生船座談会の記録 1986年2月6日

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生船史研究会
聴取り A:日野顕徳氏、B:日野逸夫氏、C:その他
場所 神戸市大日水産2階会議室

A 今年、78歳、富島に生まれる。家は代々漁業で9代目にあたる。父は数十人の漁夫を擁する網元だった。小学校5年の時、酒と米を売っていた母が病気となったので、水車で精米するようになった。
 3年経って、精米をやめ父と漁業をした。イワシやサバ仔を獲るが、漁獲が減少した上価格も安かったので、父に600円をもらい、堺の伯父(鎌かり)に1,000円を借り、室津のワタコウから中古船を1,030円で購入した。残りの金は買付資金(仲金という)とした。
 あらゆるところに買付船が出ていたので、山口県祝島に入った。祝島には中村良介、岡本金次、北川、ハマヤ、ワタムラソウタロウ、森根彦太郎の6軒の問屋があった。
 
 ―以下テープ―
 
A その他に「清宝丸」とか「協栄丸」とかいうような6軒の中から1つずつみな行っとる訳や。その中へ中村良介という「さつまや」へ私は入ったわけや。1年やって2年目に6軒のうち3軒おさえた。おまえはやり手や、世話してやる。やりがいがある。向こうへ行けば自分の子供の様に非常にかわいがってくれる、めし食え、酒は飲まなんだけども、お菓子食えいうて、それは大事にしてくれる。それがきっかけで1年後には6軒のうち3軒、うちと契約するいうて、契約しました。
 その3軒というのは岡本金次、森根彦太郎、最初の中村良介の3人。それから始まって明る年は、あの辺に牛島というとこがある。祝島と室積との中間に、2キロ位だろうか周辺・・・・。そこはハモの産地でね、夏のハモが非常にたくさんとれるとこで、そこへ行って又、契約してね。
 それと相前後して室積がある。今の光市。そこへ行ってそこにも西の浜と江の浦と2つあって、丁度小さい半島の西側が西の浜、室積町西の浜、東側を江の浦、室積町江の浦、その両方に1つは「わたしげ」綿重慎太郎。
 綿重は江の浦の方、西の浜の方は秋本亀太郎―。
 そういう事で祝島からはじまって、牛島に上り、牛島がさらに室積の西・東両面へ上った・・・・。
C 室積へ上られた年は何歳位?
A まだそその時は20歳。それが1年1年そうなって行ったから・・・・。20~21歳の時やな、又、それに続いて翌年は下松に・・・・。丁度室積と光市と徳山との中間ですワ。そこもハモがようけとれるとこや。
B ねらい目はみんなハモですよ。大阪と京都の夏祭りのハモですよ。
A 私、ハモ好きになったんや、なんですきなんいうたら、ハモたくさん積めるねん。タイやそんなんやったら100貫目積めても、ハモやったら3倍くらい300貫位積めるねん。
B タコと同量位積めるんです。ハモはね。
A 単価は、タコというのは上やねん。それで又、値段の上り下りがタコや他の魚より、今の相場せいうたら、上り下りが非常に多い。それが興味や。他人のない時やな、波があっても風があっても、他人が船を碇でとめてもこっちは海やって行くという、ちょっと激しい性格や・・・・。
C ハモを入れておられた先はどこですか?
A ハモを入れた先は「カマカリ」=「カマサダ」、その息子は「いさお」やけど、親父は何だったかな・・・。
C 「カマカリ」と?
A 「カマカリ」と大阪の雑喉場の「神平」。「神平」というのは鷺池平九郎の屋号です。鷺池平九郎ってご承知でしょ。今でも鷺池平九郎っておるでしょ。
C それから他になかったですか?
A その2つやった。
 それから、明る年は徳山と下松の間に櫛ガ浜というのがあって。その前に粭島というて、地図にものっとると思います。そこへ行って、そこもハモの産地や、徳山市やここはね。そこへ行って、そこのハモも又、契約して、続いて今度はその向こうの富田という所がある。富田のハモは量は少ないのやけれども、骨のやわらかい、きめの細かいええハモやねん。それにほれて富田のやつも又・・・・。
 そういう事で山口県熊毛郡のほとんどをみなこっちの支配下に治める。その時23歳や。
B その当時はハモは夏しかないんですワ。冬場の荷物に困る訳ですワ。
C ハモやっておられた時ね、1年間通してみたらどのくらい買付に出ておられたん?
 一年中という訳にはいかへんでしょう?
