(2)筆者がヨット等でたどった生船航路の特徴と印象

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 上記の第6住吉丸は1月から2月にかけ海が最も荒れる時期に航海をしている。瀬戸内、玄界灘では特に1月から2月末までは西ないし北西の季節風が吹く。たいていの船はその強烈な季節風に向かい直進しようとすると、縦揺れ、横揺れ、さらにはパンティング(激浪より船首船底が持ち上げられ次に海面にたたきつけられる)に見舞われ、速力が半減する。ヨットなどはリーフ(縮帆)してジグザグに航行しない限り進まない。
 しかし瀬戸内海では海峡あるいは水道と呼ばれる狭い海域で風が弱く穏やかに感じられるとき、岬をかわして灘と呼ばれる広い海域に出た途端、強風が吹いていることに驚かされることがある。これは狭い海峡などでは山々で風がさえぎられることによるらしい。注意を要する。
 下記の印象記は平成20年(2008)~令和元年(2019)の5月から9月にかけて海が最も穏やかな時期に航海したときのものである。便宜上①~⑧の区分に分けて記した。それでは上記「第6住吉丸航海日誌」に記された航路を私の愛艇「敷島」(全長約7m、セール3枚、5馬力ディーゼル船内機)あるいはフェリーでたどってみる。

筆者の愛艇「敷島(22ft)」(2005.4播磨灘)

①播磨灘~備讃瀬戸東航路(香川県・高松・坂出沖合)
  ―08:00富島~12:30男木島灯台 <航程>約63海里(117km)

備讃瀬戸東航路

 富島を出航した住吉丸は播磨灘のほぼ中央を横断し、小豆島の地蔵埼を右に見て備讃瀬戸東航路に入る。
 小豆島の南方から備讃瀬戸東航路に入ると海域の幅が狭くなるせいか、航行する船舶が多くなり、巨大船がそばを通るとその迫力に圧倒される。巨大船とは200メートル以上の船をいうが、小型ヨットからみると6、7階建ての大きなビルが移動しているようである。離れていると鈍重で速力はたいしたことないと思ってしまうが、実際は航路内制限速力12ノットいっぱいで走っているのだろう、意外と速い。早めに避航しておかないと、接近されるとその重さに加速度がついたようなものすごい迫力で迫ってくる。
 大型船の航海士によると、恐ろしいことに生船やヨットなど小型船は、波の陰に入り、レーダーに映らないこともあるとのこと。したがって、特に小型船は見張りを厳にし、早め早めの避航が肝要である。もちろん大型船も瀬戸内航行中はパイロットが嚮導(きょうどう)したり、船長みずからの操船がなされている。
 『明石型生船 調査資料・生船写真帖』にある「汽船第6住吉丸 公用航海日誌に記録された衝突事故報告」の事故報告にはゾっとさせられた。70トン余りの生船が瀬戸大橋手前で6,500トンの大型船に追突された。

第6住吉丸追突事故現場(瀬戸大橋鍋島灯台南)付近 逆潮流で速力13.5ノット

 追突直前の状況説明に「相手船船首が本船に覆いかぶさってきている・・」との表現がある。乗組員はまさに5、6階建てのビルが大きな速力で倒れ掛かり覆いかぶさってくると実感したことであろう。擱座(かくざ)(浅瀬などに乗揚げること)できる砂浜がある小与島(こよしま)が現場近くにあったことが不幸中の幸いといえる。
 それにしても衝撃で船外へ飛ばされた1名の乗組員をよく救助できたものと感心する。航行中に落水者を見失わず、船を落水地点に向かわせ船上に引き上げるという作業は陸で考えているほど容易なことではない。私のわずかな経験と知識からすれば、落水者がライフジャケットを着用していたとしても、なかなか成功するものではないと思う。住吉丸の乗組員はさすが海のプロである。
 私自身、追突事故現場より西方にある備讃瀬戸南航路を横断する直前、西方からくる大型コンテナ船を視認しながら、同航路を横断しきれると判断し試みたところコンテナ船の速力が意外に速く、寸でのところで艫(とも)(船尾)を引掛けられそうになった。このような危険な状況を作り出したのは、雨中航行での疲れと焦りから自船の速力を顧みず横断した私の判断ミスによることは明らかである。しかし、概して大型船は小型船がすぐに避航できると考え、速力も落とさず避航もしないことが多いように思う。要注意である。
 
