持株数 | 人数 |
600台 | 2 |
500~600 | 1 |
400~500 | 4 |
300~400 | 2 |
200~300 | 6 |
100~200 | 28 |
50~100 | 18 |
10~50 | 30 |
10未満 | 6 |
合計 97 | |
<借方> | 第2期 昭和12年12月31日 | 第3期 昭和13年12月31日 |
勘定科目 | 金額 | 金額 |
営業権利金 | 115,860円00銭 | 97,650円00銭 |
営業土地建物什器 | 7,009円80銭 | 8,107円80銭 |
船舶勘定 | 398,465円00銭 | 243,345円00銭 |
船舶用器具勘定 | 11,580円25銭 | 1,780円00銭 |
預ヶ金勘定 | 2,771円77銭 | 27,927円99銭 |
船長勘定 | 7,980円84銭 | 2,759円54銭 |
支部勘定 | 19,332円08銭 | 20,457円38銭 |
貸付金勘定 | 60,242円77銭 | 64,422円15銭 |
仮払金勘定 | 5,025円00銭 | 20,902円14銭 |
現金勘定 | 1,384円22銭 | 1,960円06銭 |
商品勘定 | 26,222円55銭 | 10,394円25銭 |
未収入奨励金 | 5,000円00銭 | |
漁撈部立替金勘定 | 24,595円77銭 | |
有価証券 | 13,360円00銭 | |
鰛網部立替金 | 27,670円22銭 | |
当期損失金 | 17,871円70銭 | |
合計 | 685,470円04銭 | 558,508円48銭 |
<貸方> | ||
勘定科目 | 金額 | 金額 |
資本金勘定 | 557,000円00銭 | 450,000円00銭 |
借入金勘定 | 42,432円03銭 | 61,580円52銭 |
買掛金勘定 | 25,734円85銭 | 10,231円57銭 |
仮受金勘定 | 43,019円06銭 | 36,405円37銭 |
船舶修繕未払金 | 6,775円25銭 | 291円02銭 |
当期利益金 | 10,508円85銭 | |
合計 | 685,470円04銭 | 558,508円48銭 |
1940年10月現在の役職報酬(月俸)は以下のとおりである。濱口好社長が115円、濱口実右衛門取締役総務部長110円、河合寅一取締役90円、川西忠太郎取締役営業部長110円、宗和春太郎買場主任70円、野口濱蔵取締役90円、倉本武太郎用度部長85円、坂西竹松取締役船舶部長90円、三木角一取締役会計部長95円、三木久太郎取締役売場主任90円、三木助一買場主任80円、日野顕徳取締役買場主任90円、日野吉藏取締役買場主任85円、日野徳太郎監査役50円で、合計1,450円であった(「会議録昭和拾壱年拾月」)。
「国内資金調査」の1938年「資金計画参考書」には、公称資本金557千円、払込557千円、地域別内地朝鮮・事業別生魚運搬では事業設備の内訳が1、営業用土地建物什器7千円、2、船舶勘定398千円、3、船舶用器具11千円、4、その他設備269千円で合計685千円であった。主要設備の概要では発動機付帆船64隻・452.66トン、1隻平均7.07トンであった。生魚予想取扱高2,380千円で販売先は神戸、大阪、京都、堺とある。1938年の実績は生魚仲買運搬937航海、全売上高2,323千円で、1航海当たり2.5千円となる。なお、前年第2期末損益計算書(巻末掲載)には売上金2,381千円とあり、会社設立当初は約240万円の売上実績であった。
利益ノ部 | ||
勘定科目 | 金額 | 割合 |
売上金 | 2,380,712円64銭 | 98.5% |
雑収入 | 35,212円49銭 | 1.5% |
内訳 | ||
各市場奨励金 | 25,312円55銭 | |
チャーター料 | 940円02銭 | |
家賃 | 100円00銭 | |
其他 | 8,859円92銭 | |
合計 | 2,415,925円13銭 | |
損失の部 | ||
勘定科目 | 金額 | |
魚買入支払金 | 1,836,617円36銭 | 76.0% |
営業費 | 345,901円94銭 | 14.3% |
給料 | 146,419円91銭 | 6.1% |
船舶修繕費 | 53,556円34銭 | 2.2% |
創立費 | 2,390円50銭 | 0.1% |
各網損失金 | 20,530円23銭 | 0.8% |
内訳 | ||
