第三章 戦後の活魚業界の展開

88 ~ 93 / 370ページ
 昭和20年8月15日、日本国は敗戦した。富島水産株式会社の所有船は八十八隻中、殆どは軍により徴用されたが、辛うじて老朽船ばかり六隻が残存した。その内訳は
・一号共和丸  元浜口実右エ門氏所有 七十五尺 きしろ鉄工 一二〇馬力三気筒
・三号共和丸  元日野顕徳氏所有   六十尺  前田鉄工  四〇馬力二気筒
・七号共和丸  元船主不詳      五五尺  鉄工所不詳 五〇馬力位二気筒
・八号共和丸  元船主不詳      五〇尺  鉄工所不詳 三〇馬力一気筒
・一三号共和丸 元船主不詳      六〇尺  鉄工所不詳 六〇馬力位二気筒
・七一号共和丸 元船主 東浦町仮屋の仁丸を富島水産が買収 六五尺 鉄工所不詳 八〇馬力位 二気筒
以上であった。外に室津港の浜田三郎氏所有の金宝丸(約六〇尺の老朽船)一隻だけであった。
 一号共和丸は敗戦直後、富島水産株式会社の株主の人が会社からチャーターして、食糧品や生活物資等の仕入れに韓国へ向ったが、韓国到着直後、船体を没収されてしまった。悲運の乗務員とチャーター主は引揚船で帰国した。チャーター主は会社の持株券と自宅を提供して賠償した。
 極度の食糧不足の裡に昭和20年は暮れ、21年の秋になってやっと物資不足の中で船員、燃料、食糧を調達して、富島水産の社船をチャーターして長崎県五島列島のイワシ運搬(氷蔵)に乗り出す事になった。21年2月頃には新円への切換えがあり、新円(資金)と燃料油、潤滑油、食糧の調達は困難を極めた。先ず日野嘉右衛門氏が七号共和丸、日野顕徳氏が三号共和丸、三木角一氏(号数不明)等が五島列島の奈良尾港へ出向いた。五島列島では約二〇統程の旋網船団が五島列島西沖で操業していたが、旋網本船も三五屯型一〇〇馬力で、燃料、漁網も不足でありイワシの漁獲量も少なかった。一五キロ入り一箱は公定価格で五十円位であったが、網元は公価格では売ってくれないので、ヤミ値一〇〇円位で仕入れ、地元漁協発行の出荷証明書を持って、下関の農林省出先機関に寄港して、主として大阪市、神戸市、明石市等の中央卸売市場への出荷割証明書を持って、淡路島富島港へ寄港し卸売市場へ連絡して数量の一部を卸す事にして(勿論ヤミ値で二〇〇円位であった)荷受証明書を受取る。大半はもっと高値で引取ってくれるヤミ魚市場(明石市二見港)で捌いて、可成りの利益を得る事が出来たが、燃料油の入手が非常に困難でヤミ値で二〇〇リットル入りドラム缶一本で二千円もした。ヤミ燃料油専門のブローカーもいて、なんとか運航する事が出来た。
 ヤミ燃料油ブローカーは小型船で日没後、大阪の安治川や木津川に入港し、横流しのヤミB重油を船槽内から横付けした小型船の船槽内へ太さ約5cmのゴムホースを渡して、手押しポンプで移送し、人目に付かぬ様、船上には人影も無く、移送し終わると夜半過ぎに密かに無灯火でエンジン・スローにして途中二ケ所程の検問所をくぐり抜け、港外に出ると全速力で航走し夜明け頃には富島港に入港した。このヤミ燃料油の貢献は非常に大きかった。
 又、特攻船と称された一族が8屯位の小型船で、富島港でイワシを積取り、大阪の堺港外に夜半過ぎに接近し、港外で待っている打瀬網漁船に積渡し、その打瀬網漁船が漁船留りに入って密かに陸揚げし、堺魚市場のボス山米氏が捌いた。一度、堺警察署に検挙され、二週間留置されて裁判所で三年間の執行猶予刑を受けた。これは非常に高値で売れて、イワシ運搬船も特攻船も大いにうるおった。別に淡路島内消費用を一手に扱う卸売業者もおり一日に五十箱~一〇〇箱を販売していた。
 漁期は秋から4月迄である。チャーター船は老朽化していた。昭和22年春の漁期が終了するや新造船の建造が早くも始った。
・日野顕徳氏が九第十五住吉丸(六十二尺 東根造船所 七十馬力 中古阪神鉄工所)。
・日野嘉右衛門氏が、五島奈良尾港の網元二明生丸と共同で二第十六明生丸(六十五尺 大崎造船所 一〇〇馬力 新 木下鉄工所)。
・浜田三郎氏が昭和21年10月、第十三金宝丸(四十五尺 大崎造船所 二十五馬力 新日本発動機)。金第十五金宝丸(六十五尺 東根造船所 八十馬力 新 木下鉄工所)。
以上が同年末迄に稼働を始めた。