A その間では魚島にいて5月には住友の精錬所のある伊予の四坂島。あそこもやっぱり1ヶ月くらいしか漁期がない、タイのとれる。その漁期は1ヶ月で、2,3万貫位はとれたやろうな。
 ハモが出る以前にはそれをやって、それが終わったら、ハモにかかる。ハモが終ったら、もう最終的に瀬戸内海の事業は終わりや。それで終わったら淡路へ来て、船の模様替えですワ。今度は朝鮮江原道へ行ってヒラメを釣るねん。今、江原道は韓国やな。そこへヒラメを釣りに行く。それがだいたい2~3月まで、3月にもどってくると、やっぱり船をじょう換えして、船底を掃除したり、又もう一辺タイを積んだりハモを積んだり。
 これは一つ一つ模様替えせんならん。活魚艙の中を換える。やっぱり荷台が変わったら、みんな変えていかんならん。船全体を変えるんじゃなくて、中の装置を換えんならん。そういう事で、一年中こうまわった訳。それが、わしの自慢話みたいやけど、他の人は朝鮮へ行ったら半期は遊びや、夏中仕事がのうて、私は朝鮮へ行って帰ってきたら船の模様換えして、魚島のタイを積んだり、ハモを積んだり、それが終ったらすぐヒラメに切換えて朝鮮に行くというように、年中休まなんでん。
C その時、船は何隻?
A その時はまだ2隻や。
C 21歳で2隻か。
A その時分には2隻やけど、もっとも淡路の富島で80隻あったけど大きなタイキ馬力入れて、一番速力があった。
C 船の規模はどんな・・・?
A その頃は20トンいうたけど、今やったら40トン位あるか?40~50トンあるやろな
C たけは?
A 61尺あった。横幅が12尺。
B 20トンか30トンぐらいの船だったですワ。
A それで80馬力の優秀な機械を入れて、80馬力やけど、今のこのディーゼルの馬力でいうたら2倍も3倍もあったやろと思うワ。馬力の呼び名は80馬力やけどナ。
C どこの会社の発動機ですか?
A これはナ、「きしろ鉄工所」。明石に「きしろ鉄工所」というのがあるんですワ、大きいですヨ。
C 焼玉ですネ。
B 焼玉です。「キシロ」と「前田」とあったナ。
A ここに前田鉄工所もある。それはまあ、内燃機は神戸発動機もあったし、今の阪神もあったし、木下鉄工所あったしネ。そういう鉄工所がこの辺に大きなのが数社あったけどネ。
C 朝鮮で買ってみえるのと、瀬戸内海で買ってみえるのとは出荷先はちがう訳ですか。
A いやもうほとんど一緒。しかし、朝鮮のヒラメの場合は一部神戸の「こまがえし」がある。一部。
B 姫路からネ。
A それがどういう事やいうたら、タイやハモは一挙に1隻分船に積んだら全部大阪や堺に入る訳や。
 ところが、ヒラメに限っては、一辺に売ったらぐっと値が下がる。それで「こまがえし」いうて今の長田区、シェルのタンクの手前に「こまがえし市場」というて市場があった訳や。ここの中央市場ができて合併してここに一つになったんやけど、それ以前はね・・・・。「こまがえし」。
 だからその次に今の三菱の所には「南の浜」という小さい市場あって、この下には「宮前市場」いうて、それも又小さい市場。その一つ向こうの大崎には何とかいうたな・・・・。それから芦屋にもあったし。
 そういうとこは、一つの「こまがえし市場」を通じて、ちょびっとせいろに1杯か2杯かやったし、直接にうちらは商いせなんだけどね。そういう市場があったという・・・・。
B 「宮前」て「灘」と違うか。「宮前」いうたらこの「七の宮神社」の真下やないか。須磨の海岸みたいに砂っ原や、その当時。そういう事で1年の事業はその当時は終わるけど、それからだんだん船はふえるし、11年から富島産業K.K.になって・・・・。
C K.K.になった時、数えでおいくつ・・・・。
A 31歳。
C そうすると、その間に何隻位になってた?
