2.生船の運航

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 それではここで実際の生船の運航について説明する。出港準備としては生活物資の積込みと燃料補給を行う。余程の長期航海でないと寄港地での調達はしなかったので、炊事係(カシキ)は出港前日に、米、野菜、調味料、イリコ等の食料品を全て富島の商店で往復分調達していた(支払いは月払い)。上り航海の運送中に死んだ魚を干物にして食べたり、タコを油で炒めて食べたりもした。船乗りは四つ足の物は食べない風習があり、船では牛肉は食べなかった。冷蔵庫は無く氷艙を冷蔵庫代わりにしていた。富島には製氷所が無かったので途中、兵庫県明石、香川県多度津、山口県下関で砕氷を積んだ。扇風機は有ったが、その他の電化製品はなかった。機関部は、重油、潤滑油、ウエス等の消耗品、飲料水を前回の航海終了後に補給する。飲料水は特に重要で、昭和50年代に建造された、第8大丸(第1図)、第十一盛漁丸、第八十一住吉丸等の99トン型の大型活魚運搬船には、船尾左舷側に1.5m³の清水タンクを積載する設計になっていた。それ以前の小さな船はせいぜい1m³位であった。富島港には、水道の蛇口が整備されおり直接ホースで補給していた。機関室には燃料タンクが左舷2カ所、右舷2カ所の4カ所にあり、No.1タンク2,93m³、No.2タンク2,93m³、No.3タンク2,16m³、No.4タンク2,16m³の合計10,18m³の重油を搭載していた。航行中は船の左右のバランスが取れるように調整しながら使っていた。富島には兵庫県漁連、倉本石油(日本石油系)、藤沢石油店(シェル石油系)の3社があった。石油屋は20~30tのタンク船を持っていて、活魚船に直接横付けして給油していた。重油は通常の航海では、途中で給油することはなかった。また、蛸などを積込む時などは解体したタコ巣を船室上部にあるデッキに搭載していた。

第1図 第8大丸一般配置図(漁船第224号)

 目的地によっても若干の出港時間はことなるが、九州行きの富島港出港は午前8時頃で、先ず下りは小豆島の坂手灯台を目指し、甲板部(操舵手)は3時間間隔で当直し交代した。乗組員の人数は船の大きさによって変わるが、甲板部3名、機関部3名の計6~7名であった。カシキは炊事をほとんど専門で1人が賄っており、若い乗組員がしていたとは限らなかった。当日は自宅で朝食を済ませていないので、出港して間もなく朝食を食べた。米は海水で洗ってから淡水で炊いていた。昭和44年(1969年)に北淡プロパンからの購入履歴があるので、当時は既にプロパンガスでガスコンロを使い炊飯していた。昔はカマドで炊くためにマキを積んでいた時代もあった。子供の頃、祖父である日野徳太郎が自宅の裏庭でマキやハモタモを作っていたのを覚えている。乗組員各自の食器は決まっており、約30分位で食事を済ませていた。食事はかまどの上の小デッキで食べていた。
 活魚運搬船の居住空間は、通称デッキと呼ばれる船尾デッキの下に設けられ、船員室、食堂、その他となっていた。船員室には二段ベッドが二ヶ所と一段ベッドがあり、5名が寝る事ができるようになっていたが、夏は暑かったので小デッキで寝ていた。港に停泊中も下船することなく船で寝ていたが夏は暑く航海中の方が風通しがよく寝やすかった。船員室と食堂の間は引戸で区切られ、ガスコンロが二口とガスボンベ、引戸になった食料庫があった。食堂と船尾空間の間も引戸で区切られており、便所と清水タンク、引戸になった倉庫がある。大型船の船尾空間には便所がある設計になっていたが、実際には小型の活魚運搬船の便所と同じ、舟大工特製の船尾に箱を吊るしただけの箱便所(吊便所)であった。台風や時化の時に使用していて海に落ちた者もいる。
 機関室の上には操舵室と船長室があった。船長室には海図室と船長用の二段ベッド(下段は荷物置)が設けてあった。操舵室の中央には舵輪があり、面舵側に船長が座り操船していた。NHKラジオは常時つけて気象情報には気をつけていた。なお、操舵室の後ろは機関室の開口部となっており、船舶電話を使用する時も大変うるさかった。
 風呂は昭和47年(1972年)星鹿漁場開設までは、どの航海においても基本的には無かった。その後も壱岐・対馬航海、日向航海(大分・宮崎)についても無かったが、時化のため停泊した時は銭湯に行った。五島・天草航海時は長崎県松浦市御厨港で時間調整をしていたので、銭湯に行っていた。着替えは一航海で3~4着を持参していた。
 順調に航海できれば、下りは12時頃に瀬戸東航路にある香川県高松市男木島北端トウガ鼻に立つ男木島灯台、その後、目印となるおにぎり形をした大槌島と小槌島の間を51通過し備讃瀬戸北航路となる(写真11)。ここは槌戸瀬戸(椎の門)と呼ばれ、その海底に龍宮があるという信仰がある。これより西へ約21カイリの笠岡諸島六島までが備讃瀬戸西部になる。航路は塩飽諸島(塩飽七島)の間を巧みに縫って続いていく。おもな島は本島、広島、牛島、手島(以上丸亀市)、櫃石島、与島(以上坂出市)、高見島(多度津町)である。塩飽の名称は激しい潮流を意味する「潮湧く」からきているともいわれ、鍋島と三ッ子島間、本島と牛島間で最強3ノットの潮流ができる。また、こませ網漁やさわら流し網漁など漁業の盛んな海域であるとともに、本州と四国を結ぶ南北方向に航行する船舶が多い場所であり、長時間緊張する航路である。15時頃には岡山県笠岡市の笠岡諸島最南端六島にある六島灯台に達する。六島と香川県庄内半島の間の海峡は古くから瀬戸内海を通る幹線航路であり、非常に潮流が速い場所である。

