昭和38年(1963年)に開設した大日水産富島造船所は自社の活魚船等を造船、整備するとともに、多くの活魚運搬船の建造を受注した(第5表)。また、活魚船の大型化を進めるとともに伝統的な長方形換水孔の木栓の利用から、丸形換水孔でエアー自動開閉弁等を採用するなど新しい技術を取り入れた。昭和39年(1964年)以降、自社船としては、昭和43年(1968年)伯銀、昭和48年(1973年)第八住吉丸、昭和51年(1976年)第22住吉丸、昭和56年(1981年)第八拾壱住吉丸を建造し活魚運搬業を継続していた。その他、活魚運搬業の豊富な経験と、大型木造船を建造できる経験豊かな船大工たちによって毎年複数の木造船が富島造船所で建造されていたが、平成4年(1992年)6月30日付で大日水産富島造船廃止届が提出されその幕がおろされた。最後に建造された第八拾壱住吉丸は、昭和57年(1982年)第2回全国豊かな海づくり大会に参加後、平成7年(1995年)に売却された。
第5表 大日水産株式会社・富島造船所建造実績(1964年~)
次に今回の原稿を執筆するにあたり活魚運搬船の船隻数の推移を資料として整理したので、まとめとして呈示する。今後の活魚運搬船研究の資料となれば幸いである。
第6表は『明石型生船調査資料集・生船写真帖』146頁・147頁に掲載した「富島發動機船産業組合船氏名一覧表(昭和7年2月現在)」と「富島發動機船三業組合船氏名一覧表(昭和10年2月現在)」の船主名と船籍数を対比したものである。この二つの資料は現在の兵庫県姫路市飾磨区妻鹿の魚問屋亀山所有となっているが、現在は所在不明となっている。
富島發動機船産業組合 | 富島發動機船三業組合 | ||
昭和7年 | 昭和10年 | ||
所有者名 | 隻数 | 所有者名 | 隻数 |
三木文吉 | 7 | 三木文吉 | 5 |
濱口實右衛門 | 6 | 濱口實右衛門 | 6 |
日野嘉三右衛門 | 5 | 日野嘉三右衛門 | 6 |
坂西芳松 | 4 | 坂西芳松 | 5 |
濱田仙次郎 | 3 | 濱田仙次郎 | 3 |
日野嘉右衛門 | 3 | 日野嘉右衛門 | 3 |
宗和房次郎 | 3 | 宗和房次郎 | 1 |
川西忠太郎 | 2 | 川西忠太郎 | 2 |
三木巳之助 | 2 | 三木巳之助 | 2 |
松枝德一 | 2 | 松枝德一 | 2 |
宗和常吉 | 2 | 宗和常吉 | 2 |
土谷岩吉 | 2 | 土谷岩吉 | 2 |
野口勝蔵 | 2 | 野口勝蔵 | 3 |
熊野清次郎 | 2 | 熊野清次郎 | 2 |
北山德蔵 | 2 | 北山德蔵 | 2 |
日野九左衛門 | 2 | 日野九左衛門 | 2 |
河合幸吉 | 2 | 河合幸吉 | 1.5 |
藤岡勝太郎 | 2 | ||
濱口政一 | 1 | 濱口政一 | 2 |
倉本常吉 | 1 | 倉本常吉 | 2 |
田中岩吉 | 1 | 田中岩吉 | 1.5 |
濱口好 | 1 | 濱口好 | 1 |
笠松益蔵 | 1 | 笠松益蔵 | 1 |
田中三吉 | 1 | 田中三吉 | 1 |
松枝政吉 | 1 | 松枝政吉 | 1 |
東根爲吉 | 1 | 東根爲吉 | 1 |
奥藤太郎 | 1 | 奥藤太郎 | 1 |
沖岸蔵 | 1 | 沖岸蔵 | 1 |
川西三吉 | 1 | 川西三吉 | 1 |
田中新次郎 | 1 | 田中新次郎 | 1 |
宗和春太郎 | 1 | 宗和春太郎 | 1 |
宗和興志?? | 1 | 宗和興志吉 | 1 |
宗和清五郎 | 1 | 宗和清五郎 | 1 |
中吉久太郎 | 1 | 中吉久太郎 | 1 |
藤沢平八 | 1 | 藤沢平八 | 1 |
福原常吉 | 1 | 福原常吉 | 1 |
福原熊次郎 | 1 | 福原熊次郎 | 1 |
日野恒太朗 | 1 | 日野恒太朗 | 1 |
阪東慶次郎 | 1 | ||
畑森惣吉 | 1 | ||
富永政吉 | 1 | ||
沖竹松 | 1 | ||
岡三吉 | 1 | ||
田中才吉 | 1 | ||
谷川久太郎 | 1 | ||