A その当時3隻やったナ。私は他所が7~8隻あってもね、2~3隻でねそれと同額の仕事した。それはどういう事かいうたらね、例えば大阪で売るワ、淡路に寄らんのですワ。寄っても大阪で油を積むか、大阪で油が補給できない時は淡路に寄って油と氷を積んでそのまますーっと山口県まで行きますのや、そうすると3日に1回や、他の連中は大阪で売ったら一旦淡路に帰って一晩寝て、明る日10時頃にならなんだら船が出ん。そうすると、同じに行ってきてもうちは3日、他は4日。山口県まで行く船も他の経営者で2~3隻おったけど、山口へ行ってまた、一晩休みや。そうすると合計5日や。うちは行ってき、行ってきやから3日に1回と経費がそれだけ油代がよけいいるだけ、他の経費が全て3:5やからね。そういう事で山口県のその一円も全部私の縄張り・・・・こういうことです。
B 労基法違反で船員が嫌がったんですワ。
A それは船員は一晩泊らせ、泊らせいうて・・・・。一月に1回か2回は泊める。やっぱり魚は大潮小潮がある。大潮はハモ縄が休みやねン。そうなると行っても荷物がないとか少ないとかいう時に休む。一方はみな船員は給料で親方日の丸やから、大阪で売ったら淡路・富島へ行って一晩カカさんと寝な出ていかんワ。向こうへ行ったら又、一晩泊らな魚積んで出てこんワ・・・・。5日になるとよ。うちは3日や・・・・
C その時は乗組員は何人位乗ってたんですか?
A 6人。
C 6人というと親族の他に一緒に乗ってた人はおられない?
A 朝鮮の人も2・3人きとったナ。朝鮮へ買いに行った時に「おまんはごはんたきするか?」と・・・・その当時は「かしき」という名前やったワナ。「飯炊き」「炊事係」の事を。そんなんを3人位つれてきて、船1ぱいに1人か2人乗せて・・・・。それ以外の人は富島の人や。
B 船が大きくなって船員が不足してきたんですワ。それを補強するために安いしね、韓国人は喜んできたんですワ。日本に行けるいうて。その当時はタコは積まなんだ?
A うちはタコはようけ積まなんだワ。ま、祝島にもタコは若干あるけれども、荷物の1/3位はタコも積んだやろうな。ハモが2とタコが1。これは戦後の話やけれど、タコが1/3でハモが2/3位やろな、山口県の場合はそれから四坂島やら伊予の今治あたりはタイばっかりや。魚島のさかりでこれはもうタイばっかり・・・・。
B タイはもうかるしな、社長。魚島のタイはもうからんしな。天神祭りや京都の祇園祭りの時、大潮になったらハモが暴謄するんですワ。大潮にハモはないでしょう。モナベ(?)ばっかりですからネ。
A 他の大きな「清宝丸」という船主なんかはその当時7~8隻位「清宝丸」という船をもっていたワ。それからここら(B)の嫁さんの出生・浜口実右衛門でも9隻か10隻あったワ。
B 10隻あったワ
A それの他に「夷丸」というのも9隻位あったやろな。そういう中で3隻の船でそれと相前後して売上げがあったんやからナ。
C 「エビス丸」というのはどういう方ですか?
A 岡西・・・・オカリの前やから。
B その以前に東浦町あたりから朝鮮へ「カレ曳き」いいましてね。漁船なんですワ帆船のネ。その底曳網で「打瀬」でしょ、帆を張って・・・・。
A 手繰り・・・・。
B 手繰り・・・・東海岸、トウゲンあたりでヒラメを自分でとるんですワ。
A 大正時代やな、昭和のに入って徐々に減ったナ。
B 自分で活け簀を作って、海へ浮かべといて、自分でとったヒラメを生かしとくんですワ。船に満載になるまでとめといてネ。例えば2週間とか3週間とか漁をして、自分の船に積んで帆走で、12~13メートル位の小さな船で2本柱たてて・・・・。これを「カレ(ヒラメ)曳き」というて北淡町からでも、東浦町からでも大部船が行っとったですワ。それは社長がまだ小さい頃で・・・・帆船ですヨ。先生の行かれた富島の東浦町だけでも5~6隻の船が出とったですワ
C 図書館でそれ聞いたワ、ぼくが行ってる頃やから、85歳くらい・・・・その方々はやってらっしゃる。韓国へ、それは帆船じゃなくて・・・・。
B だからね、隣町の「とのち」なんてとこありますネ。「いこま」なんてとこありますネ。そこいらは船を仕立てて行っとったですワ
