(『明石藩の世界Ⅲ―藩主と藩士―』より引用)
黒田家文書
正月元日
一 朝帳面出ス
一 大福茶梅干一ツヽ入、上下とも祝ふ、種綿に包風のあたらぬ様に仕廻置、風邪を引さるましない也
一 雑煮 すまし 菜 花鰹 ごまめ膳にすへ 雑煮箸 神棚 仏壇へ上ル
一 重詰〇煮豆 黒豆 牛蒡 刻ミあらめ 〇数ノ子 花鰹
〇煮物 塩肴 人じん 大根 里芋 〇てりごまめ 〇たゝき牛蒡
一 神棚・荒神棚へ神酒上る 〇御燈明上る
一 屠蘇酒 大卅日ニ浸し置候
一 今朝床ノ間へ福録(ママ)寿の掛物
一 昼せち 大根 里芋 人しん 塩肴 〇大根汁 〇こまめ
〇なます 〇膳の上にごまめ二ツツヽ付る
一 三ヶ日之内とろゝ汁たへ候、風邪のましない也
正月六日年越
一 夕せち大体元日之通有合物見合
一 福茶 大豆三粒 山椒三粒入
一 七草夕方はやし置
一 神棚・荒神棚へ神酒并御燈明上る
正月七日
一 七草餅粥 〇こまめ二ツツヽ膳へ付る
正月十四日
一 夕せち六日之通り
正月十五日頃
一 鏡開雑煮上おき菜 花鰹 〇ごまめ膳に付る
一 今夕かざり取
正月十五日
一 朝小豆粥餅入 〇ごまめ膳へ付る
一 節分豆蒔、家来麻上下着、扇子一・鳥目百文祝ひ遣ス 〇柊并鰯の天窓口々へさす
黒田家文書(天保8年正月) | 黒田家文書(天保8年正月) | おせち料理(再現) |
②旧藩士・織田家伝承(1994年・2018年聞き取り)
伝承者:織田豊子氏(明治34年生まれ)・織田令子氏(昭和3年生まれ)
正月準備
注連縄(オシメ)は出入りの人に頼んで持ってきてもらう。門の前に門松、神棚にオシメ、部屋ごとに「輪(わ)かざり」というめがね形の小さい注連縄を飾る。
12月31日
夕、家中を掃除し終えてからオシメを飾る。大玄関(式台玄関)に置かれた一間(けん)ぐらいの大きな衝立の前に黒塗りのお三方(さんぼう)を据える。鏡餅には橙を載せ、干し柿・ごまめ・白昆布・かや・かち栗を半紙に包み、金赤の水引きをかけて飾る。カワラケに油を入れ灯明をあげる。年末から三が日火を絶やさない。床の間の掛け軸は三が日は狩野派の三幅対をかけて、4日目からは明石の画人の三幅対を掛けていた。夜、節分豆まきを行う。ヒイラギとイワシの頭を家の各戸口に刺す。箕に豆の入った一升桝を入れて、家長が「福は内、福は内」と言い豆をまいて回ると、別の人が「ごもっとも、ごもっとも」と言いながら後を付いて回る(注)。家族のそれぞれの年齢に1つ足した数の豆を半紙に包んで、四つ辻に捨てに行く。年齢に1つ足した数の豆を食べる。そのほかに豆茶をし、豆が入ったら幸せやと言った。
(注)豆をまく人に付き従う人が「ごもっともさま」と唱和するのは埼玉県秩父市三峯にある三峯神社節分追儺祭に見られる。
正月元日
三が日は座敷でお祝いをした。昔は夜の明けぬ内に行い、今は雨戸を閉めてする。家長が井戸から若水を汲む。元日の膳に着くと、嫁さんが熨斗(のし)の大きなものをお三方に載せて、「おめでとうございます」と挨拶しながら家長から順番に家族全員を回る。それぞれに紋の入った本膳がある。嫁入り道具として持ってきたものである。めいめいのお膳にごまめ・干し柿がつく。まず大福茶(梅干し・昆布)、次にお屠蘇は三ツ重(がさね)のカワラケで頂く。お屠蘇の肴に白昆布と巻するめ(巻いてゆがいて切ったもの)を「お肴これに」と言って出す。重箱には、黒豆・ごまめ・数の子・お煮しめ(牛蒡(ごぼう)・人参など)・かきなます・たたき牛蒡。真ん中に生鯛に塩をした「にらみ鯛」を出す。雑煮はすまし仕立て(のし餅・花鰹・水菜のゆがいたもの)。お平(ひら)は三が日同じもので、鰤の切り身・頭芋・人参・牛蒡、焼き豆腐を鰤の煮汁で炊いたもの。