 尚、日野春義(小生の父)の第一住吉丸(四十八尺 大崎造船所 三十馬力 中古 明石内燃機工作所)も昭和22年7月より稼働を開始した。浜田氏の金宝丸は五島列島のイワシ積みよりも対馬の鯖積み(長崎県生月島の双手旋網船団が出漁)の方が利益が多かったので専ら鯖積みをしていた。昭和22年秋の漁期に入るや五島列島の旋網漁船団も船体、機関、漁網等の整備が進み、漁獲量も急速に増大し、航海も繁忙となり自己所有船とチャーター船を併用運航した。
 昭和23年初頭には、日野顕徳氏の第十六住吉丸(六十七尺 東根造船所 一五〇馬力 三気筒 新 日本発動機)が就航した。同年春漁期迄に利益も増大した。しかし乍ら同年夏には大型船の積荷が無く船喰虫の害から船体を保護する為、大阪安治川の中央卸売市場の少し上流の岸壁に船番を乗船させて繋船していた(淡水繋留)。同年秋漁期が始まるや、五島列島にも魚群探知機を搭載した魚探船が登場し、浜は大漁に沸いたが、五島の漁船員はカンコロ餅(さつまいもを薄く輪切りにしたものを天日でカラカラに乾燥したのを釜で水煮して餅状にした食品)が主食でイワシが副食物だった。
 七十尺級の運搬船で約二千箱(三十屯)が積込み可能で砕氷約二十屯を使用し、七~八名の乗組員で荷役は午前10時頃より夕方迄かかった。戦場の様な荷役作業でヘトヘトになった。頭からイワシの汁をかぶり全身ベトベトだった。運搬船の乗組員はそれでも米に麦が三~四割混った米麦飯を食べていたが、旋網の仲積船の漁船員達は米麦飯など食べた事が無かったので、荷役中に運搬船の昼食用のオヒツに入れてある米麦飯をゴッソリ食べられてしまうのには閉口した。イワシの浜のヤミ値は二百円から二三〇円位になった。ヤミ売値は四百円位であった。船員の月給は昭和22年、機関長で六百円、一般船員で四百円。昭和23年、機関長で一千円、一般船員で七百円位となった。
 昭和23年末に日野嘉右衛門氏のカ第十六住吉丸(六十八尺 大崎造船所 一〇〇馬力 新 木下鉄工所)。浜田三郎氏の金第六金宝丸(七十尺 東根造船所 一〇〇馬力 新 木下鉄工所)が就航。
 昭和24年に日野顕徳氏の九第十八住吉丸(六十尺 明石の宗田造船所 七五馬力 新 日本発動機)。昭和24年4月に日野春義氏のカ第三住吉丸(七十尺 大崎造船所 一三五馬力 新 三気筒 木下鉄工所)。建造費は船体二三〇万円、主機関一八〇万円、艤装九〇万円、総合計五百万円であった。昭和24年9月に日野顕徳氏の第二十一住吉90丸(七十尺 大崎造船所 一五〇馬力 新 三気筒 日本発動機)が就航したが、昭和24年秋から昭和25年3月迄、鮮魚統制で同漁期にはイワシは人気薄となりヤミ値は下り利益薄であった。
 宗和春太郎氏(戦前からの船主)は他の船主よりも少し再興出発がおくれたが、三人の息子さん(戦前よりの経験者)をはじめ一族の方々が結束して事業を再興し、昭和23年、ハ第三富栄丸(四十五尺 香川県引田造船所 三〇馬力 新 高松市マキタ鉄工所)。第五富栄丸(五十尺 大崎造船所 四〇馬力 二気筒 木下鉄工所)。元一族の沖家が戦前所有していた船で買戻した。
 昭和24年、第八富栄丸(六十五尺 大崎造船所 一〇〇馬力 新 きしろ鉄工所)。昭和26年、第十一富栄丸(七十二尺 大崎造船所 一二〇馬力 三気筒 新 きしろ鉄工所)。昭和28年、第十五富栄丸(七十五尺 大崎造船所 一五〇馬力 三気筒 新 きしろ鉄工所)。第十八富栄丸(七十八尺 大崎造船所 一五〇馬力 三気筒 きしろ鉄工所元、長崎県生月島の旋網船団所属運搬船、松栄丸を買取り船体延長工事をした)。第二十一富栄丸(五十尺 造船所不明 四〇馬力 二気筒 鉄工所不明 大阪の大水の紹介で高知県甲浦より買取り)。以上の様に大型船四隻、小型船三隻の計七隻を運航し急速に業績を拡大した。
 戦後最初に活魚を運搬したのは、昭和22年7月、第一住吉丸である。同年6月に進水して、何処も積荷の当ては無く困った挙句、山口県平郡島の活蛸が買えるかもと、夜間同島に接近、伝馬船で上陸し蛸壷漁民に情報を求めたところ、海上保安部の巡視艇及び山口県の漁業取締船の監視、取締りが厳しく蛸を活かしての積出しは全く不可能であり、現に下関から小型の冷凍運搬船が港内に在泊し、蛸を魚箱に氷蔵し冷凍機をゆるくかけて凍結しない様にして、数日間滞在して蛸を積込み下関へ運搬していて、勿論価格は公である。そこで漁民の代表と折衝してヤミ買取価格を決め、大型の蛸壷漁船が数隻で仲間の蛸を積み集め、平郡島の東方約十浬の無人島、大水無瀬島の島陰で日没後に受渡す事に取決め現金決済した。