― 大村家文書「年中行事并ニ色々之備忘」と改暦前後の暦から ―

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 明治5年(1872)11月9日(太陰暦)、宮中では従来の太陰暦(太陰太陽暦)を廃止し、太陽暦を導入する「改暦式」が執り行われ、同年12月3日(太陰暦)を明治6年1月1日(太陽暦)とする太政官布告337号が公布された。

 


写真1・2「明治五年壬申頒暦」表紙と1-2頁 年間日数は355日。下段に暦註が記載される。

 この改暦によって、太陰太陽暦に基づいて大の月(1月、3月、5月、7月、8月、10月、12月)は30日、小の月(2月、4月、6月、9月、11月)は29日として1年を353日から355日、19年に7回の割合で挿入される閏年では384か385日と7通りの年間日数があった。年末に発行される暦を見るまで年間日数は分からず、しかも昼と夜の1時間の長さが異なる生活をしてきた人々は、明治改暦によって大の月は31日、小の月は30日(2月は28日)として1ヵ年を365日(4年ごとに一日の閏を2月に設けて29日とし、年間366日)、1日を午前12時間、午後12時間の24時間として、昼も夜も1時間の長さは同じ生活をすることになった。のみならず、諸祭典等は旧暦月日を新暦月日の相当する日に施行することになったため、11月でありながら急遽正月準備をしなければいけないという恐ろしく慌ただしい事態に遭遇することになった。しかも地域によって情報伝達に日数差があった当時、兵庫県に届いたのは布告の8日後であるから、新年まで約半月しかなかったことになる。
 鍛冶屋町の大村家が改暦前の明治6年の暦を所持していたのは、改暦の公布が届いたころにはすでに新年の暦を購入済みだったからだろう。そこで大村家では急遽、太陽暦(以下、「新暦」と表記)による日付を太陰太陽暦(以下、「旧暦」と表記)表示の日付の上欄に赤で加筆し、改暦に対応したと思われる(写真4)。

 


写真3・4「明治六年癸酉頒暦」表紙と1-2頁 閏6月が予定されていたので1年は384日。旧暦1月1日以降の上欄に新暦の日付が赤で記載されている。

 また、ようやく発行された新しい暦を見た人々は、月日に深遠な意味はなく、その日の運勢や吉凶、禁忌などを付与することは科学的ではない、そのような「迷信」を暦に記載する必要はないという考えから、それまでの暦には必ず記載されていた吉凶善悪などの情報が排除されていたことにも、仰天しただろう。

 


写真5・6「明治七年甲戌太陽略暦」表紙と1-2頁 1年間は365日。最下段に、暦註は記載されず、旧暦の日付が記載されている。

 大村家文書「年中行事并ニ色々之備忘」(以下、「年中行事并ニ色々之備忘」と略記)は、
 
  明治五申年迄太陰暦用ひ来り候所、同年十二月三日を明治六年一月一日ニ相改、太陽暦ニ変革ニ相成候、天朝においては、西洋風ニ相改五節句之式も廃止ニ相成、節季取引等も二四六八十十二と六十日限ニ相成、天下大変革ニ改、諸民之内太陰暦の日を用ひ候者、太陽暦を用候者、混乱之時節、三都は天朝より御布令通太陽暦を唱相用候得共、田舎辺は在所にては作物等之日頃ニ不合、矢張旧暦相用候方多く、暦も新暦旧暦とも日順記し有之、天下復古御一新之御規則ニ相成、諸大名之御領地初、諸寺社之御朱印地不残天朝へ御取揚ニ相成、大名之士族江は天朝より家禄被下置、天朝之御支配ニ相成、御領主ハ是迄之御高之十分一天朝より被下置、東京へ御転住、卒族と称号ニ相成、御身軽の御住居被為在候、恐多くも天子様も西京之御所も明御殿ニ相成、東京へ御転住被為在、御装束等も替り西洋風之御風俗ニ被為成、諸国江御身軽く御旅行ニ相成、平民之輩も乍恐拝見いたし候様ニ相成候、古来より持来り候刀剣之類不残御差止メニ相成、武家も平民も無力ニ上下之位も無之、町人も家号を廃止し名字を唱へ穢多も平民同様之仰渡相成、古今未聞之時節ニ相成候、酒造株初諸株とも御解放ニ相成候、是全く三百年来天下太平打続、自然と上下とも奢侈増長し人事悪敷横道成者多く相成候故、天より罪給ふとも思われぬ、正月之年礼式も盆も五節句も礼式廃止同様ニ相成、じらだく成事ニ相成候、正月之神祭一拝手旧例之通、一月一日ニ祭候得共、此上旧暦を相用ひ候方多分ニ付、明治十二年より左之通改之
  新暦一月一日平生之通之事
  旧暦正月元日祭、旧例之通之事
 
