昭和26年3月、上五島の小値賀島方面の漁場でイワシや中アジが好漁となり、この時から試行錯誤を重ね乍ら、運搬専業船に対する運賃運搬制が形成される様になった。小値賀港で積込荷役をして、網元の指示に従い長崎港や福岡港、下関港へと運搬した。その時、日野春義氏は「それは商売ではない。貨物船と同じだ。」と憤慨した。網元も自社所有運搬船と専業運搬船を交互に航海させて、専業運搬船の経営も成り立つ様に配慮してくれる様になり、経営の安定に向け一筋の希望が持てる様になった。26年8月、お盆過ぎより五島の中小羽マイワシ運搬に従事、成果無く、10月から年末迄再びサンマ運搬に従事さぜるを得なくなり、これも苦しい事業の連続であった。
昭和25年8月、五島の網元から五島灘で中小羽マイワシが豊漁なので砕氷を三十屯満載して魚箱も薄箱を用意して来航されたしと急報あり、お盆売り(売り前)直後に大型船の埋栓をして急航し網元の仲積船に砕氷を積み渡し、水氷で冷やしたイワシを満載し、京阪神市場で販売したが砕氷の使用量も多く箱代も高く付き、原魚買取制だったので収支トントンの状態で、10月に入ると漁もバッタリ途切れた。途方に暮れてる最中、ビックニュースが飛び込んできた。
九第二十一住吉丸が福島県小名浜港からサンマを満載して、京阪神及び高松方面で販売し多大な利益をあげたとの事。カも第三住吉丸、第五住吉丸で急航した。九も宮城県女川港へ二~三隻配船した。サンマは大漁で浜値は入札で一貫目七十円~四十円割れ迄あった。ところが元来近畿地方ではサンマはあまり売行きのよくない魚種なのである。先ず和歌浦市場で売り、京阪神市場は全く引受けてくれず「どうか出荷しないでくれ」ばかりで、明石では加工業者が在るので少し販売出来て後、高松、丸亀、今治と少しづつ販売後の残りがどうしても売場が無い。切羽詰って尾道へ行って投げ売りをした。
日野春義氏は1月初旬迄、いわき市江名港に滞在しておった。船は次々と和歌浦港に入港して来る。売れないサンマを販売しなければならない。最後には北九州の小倉魚市場迄、和歌浦港から直航し小倉に入港したまま三日もかかって少量づつ産炭都市の直方市、田川市、飯塚市迄も販売し集金して廻った。泣きたい様な想いだったが、乗組員達も長距離のしかも馴れない航海によく耐えてくれた。サンマは12月末で終漁期となった。どんな苦労をしても人件費だけはどうしても稼がなければならなかった。三十五総屯の船体に太平洋の波は荒く、いわき市江名港はとても遠かった。
昭和27年1月より3月迄、五島のイワシ積みに行ったが一ケ月に一航海位しか出来ず散々な結果であった。しかも同年2月、船主日野逸夫名義のカ第五住吉丸が空船で大時化の中、富島港を出港し五島へ向かったが播磨灘で浸水沈没し、乗組員四名は伝馬船で淡路島五色町の海岸に漂着し救助されたが、三名は伝馬船に移乗せず行方不明となる大惨事が発生した事は痛恨の極みであった。昭和27年秋にはサンマ積みには行かなくなった。労多くして利益も無いので船主も乗組員も意欲を失ってしまった。同年秋、五島西沖で小アジが漁有り二~三航海、大阪迄上ったが経費計上が精一杯でそれも11月迄で12月は全くの不漁で終わる。
昭和28年1月より3月迄、五島で待機したがまるで休航状態で、経費全損で痛手は大きかった。同8月、五島の旋網船団の一部が韓国済州島漁場に出漁し、大中アジを大量に漁獲しこれが一箱一千円にも売れ、運搬船不足で当時富島の田中春吉氏船主の蛭子丸二隻は年間を通して鮮魚運搬船専業であって、同漁場で旋網船団同志が運搬船を高い売上歩合運賃を呈示し奪い合い、歩合運賃が売上高の四〇%にも達し、八第五蛭子丸は一闇に八航海もして巨額の利益を得た。活魚運搬に従事していた大型船は埋栓をして急航したが、韓国側の取締りが厳しく、拿捕される危険性が高く李承晩ライン設定宣言もあり、同漁場に近寄れなくなり、この時より五島旋網船団は対馬の東方海上に漁場を求め好漁をする様になり、最初は対馬比田勝港に待機して仲積船から箱詰め荷役をして下関港魚市場で陸揚げして、当時確立された運賃をもらう仕組みである。漁価リンク制で一箱五〇〇円以下、運賃一箱一五〇円。一箱八〇〇円台、運賃一箱一八五円。箱代、氷代も含め以下経費は全部運搬船負担である。一闇(満月の前後一週間は集魚灯に魚群が集らない為、月夜間休漁)に満載で下関迄二~三航海すれば収支トントン出来る程度である。
