以上のような行事の合間に各家では先祖の祥月命日に必ずお坊さんに経を上げてもらい墓参りをする。織田家や大山家の祖父は松平直良公の命日6月26日に墓所である京都・永観堂へ紋付袴で御代参していた。旧藩士家の人々は明治以降「明石士族会」を組織し、戦後は松平家の家紋にちなみ「葵会」と名を変え、近年は旧藩士家以外の参加も募って明石藩の歴史を伝え、6月26日に永観堂で「明石忌」という法要を営み、6月25日か27日に松平家の菩提寺・長寿院にて葵会の総会を開催している。織田家では10月12日頃、織田家の昔の墓所である越前大野の宝慶(ほうきょう)寺の開山忌に参っている。先祖供養は最重要行事として大切にされていたことがわかる。また土用参り・寒参り等神さん参りもとりわけ商家では熱心に行われた。
「明石忌」
盆のあと、年末までは行事は少ない。農村であれば、稔りの季節を迎え豊作を寿ぎ村中総出で神への感謝の行事が催されるところだが、武家や商家では七夕・月見・重陽の節句といった季節の移ろいを家ごとに楽しんでいた。商家では11月になると、鍛冶屋町・本町・樽屋町一帯で「誓文払(せいもんばら)い」(注)が始まる。「店頭の装飾、売子のいでたち、思ひ思ひに美を競ひ奇を凝らして客を呼んでいる。中には神戸商人の店出しもあっておびただしい賑わひである」(『明石郷土讀本』昭和6年)と、城下町だけでなく、近在の農漁村の人々も買い物に繰り出していた。やがて「歳の市」が開かれ、また新しい歳の準備が始まるのである。
(注)誓文払い:近世、陰暦10月20日に京都で商人・遊女などが四条京極の官者(かじゃ)殿(冠者殿)に参詣し、日頃商売上の駆引きに嘘をついた罪を祓い、神罰の放免を請う行事。この日を含めて前後数日間、罪滅ぼしと称して京阪の商店では特売などが行われた。