宗和重吉 | 1 | ||
中吉助吉 | 1 | ||
倉本市太郎 | 1 | ||
真木冨蔵 | 1 | ||
坂部岩太郎 | 1 | ||
日野吉蔵 | 1 | ||
三木藤松 | 1 | ||
三木常吉 | 1 | ||
井戸武蔵 | 1 | ||
岡部督一 | 1 | ||
吉田一郎 | 1 | ||
田中常次 | 1 | ||
田中泰一 | 1 | ||
凪常蔵 | 1 | ||
凪德一 | 1 | ||
南清太郎 | 1 |
「富島發動機船産業組合」は昭和3年(1928年)に富島の活魚運搬船業者が設立したもので、昭和7年(1932年)の「富島發動機船産業組合船氏名一覧表」では、7艘持ち1人、6艘持ち1人、5艘持ち1人、4艘持ち1人、3艘持ち3人、2艘持ち11人、1艘持ち32人で、加盟業者50人、運搬船85艘の組合であった。このうち6艘持ちの濱口實右衛門、3艘持ちの日野嘉右衛門、2艘持ちの日野九左衛門は濱口・日野一族として古くから活魚運搬業を行っていた。家業において日野九左衛門は6代目、私は10代目である。昭和10年(1935年)の「富島發動機船三業組合船氏名一覧表」では6艘持ち2人、5艘持ち2人、3艘持ち3人、2艘持ち12人(内1艘は2人の共同所有)、1艘持ち29人で、加盟業者48人、運搬船83隻の組合であった。加盟業者数、運搬船数の減少は少ないが、1艘持ち船主が前組合から12人が抜けて、新たに11人が加入しており、船の運航を自ら単独で行う一代経営者の交代が多数あったことがわかる。こうした中でも古参業者は安定した経営を行っていた。
昭和11年(1936年)9月に富島の業者が経営統合し富島水産株式会社が設立された。
「昭和十三年起舩體臺帳富島水産株式會社」は、縦24,5cm×横17,1cm、64頁の船名ごとの台帳に、「昭和拾参年貳月調舩名及船長名一覧表富島水産株式會社」が添付されているものを第7表としてまとめた。舩體臺帳には、船名・船監察写・船監察番号・呼称馬力・シリンダ径・クランク径・機関種類・岩屋警察署船体検査番号・回転数・ストロック径・プロペラー径・気筒数・船籍港・長・幅・深・総トン数・純トン数・進水年月日・備考について詳細が記録されている。
第7表 富島水産株式会社船体台帳昭和13年(1938年) ※●は不明文字
船籍港は富島町31隻、明石市31隻、慶尚南道釜山府2隻であり、富島基地と共に明石に船籍港が置かれていた。総トン数は19トン級22隻、18トン級10隻、17トン級7隻、16トン級7隻、15トン級4隻、14トン級7隻、14トン以下7隻で、19トン級の船が多数占めているように読み取れるが、実は20トン以上の船を所有するには、免許や検査の関係から手続きが複雑になるので20トン以上の船でも19トンとして届けていたため、トン数による偏りがある。19トン級で60馬力以上のエンジンを搭載している船などは20トン以上の大型船の可能性がある。進水年月日では大正11年(1922年)7隻と昭和4年(1929年)10隻に建造のピークがある。備考にはエンジン供給メーカーが記載されている。
今回、最も注目される事として、第7号共和丸(徴用船)、第65共和丸(徴用)、第57号共和丸(徴用船)と記載があることである。昭和12年(1937年)の日中戦争開始後から陸軍は揚子江遡上作戦などに民間の木造船を徴用し軍事用輸送に使っていた。以前から活魚船が徴用されたことが言われてきたが実際に記録が確認された。昭和13年に記録があることから、日中戦争でも比較的に早い時期の徴用であったと考えられる。堀川惠子『暁の宇品』2021年には、「昭和13年4月には兵庫県の漁協に第二次徴傭が行われ、底引き網漁船110隻が徴傭されている。」と書かれており、この中に富島の生船が含まれていたと考えられる。徴用には、船体検査を受けた後に船は軍に買取られ、乗組員は志願するという形がとられるパターンと、船の船主に傭船料が支払われるチャーター方式で乗組員に給料が支払われるパターンがあったが、富島での徴用は前者であった。