2.岩屋港の記憶

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 ここに一枚の写真がある(写真1)。現淡路市役所総合事務所内岩屋公民館所蔵のパネル写真である。岩屋港を一望できる城山(現在は個人所有のため入山不可)から撮影されたもので昭和35年(1960年)頃の港の賑わいを知ることができる。ちょうど、濱田さんが生船に乗船していたころの岩屋港である。国道までの浜辺は砂浜で、つり船が多数引揚げられている。中央の桟橋先は、明石と岩屋を連絡する播淡連絡汽船の乗船場で、「おれんじ丸」が接岸しその手前に「からたち丸」「すずらん丸」が繋留されている。桟橋には乗客がならび乗船を待っている姿が見られ、国道には下船した乗客が利用する淡路島内を巡る淡路交通バスが待っている。次に街並みを詳細に観察すると、丘陵上には国立明石病院・岩屋分院(現存していない)の大規模な建物が見られ、播淡連絡汽船「おれんじ丸」の奥には、瓦葺の木造二階建ての中に、鉄筋三階建ての淡路信用金庫(現在は空き店舗)がある。現在は砂浜が埋め立てられ過去の景観は失われているが、現在の景観を当てはめる場合の定点となる(写真2)。当時の高校生の中には、播淡連絡汽船で明石の兵庫県立明石高校に通学していた者も多かったそうだ。

写真1 昭和35年頃の岩屋港


写真2 現在の岩屋港

 岩屋は古くから漁師町(写真3)であることから漁船の造船が盛んな所だった。(写真1)中央左手に淡路造船、写真右下の木陰になっているところには東根造船所があり、明治になって鮮魚運搬船や機帆船を造るようになった。また岩屋港は明石海峡に面しているため港内にも潮流が流れ込み、活魚の貯蔵にも安全で都合がよかったことから港内中央に生簀を設けて活魚をここに蓄えていた。生簀には大型の明石型生船3隻と鰯漁船が見られ、地元はもちろん、瀬戸内海から集められた活魚が集荷されていた。また、円柱型の燃料タンクが並ぶ岸壁には小型の明石型生船8隻が艫付して接岸している姿が確認できる。さらにその奥には生船で使う氷を割る機械が設置されている。濱田さんは昭和20年代後半から30年代の岩屋港の姿ではないかと話す。

写真3 昭和5年以前の岩屋港
停泊する多数の和船の中央に合ノ子形生魚運搬船が停泊。右奥に見える石垣上には観音寺(現存)、中央には「千鳥館」と屋根に書かれた建物(現存していない)
『日本地理風俗大系第十一巻 四國及び瀬戸内海』1930年383ページより

 生簀では、集められた活魚の入札が行われていた。昭和45年頃(1970年)には、久丸、阪栄丸、長生丸、岩栄丸、喜久丸、神部丸などのイチアケやシモ区域から活魚を運搬する生船があった。いずれの生船も四間から五間の生間があり、10t後半から大きくて30tクラスの生船であった。特に久丸は30トン級の大型の生船で、遠く長崎県五島列島や対馬まで航海していた。現在では生簀はなくなり、淡路町漁協製氷施設の前から桟橋でつながる荷揚げ場所が取引場所となっている。
 小型の生船は、昭和40年頃(1965年)大阪湾の巾着網と契約し活躍していた。最初はマエにあたる大阪湾、淡路島周辺、播磨灘沿岸地域から活魚を輸送するために建造されたが、大阪湾におけるイワシ巾着網漁が盛んになるにつれて、イワシ専門の鮮魚運搬船に改造転用されていった。
 岩屋にも生船専門にしていた業者が7~8軒、イワシ専門の鮮魚運搬船は小さいけれど二十数軒も業者があった。淡路市育波の金宝丸冷蔵株式会社も金宝丸など複数の生船を所有していたが、生船業界では淡路富島の大日水産株式会社が一番大きかった。岩屋からも大日水産株式会社山九造船所に船大工が通っていた。
 次に、写真をもとに岩屋での生船乗船について聞き取りを詳しく行った。