A 11年から富島水産K.K.。この人(B)の嫁さんの伯父になるのが県会議員の「浜口好」。これは「浜口実右衛門」の弟であって、当時は浜口実右衛門と一緒になって、共同経営というか、兄の手伝いをしよった。それが政治的野望もあって、「淡路の将来は事業を個々にやったのでは競争になってつぶれてしまう。1つにしたら他県には大きな団体はないから、競争なしに楽に商売しょう・・・・。」という事で富島の運搬業を集めて、会社にしたわけや
B 10年頃に五島列島へ行って、この富島の大手業者が血みどろな買い手競争やったんですワ。
A 五島の玉の浦といって3月頃より2ヶ月位早くタイがとれるのやナ。我々は戦後行った訳や。戦前は明治時代に資産を作った人が3つも4つもおって、そこへ割り込んでいくだけの力がなかった。その連中が競走した。値を上げて、取り合いの競争やってそれで儲からん・・・・。それで富島全部合同してK.K.にしょうやないかというのがはじまりや。
 ここの親父は「日野嘉右衛門」の弟で、分裂する前(戦前)は兄の手伝いをしていた。手伝いはしていたけれども、当時私は浜口実右衛門とは縁の兄妹で、家内の一番上の姉が浜口実右衛門へとついでおるのでな。そんな者が「若い者の芽をつむような事をやる。」と「我々は若い」と「若さによって開拓するのや。」と「年寄りは財産を作ったらやめとけ。」というようにえらい元気やった。それをやるのが私と、そこの親父の2人やった。それが皆縁の兄妹、そんなんばっかりや。他のもんはそないいうて「浜口好」にやられたら、皆オロオロしとるんやけど、それに向かって行くのが反発するというか。「浜口好」がそれをまとめるのに1年かかった。それは結局は「顕」わしや、「春吉」ここの親父や、それが1番姉の婿さんやからな「浜口実右衛門」というのは、「お前らそんなに気張ってええのんか?皆のせんこと反対せんと、皆が仲良くして一緒にならんか、春吉も顕も反対して何もかもひっくり返しているのやないか。」と、女の姉妹同志でいうてたらしい。嫁さんにかかったら男はかなんワ。「2人だけ気張って反対してどないするの。一緒になってやったらええやないの。」いわれて、わしも納得した訳や。我々その当時30歳やもン。商売したって向こうは6~7杯もってるし、こっちは2杯や。それで同額の商売しとんねんや。今いうたように3日と5日の違いやと理解しとんねや。なんぼでもこい。船が6杯でも7杯でも問題やないと、要するに合理的に利益をあげて、能率をあげてやることが我々の勝利やと。我々はそれをやりはじめてるのに、出鼻をつむような事をいうな・・・・という論議があって・・・・けれども最後には一番姉婿から言われたら、今と違って本家だの兄だの姉だのというと押さえる力があった。論理ではなくて・・・・。11年4月21日だったと思うけど同意した。我々にはどんな待遇するねやというたら、2人は取締役やと、給料は70円やとその時いうた。他の船を7~8杯持ってる明治頃から財産作ってきた人も70円や、わしも30歳で70円や、いうたらいうだけ得やと嫁さんに自慢したもんや。実右衛門の大将も、夷丸の三木の大将も、寺ほどもある家を持ってる人もや、みんな一緒や。
B ・・・・(不明)はいくらやった。100円か?
A 100円や、「嘉右衛門」のおっさんと、「忠太郎」は80円、わしら取締は70円。
C それが分散するというか・・・・いつ頃ですか?
A 分散はしなかったけど、12、13年頃から支那事変がはじまりますのや。支那事変当時は我々に影響もなかった。油の統制もなければ魚類統制もない。もっと大東亜戦争(大平洋戦争)に入ってたけなわになった時分に、油が配給制度になる。魚の統制令が出る。それと相前後して船は生船も徴用に行く。さっきの優秀な速力の早いのは1番先に徴用にとられてしもうたもんな。数隻、富島水産の1号とか、いい船は皆・・・・。
C いい船がとられたのは何歳の時ですか?
A 昭和16・17年やろな。
B 昭和16年12月に戦争がはじまったんやから、私は昭和17年位やと記憶してるんですがな・・・・。朝鮮におって・・・・。
A その時分は36歳位やな。その船は私の船ではなくて、富島水産K.K.の船になっておるから、私に関係はない。会社が現物出資しておるのやから、徴用や招集がどんどんきて、若い働き盛りの船長や機関士だのいい奴はどんどん行き出したワナ。そこで営業停止せざるを得なかった・・・・。
B 自然休業ですワ。
C 最終的に営業停止になったのは?
