第二章 ボート漕ぎ時代

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 小出買船業も順調に進展していったのであるが、徐々に産地及び消費地の情報が入手できる様になり、産地としては岡山県下津井港周辺から備讃瀬戸西部(塩飽諸島)が漁獲量が多く仕入れが容易である。又、消費地販売先としては大阪市の雑喉場の方が卸問屋も数多く商圏も神戸の数倍も広いので販売にも有利である。以上のことから船体を大型化(船体長約15m)帆柱も二本となり、帆装は主帆(短冊形帆)二枚、三切帆(船首三角帆)一枚となった。乗組員も四名乃至五名となった。建造は主として、北淡町富島の大崎造船所、阿部造船所で行われた。これら大出買船が順次建造され隻数も多くなっていったが
 ①小出買船と比較すると航海距離が約二倍となった。
 ②備讃瀬戸の潮流の速さに難渋した。
 ③真夏のベタ凪となると播磨灘、大阪湾では航行不能であった。
 ④一航海の航海日数が長くなり、活魚の上着率が悪く、従って目切率も悪くなった。
以上列記の悪条件を克服する為、各船主達が種々知恵を出し合った結果、大出買船三隻~五隻で一船団を組み、各船独航で富島港を同時に出港し買付漁場に向い買付けを始める。代表船は各船の買付け状況を把握して、最寄港から神戸のタグボート会社に日時と場所を指定してタグボート(スチームエンジン付)の派遣要請を打電する。各船は指定された日時に集結地点に集合し、縦列船団としてタグボートに曳航され東上、大阪港外で停船、魚を全部〆て後、大阪港に入り安治川を逆上って雑喉場市場に入港した。雑喉場市場の各個人問屋では特約した出買船を「うちの船」と呼称し、問屋名を記入した高張提灯を掲げて待ち受け、荷揚げして販売した。売上帖面を分類整理して仕切書が完成し販売代金を現金で受取る迄、可成りの時間がかかり帰途に就くのが遅くなった。帰途、明石海峡が逆潮の時は海岸近くの農家に頼んで、農耕用の牛に曳いてもらって潮上りして富島港に帰港した。
 一方、明石港では北淡町地方よりも一足早く出買船業が開始されていたが・・・未原稿