大日水産株式会社社長 日野賀生
大日水産株式会社の乗船名簿が4冊残されている。昭和42年4月~昭和44年7月、昭和47年5月~49年2月、昭和49年3月~昭和51年2月、昭和51年3月~昭和54年2月の4冊である。内容は各乗組員の勤怠管理簿であり、航海ごとに船長から提出される航海報告書をまとめて整理していた。整理するにあたり、各活魚運搬船の活動場所がわかるような簡単な航海記録にもしていた(第1表)。これは壱岐、対馬、五島列島、天草諸島など行先によって点数をつけて航海手当を支給していたからである。昭和33年(1958年)10月1日に船員保険加入、昭和42年(1967年)7月28日に全日本海員組合加入調印したことから、この乗船名簿を作成した。これ以前の資料は残っていない。この中の航海記録から次のようなことが読み取れる。
昭和42年4月には、1号住吉丸(乗組員8名)・5号住吉丸(乗組員6名)・6号住吉丸(乗組員8名)・11号住吉丸(乗組員6名)・15号富栄丸(乗組員7名)・25号住吉丸(乗組員6名)・28号住吉丸(乗組員6名)・蛭子丸(乗組員6名)の8隻、乗組員総数53名の活魚運搬船が就航していた。
大日水産株式会社の出先機関として長崎県対馬には根緒、緒方、比田勝、佐須奈、水崎の各漁港に生簀を設け、主に延縄や一本釣りによって漁獲された鯛の集荷を行っていた。壱岐では勝本、印通寺、郷ノ浦、初瀬の各漁港に生簀を設け、鯛と蛸壷漁や潜水漁で漁獲される生貝・サザエを集荷した。長崎県五島列島福江島には福江・戸岐・奥浦、玉之浦・荒川の各漁港に生簀を設け、延縄漁で漁獲される鯛を集荷した。その他、熊本県上天草市大矢野町満越では蛸壷漁で獲れる蛸を、鹿児島県出水郡伊唐島では延縄漁でとれるハモを集荷していた。昭和42年頃より宮崎県延岡市宮野浦には宮崎養殖漁場を開設した(第2表)(第3表)。
駐在員 | 事務所・寝所 | 生簀 | 漁法 | 主な魚種 | ||
対馬 | 根緒 | 漁期のみ駐在員在り | 組合事務所の2階に下宿 | 漁港に生簀設置 | 延縄(はえなわ) | 鯛 |
緒方 | 漁期のみ駐在員在り | 母船にて寝泊まり | 漁港に生簀設置 | 延縄(はえなわ) | 鯛 | |
比田勝 | 漁期のみ駐在員在り | 下宿 | 漁港に生簀設置 | 延縄(はえなわ) | 鯛 | |
佐須奈 | 漁期のみ駐在員在り | 下宿 | 漁港に生簀設置 | 一本釣り | 鯛 | |
水崎 | 年中 | 社員自宅 | 漁港に生簀設置 | 延縄(はえなわ) | 鯛 | |
壱岐 | 勝本 | 漁期のみ駐在員在り | 問屋に下宿 | 漁港に生簀設置 | 一本釣り | 鯛・ぶり |
印通寺 | 漁期のみ駐在員在り | 町営住宅借上げ | 漁港に生簀設置 | 蛸壺漁・鯛網 | 蛸・鯛 | |
郷ノ浦 | 年中 | 社員自宅 | 漁港に生簀設置 | 蛸壺漁・潜水 | 蛸・生貝・サザエ | |
初瀬 | 漁期のみ駐在員在り | 下宿 | 漁港に生簀設置 | 延縄(はえなわ) | 鯛 | |
五島 | 福江 | 年中 | 借事務所設置 | 漁港に生簀設置 | 延縄(はえなわ) | 鯛 |
戸岐・奥浦 | 年中 | 社員自宅 | 漁港に生簀設置 | 延縄(はえなわ) | 鯛 | |
玉之浦 | 漁期のみ駐在員在り | 下宿 | 漁港に生簀設置 | 延縄(はえなわ) | 鯛 | |
