3.明石商工名鑑から調べた昭和初期の港町

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 今回、明石型生船の原稿を執筆するにあたり、昭和初期の港町がどのような商工業の町であったかを調べたいと考えていました。資料としては『明石商工名鑑 昭和4年(1929年)』と『明石商工名鑑 昭和9年版(1934年)』を探すことから始めました。これらの資料はあかし市民図書館にも所蔵がなく、国立国会図書館のデジタルサービスを通じて資料の提供を受けました。その後、昭和9年度版の明石商工名鑑については、偶然に古書店で販売されているのを見つけたので原本を購入しました。
 『明石商工名鑑 昭和4年』の緒言には「近時商工業の進展に伴ひて各地方より商取引の紹介を依賴せらるゝ向漸次增多するの趨勢に稽へ當業者の便益に供せん爲茲に昭和三年八月一日現在に於ける明石商工名鑑を編輯せり 其の輯録する所我か明石市内に於ける商工業者中營業収益税の負擔者及本縣營業税課税標準額一千圓以上の向を標準とし實地に就て調査したるものに係るも由來商廛は大小相錯綜し其の数亦尠なからず殊に其の開廢及移轉は頗る頻繁に行はるにより最善の注意を拂ひたりとは云へ尚或は誤脱の虞なしとせす他日再刊の期を待ちて之を補足する所あらん大方諸彦幸に之を諒とせられんことを。昭和四年五月 明石商工會議所 理事 柴原琢」と書かれており、明石商工名鑑を編集した刊行意図や、掲載基準、社会変化に応じて再刊する旨が述べられています。昭和34年(1959年)に明石商工観光名鑑が、昭和43年(1968年)、昭和55年(1980年)、昭和62年(1987年)、平成4年(1992年)、平成9年(1997年)、平成14年(2002年)版の商工名鑑が刊行されています。
 商工名鑑は各業種別に、営業品目・営業収益税又は出資額・営業所・商号又は屋号・氏名又は名称・電話番号が記載されていますので、この中から対象地域となる材木町、船町、戎町、新浜地区に営業住所をもつ全てのものを抜出して一覧表に整理しました(第1表)。また、現在の住宅地図を基に当時の港町商工地図というべき手書き地図を作成しました。私が生まれた町であり、育った町であるのでその作業は簡単だと思っていましたが、忘れられた町の姿を復元するには時間がかかりました。
第1表 明石商工名鑑(昭和4年・昭和9年)による明石港界隈(旧材木町・船町・東戎町)
業種町名屋号、名称氏名備考
1陸舶用発動機製作修繕東戎町(株)明石発動機工作所金井清一(株)明石発動機工作所(現在)
2小型発動機修繕船町岩永鐡工所岩永糺岩永鉄工所(現在)
3小型発動機修繕船町魚住鉄工所魚住重一
4小型発動機修繕船町大野鉄工所大野一市
5小型発動機製作修繕東戎町林鉄工所角野由松
6発動機部品、マグネット修繕材木町木下電機工業所木下謙一
7小型発動機製作修繕船町人丸鉄工所佐久間實明石内燃機製作所(現在)
8小型発動機製作修繕東戎町播州工作所田中政夫
9小型発動機製作修繕船町中根発動機製作(株)
10陸舶用発動機製作、圧縮酸素販売 一番町一番町山名鉄工所山名茂一山名總鉄酸素(現在)
11木型製作東戎町今井直治
12木型製作東戎町宮城興太郎
13鑪製作(ふいご)出崎町河合新蔵
14鉄工業東戎町角野由松
15鉄工請負材木町松田義雄
16鉄工請負出崎町室井音蔵
17螺釘、金具制作船町森田美猪
18船舶用金具、漁具船町梶源梶清治郎
19陸舶用タンク制作船町合名会社大島鉄工所
20陸舶用タンク制作船町野村治郎蔵
21船具、煙草船町小島末吉
22帆、天幕船町河合嘉吉