②備讃瀬戸北航路(香川県・丸亀・多度津沖)
  ―12:30男木島灯台~15:15六島灯台 <航程>約21海里(39km)
 瀬戸大橋をくぐる前後の海域は水島航路からの風潮流の影響か船脚(ふなあし)が鈍ることが多い。そんなときに限って次から次へと大型船が追い越しをかけてくる。背後からの危険を感じ航路外に出ようとするが陸岸に近づきすぎることによる乗揚げ事故の怖さから、ついつい航路内を航行することになる。大型船の航海士が船橋(操舵室)のウィングより迷惑そうにまた心配げに私のフネを見下ろす。

瀬戸内の霧(2014.5岡山県牛窓沖)


備讃瀬戸北航路・備讃瀬戸南航路

 瀬戸大橋をくぐると備讃瀬戸東航路は水島航路と接続するとともに塩飽しわく諸島の牛島(うしじま)と高見島(たかみしま)を挟み込むような形で北航路と南航路に分かれる。西航船は北航路を航行しなければならない。住吉丸は、海上交通安全法に定める「長さ50m以上の船舶」ではないので航路航行義務はないが、北航路を走ったのではないかと考えられる。
 航路の外といえども航路に逆行して走ると、反航船(反対の方向に航行する船)である大型船が正面から次から次に猛スピード迫ってくるような恐怖を感じる。また非常に危険である。

備讃瀬戸北航路(左:小島右:高見島)


高見島をへて北航路西口より
香川県三豊市三崎半島を目指す

 
高見島
 住吉丸は多度津の沖合にある高見島と佐柳島(さなぎしま)の間を抜ける。両島ともかつては北前船の寄港地として栄えた島である。
 高見島は多度津の沖合から見ると全島緑に覆われた、富士山のようなきれいな形の島で、なだらかな斜面が海面に接するそのわずかな土地に人家が見える。海岸のへりにかろうじてくっついているように見える家並は、ちょっと海が荒れるとすぐに波にさらわれそうに見える。もっとも沖合から見る瀬戸内の島々の風景はほとんどどこの島と同様である。
 私は西航するときは航程の関係と讃岐うどんを食べるためにいつも多度津に寄港する。多度津から町営の連絡船が両島を結んでいる。島に住む人々は食糧を始め日常必要なものは連絡船で多度津へ買い出しにいく。

多度津―高見島―佐柳島の連絡船

 たまたま船着き場で連絡船を待っていたおばあさんに話を聞くことができた。おばあさんは漁師をしていたジイサンが亡くなり島で独り暮らし。息子はいるが、息子は多度津に立派な家を建ててサラリーマンをしている。それでは、「小さな離れ島より多度津で息子さんと暮らした方が」というと、一人でいても近所の人が大事にしてくれるし、先祖代々の島がいいとのこと。また、「小さな島の海岸べりの家は波が来たら怖くはないか」とたずねると、「小さな」という表現が気に障ったのか、7m弱私のフネを見て「あんたのコンマイ(小さい)船に比べたら、(島は)大きなもんで怖いことない」と語気を強め、さらに島のお友達に携帯電話で「コンマイ」をことさら強調して「明石からコンマイ船でこんなとこ(多度津)まで来とる」と大声で連絡する始末。本土に住む私たちからすると、嵐が来ると全島が水をかぶり沈むのではないかと思ってしまう小さな島でも、その島に住む人にとって、先祖代々の島は大陸以上にどっしりと安定した住み心地のいいところであるといっても間違いはなさそうだ。
 