荒川 | 漁期のみ駐在員在り | 下宿 | 漁港に生簀設置 | 延縄(はえなわ) | 鯛 | |
天草 | 満越 | 年中 | 旅館住まい後事務所設置 | 漁港に生簀設置 | 蛸壺漁 | 蛸 |
20トン型運搬船で各地より集荷・昭和42年頃より養殖漁場設置する。 | ||||||
鹿児島 | 伊唐島 | 漁期のみ駐在員在り | 下宿 | 漁港に生簀設置 | 延縄(はえなわ) | ハモ |
宮崎 | 宮野浦 | 年中 | 事務所設置 | 漁港に生簀設置 | ||
20トン型運搬船で各地より集荷・昭和42年頃より養殖漁場設置する。 | ||||||
第3表 大日水産株式会社 魚在庫昭和46年(1971年)~昭和49年(1974年)
熊本県上天草市大矢野町満越は、天草灘から八代海をへて天草諸島に向う活魚船の航路にあるので、昭和42年頃より大矢野島に天草養殖漁場を設置した。養殖筏は真竹で4間×4間の竹枠を組んで網を張ってハマチと鯛の生簀とした(写真1)。生簀上部には魚が飛び出ない様に50cm位の高さの網が張ってあった(小割式養殖施設)。蛸についても生簀の中に蛸がとまるための枝を多数いれて置いていたが、網の生簀ではスレが生じて蛸の質がおちるため、蛸の管理がしやすい様に富島から活魚船甲板に木製の蛸ダンベ(2,3m×2,3m)を積んでいって使っていた(写真2)。
写真1 天草養殖漁場・養殖筏
1-1 満越湾養殖場に並ぶ養殖筏 |
1-2 養殖場の奥に見える山が高杢島 |
1-3 投餌船 |
1-4 干満差があるので台船を設置 |
写真2 富島港防波堤に陸揚げされた蛸ダンベ
蛸ダンベにも枝が入れてあった。長い間、蛸ダンべは海水に浸かっていると浮力が無くなるので引揚げて乾燥させた。また海水の流入流出のための隙間が海藻などによって詰まるのでこれも除去する必要があった。その後、養殖場を沖合の高杢島と樋合島との間に増設した。
現地事務所は最初、旅館の6帖一室を借りていた。他には家が数件、裏は学校のグランド、道を挟んで海であった。まったく田舎の漁村の景観であった。その後、一軒家を借りて駐在員常駐の事務所として使い、経理担当者や賄い担当者などを雇用して各地から活魚を集荷できる場所として位置付けた。さらに浜を40m×40m(約1,600m²)を埋め立てて将来の作業場として整備した。
長崎県壱岐勝本は玄界灘に面した大きな漁港でイカ釣りが盛んな所であった。港にある問屋に漁期だけ駐在員が下宿していた。当時、イルカが多数現れ魚が獲れなくなったのでイルカを駆除して問題になったことがあった。漁港には生簀が設置してあり、漁師が一本釣りで釣ってきた鯛や鰤をチンギ(棒ばかり)で目方を量り買取伝票を渡し、その伝票をもとに漁師は漁協から代金を受け取っていた。会社は一定期間の代金を漁協にまとめて支払っていた。昭和30年~50年代までは問屋に依頼してきたが、各漁港に漁業協同組合が設けられ、問屋が締め出されたので駐在員を置くようになった。天然の活魚は「アラウオ」と呼ばれ、そのままでは活魚船の生間で運ぶことが出来ないので生簀で慣らす必要があった。初めはバラバラに泳いでいるが慣れてくると生簀の中で円を描いて回遊するようになる。魚が落ち着かなかったら早めに〆て氷詰めで輸送する。この管理が駐在員の重要な役割であった。一定の量が整うと電話や電報で会社に連絡した。活魚船への積込は、まず船長の指示で弱った魚を選別し、シメ鈎で〆て箱立てしパーチを貼って上から氷で覆ったあと氷艙にいれる。次に慣らした活魚を生間に積み込んだ。航海中は、日没前、夕食前に見回り、翌朝食後に魚の様子を見回っていた。
