第五章 魚の全面統制解除

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 昭和24年12月、政府は昭和25年4月1日より魚の全面統制解除を実施すると発表した。昭和25年正月早々、当時十八才だった私は父と相談の結果、利益率の良い蛸の獲れる浜を急いで確保する事が急務であると決し、他の船主も必ず動きだすからと、松山市興居島へ急行し仮契約をし、安居島、中島の大泊と仮契約を済ませた。山口県平郡島も昭和22年の取引の実績があったので正式に平郡漁協と契約出来た。平郡漁協は蛸壷漁船四十八隻を数える瀬戸内海では最大の蛸の産地である。又、二神漁協、津和地漁協とも蛸積取りの契約をした。ここに山口県東部から愛媛県中部にかけて確固たる集荷基盤を得る事になった。カ住吉丸も第一、第二、第三住吉丸に加へ、昭和24年秋、建造後間もない中古船、六十五尺、九〇馬力を二七〇万で買入れ第五住吉丸とした。続いて明石の新生丸(六十二尺 七五馬力)を買入れ第八住吉丸とし、又、五〇尺、四〇馬力を買入れ第一三住吉丸とした。昭和29年6月、第十六住吉丸(六十五尺 岩屋の大谷造船所 一〇〇馬力 新 きしろ鉄工所 建造費八百万円)を建造し、輸送力の増強に努めた。
 日野春義は平郡島を根拠地とし常駐した。私は25年、26年と京阪神市場の販売責任者として、毎夕、上り船に乗船し大阪港が近くなると全員で作業に取り掛るが、若い私が甲板上にいる訳にはゆかず活魚槽に潜って立栓を差し、先ず鯛やハモを〆て水氷で冷やし込み、港内に入り天保山附近で蛸の活魚槽に淡水が適当分量入り交ったのを見定めて、上棚の立栓を全部差し終えて(船底部の立栓は既に港内に入ると同時に差し終えている)全速力で市場に向い、活魚槽に潜って立栓差しと活〆作業をした乗組員は寒くて身体が冷えきっているので、釜で沸かしてある湯をかぶり作業服に着替え間もなく着岸して荷揚げに掛かる。午前3時~4時頃荷揚げを終え、活魚槽を水洗いして直ぐ出港する。私は荷捌きとセリを見届け、京都や神戸の売立通知を受け、当日の市況を平郡に打電し午前10時頃市場を出発して国電と連絡船を乗り継いで淡路に帰り、昼食をとり簡単な記帖をして三時間程眠る。夕方5時には次の上り船が来る。乗船して船で夕食をとり大阪に行く。大阪市場が休日の八の日でも産地の生簀が満杯で捌けないので船は上って神戸、京都、堺で売る。全く休日がなくお盆を過ぎるとフラフラになり、9月末の蛸の終漁期が済むと動けない程疲れが出て身体を悪くしていった。
 九住吉丸は山口県室積、祝島一帯が元来ハモの産地でもあったので、ハモを主体に鯛や蛸を運び、ハモは値動きが激しいので、時化の後等は相当利益をあげた。カ住吉丸は山口県上関町と八島で集荷しておったが荷が少ないので大分県国東方面と姫島へ浜を広げた。
 昭和25年9月、ジェーン台風が大阪に上陸した日、台風予報を聴取していたので、第二住吉丸を午前3時には大阪から帰港させた。市場を出て阪神野田駅迄行ったが電車は不通で暴風雨が吹き荒れた。少し風が弱くなってきたので、胸迄水に浸り乍ら徒歩で市場迄戻ったら冷凍貨車が半分水没していた。数日前、堺から十六町の社宅に引越してきたばかりの鎌苅さんの家族を探しに行った。近くの工場の二階に避難していた一家を見付け急ごしらえの筏を作り救出し、大阪魚市の寮へ送り届けた。市場に在泊中のカ第十六住吉丸にその夜は泊めてもらい、翌早朝出航し淡路へ帰ったら第二住吉丸が帰港しておらず頭を抱え込んでおったところ、午後2時頃帰港した。神戸に避難し疲れて朝遅く迄眠り込んでたとの事。夜になって第一住吉丸が小豆島に避難していたと上って来た。電話は不通、急航して午前3時神戸市場に入港したら、大阪市場は時間遅くなっても開市するとの情報を得て、又々、大阪へ急航したが夜は全く明けて大阪港内や安治川には多数の沈没船が在り、難航してやっと市場に到着したが、売場の水は引いたが泥が10cmも積りほんの少しの売場の泥を洗い流してやっとセリをした。勿論、一隻売りで外に陸上輸送で少しの活物が入荷していただけで鯛は三千円、ハモは二千円、蛸は八百円(一貫目当り)ビックリする様な普通値の約二倍で満載してなかったのに、二十万円もの粗利益で乗組員共々驚いた次第である。
 昭和25年は約10年余の統制ブランクが解除されたばかりで、産地、集荷運搬船業者、卸売市場共、予想も出来ない様な様々な混乱が続出したが、なんとか少しづつ改善に努め円滑な運営を計った。この夏、父の発案で大型トラック(日産ディーゼル五屯車)を買入れた。主として京都市場への分荷輸送用である。又、車庫と運転手の仮眠室も必要との事で、JR野田駅近くの小学校の隣で五十坪の土地(一坪七千円)を買入れ、大型車二台分の車庫と六帖間の仮眠室(建築費十五万円)を建築した。