2日 とろろ汁
3日 大根の短冊切りのみそ汁
5日 初参り
お墓のある雲晴寺に参る。1月5日が先代の命日だったからかもしれない。お斉(とき)米は年末に男衆が寺に持っていく。
7日 七草粥
七草をまな板に載せ、明き方を向いて包丁でたたき「唐土(とうど)の鳥が渡らぬ先にコトコトヤ コトコト」「七草なずな コトコトヤコト」と囃(はや)す。七草・お餅を入れて粥を炊く。
11日 鏡開き
鏡餅を明き方を向いてヨキで割る。エイエイヤーと言って後は包丁で切る。その餅ですまし雑煮を作る。正月の塩鯛を水につけて塩出しして薄味で炊く。
15日 トンド
14日の晩にオシメをはずし、15日に家の裏庭でトンド焼きをする。その灰を家の周りにまく。「泥棒除けや」といった。
16日 藪入り
使用人を里へ帰らせ2、3日休ませる。
20日 ホネ正月
暮れに鰤を1匹買って正月料理に使い、残った骨を使ってかす汁を炊く。
③旧藩士・大山家伝承(1993年・2017年聞き取り)
伝承者:大山ラク氏(明治23年生まれ)・松本ヤス氏(昭和6年生まれ)
正月準備
餅つきは、29日は苦(く)がつくので避けて28日か30日にする。30日からおせち料理を作り始め、お重に詰めるのは31日。門松を飾り、雄松と雌松に笹と梅の枝を金と赤の水引で結ぶ。玄関正面と神棚に大きいオシメを、仏さん・各部屋・井戸・竈(かまど)・便所には小さいメガネを飾る。31日夜遅く正月飾りをすませてから掃除をする。
30日か31日にお寺(本立寺)に参る。
本立寺
正月元日
神棚、荒神などに榊を祀り、お神酒・雑煮を供える。
大福茶(梅干し・結び昆布・花鰹)を頂く。雑煮は白みそ仕立て(丸餅・水菜・花鰹)。めいめいの箸包みは半紙で折って紅白の水引をかけてある。
稲爪神社と休天神に初詣。お祝いをすませてから年賀状を書き、皇居(宮内庁)にも出していた。一日は、掃除も風呂もしない。
2日 とろろ汁
朝はとろろ汁(餅入り)。初掃除、書初めをする。昔は2日(のちには4日)に出入りの商人が初荷(米・酒・醤油・反物など)を持って挨拶に来た。晴れ着を着て親戚に挨拶回りをする。
3日 すまし雑煮
(焼いた丸餅・水菜・花鰹)
7日 七草粥
まな板の上に七草を並べ、両手にすりこぎと包丁を持って「唐土(とうど)の鳥が日本の土地へ渡らぬさきに七草なずな」と3回唱えながら、七草をきざんで粥を炊く。神棚や仏さんに供えてからいただく。(実際には七草は揃わず大根や水菜ぐらいであった。)
15日 鏡開き
餅を入れて小豆粥を炊く。トンドは家の裏で行う。書初めを燃やして高く上がったら上達するという。灰を玄関・裏など入り口にまく。泥棒除けのためであった。
16日 藪入り
淡路から来ていたねえやにお金や土産を持たせて里に3、4日間帰らせる。
④商家・大村家文書(明治十二卯年改同十九年戌の春再改
年中行事 幷ニ色々之備忘 大村周平記)抜粋[史料翻刻:義根益美]
