第六章 冬期活魚運搬(昭和30年代)

95 ~ 98 / 370ページ
 元来、瀬戸内海、四国、九州地方共、秋から冬には活魚が少なく、朝鮮の冬期のヒラメ及び蛸の買付けが出来なくなった戦後に於ては、各船主共、特に困惑した。そんな状況のなかで唯一、豊後水道方面のみ数量は少いが、鯛、紋甲イカ、伊勢海老、寒鰆の水揚げがあったが、大分県佐賀関、同保戸島は、一週間~十日間の期間で入札制であり、漁獲量も少ないのでどうしても競争が激しく、落札値は高くなるばかりであった。落札出来なかった船は丸々休業状態に追い込まれる。宇和海の紋甲イカ漁は、広島県の豊島の漁民が出漁しており、漁獲はそこそこあるのだが、これもどうしても浜値が高く、採算的には不利であった。更に南下して宮崎県島野浦島、更に鹿児島県の内の浦迄南下する様になり、この方面は主として定置網と一本釣の磯魚(島アジ、シオ〈カンパチ〉、ヒラス、グレ、カッパハゲ〈三の字〉)等である。寒蛸は又、少し松山市興居島、山口県平郡島、大分県姫島が産地であったが量は少なかった。したがって大手又は準大手の業者でも小型船を一隻及至二隻、豊後水道方面に派遣して稼働を続けたが成果は上らなかった。
 しかし乍ら昭和30年代に入り、宮の浦島や内の浦方面は定置網も大型化され漁獲量も増大し、大型船を周年配船する様になり業績は急成長を遂げた。だがこれらの磯魚は夏期は洗ひ料理として珍重されるが、夏以外は特殊な魚種なので一日に多量は販売出来ない。毎日、少量ずつしか出荷販売出来ないので、一船の積荷を販売するのに一週間もかかる様な事もあり、そうすると販売経費が急増しコストもかかるので経営が圧迫される事もしばしば発生した。ところが大型船がイワシや鯖の不漁で経営困難の中で、金宝丸が対馬厳原港に生簀を設置して、秋から冬期にかけて良質の活鯛を大阪市場に出荷販売する様になった。品薄の冬期に良質の活鯛は非常な高値で売れた。金宝丸は戦前、厳原港の活鯛を運搬していた実績があり、戦後も金宝丸は五島のイワシ積みにはゆかず、専ら対馬から生月の旋網船団の鯖を運搬していたので、対馬に滞留している機会も多く、逸早く着目し布石を打ち、中型船を二~三隻重点的に配船し一隻が京阪神市場で二日間程かけて販売し、活鯛を切れ目無く販売する態勢をとった。これが非常に市場及び仲買人の方々に好評を得た。
 俄然、対馬の鯛は脚光を浴び、注目と関心を集めた。早速、調査に動いたのはとである。戦前、水崎に富島の東根勝吉氏船主の東栄丸が鯛積みに行っていたのは周知の事であったが、この時期には水崎は地元在住の奥野氏船主の照丸と、赤島在住の岡山若平氏の若丸が、略半数ずつ買取っていた。又、若丸は地元の赤島及び高浜、根緒を買取っていた。照丸は北九州市、若丸は福岡市に専ら販売し、30年代末から活鯛が多く溜った時だけ京阪神市場に運搬していた。金宝丸、若丸、照丸共、漁協を通じて多額の契約金を貸付けており、そんな中強引に割り込んでゆくのは至難の業であり、お互いに旧知の間柄であり、先ず商業道徳を破る訳にはゆかない。更に地元の漁船には夏場の漁の少い時期には、活魚は少く殆んど箱立物で淡路の活魚船は積みに来てくれない。不漁や端境期に困った時は地元の運搬船なら面倒を見てくれると云う計算もあった。対馬沿岸を丹念に調査したが鯛網漁船は殆んど無く。北部の泉、比田勝、西泊に秋から年末にかけて鰤網船が操業するが、地元漁船は少なく他県からの出漁船が多い状態であった。従って軽率に行動に出られる状態では無かった。
 そんな中で昭和27年になって兵庫県の水産課が淡路島の延縄漁船の秋及び冬期の不漁対策として対馬への出漁を推奨し、県も予算を組んで、当時の小船越村芦ケ浦に土地を借りて、簡易共同宿舎(中二階建)を建設し淡路島の津名町、淡路町、北淡町、西淡町の各漁協から鯛延縄船が出漁する事になったが、三屯位の小型船が大多数で、玄界灘を渡航するのも大変で県の漁業取締船「兵庫丸」が随行した。この淡路船団の活鯛の買取り運搬をとが県に申し出たが、県は現地で船団の代表と交渉してくれとの事で、それぞれ活魚運搬船を派遣して現地で男竹を使って手作りの生簀を作るのに乗組員総かがりで夜明けから暗くなる迄作業した(一日竹生簀二個が限度)。船団代表と交渉の結果、値建会を開催して値決めをして、カと九が交代で買取る事に決定した。