続く昭和16年12月(1941年)から昭和20年8月(1945年)の太平洋戦争では戦争の拡大に伴い、更に多数の活魚船が南方の島々相互間、南方と日本本土の補給作戦に徴用され、乗組員とともにそのほとんどが失われた。地域に残されている戦没者名簿を詳細に調べることによって、徴用された活魚船の活動がもう少し明らかになるかもしれない。終戦時に奇跡的に残った船は、第1号共和丸(浜口実右衛門)、第3号共和丸(日野顕徳)、第7号共和丸、第8号共和丸、第13号共和丸、第71号共和丸の老朽船ばかり6隻が残った。実に93%の船が失われ壊滅的な状態であった。その他、室津の金宝丸(浜田三郎)が残った。木造船の徴用については、和歌山県の徴用された木造船を記録した中村隆一郎『常民の戦争と海【聞書】徴用された小型木造船』1993年、瀬田勝哉『戦争が巨木を伐った太平洋戦争と供木運動・木造船』2021年が参考になる。
戦後の活魚運搬船の復興期は、戦後間もなくの昭和21年10月の第十三金宝丸を始めに、昭和22年春の漁期が終了すると、戦前から複数の船を所有していたいわゆる大手筋と言われる経営者が次々に新造船の建造をはじめた。戦後復興期における活魚船による活動については「本報告書活魚船史―淡路富島における活魚運搬業の展開(未完)―」に詳しく報告されている。
淡路・富島における戦後の活魚運搬船(1945~1981)建造は、昭和21年1隻、昭和22年4隻、昭和23年5隻、昭和24年7隻、昭和26年1隻、昭和28年3隻、昭和29年1隻が次々に建造されている。この造船ラッシュのきっかけになったのが、昭和23年4月の高級魚の鯛とすずきの統制解除、昭和25年4月1日の水産物の配給及び価格統制の撤廃である。造船所は当時の活魚運搬船の二大メーカーの大崎造船所(淡路富島)、東根造船所(淡路岩屋)の他、引田造船所(香川県大川郡引田町)、宗田造船所(明石)、大谷造船所(岩屋)であった。
写真15は高知県漁連が大日水産富島造船所に建造発注した土佐丸の進水式当日の写真である。写真には土佐丸は写っていないが連続写真であることから当日の様子が分かる。実は土佐丸は昭和40年(1965年)、昭和41年(1966年)、昭和45年(1970年)に同形の生船が発注されており、写真からはどの土佐丸は分からないが昭和40年代の景観であることは間違いない。関係者及び地元小学校の生徒が並んで盛大な進水式が行われていた。ここでこの写真を取り上げたのは、造船に使われた弁甲材が撮影されているからである。細長い建物は防潮堤に並行して建てられた製材所(幅9.5m、長さ44.3m)で東側9.3mは目立場になっていた。製材所の左端には弁甲材独特のハツリ加工された原木が製材所に引き込まれている。中には大型のバンドソーが備え付けてあり原木から厚さ2寸の長大な板材を製材していた。製材所の傍には白太部分などの端材が山積みにされている。その横には、大量の製材された弁甲材の板材が天日干しされていた。写真に写る人物の大きさからもそれが長尺の弁甲材であることが分かる。弁甲材の規格には四尋(長六~七m、中央周辺3尺~3.4尺)、五尋(8m、3.5尺から4尺)、六尋(9~10m、4.1尺~4.4尺)、七尋(11m、4.5尺~4.9尺)、八尋(12~13m、5尺~5.4尺)があった。さらに長大な材料として八尋弁甲以上の十尋弁甲も取引されていた。大日水産株式会社の昭和54年(1979年)2月在庫表(造船所の材料棚卸し表)によると、弁甲材4尋×尺2寸×1寸8分が35,300円、5尋×尺3寸5分×1寸5分が37,500円、6尋×尺5寸×2寸2分が40,000円、7尋×尺6寸5分×2寸3分が48,500円、8尋×尺8寸×2寸2分が60,000円、9尋×尺9寸×2寸が71,000円であった。時代は新しいがおそらく当時も大型生船の建造に向けて大量の弁甲材が備蓄されていたものと思われる。当時、弁甲材は丸太をトラックで輸送され、富島造船所や福良の土井木材で製材して使用していた。なおこの在庫表(昭和45年~昭和50年・昭和52年・昭和54年)には木材、鋼材、副資材、機械及び部品、仕掛品在庫の区分で在庫量と単価が記録されており、木造船を造船するための材料原価を知る上で貴重な資料である。