A それが昭和16・17年位だったと思う。
C それはちょっとおかしい・・・・。
B おかしい事ないですヨ、そんなもんですヨ。開戦直前ですモン。統制は発布されてますモン。
C 一番最初に徴用にとられたのが16・17年頃・・・・。その頃もう休業状態だった訳ですね。
B そうですネン
A それからもう一つショックになったのは統制令ができたら、公定価格ができとるワ、公定価格ができたら・・・・。
C その統制令がでた時はまだやってたんですか?
A しばらくはやってた。
C 統制令がでたんは14年でしょ?
A 統制令がはじめてでた時はまだやってた。さあ、2・3年位あったかな。それが産地高で、消費地の差が5%しかあらへん。それで成り立つはずがない。そこで多少、神戸や大阪へもって行った訳や。ところがそれがひっかかって、会社の経理と営業部長と岬のこっちに兵庫署があって・・・・。入ったのは嘉右衛門(この人(B)の親父の兄や)、三木文吉の息子と角一という経理部長と2人、1ヶ月程入ってた・・・・。
C それは日野さんのおいくつの時?
A 歳はね、37位。それで船は徴用になるワ、人は招集されるワ、油は統制になるワで、そこでもう休業した。
C 戦後やりはじめはったんワ?
A 戦後は、25年からはじまっとる。
B てがうヤ社長。5トンのイワシ積みにいったのは20年の秋か、21年・・・・。
A いやいや、イワシは・・・・。
B イワシで儲けな船できへんや。
A いやいや、何もかも一辺にいうたら・・・・生なら生の、生き物なら生き物を通しといて・・・・こっちで何年頃にイワシを積んだとか、朝鮮行ったとかいわんとややこしいのとちがうか・・・・。
B 生きダイとスズキの統制撤廃なったのは、24年4月1日ですヨ。その時、大阪の中央市場へタイを積んで入ったのはぼくが第1番なんですヨ。4月の何日かやった。それでぼく今でも覚えとるんですヨ。
C それが最初だったんですか?
B 但し、その時は生じゃなくて氷詰でした。夜中のしばダイのタイをネ。
C イケが入ったのはその年ですか?
B その年の夏にはイケになりました。6月頃やったと思います。
C イケはどこで仕入れたんですか?
B 愛媛県松山近海。
A 統制がとれたんは2段階にとれた。第1段階にとれたのは高級魚の24年4月、25年1月以降、全魚類が統制撤廃なった。
C もう一辺やり返したときの仲間の船は何隻位・・・・?
B 7隻もってました。その時の船は第7協和丸、3号、株式会社の船ですワ、8号もおったな。75、71やあれ・・・・。
A 71や、あれでイワシ積んだ。
B 3号、7号、8号、71号それから・・・・。それがネ、オンボロ船ばかりですネン。主にネ、徴用は海軍が取って行ったんです、いい船は。残ってた船はオンボロばっかり。
C どの位の船ですか?
B 小さい船で20トン位、大きい船で40トン位。もともと全部活魚船ですヨ。
C 徴用されとって?
A 残った船を港につないだったんや。
B 徴用に行ったんは1つも帰ってこないですヨ
C それは出してないんですね
A とってくれないんですよね。
B 性能が悪くて徴用はずれになったんですヨ。それで富島は貧乏になったんですワ。大手の一般業者のように政府の造船時補償金受けてませんしね。独力でやったんですワ。戦後の復興はネ。
C その「軍資金」はというのは全部自前ですか。
B 自前及び主に大阪の魚市場ですワ。北淡町のようなちっぽけな生船活魚業者に都市銀行みたいなん1銭も融資しませんネ。それで五島列島へ行ってヤミのイワシでね。残っとった船ですね。
A 終戦当時7~8隻残っとる富島水産会社の船かりて、元船主であったその船を現物出資した人には貸しましょうという富島水産の役員会で決まった訳や。で、うちは最初に出資した船であればその船を借りれる訳や。そういうようにして残っとる6~7隻の船を皆に貸した訳や。主に活魚にしてタイやタコを積みに行く人もおるし、九州の長崎県の方へイワシ積みに行ったり、様々だった。ウチらはまた、元の祝島、山口県の熊毛郡を中心に又、縄張りしてもうけたんナ。そういう事もあって、こちら(B)も古い連中も思い思いにやりかけてたけれども戦後はウチが大がかりにやって縄張りが大きかった。
C 16、17年頃に自然休養みたいになって、それから24年までの間は休業状態でしょ、富島水産は。その間はそれぞれは・・・・。
B 自分で食え!ですワ。会社から何もないですモン。
A そりゃ、給料とめたもん。何もせえへんのやから、やれまへんもん。
B 会社にも全然資産ないんやもん。
A 今吉や、ここの嫁(実家)の浜口実右衛門やの、三木文吉やの、そういうことは明治以来儲けて田が20町、借家何十軒と持っとるモン。我々は働かんナ・・・・。
B 海軍は徴用船料なんぼくれたん?