同11月頃より港内荷役を止め、漁場で旋網船の漁網に運搬船を取付け魚槽に水氷をして魚を直接魚槽に巻き込む様になった。それ相応の設備をし高度な技術が必要となった。箱詰めでは二千箱しか積めないが、水氷の巻き込みなら三千四百箱は積めて、利益は増大した。砕氷使用量二十屯。同時期に九第二十一住吉丸が漁業用無線電話機(出力五〇W、古野電機製五〇万)を据付け通信士も雇入れた。他の運搬船は漁業無線受信ラジオのみ積み、契約旋網船から随時誘導通信を聴取していた。第三住吉丸は12月初旬、偶然の機会を捉える事に成功し厳原沖で鯖を満載し、下関魚市場に入港したら冷蔵貨車不足で荷揚げが出来なくなった。明日も荷揚げ不能かもしれないとの事、網元は売上金が入手出来ず困惑しておったので、当日の朝の下関の相場一箱五百円で当方が買取り魚代相当金額を、当日朝9時銀行より網元の口座へ電送振込すると申し出たら、網元は非常に喜んで取引に応じてくれて、網元から上乗検数員を乗船させて大阪へ向って出港した。松山港に寄港し富島からの親展電報を受取り、「七百円見当で売れ」で委託販売でなく、魚問屋の買取制で販売。今治港、高松港と販売し、大阪魚市場に入港、鯖を対馬沖から水氷で大阪市場に水揚げの第一船となった。荷揚げ(一五〇〇箱)を終えると、なんと鮮魚貨車が延着し一箱一千円で売れた。元価は一箱五〇〇円より下関迄の運賃一五〇円を差引くと、網元には三五〇円の支払いである。この航海の粗利益百万円を上げた。七百円と打電した父を軽く責め乍ら大笑いした。
船長は急用で下船、私が船長。次航海も対馬東北東漁場で満載したが対馬海峡を通過した寒冷前線の北西の突風に隅ひ、乾舷マイナス10cm、積過ぎで船体は浮かず右舷斜め後方からの大波を一枚、一枚かわし乍ら、沈没の事態が頭をかすめる。決断一番、速力を半速に落し頑張り通し、やっと下関入港,全員ヘタリ込んでしまった。この突風で対馬海峡では旋網船団関係で十一隻も沈没した。前航海と同コースで大阪市場迄入港。再び粗利益百万円計上し、一隻で一ケ月粗利益二百万円は非常な好運であった。
昭和29年9月、北淡町の大型運搬船の殆んどは漁業用無線電話機五〇Wを据付け(加入漁業無線局はJHP五島奈良尾港、JHQ生月島館浦港、JHQ2生月島一部港)、韓国済州島漁場へ向った。漁場は済州島東端付近及び同北方へ二〇浬圏内に形成され、魚群も濃く好漁場あったが韓国警備艇が接近し退去を求め、日本の巡視船が割って入る様なトラブルも多発し安心して操業出来る様な状態ではなかった。日本の巡視船隊約六~七隻が漁船団の北方に進出して、二〇浬間隔で東西に横一線に展開し夜間レーダー監視を行い、韓国警備艇の接近をレーダー網でキャッチし、韓国警備艇の行動を詳細に「暗号電文」で送信して来る。日本の旋網船団は推定で約八十統、運搬船を含めると約五〇〇隻が狭い漁場に集結して操業しているので不夜城の如くであった。10月全船団操業中に「暗号電文」が発せられ解読すると「韓国警備艇急接近中、全船消灯して緊急避難せよ」とあり漁場は大混乱となり、全船消灯して真暗な海を五島列島方面向け全速力で避難した。非常に危険であの時の緊張感は今でも忘れる事は出来ない。揚網中の旋網船は全船消灯して、巡視船に「現在位置と現況を報告し、揚網完了迄の保護を求め」後、早急に避難した。依って以後、旋網船団は済州島漁場を諦め、山口県見島沖から仙崎北方に漁場を求め移動し、中小アジが豊漁であったが下関の魚価は急落し、一箱二七〇円迄下落した。又多くの運搬船がこの中小アジの水氷で大失敗した。即ち凪の時は大丈夫だが、時化になると魚槽の中で少し揺れ出すとアジ特有の棘ウロコがスレ合って魚体に赤ムケ現象が出て、商品価値はゼロとなり肥料にしかならない。従って時化てくると水氷の水を上部1/3程度ポンプアップして魚槽内での動揺を防ぐのである。秋鯖、寒鯖と好漁が続いた。