写真15 土佐丸の進水式
搭載機関は焼玉エンジンで、戦前からのメーカーであった木下鉄工所(明石)、きしろ鉄工所(明石)、日本発動機株式会社(神戸市林田区金平町2丁目35番地)、明石内燃機工作所(明石)、株式会社阪神鉄工所(神戸市林田区一番町3丁目1番地)、マキタ鉄工所(高松)で、当時から焼玉エンジンメーカーが多数あった明石からの供給が多数をしめている。
今回報告された「株式会社木下鐵工所の『焼玉機関出荷台帳』を読みとく」と照合すると下記の船が記録されていた。
278頁16行目の第十五金宝丸、昭和22年7月30日契約、昭和22年5月31日納期、製作番号第20045号、型式2GB-135、80馬力、氏名:浜田仙次郎、住所:兵庫県津名郡室津村、造船所:兵庫県津名郡岩屋町淡路造船(株)岩屋工場
281頁11行目の金宝丸(第六金宝丸)、昭和23年3月16日契約、昭和23年6月末納期、製作番号第23027号、型式2GB-138、100馬力、氏名:浜田三郎、住所:兵庫県津名郡室津村、造船所:兵庫県津名郡岩屋町東根造船所
282頁5行目の住吉丸(第十六住吉丸)、昭和23年1月6日契約、昭和23年5月30日納期、製作番号第23001号、型式2GB-138、100馬力、氏名:日野嘉右衛門、住所:兵庫県津名郡富島町富島造船所
282頁25行目の住吉丸(第三住吉丸)、昭和24年1月13日契約、昭和24年3月31日納期、製作番号24002、型式2GB-135、130馬力、氏名:日野春義、住所:淡路津名郡富島町大崎造船所
以上、4隻の明石型生船と呼ばれる活魚運搬船に焼玉エンジンが納品されていることがわかり、『焼玉機関出荷台帳』記載情報の正確さが確認された。このことから地域に残されている造船所情報や船名をもとに詳細に調査する事によって、失われた船舶や忘れられた地方造船所を明らかにする重要な資料とすることができる。
第8表は、昭和32年度(1957年)兵庫県運搬船組合員名簿でB4用紙に、船名、氏名、住所が記載された名簿を整理したもので114隻の生船及び鮮魚運搬船が登録されている。組合は昭和15年(1940年)に設立され、瀬戸内海や朝鮮半島から鮮魚運搬を行ってきた組合員が登録され戦後250人にも達したが、任意団体だったので鮮魚運搬業の衰退伴い業者がいなくなり自然消滅した。昭和32年当時、父である日野顕徳が組合長をしていたので、この名簿が残された。
船名 | 氏名 | 住所 | 船名 | 氏名 | 住所 | 船名 | 氏名 | 住所 | |||
1 | 第二大栄 | 大道保二 | 神戸市東灘區魚崎 | 39 | 勝 | 新川良輔 | 洲本市由良町 | 77 | ・住吉 | 日野春義 | 兵庫縣津名郡北淡町富島 |
2 | 大石 | 飯田安太郎 | 神戸市御影町本明 | 40 | 金毘羅 | 小松佐兵● | 兵庫縣津名郡津名町塩田 | 78 | ・住吉 | 日野嘉右エ門 | 兵庫縣津名郡北淡町富島 |
3 | 島一 | 島田竹次郎 | 神戸市浜田町 | 41 | 宮福 | 宮本福松 | 兵庫縣津名郡津名町生穂 | 79 | 幸 | 日野嘉三右門 | 兵庫縣津名郡北淡町富島 |
4 | 慶昌 | 清水亀蔵 | 神戸市弓木町二 | 42 | 共勢 | 小田桐徳太郎 | 兵庫縣津名郡津名町生穂 | 80 | 富栄 | 宗和春太郎 | 兵庫縣津名郡北淡町富島 |
5 | 一 | 神野勝美 | 神戸市兵庫區荒田町三 | 43 | 金幸 | 平田春一 | 兵庫縣津名郡津名町佐野 | 81 | 住吉 | 宗和計次 | 兵庫縣津名郡北淡町富島 |
6 | 第一一 | 眞内照久 | 神戸市兵庫区西柳原町 | 44 | 共勢 | 増田恒一 | 兵庫縣津名郡津名町佐野 | 82 | ・蛭子 | 田中春吉 | 兵庫縣津名郡北淡町富島 |
7 | 米 | 吉良義雄 | 神戸市兵庫区新在家町 | 45 | 新盛 | 髙田伊蔵 | 兵庫縣津名郡津名町佐野 | 83 | ・住吉 | 浜口実右エ門 | 兵庫縣津名郡北淡町富島 |
