3 王子村・西新町の発展

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 慶長14年(1609)に村づくりを開始した王子村が、明石藩から大蔵谷村と同等の税を要求されるまでになり、西新町が明石城下の惣町に編入されて年貢地となるまでに成長を遂げたその背景を考えてみたい。江戸時代になって安定期を迎えると、幕藩領主関係の御用交通ではなく、商用・私用による一般旅行者の行き来も盛んになっていった。旅行者が安心・安全に宿泊できる良心的な旅籠屋を紹介するため、浪花講(旅籠が加盟する協定組合)は『諸国定宿帳』を発刊した。この本に、「明石 西新町 山本屋善右衛門」が掲載されていて西新町の盛況ぶりの一端を垣間見ることができる。ただし、旅籠屋からの収益だけを王子村・西新町の経済基盤とするには少々脆弱である。このことを考えるヒントが、『播州名所巡覧図絵』「明石川」に鳥居・玉垣・鎮守の森が描かれている「王子天王」である。顕宗(けんそう)天皇と仁賢(にんけん)天皇を祭神とする神社が、明石地域に12社はある。(P83参照)その中で、江戸時代は王子権現宮と呼ばれ、明治時代にはいると宗賢神社に改称された神社が、明石川に沿って北へ、西国街道に沿って西へと分布をみせる。これらの宗賢神社は、明石藩内に限られ、藩外には見られない。また、顕宗天皇と仁賢天皇を祭神とする若宮神社が、明石川と櫨谷川に挟まれたエリアに分布をみせる。これらの宗賢神社・若宮神社と西新町では盛んに車(大八車)が製造されていたという話から考察を進めた。

 明石郡宗賢神社分布図

明石郡宗賢神社関係一覧
N0. 神社名 鎮座地 祭神 由緒 備考
1 清水神社 魚住村清水字柿谷
(魚住町清水886)
賢宗天皇・仁賢天皇・大己貴命 創立年月不詳 王子権現宮と称せしも明治元年清水神社と改称 明治44年元清水神社を合祀 春祭・例祭 頭神事
2 宗賢神社 魚住村清水字明神下
(魚住町清水2606)
仁賢天皇・賢宗天皇 寛文12年9月8日創立 明治7年4)村社 夏祭・例祭
3 宗賢神社 魚住村清水字長坂寺字宮東
(魚住町長坂寺1245)
賢宗天皇・仁賢天皇 延宝9年大久保村西脇宗賢神社より分霊 現在の北公園の山地に在り、大正3年16号池の築造により、現在地に移築 春祭・例祭
4 宗賢神社 大久保村西脇宇宮山
(大久保町西脇635)
仁賢天皇・顕宗天皇 創立年月不詳 王子権現宮と称せしも明治元年宗賢神社と改称 春祭・例祭
5 宗賢神社 大久保村松陰字宮山
(大久保町松陰新田741)
賢宗天皇・仁賢天皇・大蔵神 寛文2年11月2日創立 王子権現宮と称せしも明治元年宗賢神社と改称 例祭・頭神事
6 若宮神社 櫨谷村松本字西谷
(西区櫨谷町松本803)
顯宗天皇・仁賢天皇 威徳神 弘仁3年9月11日勧請 明治7年2月村社 『明石記』若王子藏王権現 例祭
7 宗賢神社 玉津村森反字見山
(西区森友5丁目)
宗顯(賢宗力)天皇 仁賢(顯ヵ)天皇 創立年月不詳 初め玉津村西河原に鎮座 明治12年5月3日下津端宗賢神社に合併 同15年12月7日現在地に復旧 例祭
8 若宮神社 玉津村二ッ屋字天ヶ岡
(西区天が岡676)
顯宗天皇・仁賢天皇 創立年月不詳 明治7年2月村社 御湯祭 例祭
9 宗堅(賢ヵ)神社 玉津村下津橋字辰間ヶ岡
(平野町中津663-2)
顯宗天皇・仁賢天皇※若宮社 創立年月不詳 明治7年2月村社 御湯祭 例祭
10 宗賢神社 平野村中津字大蔵
(西区玉津町出合257)
顯宗天皇・仁賢天皇・日本武尊※菅原道真※大蔵神 正保3年正月18日の創立 平野村上津橋字土井ヶ内の村民五穀の不熟に遭いし時、王子村の両天王を迎え社殿を興す 兵庫県指定重要文化財 室町時代後期
11 堅田神社 平野村繁田字堅田山
(西区平野町繁田558)
大己貴命 素盞嗚尊 顯宗天皇 仁賢天皇 正應5年(1292)11月28日の創立 明治7年2月村社 例祭
12 若宮神社 (西区玉津町水谷字本屋敷507) 顯宗天皇・仁賢天皇 [兵庫県神社庁神社検索]による
『兵庫県神社誌』より

