3.関係資料

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 次に今回の報告に際して関連する資料を整理したので報告する。
 昭和38年(1963年)に開設した大日水産富島造船所は自社の活魚船等を造船、整備するとともに、多くの活魚運搬船の建造を受注した(第5表)。また、活魚船の大型化を進めるとともに伝統的な長方形換水孔の木栓の利用から、丸形換水孔でエアー自動開閉弁等を採用するなど新しい技術を取り入れた。昭和39年(1964年)以降、自社船としては、昭和43年(1968年)伯銀、昭和48年(1973年)第八住吉丸、昭和51年(1976年)第22住吉丸、昭和56年(1981年)第八拾壱住吉丸を建造し活魚運搬業を継続していた。その他、活魚運搬業の豊富な経験と、大型木造船を建造できる経験豊かな船大工たちによって毎年複数の木造船が富島造船所で建造されていたが、平成4年(1992年)6月30日付で大日水産富島造船廃止届が提出されその幕がおろされた。最後に建造された第八拾壱住吉丸は、昭和57年(1982年)第2回全国豊かな海づくり大会に参加後、平成7年(1995年)に売却された。

第5表 大日水産株式会社・富島造船所建造実績(1964年~)

 次に今回の原稿を執筆するにあたり活魚運搬船の船隻数の推移を資料として整理したので、まとめとして呈示する。今後の活魚運搬船研究の資料となれば幸いである。
 第6表は『明石型生船調査資料集・生船写真帖』146頁・147頁に掲載した「富島發動機船産業組合船氏名一覧表(昭和7年2月現在)」と「富島發動機船三業組合船氏名一覧表(昭和10年2月現在)」の船主名と船籍数を対比したものである。この二つの資料は現在の兵庫県姫路市飾磨区妻鹿の魚問屋亀山所有となっているが、現在は所在不明となっている。
第6表 昭和7・10年所有者別動力船隻数
富島發動機船産業組合富島發動機船三業組合
昭和7年昭和10年
所有者名隻数所有者名隻数
三木文吉7三木文吉5
濱口實右衛門6濱口實右衛門6
日野嘉三右衛門5日野嘉三右衛門6
坂西芳松4坂西芳松5
濱田仙次郎3濱田仙次郎3
日野嘉右衛門3日野嘉右衛門3
宗和房次郎3宗和房次郎1
川西忠太郎2川西忠太郎2
三木巳之助2三木巳之助2
松枝德一2松枝德一2
宗和常吉2宗和常吉2
土谷岩吉2土谷岩吉2
野口勝蔵2野口勝蔵3
熊野清次郎2熊野清次郎2
北山德蔵2北山德蔵2
日野九左衛門2日野九左衛門2
河合幸吉2河合幸吉1.5
藤岡勝太郎2
濱口政一1濱口政一2
倉本常吉1倉本常吉2
田中岩吉1田中岩吉1.5
濱口好1濱口好1
笠松益蔵1笠松益蔵1
田中三吉1田中三吉1
松枝政吉1松枝政吉1
東根爲吉1東根爲吉1
奥藤太郎1奥藤太郎1
沖岸蔵1沖岸蔵1
川西三吉1川西三吉1
田中新次郎1田中新次郎1
宗和春太郎1宗和春太郎1
宗和興志??1宗和興志吉1
宗和清五郎1宗和清五郎1
中吉久太郎1中吉久太郎1
藤沢平八1藤沢平八1
福原常吉1福原常吉1
福原熊次郎1福原熊次郎1
日野恒太朗1日野恒太朗1
阪東慶次郎1
畑森惣吉1
富永政吉1
沖竹松1
岡三吉1
田中才吉1
谷川久太郎1
宗和重吉1
中吉助吉1
倉本市太郎1
真木冨蔵1
坂部岩太郎1
日野吉蔵1
三木藤松1
三木常吉1
井戸武蔵1
岡部督一1
吉田一郎1
田中常次1
田中泰一1
凪常蔵1
凪德一1
南清太郎1