8 | 吉徳 | 川口澤一 | 神戸市兵庫区北逆瀬川町 | 46 | 住吉 | 沖●太郎 | 兵庫縣津名郡淡路町釜口村 | 84 | ・住吉 | 田中常次 | 兵庫縣津名郡北淡町富島 |
9 | 第二富久 | 貝塚甚七 | 神戸市長田区野田九 | 47 | 宝出 | 阪東悦一 | 兵庫縣津名郡仮屋町 | 85 | 住栄 | 柿本太郎 | 兵庫縣津名郡北淡町育波 |
10 | 一 | 室田一男 | 神戸市長田区駒ケ林 | 48 | 第三戎 | 松井秋夫 | 兵庫縣津名郡仮屋町 | 86 | 住吉 | 藤本傳市 | 兵庫縣津名郡北淡町育波 |
11 | 仁之 | 信川秀二 | 神戸市垂水区垂水 | 49 | 第二芳 | 松下種吉 | 兵庫縣津名郡仮屋町 | 87 | 金宝 | 浜田三郎 | 兵庫縣津名郡北淡町室津 |
12 | 進栄 | 浦部進三郎 | 神戸市垂水区東垂水 | 50 | 第一松栄 | 松下常吉 | 兵庫縣津名郡仮屋町 | 88 | 貫栄 | 岡野包義 | 兵庫縣津名郡北淡町室津 |
13 | 平 | 王子平一 | 神戸市垂水区東垂水 | 51 | 第一戎 | 松村豊 | 兵庫縣津名郡仮屋町 | 89 | 三栄 | 山際作一 | 兵庫縣津名郡北淡町室津 |
14 | 浜 | 浜崎義雄 | 神戸市垂水区舞子町 | 52 | 住吉 | 國本新次 | 兵庫縣津名郡仮屋町 | 90 | 幸福 | ● 定吉 | 兵庫縣津名郡北淡町室津 |
15 | 進栄 | 松坂水産株式会社 | 神戸市垂水区舞子町 | 53 | 住吉 | 木戸賢一 | 兵庫縣津名郡仮屋町 | 91 | 幸宝 | 浜田幸助 | 兵庫縣津名郡北淡町室津 |
16 | 力 | 北川薫一 | 神戸市垂水区舞子町 | 54 | 住吉 | 来田平井 | 兵庫縣津名郡仮屋町 | 92 | 吉徳 | 吉田一郎 | 兵庫縣津名郡都志町 |
17 | 富士 | 富士達夫 | 神戸市垂水区舞子町 | 55 | 戎 | 戸田広次 | 兵庫縣津名郡仮屋町 | 93 | 海出 | 浜田一男 | 兵庫縣津名郡都志町 |
18 | 三浦 | 三浦一男 | 神戸市垂水区舞子町 | 56 | 阪栄 | 南勝次郎 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 94 | 喜代 | 浜田和三 | 兵庫縣津名郡都志町 |
19 | 清福 | 藤本商店 | 神戸市垂水区舞子町 | 57 | 住吉 | 桑名末吉 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 95 | 和歌 | 岡本和歌吉 | 兵庫縣津名郡鳥飼村 |
20 | 繁 | 山口繁一 | 神戸市垂水区舞子町 | 58 | 長出 | 島本由太郎 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 96 | 和歌 | 富田稔 | 兵庫縣津名郡鳥飼村 |
21 | 松栄 | 塩崎栄蔵 | 神戸市垂水区舞子町 | 59 | 幸 | 大野源太郎 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 97 | 藤 | 藤井千出 | 兵庫縣津名郡鳥飼村 |
22 | 林久 | 林田正一 | 明石市東魚町 | 60 | 繁 | 長野繁松 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 98 | 中福 | 中浜栄一 | 兵庫縣津名郡鳥飼村 |
23 | 昭栄 | 酒井満 | 明石市西魚町 | 61 | 岩栄 | 長井義雄 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 99 | 福丸 | 福島又一 | 兵庫縣津名郡鳥飼村 |
24 | 幸勇 | 茨木徳太郎 | 明石市船町 | 62 | 長栄 | 長野秀夫 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 100 | 一 | 杉谷新七 | 三原郡湊町 |