新暦一月一日平生之通之事
旧暦正月元日祭、旧例之通之事
在方よりもらひ候
座敷床、一重ニ而壱升を取、大黒神掛物懸候カ
但し同天子之掛物懸事か見斗ひ
一 格子之間床 一重ニ而 弐合取 三膳
但 天照大御神 八百萬神 人丸御影 宗忠御神祭有之候ニ付
一 年徳神棚 桶之中へ米壱升 小餅十二、閏月有之年ハ 十三入候
一 神棚五社 恵美須神 大黒神
平日祭候小宮皆々小餅 内蔵二階神棚同断
一 三寶荒神 三ツ一重ニ而 五合取
一 店帳箪笥 一重ニ而 壱升取
同庭小出し桶
一 大釜 小釜 茶釜 室 小出し桶 船場 大桶 俵物蔵
外ニ 丼漬桶小餅
〆八ケ所 一重ニ而弐合取 丼漬桶 小餅
一 節分祭方同様之事
一 店方 初賣之人江 一重ニ而 三合取
醤油方之髪附方共 三人へ遣候事
一 平生用ひ候神折敷燈明臺 五ケ年目ニ新調取替候事
一 岩屋社家大藪氏、城内之松尾太神宮へ 毎月一日毎ニ御膳備候ニ付、
毎年新暦十二月ニ金三拾銭包無失念持参之事
尚亦例年四月、松尾ノ御祭ニ御膳料五銭ツヽ先方ヨリ取ニ参事
一 西方院 光明寺共 壱重ニ而壱升取
一 西方院へ 歳暮御祝義 金十銭上候事
年玉金五銭上候事、中元も同様
一 光明寺へ年玉五(中元)銭同断
一 光明寺へ(十)歳暮ニ蜜柑四五銭上候事
一 円乗寺ヘ年玉三(拾)銭上候事
⑤商家・大村家伝承(1993年聞き取り)
伝承者:大村ちよ氏(大正15年生まれ)
12月13日 コトハジメ
店では歳の市が始まり、家の内でもこの日から正月準備に取りかかる。主人は翌年使う帳簿の表紙書きをし、住み込みのボンさんは夜、店の仕事が終わってからオシメ作りをする。藁は伊川谷の農家の人が持ってくる。小さいメガネは農家が作ってきたものを買う。入り口に大きいメガネとオシメ、家紋の入った幕を張る。神棚にオシメを竈・お稲荷さん・床の間・土蔵の入り口・井戸などに小さいメガネを飾る。神棚の前にオトシサン(桶の中に米や餅を入れた歳神さん)を吊るす。餅は松竹堂から買う。暮れに墓参り(浜光明寺)をする。
31日 夜通し商売に勤しむ。
正月元日
雑煮(白みそ仕立て、丸餅・大根)おせち料理は、煮しめ・黒豆・ごまめ・なます(大根・人参・鯖のきずし)・棒ダラ・数の子等。家の主人がお灯明をあげて拝む。この日は掃除、洗濯はしない。ご飯も炊かない。
2日 とろろ
ご飯にとろろをかけて青のりをかける。
初売り
3日 焼き雑煮(すまし仕立て、焼いた丸餅・水菜)
4日 本格的に仕事を始める。
14日 晩に新浜の人がサギチョウ(左義長)のオシメ(入り口の大きいもの)を集めに来る。
15日 小さいメガネは各家で燃やし、灰は家の周囲にまく。
以上、家ごとの正月行事をみてきた。大村醤油屋では年末に大量の鏡餅を搗(つ)く。家の中の神棚・戸棚・土蔵などにお供えするほか、お寺へ届けたり、「店方初売りの人、醤油方、髪付け方(注)」といった使用人へも配られる。
(注)大村醤油屋の屋号は「カミヤ」。江戸時代に城へ鬢付け油を納めていたと伝わる。明治19年当時も醤油だけでなく髪付け油も商っていたようだ。