写真11 槌戸瀬戸にある大槌島(右)と小槌島(左)

 六島からは燧灘にある魚島群島(高井神島・魚島)の高井神島灯台(愛媛県越智郡上島町)を目標とする航路に入る。燧灘は瀬戸内海の多島海域からすると島が少ない地域である。大型船は燧灘から来島海峡を経て斎灘に至る。来島海峡は狭い部分では幅が400mと狭くS字にカーブしており、潮の流れが6時間ごとに変わる。潮位の差が最も大きくなる「大潮」では速さ10ノット(時速約18km)になり大型船でも難所とされている場所である。小型の活魚運搬船は伯方島と大島の間を通るために宮ノ窪瀬戸(生船乗組員は船折瀬戸を含めて宮ノ窪と呼んでいた)を目指す。そこに現れるのが今回の航路で一番の難所となる船折瀬戸である(写真12)。伯方島(有津)と鵜島に挟まれた幅約300mの狭い水道は、船折瀬戸と呼ばれ、満ち引きで潮の流れる方向が変わり流れがとても激しく、昔ここを通る船が真っ二つに折れた事からその名が付けられた。東側の赤灯台から潮が流れていると引き潮で、西側の鶏小島から潮が流れていると満ち潮である。最大8ノット(約15km)が川のように流れ渦を巻き現在でも難所と言われている。航路が90度湾曲しており、夜間の通行は特に危険である。活魚運搬船の速力も6~7ノットであったが大型船になってからは9~10ノットになり、潮流が速くても遡れる位の性能があった。上りも下りも来島海峡を通らず最短距離となる船折瀬戸を航路としていた。令和2年(2020年)8月6日(木)有津港の潮位は、満潮0:27分361cm、12:13分319cm、干潮6:30分110cm、18:28分48cmであった。19時頃には愛媛県と広島県との間、斎灘のほぼ中央に位置する松山市安居島灯台に達する。

