昭和23年4月、高級魚の鯛とすずきの統制が解除された。早速、愛媛県長浜町青島の赤穂善三郎翁の経営する鯛縛網が、松山市西方漁場で操業中との情報を得て急航したところ既に下津井の角七丸が付いており協議の結果、交代で買取ることになった。鯛が獲れると網船に横付けして受取り、活きた鯛を〆て選別し大箱(三〇kg入)に箱立てし氷蔵した。何の予告も無く突然統制が解除されたので先行予想が困難であった。大阪中央卸売市場へ入港。大水へ水揚げ販売した(元、大勘の入江勘三郎氏が大水の社員であった為)。長期間の統制が解除されて、の〆ではあったが鯛を積んでの大阪入港第一船であった。仕切金を受取り父が興奮して船に帰って来て「今そこで鎌定のぼんに会えたこんな嬉しい事はない、ぼんは今、大阪魚市場に勤務しとる」との事であった。二航海目、大阪へ入港したところ、大水から鯛を活けて来てはどうかと提案され、急ぎ埋栓を外し立栓に取換え活鯛として大阪へ運搬し、市場ではとても好評を得た。6月初旬、鯛しばり網の漁期は終り、松山市沖の中島、旧神和村の怒和島、津和地島に活簀を設置し、二神島の商主矢野常一氏と取引をする事になった。延縄、一本釣と活鯛は豊漁で一隻では運搬が間に合わないので弥生丸(京都市の船主、元富島水産の社船)をチャーターし多忙な航海であった。同8月には弥生丸(五十三尺 木下鉄工所 五〇馬力)を七五万円で買収し、カ第二住吉丸となる。9月迄鯛を運搬、10月から24年3月迄、五島のイワシ積みに二隻でフル稼働し多くの利益を得、同年4月からは青島の鯛縛網も単独契約となり、同網からの仲積船として明石の林久丸をチャーターし、二神島に受入れ生簀基地を設置した。同9月迄忙しく第一住吉丸は12月迄、二神航海を続け第二、第三住吉丸は10月から五島のイワシ積みに多忙であった。
昭和23年、24年と下活けで営業したのは九住吉丸が戦前からの地盤であった山口県室積港、祝島方面へ、カ住吉丸が山口県上関港八色方面へ進出したが、鯛だけなので漁獲量もそう多くはなく、各船主共、小型船二隻程度で航海し大型船は安治川に夏の間繋船してあった。
一方、淡路の前買いは室津の金宝丸、生力丸、三共丸、富島の北由丸、岩屋の繁栄丸、福良の生長丸、由良の梅幸丸、仮屋の福丸等、浜は毎日入札で競争は激しく前買業者は利益どころではなく経費の確保に懸命であった。前の鯛は型もよく揃って身も丸々と肥えて色鮮やかに見事なものである。一度岩屋の繁栄丸の鯛の水揚げ作業をじっくりと観察する機会があったので見ていると、先ず船底に50cm程溜めた海水の中に〆た鯛をヒタヒタ状態に侵し角氷を何個か立て適当に冷やして見事に赤く発色した鯛を一匹ずつ手で通い箱に並べ、岸壁へ揚げ日通の猫車にソッと積込み、作業員が梶棒を曳き船長が後から押して行く、途中レールの上を通ったり石ダタミの上を通る時、船長が「ソロツと、ソロツと」と声を掛け、車がゴロツと音を立てようなものなら船長が「鱗がはげる」と叫ぶのである。そして売場へ着くと又船長が一匹、一匹手で床に並べていくのである。それ程大切に扱った。又、大阪港外で時間を見計ひ、〆る時間を出来るだけ遅く詰めて午前2時半より早くは〆なかった。下活は魚種も多く数量も多く積んでいるので、午前0時を過ぎるとシメに掛った。鯛の水揚げでも柄の短い手網で三~四匹一度にすくって通ひ箱に移し、売場に着いたら通ひ箱を二人で返して鯛を床に移した。これだけ扱いにも差があるのである。
しかし乍ら元来、伊達の鯛積みと活魚船業界で云われる程、鯛は利益の少ない儲からない魚種なのである。先ず目切れ一割は普通であり、上着率(買入れた数量の内、大阪市場迄、立派に活きて着く率)は良くて七割、悪いと五割、残りがの〆となる。単価も高いが積込可能数量はハマチや蛸の1/4であり、従ってkg当りの輸送コストは四倍になる。又、大時化に会うと鯛の魚体がスレて傷み、全体に商品価値が極端に下落し大損となる。大時化には船体は保っても鯛の魚体が保たない。