2.明石型生船のこと

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 明石の鮮魚仲買商「林兼」の中部幾次郎は明治38年(1905年)東戎町の小杉造船所にて8馬力の石油発動機を取り付けた12トンの鮮魚運搬船「新生丸」を誕生させました。その後改良を重ね明治42年(1909年)、従来の和船型であった船体の船尾を西洋型にし、中央を和船型にした第二新生丸を造りました。その船がその後農商務省の標準型に認定され「明石型」と呼ばれるようになりました。
 明治40年代後半には明石港に面した船町(現材木町)に木本造船と小巻造船があり、木本造船が生船を専門に造っていました。この生船の造船技術は他の造船所ではまねができないため、その後、生船の建造が盛んになる淡路島の富島からも見習が来ていました。この見習いに来ていた淡路や讃岐の船大工によって、その造船技術が瀬戸内海沿岸に広まったことが「明石型生船」と名付けられた所以かもしれません。木本造船の親方の木本さんは、船首が斜めに突き出たそれまでの形をまっすぐ立てて、明石型生船の独特の船首にしました。難しい舷側板の加工を解決して明石型生船は爆発的に流行し、他府県からも注文が殺到し最盛期には職人が20人位いたと言われています。このように明石型生船の建造は明石の造船所が発祥地ということが語られていますが、詳細が分からない部分も多く、もう一度調査する必要があります。

中央の多角形屋根建物は1959年の写真にある