23船具、帆布、ロープ類船町安藤勘右衛門
24船燈具類船町在里一平
25船具、船灯船町青山教男
26船具、釣り道具東戎町河合武美
27船具、礦油船町合資会社岸礦油店
28船具東戎町小松屋小松久次郎
29船具船町島松之助
30漁具、船具、荒物船町合資会社松林商店
31漁網、漁具、荒物船町中田まつの
32櫓、櫂、梶製作船町備前屋井上新蔵
33漁具、漁網船町富士原芳次郎
34櫓、櫂、梶製作船町山田卯三郎
35櫓、櫂、梶製作船町山田屋山田定一郎
36釣り道具、煙草船町丸尾國松
37釣り道具新浜三丁目小林熊吉
38釣り針製造新浜四丁目山内秀太郎
39造船出崎町相田邦太郎
40造船(小型漁船)東戎町福田清蔵
41造船(発動機船)船町小杉造船所小杉寅蔵
42造船(小型和船)船町小巻熊蔵
43造船(小型和船)船町岡谷吉松
44船大工東戎町宗田榮次郎宗田造船所(現在)
45セメント、石灰、煉瓦、土管船町二宮安右衛門
46電機器具ラジオ用器具製作船町株式會社東洋電機具製作所
47建具、家具材木町井上彌三郎
48建具、家具材木町加古屋竹澤忠二郎
49薪炭、練炭、石炭
50炭団製造材木町梅谷とき
51薪炭、酒類東戎町大坪房吉
52薪炭材木町沖角次
53薪炭、酒類、米船町楠本覚蔵
54薪炭、米新浜1丁目西海勲
55薪炭、石炭材木町西垣忠次郎
56薪炭材木町正井八三郎
57薪炭、石炭、コークス船町株式会社水田商店水田六三郎水田製作所(現在)
58染物、石炭船町藍染屋藍谷宗兵衛
59藍染、染め物東戎町傳寶徳次郎
60染物三番町黒川俊次黒川染工所(現在)
61白米、雑穀船町井住兵次郎井住米穀店(現在)
62清酒、醤油東戎町岩井秋三郎岩井酒店(現在)
63醤油醸造材木町米澤醤油合名會社明石酒類醸造(現在)
64生魚新浜4丁目今井田銀蔵
65生魚新浜3丁目板松板倉梅吉板松水産(現在)
66生魚材木町魚幸畑中耕三郎
67生魚船町魚梅井上梅吉
68鮮魚運搬売買(生船)東戎町合名會社亀磯商店『焼玉機関出荷台帳』91頁1行目第二日進丸
69鮮魚運搬売買(生船)東戎町角友角谷友蔵
70鮮魚運搬売買(生船)東戎町合名會社河銀商店
71鮮魚運搬売買(生船)東戎町桝本貞二
72鮮魚運搬売買(生船)東戎町井筒源蔵
73鮮魚運搬売買(生船)東戎町神鐡神出岩三郎『石油發動機カタログ』13頁明社丸
74生魚新浜3丁目網為高見久吉
75生魚東戎町魚徳増田徳松
76生魚出崎町魚榮千葉榮吉
77鮮魚運搬売買貸船(生船)東戎町枡市桝本市兵衛桝本海運(現在)
78玉筋魚、鰯東戎町今津藤吉
79玉筋魚、鰯東戎町山房濱崎角蔵
80海運材木町谷脇確
81運送材木町松井徳三郎
82映画、興業西戎町株式会社八雲座
83芸妓置屋材木町増田はな
84芸妓置屋材木町高田まさゑ
85芸妓置屋材木町山本きく
86芸妓置屋材木町松下圓次郎
87芸妓置屋材木町多聞をか
88芸妓置屋材木町土原ゆき
89芸妓置屋材木町水谷とく
90芸妓置屋材木町有田のぶ
91芸妓置屋材木町生瀬とく
92芸妓置屋材木町中庄谷コトミ
93旅館、料理船町みなとや高橋音四郎
94貸席、料理材木町松本尾崎勝子
95貸席、料理材木町吟月多田利一郎
96寿司、麺類新浜1丁目大安大津忠男
97関東煮材木町吉野家越田文次郎
98麺類船町山三山崎ゆき
99麺類、関東煮材木町湯谷山太郎
100カフェ、料理、貸席材木町やよい石定きく
101西洋料理材木町明石カフェ小林留吉
102西洋料理材木町ヱビス食堂檜皮すゑ
103喫茶材木町ウイスキー佐藤しげ
104印刷、出版材木町藤原印刷所藤原清七
105印刷、出版新浜1丁目平野松蔵