黒田家文書で元日の朝「帳面出ス」と記された「帳面」について、『明石藩の世界Ⅱ』では「節句ごとに出されるこの『帳面』なるものは紙を綴った帳面の意ではなく、おそらく『几帳』のことではないか」と述べられている。織田家では、正月に大玄関に据えられた一間ほどもある大きな「衝立」の前に三方を置いて正月の設(しつら)えをする。この「衝立」は「几帳」同様の役割をするものであり、節句ごとの設えのために「几帳」を出すと考えることができる。また一方、文字通り「帳面」ではどうだろう。お城では節句ごとに「御礼登城」「惣出仕」がある。織田家では正月三が日は大玄関を開けて広蓋(ひろぶた)(大型の盆)を置いていた。年始客の「名刺受」である。大山家や東本町の米屋青木家(別項参照)も昭和の伝承であるが玄関に来客用の名刺受を置いていた。家老職の黒田家に節句ごとに挨拶に来る者のための記帳用の「帳面」と考えることはできないだろうか。
元日にまず大福茶(おおぶくちゃ)で祝うことは、関西とくに京都では今も多くの家庭で行われており、その起源は村上天皇のころ(平安中期)と伝わる。黒田家では、梅干しの種を綿に包んで仕舞って置き風邪をひかないまじないという。この風習は現在一般には見られないが、藤原俊成・定家を祖とする冷泉家の貴実子氏が「大福茶を喫した後、その梅の種だけを取り出し、大晦日の夕に残しておいた蛤の貝殻のなかに種を入れ、貝を紙に包んで置いておく。風邪にならない“まじない”と言う」と『郷土と行事の食』で述べており、古い慣行かと思われる。
大福茶
元日の雑煮は黒田家と織田家では、のし餅・すまし仕立てであり、大山家と大村家は丸餅・白みそ仕立てである。現在明石やその周辺では、丸餅・白みそ仕立てが多く、赤みそ仕立て、すまし仕立てもある。江戸中期の西沢一鳳の『皇都午睡』や文化7年(1810)生まれの喜多川守貞の『守貞漫稿』では、江戸は切餅で菜を入れて清まし仕立て、大坂は丸餅で味噌仕立てとあり、関東と関西の雑煮の特色がすでに江戸中・後期に指摘されている。江戸幕府徳川家の雑煮は、のし餅・すまし仕立てであり、徳川の系譜に連なる松平家に仕える黒田家や織田家はそれに準じていたと考えることができる。
節分豆まきは、黒田家では天保8年も明治2年もいずれも立春前日には当たらない正月15日に行われている。旧暦では立春が旧年12月後半から新年1月前半の間で移動するため、黒田家では正月15日ときめていたのだろうか。城内の節分は天明6年には1月6日に、寛政4年には12月28日に行われた記録がある。陰暦では12月中に立春になることが多く、本来大晦日の行事であった鬼打が節分の豆まきとして定着してきた。織田家ではそのまま新暦に移行して大晦日に行い、大山家と大村家では新暦の立春前日に行っている。節分のひいらぎ・鰯については、黒田家文書(明治2年)に「こまめのかしら豆からニさし、ひいらげそへ、口々へさす」と、ごまめの頭を豆柄(まめがら)(種子を取り去った大豆の枝)にさすと記している。そのほかの家では鰯の頭はヒイラギに刺す。大豆柄を使う慣行は東三河に見られ、これも松平家の作法に則っているのだろうか。
1月20日を織田家では「ホネ正月」と言い、正月に使った鰤の骨をかす汁にする。黒田家の明治2年の正月20日にも「かす入たくねき大こん塩肴ほね」の記録がある。この日は正月の祝い納めとして餅や正月料理を食べ尽くす日で、魚の骨まで食べ尽くすことから「ホネ正月」といわれ、関東の一部、西日本や九州に見られる。