 「富島發動機船産業組合」は昭和3年(1928年)に富島の活魚運搬船業者が設立したもので、昭和7年(1932年)の「富島發動機船産業組合船氏名一覧表」では、7艘持ち1人、6艘持ち1人、5艘持ち1人、4艘持ち1人、3艘持ち3人、2艘持ち11人、1艘持ち32人で、加盟業者50人、運搬船85艘の組合であった。このうち6艘持ちの濱口實右衛門、3艘持ちの日野嘉右衛門、2艘持ちの日野九左衛門は濱口・日野一族として古くから活魚運搬業を行っていた。家業において日野九左衛門は6代目、私は10代目である。昭和10年(1935年)の「富島發動機船三業組合船氏名一覧表」では6艘持ち2人、5艘持ち2人、3艘持ち3人、2艘持ち12人(内1艘は2人の共同所有)、1艘持ち29人で、加盟業者48人、運搬船83隻の組合であった。加盟業者数、運搬船数の減少は少ないが、1艘持ち船主が前組合から12人が抜けて、新たに11人が加入しており、船の運航を自ら単独で行う一代経営者の交代が多数あったことがわかる。こうした中でも古参業者は安定した経営を行っていた。
 昭和11年(1936年)9月に富島の業者が経営統合し富島水産株式会社が設立された。
 「昭和十三年起舩體臺帳富島水産株式會社」は、縦24,5cm×横17,1cm、64頁の船名ごとの台帳に、「昭和拾参年貳月調舩名及船長名一覧表富島水産株式會社」が添付されているものを第7表としてまとめた。舩體臺帳には、船名・船監察写・船監察番号・呼称馬力・シリンダ径・クランク径・機関種類・岩屋警察署船体検査番号・回転数・ストロック径・プロペラー径・気筒数・船籍港・長・幅・深・総トン数・純トン数・進水年月日・備考について詳細が記録されている。

 


 


 