と記す。冊子の表紙(写真7)は、「明治五壬申改記之」の上に「明治十二卯年改」の貼紙があり、その隣に「同十九年戊ノ春再改」の記載がある。表紙見開きには「鍛冶屋町大邑氏」とある(写真8)ので、ここでは作成者を「大邑」と表現する。大邑は明治5年(1872)に作成した「年中行事并ニ色々之備忘」を同12年に改め、さらに同19年に再改をしたと読み取れる書き方であるが、上記の文章を読む限り、作成年は同12年である。改暦を、王政復古の大号令以降、次々と行われる大変革の一環に過ぎず、天皇家も武家も平民も身分に関係なく、これまでの生活を一変させている状況の一つであり、受け入れるしかない現実だと、大邑は受け止めている。天皇家では五節句も廃止して西洋風の生活様式を取り入れていること、三都の人間は太陽暦に対応できているが、田舎あたりでは太陰暦のほうが使い勝手がよいと旧暦を使っていること、暦には新暦と旧暦の両方が表記されている現実も知っている。

 


写真7・8「年中行事并ニ色々之備忘」表紙と表紙見開き・1頁

 醤油製造業を営む立場上、大邑自身が農事暦と密接な関係にある旧暦の実用性を実感していただろう。この「混乱之時節」「古今未聞之時節」にあって、大邑が同12年より新暦と旧暦を併用する生活を送る決意をした理由は、あらゆる年中行事が廃止になって人々の生活が自堕落になっていることの嘆きからだった。
 「年中行事并ニ色々之備忘」には、慶明寺(現・神戸市西区平野町にある安倍晴明ゆかりの覚照山慶明寺のことか)和尚からの聞書として吉凶の日や大悪日、大吉日、まわし大悪日、紀州の明恵上人文殊菩薩密伝という一切不要大悪日や地倉日、四ヶ悪日を記載する。大悪日は月に2回あり、この日に家や藏を建てると滅亡に及び、婚礼を挙げれば離別するだけでなく再び実家に帰ることもできず、商売は無益の損失があるといった類いの日、6月と10月に各2回の合計、年に4回ある四ヶ悪日は「何事に用ひても悪き日なり、心得べし、一切売物に不仕候」日である。
 大邑は、吉凶や禁忌は非科学的な迷信に過ぎず、「人知の開達を妨げる」ものと「改暦の詔」にはあるけれども、日によって吉日もあれば、悪日もあり、「嫁か娘か母に孝を尽くす」とある日には女性に対して感謝の意を示し、「慎を主とす」とあれば慎重に物事を判断することに努め、「雪隠東向北向あしし、但し南西向よし」の文言に従って家屋を建て、「毎年六月朔日ニ竈ぬりよし」とあるから竈の手入れを毎年6月1日に実施し、悪日には特に気を遣って身を慎しむ、そのような生活感覚の喪失が、逆に人間を堕落させていると考えたのであろう。やはり自分の住む地域の自然条件や生活に即した時間や言い伝えを守っていくことも必要なのだ、暦には記載されなくなったけれども大事なことだから「色々之備忘」として書き記しておくという結論に達したことがわかる。
 大邑が「年中行事并ニ色々之備忘」を再改した同19年は、同17年にワシントンで開催された子午線会議の決議に基づいて、東経135度子午線上の時を日本標準時とする勅令第51号「本初子午線経度計算及標準ノ件」が発布された年でもある(施行は同21年1月1日、2018年の今年は施行130年にあたる)。世界時(ユニバーサルタイム)が、着々と日本国内にも導入されつつあったが、「年中行事并ニ色々之備忘」に、旧暦併用をやめるという記述は見当たらない。
 同43年、明石では明石郡校長会の呼びかけにより、教育勅語喚発20周年記念事業として相生町(現在の天文町2丁目)に日本最初の標識「大日本中央標準時子午線通過地識標」が建設される。新暦が一般に普及したとして、官暦における旧暦併記を政府が廃止したのも、同年のことであった。