直ちに東に向け航行し翌朝、燧灘に入ったが、白昼備讃瀬戸を航行すると必ず高松沖あたりで巡視艇に発見され、積荷押収となると大変な事になるので止むなく、広島県鞆港の沖合の無人島宇治島附近で遊弋して日没まで時間を稼ぎ、夜間に高松沖を通り播磨灘で間時間待ちをして日没後、明石市二見漁港に先ず伝馬船で乗り付け売渡し交渉をして、舟型生簀を港外へ曳き出し活蛸を売渡した。続けてもう一航海したが、当時としては極端な食糧不足の折であり、蛸はそんなに安価なものではなく、売行きも良くないとの事で双方合意の上、今後の活蛸の取引は取り止める事になった。一航海三万円の粗利益で収支トントンであり、非常に苦労困難な航海であった。
 9月、宇和海の日振島へ行ったが不漁続きで、小アジをほんの少量買っただけで月夜満休漁となりやむなく東航し、今治市小浜の塩見篤雄問屋に捌いてもらった。10月、そこで宮崎県の細島港で中羽マイワシが獲れているとの情報を得て、急行したところ棒受網で漁有り満載(五百箱)する事が出来、途中、今治市小浜に寄港し少しだけ荷卸しし、淡路島に帰港、明石市二見港で捌いて相当の利益を得て一息ついた。再度、細島港へ急行したがすでに漁期は終っていた。
 11月、宇和海の深浦港へ行ったが旋網船が数統操業していたが不漁続きで無駄に日が経つばかりで困り果て、仕入れ資金にも事欠き電報で浜口実右衛門氏に融資を依頼し、送金してもらった。川淵種雄氏の妙見丸も入港していたがしびれを切らし、五島へと出港して行った。ところがヤミ取引でイワシを積んでいた船が警察に検挙され、只一隻だけ残っていた本船に積込みを依頼され当然公で買取った。七分荷位で出港し、阪神間への出荷割当書を発行されていたが、途中、今治市小浜へ寄港したところ、塩見氏から強引に今治で販売させてくれと依頼され、断り切れずに機関故障を理由に今治で販売し、原価が安いので多大の利益を得た。12月、深浦港は益々不漁で、丸干イワシを少しづつ買集め正月も近くなったので仕方無く、兵庫県高砂港で販売して年末に富島へ帰港したが、この月は赤字だった。
 明けて昭和23年、正月早々出港、十一総屯の小型船の為、玄界灘に多大の不安を抱き乍らも下関漁港へ入港し魚市場で情報収集したところ、五島のイワシ漁は漁薄。対馬では生月の旋網船団が数統操業している模様だが、漁模様は不明との事だった。散々、苦悩し検討した結果、対馬へ行く事に決定、同行した第八共和丸(日野嘉右衛門氏がチャーター、日野才吉船長)は五島へ行く事になり、早朝下関を出港、夕刻対馬が近くに見え暗くなった頃、突然前方に多数の照明灯が点灯したので、近付いてみたところ双手の旋網船が鯖をためて、どんどん旋網本船に巻込み中で運搬船がいないので積んでくれとの事で一重漁港に入港、徹夜でとても寒い中を朝迄かかって満載した。出港直後、クラッチがこわれ引返して応急修理をして富島へ帰港、鯖は高値で売れて粗利益四十五万円を得て、父子は一安堵した。クラッチが破損してしまったので木型から作り鋳物を造り加工完成迄約一ケ月を要した。
 2月、対馬一重港へ急行したが鯖は不漁で、五島へ集結していた各運搬船も一斉に一重港に集結、双手旋網船団も集結し一重漁港は漁船で埋った。3月初め沿岸近くに春鯖の大群が昼間海面に浮上、群を見付けて双手旋網船が投網配置につき、まさに投網しょうとする時、突然ドンチキ船(ドンとも云い群の中心部にダイナマイトを投げ込み爆発させ、鯖がショックで背骨が折れ海面に浮いたところを小さな旋網で巻いて獲る禁止漁法)が、群に突っ込みダイナマイトを爆発させるので群はサツと散って旋網船はみすみす投網する事が出来ない。漁場で船底の船員室で寝転んでいる時、近くでダイナマイトが爆発すると、水中を通して物凄い爆発音と振動に震え上ったものである。当時、対馬は離島の辺地で海上警備は非常に手薄であった。たまたま福良港の沖物産の開神丸(貨物船に漁槽とハッチを付設)が一重に入港中で、ドンチキの鯖を買付けておったところ機関のクランクシャフトを折損、鯖を積み替えて折損したクランクシャフトを淡路へ積んで帰ってくれと依頼を受け、ドン鯖で出荷証明書も無く危険なので運賃をもらって引受けた。次の航海は五島へ行きしばらく待機して生月沖でイワシが獲れだしたので、生月に移動し二操業のイワシを満載して帰港したが利益は出ず経費トントンであった。