大飛島(おおびしま)
 住吉丸は高見島を経て45分後に六島(むしま)の左正横を航過する。
 大飛島は六島の北隣にある。その東方900mの海上に小飛島(こびしま)という島があり、小飛島に向かって砂さ嘴し(通称「砂州」)が形成されている。この「隣り合った」大飛島と小飛島のことを地元では「飛島」と総称する。
 昭和37年(1962年)この島の唯一の小さな平地にある小中学校の運動場から奈良時代~平安時代初期の遺跡が発見された。
 出土した奈良三彩など絢爛たる遺物から、特別な祭祀が国家的な規模で行われ、遣唐使派遣の時期と重なることから、その祭祀は中央政府関与のもとに遣唐使の航海安全祈願を目的としたものであったと考えられている。国内あるいは国外への重要な交通路に沿った限られた位置で執り行われる祭祀は、まさしく玄界灘に浮かぶ沖ノ島の祭祀と同様の「畿内型の祭り」である。
 大飛島で海神の祭祀が行われるに至ったのは、この島の付近が瀬戸内海の潮が東西から流入し、また引き始める位置であり潮流も複雑である。くわえて潮の干満に従って長大な砂州が現れ長くなったり短くなったりする。また冬期と夏季によって砂州の突端がその位置を変える。古代の人々にはこれらの現象が神秘的なものとしてうつり、畏怖の念を持ち、この島に神いますと信じるに至ったためであろう。祭祀はまさにその砂州の付け根にある巨石群の周辺で行われた。瀬戸内海が古代より国内外への重要な海の道であったことの証左である。(笠岡市教育委員会『大飛島の遺跡と砂洲』2012.9)(現代神道研究集成編集委員会『現代神道研究集成(第二巻)―神道史研究編 1』神社新報社 1998.6)

大飛島と砂州(2001.8)
『大飛島の遺跡と砂州』より砂州の根元にある小中学校校庭で古代祭祀遺跡が発見された

③備後灘(広島県・福山沖)・燧灘(ひうちなだ)北部(愛媛県・新居浜沖)~安芸灘(広島県・呉沖)
  ―15:15六島灯台~17:35船折瀬戸 <航程>約38海里(71km)
 
魚島(うおしま)
 住吉丸は16:45高井神島を航過。2月のことであるから縦揺れ、横揺れの難行苦行であったろう。さらに悪いことに日が西に沈みかける。高井神島の島影を視認するとその南側に同じくらいの大きさの魚島が目に入る。海岸べりに白い3階建てくらいのビルだけが見える。漁協の建物だと聞く。それ以外に人家は見えない。

魚島
海岸に白い建物が見える


高井神島と魚島(右)
進路警戒船により先導される巨大船

 かつてこの島の近辺では「縛(しば)り網(あみ)」という漁法を行う漁船団が瀬戸内各地からやってきて大いににぎわったそうだ。そしてその船団には生船の中でも快速の船が付き添い、とれたての鯛を積み込み、夜を徹して走り大阪まで運んだという。
 しかしこの海域は何度も通っているが船団のにぎわいなど想像できないほど漁船を見かけない。
 この島の付近も潮流や風波の激しいところである。私も2019年6月、私自身の楽観的天気予報で弓削より多度津に向けこの海域に達したころ、風浪激しく落雷もあり、ほうほうのていで弓削に引き返した。

無数の小魚が歓迎してくれる(2018.5弓削)

 そのような関係からかこの魚島にも「魚島大木遺跡」という古代の海神祭祀遺跡がある。
 小型儀鏡、石製有孔円板などの出土品から大飛島・沖ノ島のように中央政府が関与したものではなく、在地の海上航行者によって、海路の安全と海上生活の安泰を願って祭祀が行われたと考えられ、大飛島の「畿内型の祭り」ではなく「在地型の祭り」に分類されるという。
 いずれにせよ来春瀬戸内巡航の際、二つの島に上陸し古代祭祀跡に立ち、その地の海と語り合い、潮の香をかぎ、頬に風を感じ、古代人(いにしえびと)と海(わだつみ)の神々に祈りをささげたい。(現代神道研究集成編集委員会『現代神道研究集成(第二巻)―神道史研究編 1』神社新報社1998.6)
 