A 忘れた。それはわずかなもんや・・・・けど、最終的に沈めて、もろうたんはなんぼやったかいナ、これも会社へ入った・・・・これはウチの船やなくて会社の船やからナ、出資したんやから。
B いくらもろうたんですか?
A そりゃもろたんや。話は余談になるけど、戦争中は220トンの貨物船買うてネ、材木や貨物積んでネ、戦争たけなわになってから、富島水産営業休止になったんで食わんとならんし、財産もあらへんし、そこで思いついて、天津もいった、韓国の興南も行った。いろいろやってきた。しかし、戦争が激しくなってその220トンの船も最終的には徴用に行ってしもうた。南方の・・・・どこやらに沈んだいうて、数年してから4万円代金くれた。金主さんと半分ずつした。
B ほんとかいな。戦時補償打ち切りにしたんでしょが・・・・戦後?ちょっと信じられ話やナ・・・・。
A 戦前であったか、戦後であったか・・・・。
B もろとったとしたら戦前ですよ。戦後なんて1銭も・・・・。
A 戦中やったかいな。4万円もらった・・・・。
C 終戦前ですナ・・・・。
B そうですワ。その時にネ、船長と機関長行っとるんですワ。
A それは皆ウチが船につけてやった人や・・・・。皆帰ってきいひん。
C 復活して・・・・いつ頃までやっておられたんですか?
A 復活して今もまだやってますワ。
C だんだん減ってきますワナ。株式会社としてネ、仕事・・・・。今でも残ってますか?
A それで復活したのは私個人、日野顕徳個人でやったんです。ここら(B)もやったですネ、兄の手伝いじゃなしに、兄は兄で、弟は弟でやるし、嫁さんの里の浜口実右衛門もやるし・・・・。経営体が10位あったように思いますナ、今からでも出ますワナ。それが我々の方が他の経営体よりも資金的には有利やったかナ。大部ヤミやったモン。このオッサン(B)・・・・。
B いやいや、そうじゃないんですよ。終戦の時、小型の貨物船2隻もっとったんです。それ111で、その時ばっと他を引き離してしもうたですネ。
(・・・・中略・・・・)
A 大日水産K.K.の時は船はなんぼあったん?
B 7隻位じゃなかったですか。27年位から6隻か7隻位で毎年1隻位の割で造っていきましたからね。22年ですよ。はじめて造ったの、自己資金でネ。
A はじめは大阪へ頼るたって、大阪も同じこっちゃもん、我々とナ。大阪雑喉場で大金持いうても、みんな新円旧円で金押さえられたという、それがいつだったか思い出せへんけども・・・・。
B 21年の3月・・・・。
A みんなそういう事だったさかいに、金に余裕があるはずがないネン。せやさかいにその当時は大阪の資金援助は受けておらん。
B 大阪市場からの資金援助がはじまったのは25年から26年デスヨ、・・・26年位からです。
A 復活して中央市場になってからや。
B 富島水産K.K.はですネ。戦後、魚の商売しなくなったのにネ、鉄工部がありましてネ、鉄工部がずーっとそのまま営業を続けとったんですヨ。途中で富島産業K.K.に社名変更しまして、現存してるんです、その会社は。それが今そっくり社長が買い取りましたんでネ。
C いつ買い取られたんですか?