第7表 富島水産株式会社船体台帳昭和13年(1938年) ※●は不明文字

 船籍港は富島町31隻、明石市31隻、慶尚南道釜山府2隻であり、富島基地と共に明石に船籍港が置かれていた。総トン数は19トン級22隻、18トン級10隻、17トン級7隻、16トン級7隻、15トン級4隻、14トン級7隻、14トン以下7隻で、19トン級の船が多数占めているように読み取れるが、実は20トン以上の船を所有するには、免許や検査の関係から手続きが複雑になるので20トン以上の船でも19トンとして届けていたため、トン数による偏りがある。19トン級で60馬力以上のエンジンを搭載している船などは20トン以上の大型船の可能性がある。進水年月日では大正11年(1922年)7隻と昭和4年(1929年)10隻に建造のピークがある。備考にはエンジン供給メーカーが記載されている。
 今回、最も注目される事として、第7号共和丸(徴用船)、第65共和丸(徴用)、第57号共和丸(徴用船)と記載があることである。昭和12年(1937年)の日中戦争開始後から陸軍は揚子江遡上作戦などに民間の木造船を徴用し軍事用輸送に使っていた。以前から活魚船が徴用されたことが言われてきたが実際に記録が確認された。昭和13年に記録があることから、日中戦争でも比較的に早い時期の徴用であったと考えられる。堀川惠子『暁の宇品』2021年には、「昭和13年4月には兵庫県の漁協に第二次徴傭が行われ、底引き網漁船110隻が徴傭されている。」と書かれており、この中に富島の生船が含まれていたと考えられる。徴用には、船体検査を受けた後に船は軍に買取られ、乗組員は志願するという形がとられるパターンと、船の船主に傭船料が支払われるチャーター方式で乗組員に給料が支払われるパターンがあったが、富島での徴用は前者であった。続く昭和16年12月(1941年)から昭和20年8月(1945年)の太平洋戦争では戦争の拡大に伴い、更に多数の活魚船が南方の島々相互間、南方と日本本土の補給作戦に徴用され、乗組員とともにそのほとんどが失われた。地域に残されている戦没者名簿を詳細に調べることによって、徴用された活魚船の活動がもう少し明らかになるかもしれない。終戦時に奇跡的に残った船は、第1号共和丸(浜口実右衛門)、第3号共和丸(日野顕徳)、第7号共和丸、第8号共和丸、第13号共和丸、第71号共和丸の老朽船ばかり6隻が残った。実に93%の船が失われ壊滅的な状態であった。その他、室津の金宝丸(浜田三郎)が残った。木造船の徴用については、和歌山県の徴用された木造船を記録した中村隆一郎『常民の戦争と海【聞書】徴用された小型木造船』1993年、瀬田勝哉『戦争が巨木を伐った太平洋戦争と供木運動・木造船』2021年が参考になる。
 戦後の活魚運搬船の復興期は、戦後間もなくの昭和21年10月の第十三金宝丸を始めに、昭和22年春の漁期が終了すると、戦前から複数の船を所有していたいわゆる大手筋と言われる経営者が次々に新造船の建造をはじめた。戦後復興期における活魚船による活動については「本報告書活魚船史―淡路富島における活魚運搬業の展開(未完)―」に詳しく報告されている。
 淡路・富島における戦後の活魚運搬船(1945~1981)建造は、昭和21年1隻、昭和22年4隻、昭和23年5隻、昭和24年7隻、昭和26年1隻、昭和28年3隻、昭和29年1隻が次々に建造されている。この造船ラッシュのきっかけになったのが、昭和23年4月の高級魚の鯛とすずきの統制解除、昭和25年4月1日の水産物の配給及び価格統制の撤廃である。造船所は当時の活魚運搬船の二大メーカーの大崎造船所(淡路富島)、東根造船所(淡路岩屋)の他、引田造船所(香川県大川郡引田町)、宗田造船所(明石)、大谷造船所(岩屋)であった。
 写真15は高知県漁連が大日水産富島造船所に建造発注した土佐丸の進水式当日の写真である。写真には土佐丸は写っていないが連続写真であることから当日の様子が分かる。実は土佐丸は昭和40年(1965年)、昭和41年(1966年)、昭和45年(1970年)に同形の生船が発注されており、写真からはどの土佐丸は分からないが昭和40年代の景観であることは間違いない。関係者及び地元小学校の生徒が並んで盛大な進水式が行われていた。ここでこの写真を取り上げたのは、造船に使われた弁甲材が撮影されているからである。細長い建物は防潮堤に並行して建てられた製材所(幅9.5m、長さ44.3m)で東側9.3mは目立場になっていた。製材所の左端には弁甲材独特のハツリ加工された原木が製材所に引き込まれている。中には大型のバンドソーが備え付けてあり原木から厚さ2寸の長大な板材を製材していた。製材所の傍には白太部分などの端材が山積みにされている。その横には、大量の製材された弁甲材の板材が天日干しされていた。写真に写る人物の大きさからもそれが長尺の弁甲材であることが分かる。弁甲材の規格には四尋(長六~七m、中央周辺3尺~3.4尺)、五尋(8m、3.5尺から4尺)、六尋(9~10m、4.1尺~4.4尺)、七尋(11m、4.5尺~4.9尺)、八尋(12~13m、5尺~5.4尺)があった。さらに長大な材料として八尋弁甲以上の十尋弁甲も取引されていた。大日水産株式会社の昭和54年(1979年)2月在庫表(造船所の材料棚卸し表)によると、弁甲材4尋×尺2寸×1寸8分が35,300円、5尋×尺3寸5分×1寸5分が37,500円、6尋×尺5寸×2寸2分が40,000円、7尋×尺6寸5分×2寸3分が48,500円、8尋×尺8寸×2寸2分が60,000円、9尋×尺9寸×2寸が71,000円であった。時代は新しいがおそらく当時も大型生船の建造に向けて大量の弁甲材が備蓄されていたものと思われる。当時、弁甲材は丸太をトラックで輸送され、富島造船所や福良の土井木材で製材して使用していた。なおこの在庫表(昭和45年~昭和50年・昭和52年・昭和54年)には木材、鋼材、副資材、機械及び部品、仕掛品在庫の区分で在庫量と単価が記録されており、木造船を造船するための材料原価を知る上で貴重な資料である。

写真15 土佐丸の進水式

 搭載機関は焼玉エンジンで、戦前からのメーカーであった木下鉄工所(明石)、きしろ鉄工所(明石)、日本発動機株式会社(神戸市林田区金平町2丁目35番地)、明石内燃機工作所(明石)、株式会社阪神鉄工所(神戸市林田区一番町3丁目1番地)、マキタ鉄工所(高松)で、当時から焼玉エンジンメーカーが多数あった明石からの供給が多数をしめている。
 今回報告された「株式会社木下鐵工所の『焼玉機関出荷台帳』を読みとく」と照合すると下記の船が記録されていた。
 