瀬戸内の難所
 備後灘(びんごなだ)を航過すると長崎までの航海で最も難所である、かの有名な村上水軍が支配した諸島を縫って斎灘(いつきなだ)にぬける。この諸島をぬける航路は概ね3つある。いずれも急潮流の難所として瀬戸内海に君臨する。もっぱら大型船が通峡する来島(くるしま)海峡、小型船が通る船折瀬戸(ふなおりせと)、鼻栗瀬戸(はなぐりせと)である。住吉丸は船折瀬戸を通峡する。

瀬戸内の難所(船折瀬戸・鼻栗瀬戸・来島海峡)

船折瀬戸
 この海峡は伯方島(はかたじま)と鵜島(うしま)との間の狭水道で可航幅はわずか100m程度。舟折岩灯標を目標に進みそれを左に見て120度ほど左転、すぐに鶏小島(にわとりこじま)浮標を右に見て約90度右転、これを急潮流(最強流速は9ノット)のもとで操船しなければならない。

舟折岩灯標を右に見て大きく右転する貨物船

 生船のような小型船しかできないだろう。大きな船がそのような操船をすれば、たちまち乗揚げ衝突事故。その名のとおり船折りとなるであろう。中世瀬戸内海で活動した海賊衆の能島(のしま)村上氏がこの急潮流を利して海峡中央の鵜島(うしま)にくっつくように浮かぶ周囲1kmの能島に拠点を構えた。
 生船はどうしてこんな危険な瀬戸内海随一の難所を通常航路として選んだのか。また、住吉丸の航海日誌によると「17:35通過」とある。冬季であれば真っ暗のはず。想像するだけでゾっとする。生船がこの航路選んだのは沖乗り(沿岸沿いではなく島嶼部を縫うように航行する)で備後灘から斎灘(いつきなだ)に抜けるのに最短のコースとなるからであろう。生船の船長は毎航海、綿密に潮流図、潮汐表を調べ、潮が転流する前の憩流期(潮の流れが止まるわずかな期間)、または連れ潮の緩流期を狙って通峡したのであろう。
 実は私はまだこの船折瀬戸を通峡していない。2019年6月大崎下島(おおさきしもじま)・御手洗(みたらい)より岩城島(いわぎじま)へ航行する際、この瀬戸の入り口を右前方に視認しつつ、そのすぐ左にある大三島(おおみしま)、伯方島間にある鼻栗瀬戸を通峡した。

船折瀬戸西口
伯方島(左)と大島との間に大島大橋が架かる

鼻栗瀬戸
 鼻栗瀬戸も水路がS字形に曲がり最小可航幅も約100mと狭い。最強流速6.3ノット、見通しが悪く、浅所が両岸に沿って散在し海難も多い。そして御手洗でヨット仲間より「船折瀬戸より小型鋼船の通航が多いから気を付けるように」と聞いていた。
 最大難所、船折瀬戸の通峡を試みたかったが、怖さと岩城島への最短コースであることから鼻栗瀬戸を選んだ。
 心の中で金毘羅さんに無事通峡を祈願しつつ突入。小さな三角波で海面が泡立っているように見える。
 大三島橋をくぐって約90度左転しようとすると艫(とも)(船尾)が左右に振られているようで不安になる。必死で舵を保持し直進しようとするが舳先(へさき)が振れる。後ろを振り向くと499(トン)ほどの小型鋼船がいらいらしながら追い越しをかけてくる。背中に冷たいものを感じながら追い越させようと速力を落とす。すると以前に増して舳先が振れる。進路保持がままならない。体が緊張でこわばる。そうこうするうちに大三島と生口島(いくちじま)にかかる多々羅大橋が目に入る。「ああ、無事に通れた!」40分か、そこらの時間だったと思うが、怖かった、疲れた。通峡記念にと片手で必死にシャッターを切ったがすべてピンボケであった。

