4.まとめ

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 私が活魚運搬船に乗船したのは、大学卒業後、大日水産株式会社に入社した昭和40年(1965年)からである。当時は高度経済成長期の真っただ中で、淡路島でも交通網が整備され神戸や大阪の大都市に人口が流れていく事により、乗組員が不足するようになってきた。昭和40年代に入ると瀬戸内海沿岸部の埋立と企業進出が過度に進み、工場排水、都市排水、生活排水により豊かであった海が急激に汚染され公害が増加した。特に昭和47年(1972年)には臨海工業地帯の形成による海水汚染と生活廃棄物の不始末による河川や海水汚染に、その年の長期多雨が加わって赤潮が異常発生し漁獲高に影響した。
 こうしたことから大日水産株式会社は、瀬戸内海から西海地域に拠点を移し、対馬・壱岐・五島・天草・鹿児島・宮崎に駐在事務所を整備するとともに、当該地域の各漁協と活魚取引を行うようになった。さらに、「とる漁業からつくる漁業」への転換期に資源確保の一環として行ってきた養殖業も、瀬戸内海東部より比較的水温が高く安定した九州地域に養殖場を開設するようになった。今回報告した生船の運用、航路は、こうした地域との活魚運搬船に乗組員として乗船して来た私の体験が元になっている。昭和46年(1971年)までに富島の主要な活魚船は廃業し、大日水産株式会社の所有船のみになった。昭和45年(1970年)頃には垂水港の整備が進み、港内に生簀を設置するようになり垂水港が市場への窓口となった。西海地域から遥々運ばれてきた活魚は全て垂水基地を経て市場に出されるようになった。
 私の手元には大日水産株式会社の資料が大量にある。これは産業遺産としての活魚船運搬業(生船)の貴重な資料であり、是非ともこれを整理して公開する必要があると考えている。今後、あかし市民図書館や明石市立文化博物館と連携し「活魚船運搬業(生船)目録」として公開したいと考えている。