八ッ張網 | 6,691円40銭 | |
住吉丸 | 5,682円45銭 | |
大成丸 | 5,954円20銭 | |
鰤飼付費 | 2,202円18銭 | |
計 | 2,405,416円28銭 | |
当期利益金 | 10,508円85銭 | 0.4% |
合計 | 2,415,925円13銭 | |
重要設備である生魚運搬船は、1937年64隻、1938年12月31日(現在)45隻で、設立2年目に19隻減船している。この理由の詳細は不明であるが、引き継いだ老朽運搬船の処分を行ったものと思われる。この点について賃借対照表の第2期と第3期を比較すると、船舶勘定、船舶用具勘定合わせて165千円の資産減少として処理していた。
1938年度の富島水産株式会社の漁獲物運搬船の石油の購入先・量は地元富島2件51,399缶38.6%、大阪58,309缶43.8%、朝鮮15,250缶11.4%、下関9,281缶6.2%、合計133,239缶となっていた。
以上、富島発動機船産業組合、トシハツ組、富島水産株式会社の3つの会社団体の変遷を見てきた。最後に本稿のまとめとして、組織化と各業者の関係、それと外的な経済社会事情と合わせて見ておこう。
1928年に設立した富島発動機船産業組合は「大阪市場での取扱高の歩戻率」の点から取扱業者が組織化されたが、業者の漁獲物の販売窓口の一元化にとどまった。この組合は水産物の流通業者の同業組合的性格を持っていたが、任意組合であったと見られる。その後、1930年に鮮魚運搬、製氷、鉄鋼の3部門を行うために組合を改組した。しかし、この段階でも組合は各業者を統合せず、買付業務は各業者の自由な判断で行われていた。さらに1931年にトシハツ組が設立されるが、富島発動機船産業組合加入の業者のうち朝鮮でのヒラメの買付業者を統合した組合であった。これは植民地朝鮮漁場での漁獲物の買付がスムーズにいくように組織化されたものである。経営権はトシハツ組が有し、業者は組合との間で傭船契約を結び、運搬業務を担当していた。
1935年に五島沿岸において富島の業者の間で買付け競争が激化した。このことは富島発動機船産業組合の利害調整能力の限界、すなわち、組合が各業者の利害調整機能を充分果してえなかったことを示していた。これを契機に翌年に企業合同が行われ、誕生したのが富島水産株式会社である。このような動きは遅かれ早かれ当時の内外の社会経済情勢のなかで見られたといえる。すなわち1931年の重要産業統制法の制定以降、経済統制が進むなかで水産業界は言うに及ばず他の産業界も企業合同が強制的に進められた。富島水産株式会社の場合、内部の事情で一足先に自主的に統合した点が特徴であった。
最後に、富島の業者の特徴を見ておこう。富島の業者は、単独での買付、組合傘下での買付、株式会社での「買付担当」を通して他の業者(とくに大手水産会社)との競争や金融・昭和恐慌を乗り越えて存続してきた。この理由として1)高価格魚を対象とした活魚運搬の特殊性、2)業者の組織化・統合化12の2点があげられる。1)でいう特殊性とは、タイ、タコ、ハモ、ヒラメの活魚運搬の技術的特殊性である。詳細は「付論日野逸夫氏が残した「活魚船史」」に譲るが、富島の業者が瀬戸内海を中心に九州、朝鮮での活魚運搬に特化していた点である13。2)は最終的には富島水産株式会社を設立して業者を統合した点である14。
1『生船史』は、序章―生船史研究の意義―、第1章「生船」前史―明治、大正期の富島生船業者の活動―、第2章「生船」の発展期―富島業者の組織化と経営的特徴―、第3章仕込契約の実態―富島水産会社の買付けパターン―、第4章生船の技術―運搬方法、船の構造、生簀の構造―、第5章生船の転換期―生船からハマチ養殖へ―、終章生船の歴史的役割―最近の活魚ブームのなかでー、『生船』座談会(1986年2月6日、神戸市、大日水産株式会社2階会議室)、史料編:旧富島水産会社所蔵史料の目次構成で、出版が計画された。
2河野1954では「その運搬船(活魚運搬船-伊藤)を明治初年にはイケフネと称し、単なる鮮魚運搬船たるナマセンとはっきり区別して呼んでいた」(p.388)とし、河野1991では魚の運搬業をイケフネは活魚輸送、ナマセンは氷詰めの鮮魚輸送、ブガイは小回りの活魚集荷の3タイプとしているが、前2つの用語の混用が見られる。酒井2008は活魚運搬船を「イケフネ」と「ナマセン」の両方に使用している。なお、同著「第11章大正期の雑喉場」(p.281)には日野逸夫氏提供の「昭和期最後の活魚運搬船」と「活魚運搬船構造図」が掲載されている。また宮本常一『農漁村採訪録Ⅲ兵庫県淡路島漁村・漁業調査ノート』(周防大島文化交流センター、2006年)には宮本が1950年10月6日、7日に実施した富島町での「生魚運搬」他の聞き取りを収録している。