  278頁16行目の第十五金宝丸、昭和22年7月30日契約、昭和22年5月31日納期、製作番号第20045号、型式2GB-135、80馬力、氏名:浜田仙次郎、住所:兵庫県津名郡室津村、造船所:兵庫県津名郡岩屋町淡路造船(株)岩屋工場
  281頁11行目の金宝丸(第六金宝丸)、昭和23年3月16日契約、昭和23年6月末納期、製作番号第23027号、型式2GB-138、100馬力、氏名:浜田三郎、住所:兵庫県津名郡室津村、造船所:兵庫県津名郡岩屋町東根造船所
  282頁5行目の住吉丸(第十六住吉丸)、昭和23年1月6日契約、昭和23年5月30日納期、製作番号第23001号、型式2GB-138、100馬力、氏名:日野嘉右衛門、住所:兵庫県津名郡富島町富島造船所
  282頁25行目の住吉丸(第三住吉丸)、昭和24年1月13日契約、昭和24年3月31日納期、製作番号24002、型式2GB-135、130馬力、氏名:日野春義、住所:淡路津名郡富島町大崎造船所
 
 以上、4隻の明石型生船と呼ばれる活魚運搬船に焼玉エンジンが納品されていることがわかり、『焼玉機関出荷台帳』記載情報の正確さが確認された。このことから地域に残されている造船所情報や船名をもとに詳細に調査する事によって、失われた船舶や忘れられた地方造船所を明らかにする重要な資料とすることができる。
 第8表は、昭和32年度(1957年)兵庫県運搬船組合員名簿でB4用紙に、船名、氏名、住所が記載された名簿を整理したもので114隻の生船及び鮮魚運搬船が登録されている。組合は昭和15年(1940年)に設立され、瀬戸内海や朝鮮半島から鮮魚運搬を行ってきた組合員が登録され戦後250人にも達したが、任意団体だったので鮮魚運搬業の衰退伴い業者がいなくなり自然消滅した。昭和32年当時、父である日野顕徳が組合長をしていたので、この名簿が残された。
第8表 昭和32年(1957年)度 兵庫県運搬船組合会員名簿 ※●は不明文字
船名氏名住所船名氏名住所船名氏名住所
1第二大栄大道保二神戸市東灘區魚崎39新川良輔洲本市由良町77・住吉日野春義兵庫縣津名郡北淡町富島
2大石飯田安太郎神戸市御影町本明40金毘羅小松佐兵●兵庫縣津名郡津名町塩田78・住吉日野嘉右エ門兵庫縣津名郡北淡町富島
3島一島田竹次郎神戸市浜田町41宮福宮本福松兵庫縣津名郡津名町生穂79日野嘉三右門兵庫縣津名郡北淡町富島
4慶昌清水亀蔵神戸市弓木町二42共勢小田桐徳太郎兵庫縣津名郡津名町生穂80富栄宗和春太郎兵庫縣津名郡北淡町富島
5神野勝美神戸市兵庫區荒田町三43金幸平田春一兵庫縣津名郡津名町佐野81住吉宗和計次兵庫縣津名郡北淡町富島
6第一一眞内照久神戸市兵庫区西柳原町44共勢増田恒一兵庫縣津名郡津名町佐野82・蛭子田中春吉兵庫縣津名郡北淡町富島
7吉良義雄神戸市兵庫区新在家町45新盛髙田伊蔵兵庫縣津名郡津名町佐野83・住吉浜口実右エ門兵庫縣津名郡北淡町富島
8吉徳川口澤一神戸市兵庫区北逆瀬川町46住吉沖●太郎兵庫縣津名郡淡路町釜口村84・住吉田中常次兵庫縣津名郡北淡町富島
9第二富久貝塚甚七神戸市長田区野田九47宝出阪東悦一兵庫縣津名郡仮屋町85住栄柿本太郎兵庫縣津名郡北淡町育波
10室田一男神戸市長田区駒ケ林48第三戎松井秋夫兵庫縣津名郡仮屋町86住吉藤本傳市兵庫縣津名郡北淡町育波