1934年(昭和9年)の港町周辺地図(第1表より)


現在(令和3年)の港町周辺地図

 明石市の産業の中で、水産業は「明石の浦は古くより汎く知られたる漁業地なり、市内當業者の年産額約六十數萬圓、水産従業員壹千數百名にして本市重要産業の一なり、明治卅六年東明石浦並に明石浦の兩漁業組合設置せられ漁獲の統制を圖り、大正十年明石市水産會を設立し續いて大正十三年本市に兵庫縣水産試驗場を設置せらるる等、本市水産業者の劃期的發展を遂ぐるに至り、發動機工業の勃興と共に漁船の改造、漁獲法の改良等斯業の目醒ましき進展を致し、水産物の加工製造法にも種々改善せられたるは洵に欣ばしき處なり・・・」と紹介されています。
 また、鐵工業として「本市に於ける發動機製作は本所現會頭木下吉左衛門氏を以て嚆矢とす、氏は明治三十八年初めて櫻町に木下鐵工所を設立し爾來三十年不撓不屈業務に精勵し今日の大をなしたり近時株式會社明石發動機工作所等と倶に本市鐵工業は殷賑を極め其販路は汎く内地、台灣、朝鮮並に海外に亘り年産額壹百萬圓を超ゆ。」とあり水産業と共に発動機は明石の看板になっていたようです。ちなみに木下鉄工所は大正3年(1914年)に早くも国内2位の生産高を誇っていました。
 明石の魚は江戸時代から大坂雑喉場では明石のマエモンとして高値で取引され鮮魚運搬の林兼が活躍していました。そのころから明石は鮮魚運搬船の発祥の地と認識されていました。その明石型生船の動力として焼玉発動機工場が必要とされました。従来鮮魚運搬は汽船(蒸気船)会社が受け持っていましたので、発動機船の出現に汽船会社から文句が出たと言われています。
 明石港が物流の中心であったので、船関連の業者が集中しています。発動機、船具、造船、石炭問屋、生魚問屋、鮮魚運搬の生船業者、城下の漁師町新浜が西に控えていますので演芸の八雲座があり、材木町には芸者置屋がたくさんあります。このようなことからこの地区の繁栄、賑わいを知ることができます。残念ながら現在残っているところは元発動機会社、造船所などの十数社ほどを数えるだけとなりました。明石港も役割を終え、大きくなった漁船とプレジャーボートで占められています。昔の賑わいを取り戻したいものです。
 
材木町
 港の北西端を包み込む町で、商店が多い中町、東樽屋町と接しています。明治には町名のとおり、開業十三代石井久右衛門、碇五郎こと近藤本店、開業三代竹澤宗助、大黒屋こと本木久右左衛門等の材木商の割合が多かったのですが、昭和になってからは材木商はなくなっています。大正4年(1915年)には発動機の木代鉄工所ができましたが林崎村に大工場を作り移転しました。特に「芸者置屋」が目立ちます、花街、料理屋があったようです。
 
船町
 昭和4年、9年刊行の明石商工名鑑を調べると、船町には古くから船大工、船具商が多く、船によって運ばれる米、砂糖、石炭、石灰、木炭などを扱う問屋や運送業が中心であったようで、昭和に入ると生船や機帆船の動力として焼玉発動機工場の出現が多くみられます。現在でも少なくはなりましたが、町中を散策すると船町の原風景となる町や商店、発動機工場が見られます。
 稲垣足穂著『明石』昭和38年(1963年)には「釣舟に発動機を取り付けたのは明石浦が嚆矢であるが、漁業用石油発動機船にいち早く眼をつけたのも、やはり明石である。明治三十七年といえば、大阪の川口に荷物運搬の巡航船が二艘ほど動いていたにすぎなかった。中部幾次郎氏は、船町の船大工小杉松五郎さんを伴うて大阪まで巡航船見学に赴き、十二馬力のエンジンを買ってきて試作した。大成功であった。以来、続々と巡航船が明石の浜辺で造られるようになった。港内西岸にそうた一廓を船町といって、帆木綿だの船具だの塗料だのをならべた店々が軒をつらねている。柿渋に似た強い匂いがみなぎっている所で、赤樫が櫓櫂に削られ、瀝青の臭いを主調として、それぞれ独自の香を放った塗料缶がならんでいるが、維新前にはここには船大工ばかりが住んで、二百五十石積までの帆船が作られていた。」と書かれており、当時のまちの風景が文章に切り取られています。稲垣足穂は少年時代明石で育ちました。祖父は戎町で暮らしていました。小説『明石』はこの町を描いた唯一の小説で、明石の人情もよく描かれています。
 さらに『明石大門Ⅵ』昭和61年(1986年)水田紺三の中には「港に沿って一筋に延びる船町は、船具や帆布、艫や櫂を作る特殊な職業の家々が、軒を接して竝んでいた。港8の入口近くは、日向屋・福島屋・岡屋・小杉屋などの造船所のある片町で、各造船所の前の石崖は三十度位に傾斜して築かれ、船の進水の工夫がなされていた。海三の生家は造船所に隣接した商家だった。漁船や小型機械船が完成すると、吉日を選んで進水式が派手に行われた。進水式当日になると、何処で知るのか大勢の人で賑わうし、祝旗で飾られた新造船から縁起物を撒く行事があった。接岸した新造船の甲板から、晴姿の船主たちが縁起物の餅や蜜柑、或は捻り銭を投げかけると、岸に群れる人々は争い拾い喧噪の渦が歓声と共に、一頻り高く湧き揚るのだった。」
 また、『明石大門Ⅶ』昭和62年(1987年)水田紺三には「山卯の櫓屋の照次は、毎日誘い合って登校する同級生であった。道に面して開け放たれた仕事場は、いつも樫の木の香りが漂っていて、何となく潤った雰囲気に包まれていた。板張りの仕事場で照次の父は、朝早くから印半纏に股引姿で黙々と櫓材を削っていた。鉋持つ手と屈む全身が一体となって、仕事場一杯に取付けられた櫓材を、削っては撫で撫でては削る照次の父は無口な人だった。」と書かれており、櫓櫂製造の山田卯三郎商店の日常が生き生きと記録されています。