B 7、8年前ですネ。
C あれは3つあったでしょ?鉄工部と製氷部かなんか・・・・。
A 製氷は戦争中に氷作る必要がなくなって、止めたら機械も工場の中も荒れてしもうてナ、閉鎖したまま・・・・。
B 鉄工所は、50年位まで経営しましたヨ。鉄工部はネ。50年にやめました。あの敷地も社長のもんですヨ。そっくりそのまま富島産業K.K.のもんですヨ。あの敷地もネ。
C ― 資料説明 ― 省略
A ハマチ養殖、タイ養殖―それらを生かす技術というのは何というても、明治、大正、昭和のはじめにかけた富島の運搬船の技術がそのハマチの方へも伝わっとるわけです。
B 伝わってそれでもハマチだけ運ぶ船やけれども、これはまあハマチと他のものと質的にも若干の違いはあるけれども、やはり300トン位の船は今貨物専門に運んどる船は2隻位あった。我々の買うて売るといった事業は終わった。
 ところが次に運賃積で、そして我々がやったんは100トン以下40~50トン位の船で買うて中央市場へもって来たんが、我々のやってきた道やけれども、今度は300トン400トンの船を作って大量に積んでこれ運賃ですワ。自分で買取りせんで、運賃で移動する船が今20隻位ある。それが今の大半ハマチを積んで京阪神、また東京までやっておる。その技術というものはなんというても富島が作った魚を生かすという技術がそれに加わる。こういう事ですナ。
 このような状態になって行った原因はですネ。瀬戸内海の漁場汚染による漁獲高の激減ですね。これは第1、第2は漁獲減に伴う競争ですヨ。運搬船業者が少ない魚を競争して買うようになったでしょ。それも1つの原因なんですよ。倒産していったんですヨ、みなバタバタと。倒産していってですネ、大阪魚市場から資金借りとってですヨ、これも未払いですね。倒産してお手上げで返済不能というような業者が大半なんですヨ。負債を整理してですネ、荷受け会社にも迷惑かけずに、借受金も返済したというのは非常に少ないです。それがまあ最大の原因でこれだけ業者も減ってきたというのはそれでですヨネ。最大の原因は漁獲減なんですヨネ。漁獲が減らずにそれまでの漁獲を維持していたら、業者は減ってないでヨ。それにさっき社長のいわれた活魚の技術ですヨネ。技術という事になりますと。水産技術になりますワネ。運搬技術とかネ、そういう技術面なりますワネ。これが水産経済と水産技術密接な関係がある訳ですワ。それに私達は子供の時からどれだけ泣かされて・・・・そんなに簡単に運べるもんじゃないんです。魚痛めて、涙出ますヨ。技術の事いいますと、船から活魚艙、エンジンから先人達が改良に改良を重ねて苦労して現在のものになってきた。
A 船の事はナ、幸いな事にウチは自分の所の船を昔のまま木造で今でもやっとる訳や。非常に小規模で人数も少ないし、自分とこの船だけやからナ。そのために富島の造船所を残しとる訳や。せやさかいに、これは昔の船を書けいうても書けへん。その当時の船も知っとる。まだ今なら。
B 55,6歳か、今も棟梁ががおるからナ、まだ今でも造っとる訳ですワ。
 「活魚」を生かす技術なんてのはネ、魚を買い取って活け簀に入れて、買付して船に積み込んで、時化の日も水温の低いときもあるし、それは涙ぐましい努力がいるんですヨ。
A まず、タイ・・・・ものによっては非常に違うけれどナ、「タイ」の場合は推進40メートル、30メートルもあり、60メートルの所にもおるワナ。まず釣り上げる。又、網でとる。でも一緒に、皆ひっくり返って腹を上にして。海の底におる時と上と比重が違う訳でしょ。そうするとここのうけの何が自然的に調整されとる訳、上へ上ったらやくひりょうがないから、浮かす力がいらん訳やナ。そうすると、はねなんか上へ浮いてしまってタイの腹の半分くらい水面から上に出るワナ。それを生かすためには丁度このタバコの太さの位の木の先のとんがった「はし」やな、腹うらのへそがありまっしゃろ、タイというのは。それからすすんでうけを抜いて、まっすぐ2、3メートル位泳げる比重に合わせるために空気を抜いて調整する訳です。まず、それが第1。それから今度は水温のいかんによって随分違うけれどもナ、夏と冬と違うけどもナ、やっぱり平均して一週間位は広い活け簀に入れて静養させて力をつける。一週間もしたら、やっぱりタイの色も変わってきます。釣った時と違って、黒みがかって、うろこなんか下から上に釣り上げた時なんかバアッとしまっとる。色もこんぐらいとして体が見るからにタイの締りができてくる。締り方を見てから輸送をはじめるわけやな。仮に一昼夜で大阪に着く距離もあれば、二昼夜、三昼夜いろいろありますけれども、その距離とそのタイの締り方、それを我々普通にいう言葉は「買付け」といいますネン。そういうようにしてやれば、大阪までかって、神戸までかって、それが浮いたままでやったら途中で皆死んでしまうけれども・・・・これはタイだけ。タコはタコ、ハモはハモ、それが魚によって1つ1つやり方が皆違う。