本格的な養殖は、昭和36年4月兵庫県洲本市由良港にてハマチの養殖を行ったのが最初である。9月16日の第二室戸台風で大きな被害を受けた(写真3、写真4)が、昭和45年頃から瀬戸内海を中心に赤潮被害が増大するとともに、瀬戸内海では水温が下がるため九州方面の温かい場所に養殖の中心を移していった。養殖漁場を始めたのは冬期の漁獲量を確保するとともに、活魚運搬で永年培った活魚技術が養殖に生かされると考えたからである。昭和42年12月は鹿児島県山川港に生簀を設置し活発な活動を開始した時期である。さらに昭和43年1月に鹿児島県大泊港に生簀を設置した。
写真3 由良湾の一部を仕切った養殖場
写真4 台風被害を受けた養殖場
昭和43年3月には伯銀(乗組員7名)を購入した。伯銀は昭和40年淡路富島造船所で建造された、香川県大川郡引田不動冷蔵(有)の第八開洋丸を買収した船で60t型活魚運搬船として非常に使い勝手が良い大きさであった。昭和49年には長方形換水孔から丸形換水孔で最新技術のエアー自動開閉弁に取り換えられた。
昭和30年代までは、瀬戸内海西部、長崎県壱岐、対馬、五島列島から大阪中央卸売市場本場(写真5)まで活魚運搬船で運んでいたが、昭和25年9月3日のジェーン台風、昭和36年9月16日の第二室戸台風で浸水被害を受けたため、安治川護岸が嵩上げされ活魚運搬船からの搬入が困難になったことや、公害によって安治川や大阪湾の水質が悪くなったので大阪中央卸売市場に直接運ぶことが出来なくなった。また、昭和38年1月に国道43号線が神戸市から大阪市此花区まで開通し活魚トラック輸送が可能になったことから、昭和40年代に出荷基地として神戸市垂水漁港に生簀を設け、中間保管場所として整備した。垂水基地と呼んでいた。現在でも垂水港外港には生簀が設置され、大型の活魚トラックによって遠く九州方面から活魚が輸送されてきている。
写真5 現在の大阪中央卸市場
神戸市漁業協同組合『神戸市漁協二十年のあゆみ』1979年には、昭和43年(1968年)に垂水港東側の漁港内の一画に大型小割生簀を設置して、大量の活魚販売基礎の足掛かりとしたことが記載されている。まさにこの生簀に接岸しているのが大日水産の明石型生船である(写真6)。その後、水産会館に面する東防波堤側に生簀母船を中心に大型小割生簀を複数組み合わせた大規模な生簀を設置して運用していた。生簀は岸壁から少し離れた場所に設置してあり必要に応じて引寄せる事が出来るようになっていた。平成13年(2001年)9月には老朽化した生簀母船を解体廃棄し、新たにプラスチックフロート60本で浮かせた10m×10mの集荷作業代船(デレッキ大・小、ウインチ等搭載)を造った。岸壁との間には渡りタラップと出荷用ベルトコンベヤーがあった。
写真6 垂水港の大型小割生簀
平成13年(2001年)11月には中国から大量の活フグを積んだ、愛媛県宇和島市の第五十二大慶丸(鉄鋼船、385トン、全長53,20m)の漁獲物運搬船(写真7)が垂水港に入港し、生簀内を大量のフグが泳ぐことになった。平成19年(2007年)12月には宇和島市の第三好宝丸(鉄鋼船、324トン、全長50,20m)の漁獲物運搬船(写真8)が中国から活フグを積んで入港している。この頃になると天然魚ではなく、養殖魚や海外から特に中国からの輸入魚がその大半を占めていた。