3明石市教育会編『中部翁略伝』1941年
4「富島発動機船三業組合」名の書類も見られるが、改称の時期は不明。
5河野1991では「この統合(富島水産株式会社設立-伊藤)は国家総動員法に基づくものであり」(p.192)とあるが、正しくは同法公布前に行われた段階的かつ自主的な経営統合であった。
6日野顕徳氏からの聞き取り、3人不明。
7史料の翻刻に当たって旧字を新字に直し、読み易くするために句読点を適宜、施した。判読不能な字は□、[ ]で表した。
8富島の業者は夏期に生簀船として生魚運搬を行い、冬期には生け簀を改修して氷蔵での鮮魚運搬を主に行っていた。前者は質の面、今で言う「高付加価値型」で、後者は「量的追究型」で合理的に対応していたと言える。氷は鮮魚輸送上鮮度保持のために必需品で、製氷業務開始の頃は組合が代表となり、製氷会社と契約を結び各業者のために氷を安定的に確保していた。たとえば、1930年3月に組合が代表となって岡山県下津井町の製氷営業所との間で、組合員(業者)が卸値で製氷を購入できるよう契約を結んでいる。氷の売買には現金で組合員が購入することになっている(製氷に関する「契約書」)。また、1933年8月に富島町漁業組合と共同で製氷工場の設立資金誓約書を交わしている。
製氷工場設立資金誓約書
製氷工場設立ニ際シテ今般設立セントスル本組合製氷工場ハ本町ヲ中心ニ室津育波ヲ合シ漁船数四百有余隻ヲ擁シ・・・本町ヲ根拠地トシテ漁撈運搬用ノ発動機船百余隻アリテ・・・阪神市場ヘ運搬ヲ専業トスル魚類ニ対シ其ノ鮮度保持用トシテ貯蔵輸送ニ四季ヲ通シテ凍氷頗多キモ之ガ供給ハ主トシテ阪神明石其ノ他ノ地ニ受クルノ状態ニシテ氷価ノ高値ナルノミナラズ時々品不足ヲ来シ・・・今回当局ニ於カセラレ漁村経済厚生ノ趣旨ヨリ漁村共同設備助成相成ルコトトナリタルヲ幸ヒ本年一月有志諸賢ノ賛同ヲ得マシテ大阪山陽鉄工所ノ設計ニヨリ・・・
昭和八年八月弐拾壱日
富島町漁業組合
富島発動機船産業組合
そして、大阪の山陽鉄工所との間で5トン製氷機(16,970円)購入契約を1933年2月23日に交わし、自前で氷を供給する体制を整えた。
9卸売市場制度五十年史編さん委員会編『卸売市場制度五十年史第二巻本編Ⅱ』(食品需給研究センター、1979年)pp.380-385。
101937年の買付契約は、契約件数179件、契約金額92,318円36銭、1件当たり約516円であった(表6参照)。
区別 | 件数 | 金額合計 | 1件当り |
第1区 | 11件 | 28,233円94銭 | 2,567円 |
第2区 | 8件 | 7,975円 | 997円 |
第3区 | 11件 | 11,000円 | 1,000円 |
第5区 | 27件 | 11,100円 | 411円 |
第6区 | 10件 | 8,504円26銭 | 850円 |
第7区 | 8件 | 3,506円62銭 | 438円 |
第8区 | 16件 | 11,458円49銭 | 716円 |
第10区 | 2件 | 300円 | 150円 |
朝1区 | 73件 | 7,406円62銭 | 102円 |
朝2区 | 13件 | 2,833円43銭 | 218円 |
合計 | 179件 | 92,318円36銭 | 516円 |
11片岡千賀之『イワシと愛知県の水産史』(北斗書房、2019年)「第1章 近代におけるイワシ漁業と油肥製造業の発達」参照。
12最後に問題が残る点は富島水産株式会社が、戦後の統制経済解除以後、解散し各業者が独立したことと中小企業のレベルにとどまったことである。河野1954は、富島水産株式会社の企業の性格として「未統一、表面的な組織化と前近代的漁業への資金運用」の特徴を有するとし、大手水産会社との差、その限界を指摘しているが、史料的に裏付けられていない。
13明石市立図書館編集・発行『明石型生船 調査資料集・生船写真帖』(2019年)
14この時期、「水産経営を多角化し同時に原料より製品までの相関係する一系列の企業を系統化することによって経営の強化を目ざすと共に競争の立場にある同種事業を漸次買収、合併し、やがては大なり小なりトラストかするに至るのであるが、近未来水産に於ける企業の集中は益々顕著となりつつあり」(水産社編『日本水産年報 第1輯』水産社、1937年、p.273)とあるように水産企業の統合化の進展を取り上げている。