 王子村の北には、古代から安定した水稲耕作がみられる明石川と櫨谷川の平野が、西には近世になって灌漑用水を確保することによって新田開発を展開した「いなみ野台地」が広がり、村落を形成している。この王子村が商取引の対象とする地域からまず考えたのが、王子村で製造した農機具の販売であった。新田開発によって村が出来ると、新たに鋤・千歯こき・唐箕などの農機具が必要となる。但し、これは短期な需要であって、その後は消耗した農機具の不定期な供給へと移行していく。農家で米俵の運搬などに使われる大八車の耐用年数は長い。大八車の生産があったということは、商物を運ぶために引っ切り無しに使用されていたことになり、毎年、農村で大量購入する品物の運搬のあったことが想定される。
 『采邑私記』の「土産」の項に、イカナゴは鹿ノ瀬で多く捕れ、農家の肥料にしたり、炒って油を採るとある。鰯を干した干鰯(ほしか)については、「一説には戦国時代にまで遡ると言われている。農業を兼業していた漁民が余った魚類、特に当時の日本近海で獲れる代表的な魚であった鰯を乾燥させ、肥料として自己の農地に播いたのが干鰯の始まりと言われている。やがて江戸時代も17世紀後半に入ると、商品作物の生産が盛んになった。それに伴い農村における肥料の需要が高まり、草木灰や人糞などと比較して軽くて肥料としての効果の高い干鰯が注目され、商品として生産・流通されるようになった。」と解説されている。
 林村では地引網漁が盛んで、春のイカナゴ漁・秋のイワシ漁で賑わった。盛漁期には船で沖に出て、手繰り網でイカナゴ・イワシを漁獲した。明石市沖合10kmの鹿ノ瀬(最浅部2m)が好漁場であったので、潮が西へ流れる満潮を迎える頃に、魚群を追い求めて出漁した。船に手繰り上げられて満載となった魚は、小豆島などの浜に陸揚げされ、天日に干された。この作業が終われば、東へ流れる干潮に合わせて出漁し、船に水揚げされた魚は林の浜に陸揚げされ天日に干された。林村に伝わる「雌鹿の松」の伝承は、この季節ごとに繰り返された漁業を題材として創作されたのであろう。(林村の漁業についての詳細は、『明石の漁村』を参照のこと)
 近世においては、年貢・諸役を村単位で村全体の責任で納めるようにした村請(むらうけ)制度がとられた。村請制ともいい、村役人を通じて年貢・諸役を一村全体の連帯責任で納めさせた。ということは、肥料の購入は村単位となり、王子村の大量販売先となったのであろう。商店は肥料・食料品・日用雑貨などを大八車に乗せて村々へ運び、代価として支払われた米俵を持ち帰った。明石川の左岸から西の「いなみ野台地」にみられる宗賢神社の分布は、王子村・西新町の商人の商圏を示していると考えている。

宗賢神社(魚住町清水)

 明石川と櫨谷川に挟まれたエリアには顕宗天皇と仁賢天皇を祭神とする若宮神社が分布する。しかし、伊川水系には顕宗・仁賢天皇を祭神とする神社はない。これらの神社と王子村・西新町の商圏の関係については今後の課題である。『播州名所巡覧図絵』「大倉谷」には、浜で地引網を引く様子が描かれている。大蔵谷にある稲爪(いなつめ)神社の秋祭り「大蔵谷の牛乗り」では、かつて牛に乗った鉄人が「千年も万年も 大蔵谷の浦において 千と万と大イワシ 小イワシ 獲れくさって候」という口上を述べたと伝えられている。

『播州名所巡覧図絵』「大倉谷」(部分)


大蔵谷の牛乗り神事(稲爪神社)