25 | 明栄 | 眞木保雄 | 明石市船町 | 63 | 吉栄 | 長野三郎 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 101 | 國雄 | 品川國雄 | 三原郡湊町 |
26 | 富久 | 藤井純一 | 明石市東本町 | 64 | 菊 | 石部平吉 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 102 | 共進 | 山崎八十一 | 三原郡阿那賀村 |
27 | 新出 | 中村定次 | 明石市大蔵町五 | 65 | 吉 | 山本勇吉 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 103 | 共栄 | 浜田武市 | 三原郡阿那賀村 |
28 | 第十一林久 | 亀山亀太郎 | 姫路市飾磨区妻鹿 | 66 | 住吉 | ●谷●男 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 104 | 若 | 三宅定一 | 三原郡阿那賀村 |
29 | 吉野 | 吉野豊次 | 姫路市飾磨区妻鹿 | 67 | 住吉 | 中野賢次郎 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 105 | 六甲 | 菅弘 | 三原郡阿那賀村 |
30 | 恵比酒 | 上西市蔵 | 兵庫縣飾磨郡家島町坊勢 | 68 | 第三出宝 | 長野亀吉 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 106 | 秀 | 久留米正雄 | 三原郡南淡町福良 |
31 | 大福 | 村井清髙 | 洲本市外通七 | 69 | 住吉 | 松尾種蔵 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 107 | 喜志 | 岸喜志郎 | 三原郡南淡町福良 |
32 | 住吉 | 山口直一 | 洲本市由良町 | 70 | 仲吉 | 山本勝一 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 108 | 生長 | 丸●水産KK | 三原郡南淡町福良 |
33 | 住吉 | 浜岡藤吉 | 洲本市由良町 | 71 | 住吉 | 拝原実 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 109 | 一 | 南長 | 三原郡南淡町福良 |
34 | 福光 | 藤堂三郎 | 洲本市由良町 | 72 | 昭和 | 松下菊松 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 110 | 朝日 | 古池新一 | 三原郡南淡町福良 |
35 | 海幸 | 橋本鷹春 | 洲本市由良町 | 73 | 第五住吉 | 中島儀一 | 兵庫縣津名郡岩屋町 | 111 | 三 | 井津尾由之 | 三原郡沼嶋村 |
36 | 第六●獄 | 伊奈春吉 | 洲本市由良町 | 74 | 幸男 | 浜田勇松 | 兵庫縣津名郡北淡町野島江崎 | 112 | 芳 | 和田秀二 | 三原郡沼嶋村 |
37 | 朝日 | 花野富士松 | 洲本市由良町 | 75 | ・住吉 | 日野顕徳 | 兵庫縣津名郡北淡町富島 | 113 | 嶋 | 嶋津宇三一 | 三原郡沼嶋村 |
38 | 利 | 丸山利次 | 洲本市由良町 | 76 | ・住吉 | 大日水産株式會社 | 神戸市兵庫区匠町二八 | 114 | 浜 | 浜隆夫 | 三原郡沼嶋村 |
地域的には神戸および明石の周辺地域では、神戸市兵庫区中之島にある神戸市中央卸売市場本場に近い兵庫区・長田区・垂水区に多くあった。垂水区舞子には大阪湾のイワシを加工工場まで運んだ小型イワシ専門の鮮魚運搬船が多かったと思われる。