鼻栗瀬戸南口
大三島(左)と伯方島との間に大三島大橋が架かる

来島海峡
 来島海峡は来島海峡航路が設定され、長さ50m以上の船舶が航行義務船である。私は2017年できるだけ航路に入らぬようにして2~3ノットの連れ潮(北流)に乗って通峡を試みた。瀬戸内海賊衆の来島(くるしま)村上氏が本拠とした来島の右を航過したあたりで5~6ノットの急潮流に乗せられている感じに身をこわばらせたが、無事通峡を果たした。
 ところが、来島梶取鼻(かじとりはな)灯台を航過したあたりから10m/sは優に超える西風に吹かれる。フネは縦揺れ、横揺れ、パンティング。機帆走をしていたが5馬力の機関など全く役立たず。リーフ(縮帆)しタックキング(ジグザグ航行)を繰り返しての航行。その上、プロペラに海草のホンダワラが巻き付き速力が半減。しかし、釣島水道東口・波妻ノ鼻(はずまのはな)をかわすとピタと風がやむ。
 やはり「瀬戸内の海は穏やか」という思い込みを持っていたのだろう、その時初めて瀬戸内海の灘と呼ばれる比較的広い海域で吹く風の強さを思い知った。

来島海峡西水道 来島(左)と小島の左にある左舷浮標(緑)の間を通る

④安芸灘(広島県・呉市沖)~防予(ぼうよ)諸島(愛媛県・松山西方沖)
  ―17:35船折瀬戸~20:20クダコ島 <航程>約25海里(46km)
 住吉丸がこの海域を通るのは、午後7時から8時ごろの間であろう。
 船折瀬戸を無事通峡し安芸灘の中央に浮かぶ安居島(あいしま)あたりに達すると、来島海峡を目指す又は通過した大型船の往来に気をもむことになる。見張りを厳にして早めに大型船の航路を避ける。大型船が自船の都合で進路を変えることを期待し、計画通り航行してみるが大型船の進路に変化はない。一直線に当方に向かってくる大型船の姿はほんとうに不気味である。
 住吉丸は安居島灯台を航過し防予諸島にある、主要な4つの水道、釣島(つるしま)水道、クダコ水道、怒和島(ぬわじま)水道、諸島(もろしま)水道のうち、クダコ水道を通峡する。生船が4か所で最も潮流の速い(最強流速5ノット)クダコを選んだ理由は何か。それは同水道が船折瀬戸から一直線上に位置し最短距離であるからであろうか。また釣島水道が大型船の航路で混み合いより危険を伴うからだろうか。
釣島
釣島
釣島水道(右松山市)
釣島水道(右松山市)


防予諸島の水道

 私は今年(2019)安芸灘から周防灘に出て周防大島(すおうおおしま)・安下庄(あげのしょう)に行くとき怒和島水道を通った。

怒和島水道(船首右前方のすき間)


沖家室島(左)古来瀬戸内海の要所 右は 周防大島:シーボルト上陸地記念碑がある

 最強流速が6ノットに達することもあり、倉橋島(広島県呉市)を出港する際連れ潮2~3ノットで通峡するように計算して進入。両側から浅瀬が迫り、最狭の可航幅は750m、大型の反航船(周防灘から通過しようとする船)に出くわさないことを祈りつつ慎重に航行、無事通過。水道を出ると真正面に、生船が鯛(たい)を生(い)け簀(す)に移すために立ち寄った、二神島(ふたがみじま)が、そしてはるか沖合に由ゆ利島りじまが周防灘に浮かんでいた。

二神島

⑤周防灘(山口県沖)
  ―20:20クダコ島~03:15宇部本山灯標を航過→部埼灯台 <航程>約80海里(148km)
 住吉丸は真夜中を灯台の光だけを頼りにひたすら走る。
 一方、私は真昼間気楽に航走した。周防灘に出ると島々が眼前より消え、だだっぴろく巡航の興がそがれたような気分になる。
 この海域は南東と北西風が卓越風と聞くが、直感的にその広さから冬季には北西の季節風が吹きつのり、関門を目指す小型船にとっては厳しい海域になるのではないかと思った。
 
⑥関門海峡  ― 部埼灯台→関門大橋~07:30倉良瀬戸 <航程>約14(26km)
 住吉丸はまだ日が昇らぬ午前4時ごろ関門海峡東口の部埼(へさき)灯台を左舷正横に見て航過する。