11仁之信川秀二神戸市垂水区垂水49第二芳松下種吉兵庫縣津名郡仮屋町87金宝浜田三郎兵庫縣津名郡北淡町室津
12進栄浦部進三郎神戸市垂水区東垂水50第一松栄松下常吉兵庫縣津名郡仮屋町88貫栄岡野包義兵庫縣津名郡北淡町室津
13王子平一神戸市垂水区東垂水51第一戎松村豊兵庫縣津名郡仮屋町89三栄山際作一兵庫縣津名郡北淡町室津
14浜崎義雄神戸市垂水区舞子町52住吉國本新次兵庫縣津名郡仮屋町90幸福● 定吉兵庫縣津名郡北淡町室津
15進栄松坂水産株式会社神戸市垂水区舞子町53住吉木戸賢一兵庫縣津名郡仮屋町91幸宝浜田幸助兵庫縣津名郡北淡町室津
16北川薫一神戸市垂水区舞子町54住吉来田平井兵庫縣津名郡仮屋町92吉徳吉田一郎兵庫縣津名郡都志町
17富士富士達夫神戸市垂水区舞子町55戸田広次兵庫縣津名郡仮屋町93海出浜田一男兵庫縣津名郡都志町
18三浦三浦一男神戸市垂水区舞子町56阪栄南勝次郎兵庫縣津名郡岩屋町94喜代浜田和三兵庫縣津名郡都志町
19清福藤本商店神戸市垂水区舞子町57住吉桑名末吉兵庫縣津名郡岩屋町95和歌岡本和歌吉兵庫縣津名郡鳥飼村
20山口繁一神戸市垂水区舞子町58長出島本由太郎兵庫縣津名郡岩屋町96和歌富田稔兵庫縣津名郡鳥飼村
21松栄塩崎栄蔵神戸市垂水区舞子町59大野源太郎兵庫縣津名郡岩屋町97藤井千出兵庫縣津名郡鳥飼村
22林久林田正一明石市東魚町60長野繁松兵庫縣津名郡岩屋町98中福中浜栄一兵庫縣津名郡鳥飼村
23昭栄酒井満明石市西魚町61岩栄長井義雄兵庫縣津名郡岩屋町99福丸福島又一兵庫縣津名郡鳥飼村
24幸勇茨木徳太郎明石市船町62長栄長野秀夫兵庫縣津名郡岩屋町100杉谷新七三原郡湊町
25明栄眞木保雄明石市船町63吉栄長野三郎兵庫縣津名郡岩屋町101國雄品川國雄三原郡湊町
26富久藤井純一明石市東本町64石部平吉兵庫縣津名郡岩屋町102共進山崎八十一三原郡阿那賀村
27新出中村定次明石市大蔵町五65山本勇吉兵庫縣津名郡岩屋町103共栄浜田武市三原郡阿那賀村
28第十一林久亀山亀太郎姫路市飾磨区妻鹿66住吉●谷●男兵庫縣津名郡岩屋町104三宅定一三原郡阿那賀村
29吉野吉野豊次姫路市飾磨区妻鹿67住吉中野賢次郎兵庫縣津名郡岩屋町105六甲菅弘三原郡阿那賀村
30恵比酒上西市蔵兵庫縣飾磨郡家島町坊勢68第三出宝長野亀吉兵庫縣津名郡岩屋町106久留米正雄三原郡南淡町福良
31大福村井清髙洲本市外通七69住吉松尾種蔵兵庫縣津名郡岩屋町107喜志岸喜志郎三原郡南淡町福良
32住吉山口直一洲本市由良町70仲吉山本勝一兵庫縣津名郡岩屋町108生長丸●水産KK三原郡南淡町福良
33住吉浜岡藤吉洲本市由良町71住吉拝原実兵庫縣津名郡岩屋町109南長三原郡南淡町福良
34福光藤堂三郎洲本市由良町72昭和松下菊松兵庫縣津名郡岩屋町110朝日古池新一三原郡南淡町福良
35海幸橋本鷹春洲本市由良町73第五住吉中島儀一兵庫縣津名郡岩屋町111井津尾由之三原郡沼嶋村
36第六●獄伊奈春吉洲本市由良町74幸男浜田勇松兵庫縣津名郡北淡町野島江崎112和田秀二三原郡沼嶋村
37朝日花野富士松洲本市由良町75・住吉日野顕徳兵庫縣津名郡北淡町富島113嶋津宇三一三原郡沼嶋村
38丸山利次洲本市由良町76・住吉大日水産株式會社神戸市兵庫区匠町二八114浜隆夫三原郡沼嶋村