 その秋、対馬沿岸には大クラゲ(かさの直径50~80cm)が回遊し、地元漁船はその大クラゲの赤色の肝臓を餌にしており、淡路船団もそれにならい好漁をした。ところが11月初旬、大クラゲはいなくなり餌に困った。元来、冬の鯛縄の餌はマツイカ(スルメイカ)の活餌を輪切りにして釣針に仕掛けて投縄するが、寒イカは12月中旬にならないと沿岸に接近しない。は11月早々に見切りをつけて引揚げた。寒イカは来たが寒さは益々厳しく船が小さ過ぎて少しの風波でも出漁出来ない。淡路町、北淡町の船団は諦めて船を芦ケ浦に残したまま、福岡経由で年末に帰島してしまった。3月になりやっと再び対馬から淡路島へ帰った。西淡町丸山から出漁した少し大きく五屯位の三隻だけが1月末迄、辛抱して操業を続け漁場関係の研究成果を得て帰島した。
 翌年秋には丸山の五~七屯級(船内宿泊)約十五隻のみが出漁した。秋イカ(ブトイカ)の餌で短期間操業したが、秋イカも終わり餌切れとなった。非常に深刻な事態である。すると地元の水崎の若干の船が油イカを佐賀県呼子港で仕入れて使用しているとの情報があり、丸山船団は何隻かが代表船として呼子港へ急航して買求めて来たが在庫が少く、後を継続して仕入れるのに難渋していた。
 この油イカと云うのは島根県太田市近辺で生産されていて、種々の魚油を配合(秘伝)しその魚油の中に生の大きな剣先イカを九リットル缶に五匹程度入れてあり、約5cm角のスフ、銘仙、綿布等の布片にこの油をしみ込ませ釣針に仕掛けて投縄する。高価で一缶九千円(独占生産)もした。以前から広島県豊島の延縄船が瀬戸内海、四国、九州へ出漁して活餌が入手出来ない時に使用していたものである。油イカの餌で釣れる鯛は中小型で主に一kg~五百gが多く、商品価値は可成り落ちる。小鯛は年末にしか売る時期がないので選別して投餌し畜養しておき年末売りの際、浜で〆て箱立てし大阪市場で割と高値で販売した。この秋、比田勝港に岩崎喜太郎氏(問屋)のすすめもあって、広島県、島根県、長崎県からの出漁船を目当てに活簀を設置した。鰤縄に混獲されるヒラスを目的に活鰤も買入れたが生簀の容積が小さく魚体にスレが大きく出て活き無くて、〆て氷詰めにして下関市場で販売して大損をした。
 丸山船団は12月初旬迄、油イカ餌で操業してまずまずの漁獲をしたが、この時期寒くなると途端に油イカ餌に喰わなくなる。この油イカは温暖な季節には鼻がひん曲がる様な悪臭がする。食事も出来ない程である。寒くなると匂いも少なくなる。匂いが餌の効果としてあると推測される。夏場の油イカ餌の鯛は胸に内出血をおこし弱かった。やがて寒イカ餌での鯛漁となったが、寒くなると漁場が遠くなり(距岸二十浬以上)良い凪でないと危険で出漁出来なく、沿岸近くでは全く不漁となり、1月末全船団が引揚げた。
 鯛延縄には鯛に交じって種々な多くの魚種が混獲される。鰤、目白、ヒラス、ヒサ(石鯛)、アラ(クエ科)等以上活物。レンコ鯛、アマ鯛等以上は氷詰。対馬の鰤、目白はやせて細身であり大阪市場では値も安く売行きも悪い。年末近くなると活青物が相当数量まとまった。活青物は年末売りの北九州が一番高値は周知の事実である。その時、対馬に配船しとったのは中型の第二住吉丸一隻だけで困った揚句、活青物を12月22日頃、小倉市場で売ったが年末売りには早過ぎて、これも可成りな欠損となった。年末売りには活鯛と〆小鯛を満載し、大阪市場は予想以上の高値で販売出来てこのシーズンは通期で収支トントンで、苦労ばかり多くて民家が二戸しかない芦ケ浦での生活は電話も無く、電気も夜4時間しか点灯せず電報打つにも二里の山道を歩かねばならず、社会から隔絶された様で、ボケてしまう様な思いであった。