写真7 第五十二大慶丸
写真8 第三好宝丸
昭和40年代の垂水基地設置以前は、安治川に面した大阪中央卸売市場や神戸市兵庫区中之島の神戸中央卸売市場に直接出荷していたが、非常に市場前が狭く混雑しスムーズに漁獲物を降ろせなくなってきたので、昭和35・36年(1960・1961年)以降は生船を神戸中央卸売市場に近い兵庫突堤に直接つけて出荷していた(写真9)。出荷は生船活魚艙内で〆て、手作業で竹製の籠に入れてトラックに積込み込んでいた。最大トラックは3台を使って神戸、大阪、京都の市場に出荷した。大阪では鮮度が良かったので高く売れ、京都の夏にはハモが喜ばれた。宮崎のイセエビは棘があるのでオコゼと同じように、金網の籠に入れて運んで来た。
写真9 兵庫突堤での荷揚風景(昭和35・36年頃)
9-1 大日水産専用トラック |
9-2 竹製の籠で荷揚 |
9-3 接岸した明石型生船 |
9-4 竹製の手提げ籠でアワビの荷揚げ |
昭和49年4月には、第一住吉丸(乗組員7名)・第六住吉丸(乗組員7名)・第八住吉丸(乗組員8名)・第25住吉丸(乗組員6名)・伯銀(乗組員7名)の5隻、乗組員総数35名の活魚運搬船が、昭和47年に開設した長崎県星鹿基地を出買の拠点として長崎県五島列島、対馬等の九州北西地域での買付けを幅広く行った。
長崎県松浦市星鹿には、昔から蛸の買い付けに行っていたことにより知り合いが居たので一軒家を借りて駐在員を置いていた。星鹿基地の設置前は、活魚船は買付け漁港で投錨し活魚の積込みの時間を調整していたが、基地開設後は五島列島や天草地域に行く場合も時間調整のため寄港していた(写真10)。また時間があれば港近くにあった銭湯にも入浴していた。星鹿は小さい港町だったので、主には御廚港に入港していた。
写真10 長崎県松浦市星鹿基地
10-1 御廚港桟橋右奥に星鹿漁協製氷所と魚市場 |
10-2 係留中の投餌船と明石型生船 |
10-3 係留中の投餌船と網上母船 |
10-4 倉庫・網修理広場、網染め用タンク・クレーン |
第1表の乗船名簿には各活魚船の航海日程が具体的に記入されており、淡路島富島基地から出港時間、寄港地、垂水基地入港時間など具体的な生船の行動がわかる。簡単に整理すれば、淡路島富島基地→出買地→垂水基地で降ろし市場に出荷→淡路富島基地→出買地、を繰り返し行動している。
第1表 乗船名簿(大日水産株式会社)
昭和53年(1978年)11月~昭和54年(1979年)2月に添付された航海日誌(一部)
例えば昭和53年12月の第八住吉丸の航海日程を見ると、非常に過密な工程で航海していたことが解る。第53次は12月2日(土)8:15分富島港出港→3日(日)対馬佐須奈・壱岐→4日(月)9:00分アオ(長崎県松浦市鷹島町阿翁浦)出港→5日(火)15:18分垂水港入港→18:20分富島港入港。第54次は12月7日(木)7:58分富島港出港→8日(金)対馬佐須奈・20:36分対馬厳原港出港→10日(日)7:25分垂水港入港→10:45分富島港入港。
第55次は12月11日(月)8:10分富島港出港→12日(火)松浦市御厨(星鹿基地)→13日(水)五島市戸岐・壱岐→15日(金)7:35分垂水港入港→11:25分富島港入港。第一住吉丸、伯銀も出買地はことなるが同じような過密な工程で航海していた。