5.石碑と伊吹島の関係

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 香川県観音寺市伊吹島は、観音寺港から西へ約12kmの燧灘にある島で、古くから漁業で暮らしてきた島です。年間を通して多くの漁獲があります。その中でも夏場を中心とした「いりこ(煮干し)」の生産が圧倒的に多く、「いりこの島」として全国的に知られています。大正10年(1921年)頃には伊吹島周辺で鯛のしばり網が盛んに行われていました。明治後半から昭和初期にかけては、底曳網の一種で帆に横風を受けて船を横流しにして行う打瀬網が盛んに行われていました。大正7年(1918年)には54隻もの打瀬船がありました。さらに伊吹島の漁師は、東讃の小田や津田の漁師と共に遠く朝鮮半島近海へ出漁していました。
 石碑には伊吹島の人物名である、特に三好、合田姓が多く印刻されており調べると、網元や生船関係者であることが分ってきました。このことから伊吹島の漁業関係者と明石とのつながりがあった事が考えられます。また明治40年(1907年)の伊吹八幡神社隋神門再建寄付依頼には伊吹島から大阪、西宮、堺、明石を巡回した記録に明石の有木久八氏が名を記されており、江戸時代からの交流があったと思われます。
 また、伊吹島歴史民俗資料館の展示年表には、「昭和3年(1928年)片手まわし鯖機船巾着網漁業を経営 久吉丸19トン80馬力 三好文司・運搬業者井筒与一の共同経営(本20県よりの出漁の鯖機船巾着網は久吉丸だけが片手まわし)伊瀬峰治が片手まわし巾着網を考案したといわれる。」「昭和6年(1931年)逐洋丸共同経営解散(井筒組売却)」と書かれており、伊吹島の網元と明石の鮮魚運搬業者(生船)が短期間ではありましたが、鯖機船巾着漁業を共同経営していたことが分かりました。また、『香川県海外出漁史』昭和42年(1967年)には、「昭和三年、三好文司は運搬業者井筒組の井筒与一と共同で、一九トン、八〇馬力の久吉丸で片手まわしサバ巾着網漁業を経営した。昭和六年、伊吹島三者共同の逐洋丸は前年各自イワシ機船巾着網漁業を独立経営することとなったため、井筒組に売却され共同経営は解散した。また久吉丸も昭和八年、朝鮮人に売却され共同経営は解散した。」と同様のことが記述されている。解散の理由については明らかにされていませんが、伊吹島の漁業がサバ機船巾着網漁業からイワシ機船巾着網漁業に転換した事も考えられます。

咸鏡南道新浦における伊勢峯吉氏のイワシ機船巾着網漁船伊勢丸。手前はイワシの山積み。
(著者注:岸壁に接岸しているのは明石型生船久吉丸か)『香川県海外出業史』262頁 昭和42年より

 三好文司氏は、大正13年(1924年)香川県荘内半島生里の大北造船所で、久吉丸(明石型生船)を作っています。第2図は生船を造るために描いた船大工の板図で、墨字で「三豊郡観音町字伊吹嶋 船主 三好文司 久吉丸大北造船所」と説明書きがある。久吉丸は井筒さんの持ち船と同じ名前です。ミヨシがほぼ垂直に立っており、明石型生船としては古い形のものである。

第2図 久吉丸板図
『瀬戸内の漁船・廻船と船大工調査報告(第2年次)』瀬戸内海歴史民俗資料館
図478ナマセンより

 昭和30年代(1955年代)には伊吹八幡神社屋根葺き替え寄付にも明石材木町の桝本法久氏(桝本海運)の名があり昭和61年までの記録が残っています。

伊吹八幡神社玉垣