それは主たる活動海域である瀬戸内海を始め周辺の海の荒波に耐え、半世紀以上にわたって安全確実に活きた魚を運ぶべく改良の上に改良が重ねられた結果であろう。
板図(いたず)(棟梁が和船を造る前に記す簡易な設計図)に記された一枚で飫肥杉(おびすぎ)の弁甲材(べんこうざい)で造りあげた明石の船大工の技量の凄さ。そして生船に発動機という名の命を吹き込んだ発動機工作所の技術力の高さ。それらは明石の名を全国に知らしめることとなった。大正、昭和の職人衆の心意気に敬服せざるを得ない。
それに生船を動かした乗組員たち。得体の知れない海が相手だから、航海を重ねるうちに船魂(ふなだま)さんや金毘羅(こんぴら)さんに手を合わせ荒天が収まることを必死で祈らねばならぬ恐ろしい航海が何度となくあったであろう。船は最低で6人、少ないときで5人、多いときは9人で動かした。大型船のように4時間交代のワッチ(当直交代制勤務)を組み、一人の船員が航海、機関の両方の仕事を担ったのだろうか。とりわけ船長の仕事はきつかったろう。船員法による過重ともいえる責任と、乗組員のかけがえのない生命をあずかり、生き物である魚を殺さず仕向地まで運ばねばならぬ、その重圧感。
一方乗組員も、生船独特の厳しい任務があった。それは活きた魚を運ぶために設けられた換水用の穴の開け閉めである。船底部及び舷側部に穿たれたその穴に木栓を詰めたり抜いたりしなければならなかった。乗組員が生間(いけま)に飛び込み潜って行ったのである。明治のころには身体が凍えてしまわないように醤油を飲んで飛び込んだという。後にウェット・スーツの普及でだいぶ楽になったそうだ。陸で生活する私たちには理解しがたい彼らの苦難はあったと推察される。
最後になったが、生船を運航する会社の経営者。船員とその家族の生活を支え、不安定要素でいっぱいの海を相手とする事業を展開した。その気苦労や如何に、察するに余りある。
海峡(うみ)の町・明石に生まれ育ったものとして、海に生きた彼らの労苦に思いを致し記憶にとどめ語り継がねばならないと思うのである。
瀬戸の夕日(2019.5 大三島)
※地図の一部は「CraftMAP」(http://www.craftmap.box-i.net/)を利用した。