 地域的には神戸および明石の周辺地域では、神戸市兵庫区中之島にある神戸市中央卸売市場本場に近い兵庫区・長田区・垂水区に多くあった。垂水区舞子には大阪湾のイワシを加工工場まで運んだ小型イワシ専門の鮮魚運搬船が多かったと思われる。
 「昭和30年~昭和35年頃、舞子の浜には、舞子六神社から西の山田川付近までに5,6本の石垣積みの突堤が設置され砂浜を守る役目をしていました。富士本家の南側に浜があり、15mほどの突堤が突き出ており、富士徳水産の小型生船「徳丸」が停泊していました。富士達夫氏は泉佐野方面からイワシを購入していた。山陽電鉄西舞子駅の北60~70m北にはイワシ加工をしていた山口水産の工場があり、夜間にも作業する事がありました。ゆでたイワシは1m四方の平たい竹製の台に積んで大八車で広場に運んで干していました。干したイワシは、いりじゃこ、いりこと呼んでいた。小型生船「繁丸」を所有していました。」(富士健二氏からの聞取り)
 明石海峡に面した明石は、以前から生船が建造されていた所で明石港周辺の船町や魚町に生船業者があった。少し東にあたる大蔵町の中村水産(中村定次)は遠く五島列島までイワシを出買いを行っていた。その頃、明石港先端にあった製氷工場前の岸壁ではイワシを積んだ生船に破氷をガラガラと音をさせながら氷を注いでいた。イワシは姫路、林崎、駒ケ林、西宮、大阪泉州方面に買いに行っていたと茨木水産(東戎町)に聞いた。姫路沖にある家島諸島防勢島の奈座港には、阪神の大消費地を控えて多くの生船が活動していた。姫路市飾磨区妻鹿港からは家島諸島を望むことができ、坊勢から消費地姫路に向けた拠点となっていた。現在でも家島町水産物荷捌所、坊勢漁業協同組合姫路まえどれ市場や大手スーパーの水産物流センターがある。
 播磨灘側には淡路島西岸の北から野島、富島、育波、室津、都志、鳥飼、湊、阿那賀、福良の各漁港(第2図)に生船業者が活動していた。特に富島は戦前・戦後の活魚運搬業の最大拠点があったところで、富島港周辺には生船を建造していた阿部造船所、大崎造船所、富島造船所があった。昭和30年代には大型の明石型生船10隻が活発に活動していた。明石海峡に面する岩屋港中央には、生簀が設置されており瀬戸内海西から生船で運ばれてきた活魚が集められていた。また岸壁にはイワシ専門の小型鮮魚運搬船が接岸していた。「本報告書淡路岩屋港における生船―鰯鮮魚運搬船として活躍した小型生船―」で報告されている。

第2図 淡路島 関係漁港

 大阪湾に面する淡路島東岸には北から仮屋、釜口、佐野、生穂、塩田、由良の各漁港に生船業者が活動していた。『東浦町史』には大正元年に仮屋浦から韓海出漁した船から漁獲物(鰈)を買入れ、大阪雑喉市場まで運んだことが、また『津名町史本編』には佐野浦の魚出買商が北淡西岸の富島・室津とともに明治初期には全盛期を迎えたことが記録されている。しかし昭和30年代の鮮魚運搬については情報が不足していて良くわからないのが現状である。
 由良港にも多くの鮮魚運搬船の船籍があるが、知ることが出来たのは「利丸」の後続船「第六利丸」についてである。愛媛県宇和島市米本造船所で造られたFRP製の生船で外観は明石型生船をモデルとしているものである『明石型生船調査資料集・生船写真帖190頁』。第六利丸はたつの市御津町室津の津田宇水産のイワシ巾着網専属の生船で、魚市場には出荷しないで富島のタ丸田水産冷蔵庫までイワシを積んできていた。タ丸田水産は瀬戸内海のハマチ、ブリ、タイの養殖用の餌としてこのイワシを出荷していた。一代前の利丸も津田宇水産専属の木造の明石型生船(20トン)であった。(丸山治夫氏からの聞取り)また洲本市役所由良支所の南側には昔、漁獲物の共同販売所があり小型の明石型生船が艫付けされている『ふるさとの想いで写真集明治大正昭和洲本』。
 沼島は淡路島の南4,6kmの紀伊水道北西部にある島で、現在では対岸の土生港から約10分で渡ることができる。沼島の山野音吉が創設した山神組という水産会社が、明治40年頃(1907年頃)から大正7年(1918年)にかけて南朝鮮で活躍した。山神組は後の日本水産株式会社を設立し、明石出身の林兼商店(大洋漁業)とともに当時の二大水産会社であった。昭和32年度の運搬船組合員名簿には4隻の鮮魚運搬船が登録されているが、このうち「濱丸」と芳丸の後続船「第三芳丸」が2017年12月放送の新日本風土記「淡路島」で紹介されていた。