写真12 船折瀬戸観潮台から見た船折瀬戸

 続いて航路は忽那諸島(忽那七島)と呼ばれる中島(本島)、津和地島、怒和島、二神島、睦月島、野忽那島、由利島のうち中島と怒和島の間にあるクダコ水道を通る。最狭部の中央にあるクダコ島により東・西二つの水道に分かれ、いずれも幅約0.6海里で、最大水深154mの水道である。東側の水道では、大潮期の平均流速は4.6ノット、西側の水道では、大潮期の最強流速は6.5ノットに達する。さらに防予諸島、平郡水道、鼻繰瀬戸を通り、24時頃に山口県下松市沖の火振岬灯台(笠戸島灯台)に到達する。ここまで約16時間の航海である。周防灘からの上りは特に梅雨の時期に河川からの淡水の流入が多く、海が白っぽく見える。活魚を積んでいるので沖合を通るようにしていた。徳山などからの上りは、上関海峡を通ると少し近い。室津半島と長島の北東端の間が上関海峡である。海峡は両岸から浅瀬が迫っており、水路の可能な航路幅は約50mである。上げ潮は東流し、下げ潮は西流し最強流速は3.5ノットになり、小型船には驚異的な流れとなる。また、上り下りの船舶が幅の狭い所に集まることから、夜間の衝突が起こりやすい難所の航路である。このようなことから祝島の南側か、鼻繰瀬戸を航路とする方が安全である。また、上りの航路は急左折しないといけない狭水道で、何回通っても、ちょっと怖い。運悪く船と出くわすと大変なので夜間は通らなかった。
 関門海峡の潮流は大潮で最大10ノットを超えることもある。通過時には4ノット以上の速力を維持することが義務付けられている。本州と九州を隔てる水路を大瀬戸といい、彦島と本州を隔てる水路を小瀬戸または小門海峡という。大瀬戸の幅が約600mまで狭まる壇ノ浦と和布刈の間は早鞆の瀬戸という。幅は約630メートルしかなく、最高潮流8ノットを超える。関門海峡の中で最も潮流が強いところである。
 平戸瀬戸は、長崎県平戸市の平戸島と九州本土(北松浦半島)を隔てる、南北約3.5km、幅は最も狭い所(平戸大橋付近)で約500m、幅が狭く潮流が速い。特に北部広瀬灯台の、西水道・東水道周辺は流速8ノットにもなり、下り時は左折、上り時は右折で注意が必要である。九州西海岸の最大の難所であるが、長崎県松浦市星鹿港(星鹿基地)から五島列島、天草諸島沿岸への航路としては最短ルートであった。
 万関瀬戸は、長崎県対馬西部の浅茅湾と東部の三浦湾を接続する全長約500mの運河。旧日本海軍が艦船の通航のため,明治33年(1900年)に運河を掘った。対馬を上島と下島に分ける境で北部を上島、南部を下島という。北部九州と韓国を結ぶ船舶航路である。53波は穏やかだが、両側から切通しが迫っており、狭く見通しが悪い。対馬海峡西水道域から対馬海峡東水道域、玄界灘を通る航路である。また、晩秋から初春にかけての対馬航海は、対馬北端の三ッ島周辺が西風強く又波浪高く航行が困難な場所である。
 その他、長崎県五島市玉之浦の簗口瀬戸、熊本県八代海や天草諸島への航路となる熊本県上天草市の満越ノ瀬戸・柳ノ瀬戸は潮流が速く、多島海のため夜間の航行は困難である。このように活魚運搬船の航路には危険な場所が幾つもあった。特に冬場はよく時化るので、あらかじめ船尾側の生間に海水を入れて船を安定させ、船首部分にかぶって来る波除けの為に「汐切り」を設置していた。冬場には常につけていたが、夏場はブリッジからの前方の視界が悪くなるため取り除いていた。
 昭和30年頃までは船長から機関室への伝達は、操舵室(ブリッジ)から機関室へひもを通して、鐘を叩いていた。鳴らす回数で前進、後進、微速、全速力等を決めていた。元大日水産機関長の田口誠氏によると、チンチンチン3連打以上:スタンバイ(用意せよ)、チン1回:前進微速、チン・チン2回:前進中速、チン・チン・チン3回:前進全速、チンチン連打1回:後進微速、チンチン・チンチン連打2回:後進中速、チンチン・チンチン・チンチン連打3回:後進全速と決まっていた。その後、入港時や上行き(神戸)まで生きられない魚を活〆し氷蔵する、そぐり時の全員集合の知らせは、ブザーを鳴らしていた。操舵手は操舵室(ブリッジ)右舷に座り舵輪を操っていた。その後、エンジン・テレグラフ(操舵室から機関室へ、エンジンの出力調整・停止の指示を伝えるための装置)(写真13)が出来、その後遠隔操縦装置(写真14)で、直接操作出来るようになったので、船長1人で操船をした。特に狭水道は幅が狭い上に屈曲しており見通しが悪く、さらに潮流が速く航路を進む上で厳しい場所であったので、その航行には航路について熟知した経験豊富な船長があたった。

写真13 操舵室 右にある時計の下がエンジン・テレグラフ


写真14 遠隔操縦装置

 航行中の船からの連絡は、記録では昭和49年(1974年)には船舶電話を設置していた。直通電話ではなく、電話を船から発信する場合は使用する前に電話機に「圏外」「話中」ランプが消灯しているか確認する。サービスエリア外の場合は「圏外」ランプが点灯する。サービスエリア内にかかわらず利用できるチャンネルが塞がっている場合は「話中」ランプが点灯する。使用するときは受話器を上げ、自船が居るエリア(A圏・B圏のどちらか)のボタンを押すと、船舶台の電話交換手が応答するので自局の電話番号(船舶伯銀31-7120)と通話先の電話番号を告げると繋がった(第4表)。会話は通常に出来たが、航海中はエンジン音がうるさいので大きな声で喋っていた。
第4表 船舶電話番号 昭和49年(1974年)
船舶台船舶名
神戸船舶台078-351-21211号住吉丸31-7019
徳島船舶台0886-52-91116号住吉丸31-6725
高松船舶台0878-31-41018号住吉丸81-8811
松山船舶台0899-21-010125号住吉丸81-8762
広島船舶台0822-21-7171伯銀31-7120
大分船舶台0975-32-2101
延岡船舶台09823-2-4321
高知船舶台0888-73-3138
北九州船舶台093-52-6931
福岡船舶台092-74-2338
厳原船舶台09205-2-1000
長崎船舶台0958-23-4191
鹿児島船舶台0992-22-2141
種子島船舶台09972-2-1477

 船舶電話の設置以前は、出港地の富島や寄港地での電話や電報での連絡方法しかなかったので、非常に便利になった。昭和30年代後半(1960年以降)は、大阪中央卸売市場でのセリの後で、交換手を通じて産地に(当社の主産地である、壱岐・対馬・五島・天草・宮崎)電話の申込みをする。壱岐(勝本・印通寺)、対馬(根緒・水崎)、五島(福江)、宮崎(北浦町宮之浦)であった。数十分か一時間後に繋がり、産地の漁状況等を聞き、大阪での相場及び仕入れ価格の指示を出していた。