「昭和30年~昭和35年頃、舞子の浜には、舞子六神社から西の山田川付近までに5,6本の石垣積みの突堤が設置され砂浜を守る役目をしていました。富士本家の南側に浜があり、15mほどの突堤が突き出ており、富士徳水産の小型生船「徳丸」が停泊していました。富士達夫氏は泉佐野方面からイワシを購入していた。山陽電鉄西舞子駅の北60~70m北にはイワシ加工をしていた山口水産の工場があり、夜間にも作業する事がありました。ゆでたイワシは1m四方の平たい竹製の台に積んで大八車で広場に運んで干していました。干したイワシは、いりじゃこ、いりこと呼んでいた。小型生船「繁丸」を所有していました。」(富士健二氏からの聞取り)
明石海峡に面した明石は、以前から生船が建造されていた所で明石港周辺の船町や魚町に生船業者があった。少し東にあたる大蔵町の中村水産(中村定次)は遠く五島列島までイワシを出買いを行っていた。その頃、明石港先端にあった製氷工場前の岸壁ではイワシを積んだ生船に破氷をガラガラと音をさせながら氷を注いでいた。イワシは姫路、林崎、駒ケ林、西宮、大阪泉州方面に買いに行っていたと茨木水産(東戎町)に聞いた。姫路沖にある家島諸島防勢島の奈座港には、阪神の大消費地を控えて多くの生船が活動していた。姫路市飾磨区妻鹿港からは家島諸島を望むことができ、坊勢から消費地姫路に向けた拠点となっていた。現在でも家島町水産物荷捌所、坊勢漁業協同組合姫路まえどれ市場や大手スーパーの水産物流センターがある。
播磨灘側には淡路島西岸の北から野島、富島、育波、室津、都志、鳥飼、湊、阿那賀、福良の各漁港(第2図)に生船業者が活動していた。特に富島は戦前・戦後の活魚運搬業の最大拠点があったところで、富島港周辺には生船を建造していた阿部造船所、大崎造船所、富島造船所があった。昭和30年代には大型の明石型生船10隻が活発に活動していた。明石海峡に面する岩屋港中央には、生簀が設置されており瀬戸内海西から生船で運ばれてきた活魚が集められていた。また岸壁にはイワシ専門の小型鮮魚運搬船が接岸していた。「本報告書淡路岩屋港における生船―鰯鮮魚運搬船として活躍した小型生船―」で報告されている。
第2図 淡路島 関係漁港
大阪湾に面する淡路島東岸には北から仮屋、釜口、佐野、生穂、塩田、由良の各漁港に生船業者が活動していた。『東浦町史』には大正元年に仮屋浦から韓海出漁した船から漁獲物(鰈)を買入れ、大阪雑喉市場まで運んだことが、また『津名町史本編』には佐野浦の魚出買商が北淡西岸の富島・室津とともに明治初期には全盛期を迎えたことが記録されている。しかし昭和30年代の鮮魚運搬については情報が不足していて良くわからないのが現状である。
由良港にも多くの鮮魚運搬船の船籍があるが、知ることが出来たのは「利丸」の後続船「第六利丸」についてである。愛媛県宇和島市米本造船所で造られたFRP製の生船で外観は明石型生船をモデルとしているものである『明石型生船調査資料集・生船写真帖190頁』。第六利丸はたつの市御津町室津の津田宇水産のイワシ巾着網専属の生船で、魚市場には出荷しないで富島のタ丸田水産冷蔵庫までイワシを積んできていた。タ丸田水産は瀬戸内海のハマチ、ブリ、タイの養殖用の餌としてこのイワシを出荷していた。一代前の利丸も津田宇水産専属の木造の明石型生船(20トン)であった。(丸山治夫氏からの聞取り)また洲本市役所由良支所の南側には昔、漁獲物の共同販売所があり小型の明石型生船が艫付けされている『ふるさとの想いで写真集明治大正昭和洲本』。
沼島は淡路島の南4,6kmの紀伊水道北西部にある島で、現在では対岸の土生港から約10分で渡ることができる。沼島の山野音吉が創設した山神組という水産会社が、明治40年頃(1907年頃)から大正7年(1918年)にかけて南朝鮮で活躍した。山神組は後の日本水産株式会社を設立し、明石出身の林兼商店(大洋漁業)とともに当時の二大水産会社であった。昭和32年度の運搬船組合員名簿には4隻の鮮魚運搬船が登録されているが、このうち「濱丸」と芳丸の後続船「第三芳丸」が2017年12月放送の新日本風土記「淡路島」で紹介されていた。