4 まとめ

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 王子村がどこから移動してきたかを考えた時、宗賢神社の分布が手がかりとなる。神戸市西区玉津町出合の宗賢神社は、『兵庫県神社誌』に正保3年(1646)の創立、王子村から両天王を迎えて社殿を興したとある。一方では建築様式から、この宗賢神社本殿は室町時代後期の建造物として兵庫県指定重要文化財に指定されている。室町時代は、建武3年(1336)に足利尊氏が光明天皇を立てて政権を握った時代から、元亀4年/天正元年(1573)に15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放されるまでである。正保3年の建立とすると建築様式からの年代と異なることになる。ここでは後者を是とし、慶長14年(1609)に北の方から移った王子村は、西区玉津町出合の宗賢神社の周辺に形成されていた村落とみている。そして、古代山陽道は、古王子村の周辺を太宰府に向って東西に延びていたと考えている。

宗賢神社(神戸市西区玉津町出合)

 王子村・西新町の干鰯などの肥料に関する資料は、『明石記』の干鰯屋が50軒、市中にあったという記録しかない。『明石市史』には、西新町は枝吉村から王子村に移ってきた松井善太夫が、古着を商って資産を作り西新町を発展させたとあって、『明石記』の記載と異なる。『明石記』に忽然と登場する大坂屋六兵衛については、どのような人物なのかまったくわからない。西新町は、近世初頭にできた大坂屋六兵衛の屋敷を核として旅籠屋ができるまでの発展をみせた。このように考えていった結果、大坂屋六兵衛は「干鰯屋」、いなみ野台地で盛んに進められた新田開発に呼応して、西新町では肥料を売買する商家が軒を並べていったという結論に至った。
 まだまだ推論の域を出ないので、今後さらに資料を集め検討を加えていきたい。