をけ)の二人の王子、第23代顕宗天皇と第24代仁賢天皇の物語に起因するといわれている。その一方、山陽道は五畿七道の一つ、京と大宰府を結ぶ唯一の大路であり、この「オオジ」に由来を求める説もある。私は後者の考えをとる。ということは、古代山陽道は近世の王子村よりも北、『明石記』が記す古王子村を東西に通過していたことになる。オオジの地名の由来は大路、都を出立した官吏が摂津の国から播磨国にはいる最初の地点、古王子村は西に広がる「いなみの台地」の入り口にあたる。明石川では浅瀬を見つけ、渡ったところで山陽道が上流側なのか、下流側なのか、大路はどこと尋ねたことであろう。
古代山陽道について考えを付け加えると、畿内を起点に駅家を設け、駅馬を置いて各国の国府を効率良く結ぶ七道駅路(大路、中路、小路)は、8世紀初めに律令制に基づいて整備されたといわれている。そのなかで、山陽道だけは、8世紀以前に存在していたといわれている。天智2年8月(663)、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍とが朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で戦い、唐側の勝利に終わった。『日本書紀』には白村江の戦のあと、倭国はいち早く唐や新羅からの攻撃に備えたと記されている。現在の北朝鮮からのミサイル攻撃の比ではなく、もっともっと可能性の高い緊迫した状況であった。『日本書紀』には、翌年の664年には「対馬島・壱岐島・筑紫国等に、防人(さきもり)と烽(とぶひ)とを置く。」、665年には「長門国に城を築かしむ。…筑紫に遣わして、大野と椽(き)、二城を築かしむ。」と書かれている。大宰府都城の防備を固めるために水堀を掘り、大野城・椽城を築いた。現在、これらの城を基点にして大々的に大宰府を取り囲むように土塁・石塁が巡らされたいたのではという検討も始められている。『日本書紀』の記述で注目したのが、烽(とぶひ)(烽火)の設置である。対馬から大宰府までの距離が約200㎞、大宰府から奈良・飛鳥までの距離が約700㎞となる。昭和63年(1988)3月13日に山陽新幹線の新尾道駅の開業を記念して新幹線と烽火(のろし)が競争している。距離約250km、烽火は10km間隔で設置された。結果は、途中までは烽火がリードしていたが、モヤってきて、烽火の確認に手間取って、結局は新幹線に10分遅れてちょうど2時間で到着したという。この事例から、古代において10㎞の間隔で烽火台を設置したとすると、一晩で唐・新羅軍の侵攻を都まで連絡できることになる。
屋島ノ城(香川県高松市)
鬼ノ城(岡山県総社市)
古代山陽道は、ほぼ直線のルートで設定された幅10mの道路であったといわれている。これは、烽火によって連絡を受けると直ちに、大宰府に向かって出兵する必要があったからである。白村江の戦いでは、約42,000人の倭国軍が参戦している。水際で倭国への侵攻を防ぐためには、数万人の兵を大宰府に集結させなければならなかったであろう。古代山陽道が直線道であったのは、一刻でも早い大宰府への到着と、幅10mの道路は軍団を効率よく移動させるための手段といえる。明石東部における古代山陽道のルートについては、海岸沿いの国道2号線付近、伊川を遡り白川峠を越えて妙法寺から須磨に至るルート、塩屋から鉢伏山の北側を迂回して須磨に至る迂回ルートなどが考えられている。この様々なルートがあるのは、7世紀後葉の山陽道は軍団の迅速な移動、8世紀以降の山陽道は中央と地方との連絡・物資の運送に主体が置かれて設定された結果だと考えている。隊列を組んで行軍するのに有効な白川峠を越えるルート、荒涼とした「いなみ野台地」を短時間で通過するために設定された直線道は、地形の変化や利便性・安全性などの観点から往来する人々によって、時間が短縮される海岸沿い、あるいは集落と集落を結ぶより安全なルートへと変更されていったと考えている。
横道にそれたが、とにかく、王子村が北の方から移ってきたことを忘れてはならない。