明石港に面した船町

船町 船具店
船町 船具店
船町 元櫓櫂船具店(山田卯三郎商店)
船町 元櫓櫂船具店(山田卯三郎商店)

新浜・戎町
 明治には燐寸、特に燐寸箱の製造所があり、新浜には米、魚、荒物と生活必需品がならぶ。明石玉の製造所もありました。昭和に入ると造船、発動機、鮮魚運搬(生船)の町となっています。この地区には大正、昭和にかけてたくさんの焼玉発動機工場ができ機帆船や生船に発動機を供給していました。西戎町には八雲座という明石で一番の大きな演芸場があり、ほかに戎亭という演芸場もありました。新浜は明石を代表する漁業の町です。
 稲垣足穂は「新浜とは、岩屋神社の鳥居から西にかけて、出崎をひっくるめた漁師町を指している。その此処には浜のガッちゃん鯛の目という言葉があるように、明石気質の一面を代表する人々が住んでいる。・・・うぶすなの岩屋神社秋祭の担ぎ太鼓同志の衝突は、明石名物になっている。到底擦れ違うことの不可能な狭い通りに、わざと双方からマカセを担ぎ込んで、日頃の鬱憤を晴らすわけだ。マカセというのは、太鼓担ぎの懸声で任せ、任せの意味であろうか?」と新浜で暮らす人々の気質を表現しています。
 江戸時代から新浜は城下の漁師町として誇りを持っていましたが、稲垣足穂が描いているように武闘派の町で知られていました。林崎、二見、垂水、備前、淡路の漁師との漁場争いは数知れず、淡路の辻家古文書には岩屋へ数十人で乗り込んで大喧嘩になった記録が残っています。
 また稲垣は「明石浦の巡航船は、一定の場所のほかに、どこでも適当な砂浜を選んで露天で作られている。心得のある仲間が組んで、買うことが出来た材料だけで、蓑虫が巣を綴って行くように、ぼつぼつと仕事を始める。都合が悪かったら三ヵ月でも半年でも、時には一年以上もそのままにほっておかれ、材料が手に入ったら再びあとが続けられる。外部から見ていると、そうとしか受取れない。こうして最後に、色とりどりの幟や吹き流しや旗々で飾り立てられて海に浮ぶと、当方までが万才を唄えたいくらい嬉しい・・・。」と明石浦の浜での造船所の姿が描かれています。
 『昭和十六年版漁船発動機年鑑』には11社の発動機メーカーが掲載されており、戎町から船町にかけて多くの発動機工場がありました。戎町には株式会社明石発動機工作所、合資会社林鉄工所、播州発動機株式会社が、船町には岩永鐵工所、大野鐵工所、神明工作所、高田鐵工所などの発動機工場があり、明石でも集中する地域でもありました。この中で明石発動機株式会社は実は私の曽祖父である金井常六ら数人が大正9年(1920年)創業した会社で、令和2年には創業100周年を記念して『株式會社明石發動機工作所百年史』を出版しました。また、明石型生船研究が縁となって鳥羽商船高等専門学校にあった昭和20年(1945年)製の焼玉発動機単気管筒15馬力のレストアを家業の傍ら行っています。現在では全国的にも貴重な焼玉発動機です。

焼玉発動機(レストア中)
(「舶用焼玉機関」安全自動車工業株式会社 諸元:昭和20年1月製造、機関番号6092、型式MMS20、馬力数15、回旋数500)

船町 元小巻造船所(日向屋)
船町 元小巻造船所(日向屋)
船町 元発動機工場(谷善工務店)
船町 元発動機工場(谷善工務店)
船町 元発動機会社(岩永工作所)
船町 元発動機会社(岩永工作所)
船町 元発動機会社(岩永鉄工)
船町 元発動機会社(岩永鉄工)
船町 元発動機会社(明石内燃機)
船町 元発動機会社(明石内燃機)
船町 元発動機会社(明石発動機工作所)
船町 元発動機会社(明石発動機工作所)