関門海峡東口(早鞆瀬戸)
2007.8観潮船より


関門海峡東口
2014.9釜山行きフェリーより

 10数年前にJR門司港駅を降り門司港埠頭(ふとう)に立ったとき、足元左右に延々と数百メートルの幅の海が続き大型船が行き来しているさまに一種異様な感じを受けた。狭いといわれながらも4kmの幅を持つ明石海峡を見て育ったせいであろうか。
 関門海峡は地理的には「海峡」ではあるが、その海域すべてが関門港という港則法第2条に定める「特定港」である。したがって船舶交通を律する法律は港則法が適用される。
 《関門航路の特徴》
  ①狭隘で屈曲した地形 ②急潮流(最強流速8ノット)等の厳しい自然環境
  ③局地風が発生    ④船舶交通の輻輳 ― 昼夜間とも大型船の航行が多い
 夜間フェリーなどで通過したときの印象をもとにして、生船による通航を試みたい。
 住吉丸は関門海峡の最強流速8ノットを念頭に、憩流期あるいは連れ潮(順潮)に乗って航行することを考えたことだろう。
 いよいよ海峡に進入する。

関門海峡(関門港)

 暗闇の中無数の左舷灯浮標・右舷灯浮標が規則正しく散在する。港則法の「特定航法」の定めにより、西行しようとする100トン未満の汽船(生船)はできるだけ門司埼に寄って航行することになる。
 次にできるだけ航路の右側(下関側)を航行。武蔵と小次郎の巌流島(がんりゅうじま)の決闘で名高い巌流島を右に見て航行、つぎに舵を右に取りそして直進、六連島(むつれじま)西水道灯浮標No.6(FLR3s)を左正横に見みて左転する。これで航路をぬけて響灘(ひびきなだ)にはいる。
 
⑦響灘(福岡県沖)
  ―07:30倉良瀬戸~09:20玄海島 <航程>約19海里(35km)
 関門港を出ておよそ2時間弱航走。住吉丸はやっと朝日を拝む。
 倉良(くらら)瀬灯台を視認して、倉良瀬戸に入る。生船はこの瀬戸を通ったようであるが、いくら日が昇ったといえ、乗組員は航行に神経を使ったものと思う。海図を精査してみると一目瞭然危険な海域であることがわかる。

倉良瀬戸

 倉良瀬戸は宗像(むなかた)大社中津宮(なかつみや)が鎮座する大島と福岡県宗像市草崎鼻の間にある幅5km程の瀬戸である。その狭い海峡の東口を塞ぐように地ノ島、西口に小さな勝島(かつしま)、加えて倉良瀬を始め洲、瀬と名のつく多数の岩礁が存在する。
 福岡海上保安部の知り合いがヨットなどの乗揚げ事故の多いところといっていたこともうなずける。
 
⑧玄界灘(福岡・佐賀・長崎県沖)
  ―09:20玄海島~13:15御厨 <航程>約54海里(100km)
 住吉丸は富島より一昼夜無寄港で走り続け荒れる玄界灘を乗り越え、仕向地である長崎県松浦市御厨(みくりや)港(星鹿(ほしか))に至る。
 倉良瀬より御厨(星鹿)に至るまでの要注意海域は、壱岐島と佐賀・北松浦半島との間にある壱岐水道周辺であろう。ヨットに積む電子海図を拡大してみると、小島、瀬とよばれる浅所、漁礁、定置網などが多数散在する。また小島、半島の周辺には無数の暗岩・暗礁が隠れている。不用意に近づけば即乗揚げ事故、まさに気が抜けないところだ。
 この海域から対馬を活動の場とした、門司税関監視艇(27m型)船長を務めた友人によると、この辺りは冬場になると荒天続きで波浪により30度のヒール(傾斜)は日常茶飯事のことだそうだ。
 8月末から9月初旬にかけて九州郵船のフェリー(2,000トン級)で対馬まで行った。行きも帰りも横揺れ、縦揺れのくりかえし。床にこぼれ落ちた商品を片付けていた売店の船員に聞くと、「たいしたことないす。いつものことです。品物が(船の揺れで)右から左に飛びます」を繰り返す。その船員の無表情な返答に玄界灘の不気味さがいよいよ増した。

対島(2008.8 九州郵船フェリーより)