B 今、社長のいうた「タイの空気を抜く針」なってもんは非常にむつかしいもんでしてネ。10年位そればっかりやってないと一人前にならないですワ。10年位。生船の連中でタイの針なんてする者おらんですヨ、漁師じゃないから、あれは漁師が釣ったときにするもんですからネ。ぼくは慣れましたヨ、ぼくはやれますヨ、今でも。
A タコに水をやる事、真水半分塩水半分のとこで、1~2時間おけばタコが水を吸って皮と肉との間へ真水が入って、2割か3割位ふえるやろナ
C 2割の浸透圧の加減でね・・・・
A 富島と離れた話やけど、総括してそういう風に大阪雑喉場あるいは中央市場の金を引っ張り出してきて、その金使って富島の生船が一応は盛大にやったけれどナ、金持った者はここの「夷丸」と「金宝」と3軒位や、これは明治からやったさかいナ。人が目をつけるまでに金もって田んぼ買うた、家買うた。よけい財産あったけれど、それからやったもんはもう皆儲けた。やめて皆裸で、借金だらけで・・・・。
B 裸でやめたんはたくさんありますヨ。魚市場に迷惑かけて借受金も返済せんとネ。
A 大阪の人のために淡路の人が裸で食うだけもろうてしてあげたというのが、富島の後に残った姿はそういう事やな。
C 社会奉仕みたいにいわはるけれどネ、漁業というものはそうなんです。漁業者というもんはそうなんです。実は淡路島の歴史はずーっと古くてネ、歴史に残っているよりもっと古くから漁業の本性を伝えている。漁業の本性というのはどうなっていくかというと、商業に展開していく・・・・。いわゆる最近の地主式の蓄財していくようなそういう商業と違うネン、漁業の持っている本性からいうと。
B ぼくはネ、今生きてたら100歳越える人から昔聞いた話沢山ありますワ。食えんかったんです。富島で。いわゆる出買えに行かんことはネ。冬なんか何も食えへんかったそうですワ。生活ができないんですヨ。動力船ないでしょ、時化てばっかりでしょ、食えんかったですヨ。しかたなしに出買えに行ったんですヨ。今でいう出稼ぎですヨ。熊野の勝浦あたりの帆船のマグロ船の出稼ぎにまでいってますがナ。富島の人が皆食えへんかった。
 鹿児島市内にネ、それ社長「第8大丸」ヨ・・・・何水産?・・・・中野水産ですワ。港近くに事務所ありますワ。第8大丸という船をここで造ったんですワ。100トン型を54年位かな・・・・港へ行けばすぐ・・・・特徴がありますから、この上がネ、第8大丸ですワ、中野水産ですワ。桜島のネ、何ちゅう所ですか、鹿児島の真向いの所で養魚場やってますワ。垂水のちょっと南側、ちょっと回った所ですわ。
C ― 章別構成 ― 省略
C 生船が出たのは富島だけですか?
A いやそれが生船の事業を見習って下津井辺に波及したし、又、一部九州の方へ波及した。これは何十杯という大きなものではないけれど、これは1隻か2隻、広島にも1隻。その船を建造したのはだいたい皆富島や。
B 他にもありますヨ。他にもあるけれど、中心は富島やけど富島水産になる時もうすでに入ってくる。
C 富島水産になったのは、富島出身だけでなくて淡路島全域を・・・・。
A それはもう浦の方にあったし、小さくいえば仮屋にもあったし、今はもう北淡町で1つになっとるけど、その当時からいうと、富島域の4~5キロ離れたところに室津とかいくやろ、その時に3隻か5隻というのはバラついて・・・・。
A ああ、それ以外にも九州にも宮崎県にも1隻とか大分県にも2隻とか、それから広島県にも1隻2隻あったとか、バラバラと下津井にもやっぱり6~7隻あったかナ・・・・。そういう事で、いずれも技術というものは淡路の富島がもとであった、それからまあ分散して行った訳やナ・・・・。
B 北淡町は富島、鞆の井、室津と西へみんな生船あったんです。生船の買付はネ、ずーっと瀬戸内海沿いに集中していますネ瀬戸内海沿いに集中して、一辺に韓国の方へ飛びますでしょ。あの間九州近辺とかそういう所は全然とばしてるんですか?
C いやいや、そうでもない。あのネ豊後水道、それから九州北半分。
B 高知の方・・・・行ってますけれど、結局どんどん・・・・ネタが足りなくなったんで、それで韓国へ行ったんですヨネ。今ネ韓国から非常に大量のタコが輸入されてますけど、ごく少量食べますけどネ、だから韓国の漁民はタコとる方法知らなかったんです。
 
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注、座談会時の発言をそのまま活字に直しているが、文意が通じるように一部、修正している。