この頃から鮮魚運搬船の経営方針が定着して来た。即ち普段は契約旋網船に附随して行動し、漁場全般に大漁になると一隻だけ契約旋網船に附随させて、他の船をフリーとして、魚群を大量(三万箱~五万箱)に旋いておる旋網船への応援運搬をする。すると下関漁港には、五十隻~七十隻の運搬船が入港し荷揚げには三日間も待たされる。この時が買取りのチャンスであり、大中鯖一箱四五〇円迄下落するのは普通であった。買取って大阪迄上ると船主は大きな利益となり、乗組員も家族のもとに帰れるので喜んだ。青物(鯖鰺類)も大体他の魚種と同じ様に起き潮(旧暦潮汐の九日から十二日)に好漁となる。この潮時には船長、通信士は特に緊張し注意を払う。こんな事があった。昭和31年2月、不漁で珍しく一週間も凪いだ。フリーでエンジンも止めて漂泊し辺りには島影も船一隻も見えない。無線だけ受信していた。一週間目の朝、コックが「副食物が全く無くなった」と報告して来た。止む無く仙崎港へ食料補給の為、反転南下を開始した。9時気象通報を受信して天気図を書いた。すると中国山東半島附近に弱い低気圧が発生し南東へ移動中であり、一昼夜後には時化てくると判断し握り飯を食べてでも、もう一晩頑張ってみようと再度反転北上した。15時無線を聴いてみると、生月のヨ大福丸が「運搬船十隻目の巻込み中で、もう運搬船の当てが無い」との通信を傍受し直ちに「応援運搬する」旨発信し、方向探知機の誘導を受け急航し17時現場到着、最後に網中に残っていた一〇〇〇箱を巻き込んだ。日没直後すぐ近くに同じヨ大福丸の双手旋網船が投網配置に就き魚探船(兼集魚灯船)が集魚灯を点灯しないまま(寒鯖は集魚灯に付かない)同じ地点で海底(水深約一〇〇m)の魚群を探知し、さかんに旋回し間も無く投網、これも約二万箱を旋いた。夜半迄に満載した頃時化てきた。荒天準備をして全速力で南下し下関近くで大時化となって来たが無事入港、鯖は一箱八五〇円の高値で割りの良い運賃収入を得た(約六〇万円)。
元来、五島の旋網漁船は集魚灯船を使用し一隻旋きで、自社運搬船を三隻程度保有した(固定経費が高く付く)。生月の旋網漁船は主として対馬海域で夜明け前から日没直後迄、鯖の浮上魚群を視認して素早く旋かねばならないので、双手旋きばかりであり自社運搬船も中型一隻程度保有するのが多く、全く自社運搬船を保有しない網元も可成りあった(固定経費が少なくて済む)。従って生月旋網船網元は契約運搬船を多く必要とした。
昭和26年頃より対馬沿岸部では昼間の浮上鯖群が殆どいなくなったので、魚探船(集魚灯船兼用)を採用し、双手旋網漁船は少し波浪があると双方の船体が当たり合うので非常に危険で操業不能となり、小船体等不利な面が多く、昼張(昼間投網)の必要も無くなったので昭和20年代の末期頃より、大型の六〇~八〇屯型の一隻旋きの鋼船網船に転換されていった。一隻旋きだと風速15m位の時化でも楽に操業出来る。風速20mでも何とか淩げる。風速25mの荒天下、対馬の距岸二十浬の漁場で夜明けから巻き込む事になった。先ず左舷を曳航してくれる魚探船と電話で入念な打合せを行い、左舷中央部に曳索を取付けてから魚獲魚網に右舷を取り付け、船首索及び船体中央索を旋網本船に取り付けた。波浪が高いので船首を風上に向け、魚探船は左舷斜め風上方向に全力で曳航するが、当方の船体はどうしても風下に流されそうになるので、当方はエンジン前進停止、前進停止を絶えず繰り返し、約3時間程要して二〇〇〇箱を巻き込んだ。大時化でも巻き込み作業が出来ると云う事は、永年に亙る高度な操船技術と旋網船団と運搬船との熟練した作業手順の呼吸の合った賜物である。
