七月
一 十日頃医者其外付届もの相出ス
一 十二日頃ニ本榎妙福寺へ代参ニても出し、花たて盆御墓掃除
〇棚行妙福寺ゟ来、百文紙ニ包出ス 〇施餓鬼仏せう袋同寺ゟ来
一 お迎ひ団子二升、内少し餅米交挽く、此粉を残し十五日ニ上る
一 十三日夕お迎ひだんこ
一 十四日朝霊供汁出来合 平(とうかん■ひき)香物 盛物(桃 なし うり)
一 同日昼 汁出来合 平(里芋 かんひやう しゐたけ) 香物
菓子(まくわ瓜■瓜)之類
一 十五日朝汁出来合 平(茄子 唐なす 油揚豆腐) 香物 菓子(水菓子)
蓮飯
一 四(十四カ)日昼 (冷そうめん からし) 菓子(出来合) 夕(送り団子)
②旧藩士・織田家伝承
仏間のことを「おじぶっつあんの部屋」といい、その部屋にある厨子におじいさんが羽織袴でお供えをする。昔は持仏堂があった。
13日 迎え団子(白団子)
14日 朝のお膳は御料具という精進料理(ご飯・お茶・みそ汁・きざみこんぶと揚げを炊いたもの・白うりを炊いたもの)。昼はおはぎ。晩はそうめん。
15日 朝は御料具、昼西瓜、「白(しら)むし」(もち米を蒸したもの)を蓮の葉に包んで供える。晩「おこくしょう」(注)(かんぴょう・牛蒡・小芋・きくらげ・高野豆腐を白みそで炊いたもの)を供える。花麩のおすまし、お送り団子(白団子)を供え、送り火は昔は庭の前栽のところでしたが、のちには御供花と御料具を新浜の浜で送った。振り返らないということであった。
(注)濃漿(こくしょう):みそ味で濃く仕立てた汁もの
③旧藩士・大山家伝承
13日 朝、墓(本立寺)にホトケサンの迎えに行く。「お迎えに参りましたので、一緒にお帰り下さい」と言い花を供えて帰る。「ホトケサンは迎えに来た者の背に乗って帰りなさる」と伝えられている。仏壇に参って、お迎え団子(あんこやきな粉をまぶしたもの)を供えホトケサンにあいさつする。すいかを供え、ささげの長いものを仏壇の両側に垂らす。盆の間は一日3回お膳を替える。茄子のおひたし・めえ(あらめ)とお揚げの炊いたもの・そうめん・ばらずし・ナンキン・湯葉の煮つけ、白和え、椎茸など。盆の間はだし汁にいたるまですべて精進料理で揚げ豆腐をよく使う。その代り普段、お揚げはあまり食べない。お供え物は蓮の葉にのせる。盆の3日間は仏壇の水を替えて、ミソハギという小さな萩に似た花の束を水に浸し、ナスの刻んだものを入れた鉢に「ナムミョウホウレンゲキョウ」と言いながら水を振りかける。
14日昼 そうめん。13日か14日にお寺からお参りに来る。
15日夕 お送り団子(白団子)を供えてお経をあげた後、屋敷の艮(うしとら)の角にホトケサンを送る。後ろを振り向かないようにして帰ってきて、仏壇に「お送りいたしました」と報告する。
④商家・大村家文書
一 西方院 光明寺共 盆前 そうめん弐百目宛上候事
一 西方院 七月之施餓鬼ニ五銭包上候事
新霊有之候節ハ参詣可致事、其砌者 酒飯被下候ニ付、
別段又五銭包上候事 平年ハ盆前せがきふせも上置事
盆前
一 本家ヘ歳暮ニ十銭か十壱弐銭迄之所見斗可事差上事
一 二見江歳暮見斗候事
此分明治十七年ヨリ先方より何も不参故廃止之事
一 薬師寺へ盆前歳暮見斗候事
一 小西屋藤介方へ 盆前 下帯 外ニ 主人付成共 文□□□添
歳暮 足袋
此ハ先方より御断ニ付廃止スル事
但 明治廿九年七月より
右之外可然取斗之事
一 光明寺せがき三銭上候事 (以下略)
⑤商家・大村家伝承(1993年聞き取り)
8月13日夕 ホトケサンの迎え。
迎え団子はきなこの団子。墓に提灯を立てる。蓮の葉の上に、なすび・ほうずき・なたまめ・さつまいも・なんば・きゅうり・トマトなど5~7品供える。盆の料理は、ゆば・高野豆腐・椎茸の炊いたもの・冬瓜・そうめんなど。
15日夕 ホトケサン送り。
送りダンゴ(きなこの団子)を作る。浜(フェリー乗り場だった辺り)に、仏壇のお供え物や花を持っていき、線香を立てて拝む。
黒田家文書は、天保8年江戸在府中の記録であるが、年中行事は明治2年の明石の記録と同様に行われている。ただ盆には、二本榎(にほえのき)にある日蓮宗妙福寺(東京都港区高輪2丁目5-3)の世話になっている。長棟が滞在していたと思われる明石藩の下屋敷(同じく高輪2丁目)のすぐ近くである。黒田家の菩提寺は明石の本立寺であり、同じ日蓮宗の縁であろう。
明石藩下屋敷と妙福寺(妙福寺は「承教寺」の塔頭寺院)
織田家では、仏間を「おじぶっつあんの部屋」と呼ぶ。厨子が三つあり、それぞれに位牌が数柱ずつ入っている。「おじぶっつあん」は遠州の方言で「お持仏(じぶつ)さま」が訛ったもの。竹田聴洲は「祖先祭祀が同族から個々の家に変化するにつれて、持仏堂から仏間へ、さらに仏壇へと変遷した」と仏壇の起源が持仏堂にあると述べている。織田家の「おじぶっつあんの部屋」という言い方は、仏壇の歴史を語る一事例であろう。
盆の料理は、現在でも作られているようなもので、どの家もあまり変わらない。大山家でめえとお揚げの炊いたものを作るが、めえとはあらめのことで、明石では、行事食の海藻料理にひじきではなくあらめをよく使っている。潮流の速い明石では良質のあらめが採れ、めえは「芽が出る」に通じ、ゲンのよい食材とされていた。黒田家で正月の黒豆にめえを一緒に炊くのも同じ理由であろう。15日に織田家ではもち米を蒸した「白(しら)むし」を蓮の葉に包んで供えるが、黒田家の「蓮飯」も白むしのことと思われ、送り団子と同じく仏様の帰り道のお弁当である。
仏さんの送り火は、織田家や大山家は屋敷内で行っており、大村家は浜に持って行き、地域の人々と一緒に行っていた。調査事例がきわめて少ないので推測となるが、正月のトンドや七夕においても商家では地域の連携がうかがえ、武家では広い屋敷内で個人的に行われ地域的な繋がりが見られない。