2 西新町の成立

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 明石城の築城に際して、大蔵谷から西へまっすぐに明石川まで伸びていた山陽道は、明石城下町の南に付け替えられ、町の東・西の出入り口には、京口門と姫路門とが設けられた。西へ向かう道は、姫路門を出て明石川を渡るとすぐに北へ折れ、川に沿って北上して王子村で山陽道に接続した。西新町は明石川を渡り王子村へ至るまでの間に形成された町である。
 『明石記』には、元和2年(1616)に大坂屋六兵衛の屋敷が出来たと記されている。元和3年(1617)に信濃松本藩主より明石藩主となって小笠原忠真が入封する以前のことである。寛永13年(1636)には、明石藩主松平光重から地子銭を免除されたと考えられる折紙が与えられている。慶安4年(1651)9月には、大坂屋六兵衛の屋敷に連ねて、街道西側の北側と南側の建物が同時に完成した。この北側と南側に連なる屋敷を人々は両町と呼んだ。街道の東側については、延宝8年(1680)12月、明石藩主本多政利の時代につくられた。『采邑私記』では、西新町の西側は松平信之の頃に、東側は本多政利の頃に建てられたとある。
 享保6年(1721)頃の竃数(かまどかず)(世帯数)は264軒(54軒本家、210軒借家)、建家の表地口710間、人数1,171人(内621人男・550人女)であった。西新町と王子村の境にある溝には板橋が、また、石橋の架かる溝が両村の西にある林村へ通じる道に架けられていた。『元禄播磨国絵図』の船上村から明石川左岸の自然堤防に沿って王子村へ上る道には、「川幅拾間歩渡り」、『天保播磨国絵図』には「川幅三拾八間歩渡」と墨書されている。文化元年(1804)に刊行された『播州名所巡覧図絵』には、明石川に架けられた簡単な橋を行き来する人々の姿が描かれている。川の左岸にあるのが姫路門とすると、右岸にみえるのは西新町の茅葺屋根の家並みである。

『播州名所巡覧図絵』「明石川」(部分)