旋網船団の大型化及び性能向上に依る大量漁獲傾向の定着化に伴い、運搬船の大型化も必然的に要請される様になり、金宝丸が先ず昭和31年初頭、第三住吉丸(約一〇〇屯、日発ディーゼル低速二七〇馬力自己逆転式 大崎造船所製 洋型船)を建造就航させた。積載能力九千箱(約一三五屯)である。29年、田中春吉氏が八第八蛭子丸(約八〇屯 中古エンジン焼玉エンジン二〇〇馬力 大崎造船所製 洋型船)を就航させた。積載能力は六千箱であった。カは32年末で旋網の運搬を打ち切った。理由は先ず「冷蔵貨物列車とびうお号」の輸送力増強に依り、下関港で買取りの機会が少なくなり運賃運搬だけでは妙味が無くなつた事。次に対馬、壱岐の冬期活鯛の集荷が軌道にのり始め漁獲量も増大してきた為、大型船で運搬する必要が生じてきた。冬期の対馬海峡は時化が多いので、活鯛を活魚槽に広く活かして魚体のスレを防止し、対馬海峡の渡航を下りも上りも容易にする為である。は生月の契約旋網船大吉丸(網元船原氏)の強い要請に依り第二十一住吉丸の主機を中古ディーゼル一六〇馬力に換装し、昭和35年頃迄、通年稼働した(遠くは尖閣諸島海域迄)が大吉丸も自社の鋼船運搬船が整備されて来たので打ち切った。
昭和27年秋、突如対馬に変化が起きた。根緒漁協がと契約したのである。若丸が魚代金の支払いが半年も遅延するとは既に聞いてはいたが、その反動が出たと推察された。早速、根緒の吉中駐在員を訪ねたところ彼は非常に困惑した状況の中にあった。先ず活簀場が良くない、根緒湾は外洋に面して湾口が広く奥行も浅く、根緒漁港は比較的に大型の鯛延縄船が隻数も多いのに、港内が狭くて水深が浅く多少風浪があると港内に迄、大きなうねり波が入波、退波となり、長く連繋して設置してある二十台もの竹生簀が絶えず大きく揺動して、荒魚(その日獲れたばかりの魚)が餌付かない(飼馴れない)のである。又、延縄船の活鯛の取扱いが非常に手荒く、漁獲したばかりの活鯛を狭い一活間に押し込んだまま沿岸で日没を待ち、餌の活マツイカを釣って他の活間に広く餌活イカを活かして帰港してから生簀へ受渡しをするのである。翌朝のソグリ(弱い魚を選別して活〆にする事、十年間経験しないと一人前になれない)で先ず三割~四割のソグリ鯛が出てしまう。尚、残りの鯛も活簀場が不良の為、餌付かない。餌付かなくても運搬出荷せざるを得ない。大阪市場迄の運搬途中でも又、二割~三割のソグリが出て、活けて大阪市場迄着いた活鯛もひどくヤセてスレ傷も多く、哀れな魚体商品で、上着(買付けて積込んだ数量のうち活きて大阪市場迄着いた率)も三割~四割と散々な結果となり、もうこんな状況になると仕入金額が売上金額を大きく割り込んでしまう事になる。漁協及び船主会に実情を説明し、取扱いの改善、操業方式の見直し等、極力協力を要請したが、長年の習慣はそう一朝一夕には改善されず、吉中駐在員を始め会社が数年間難儀をした。若丸さんが根緒浜を手放した理由はここにあった。
1月になると更に状況は悪化した。対馬海峡の最低水温13℃、下関海峡及び宇部沖で9℃~8℃、備讃瀬戸、播磨灘で8℃、神戸で8℃~7℃となる。活魚槽の水温は最低でも11℃は保持したい。上り下関海峡に入る時は一活間の片活間の立栓を殆んど閉めて船底部の二枚だけ開いておく。一方エンジンの冷却水(水温40℃~35℃)を活魚槽の中央部にパイプを一本縦に通し、片活間毎にストップバルブを取付けて上から分散放水し(図1)、常時水温計で測定し乍ら航行する。水温が下ってくると一枚の立栓を半分に切断し半立栓を差し二ヶ所開く(図2)、一ケ所にすると酸欠の危険がある為である。時化て船体がピッチング(上下揺れ)すると、船底の二ヶ所の開栓ケ所から冷水が噴き上り又水温が低下する。これを防止する為、立栓の底部をクリ抜いて噴き上げ防止栓を使用した。これは非常に効果があった。立栓差しには立栓ハサミ(図3)を使用した。根緒の活鯛は11℃の水温に耐えられるのは少なかったのである。
図1 | 図2 | 図3 |
昭和28年夏、厳原漁協に内紛が発生し少数の元組合長派が分裂を計画、に契約を申し出て来た。代表が来阪し小生も二神から上阪し会談をしたが、結論が出せず少時らく成行きを見る事にした。すると反対派は次第に切り崩されて残ったのは三隻だけとなってしまった。しかも厳原港内には漁協の同意が得られないので活簀の設置は不可能となり・・・
続
*日野逸夫氏は、仲積船の元機関長で青年期から晩年まで瀬戸内海の漁場から大阪本場まで<活魚船>で運搬船業をしておられたが、平成20年(2008年)に77歳で死去された。
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