3.鮮魚運搬船 乗船の記憶

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 濱田さんが主に乗船していたのはこのイワシ専門の鮮魚運搬船である。
 生船は独特の形なので印象深く、岩屋でも当時は繁盛に見ることができた。生船乗船は決して楽な仕事ではなく、寝る間がないぐらい中々大変な仕事だったという。
 はじめに乗っていたのは、明石型生船と異なる幸丸(船主大濃)であるが、その船の調子が悪くなり、次に南淡路の丸山漁協が富島で造った山九型の生船に乗っていた。最終的には丸山漁協が富島で養殖ハマチ運搬用に造っていた丸山丸(20t未満)を、船主(大濃)が再び買ってきたのでその船に乗組んでいた。
 
イワシの加工屋と網の関係
 昭和40年頃(1965年)、大阪湾の巾着網漁(運搬船)はイワシの加工屋と専属契約をしていた。漁は夜明け前から始まるので朝早く岩屋港を出港した船は、大阪湾で合流し、漁に随伴している手船の所で順番にまってイワシを鮮魚運搬船に積み込んだ。順番によってはその日に魚がないこともあった。その時は漁船の出先で一泊して翌日の漁を待った。その出先での買い物や娯楽も楽しみの一つであった。寝るときは船に帰って寝ていた。
 
生船でのイワシ運搬
 イワシは活かして運ぶ活魚でなかった。加工場まで距離が近いので鮮魚として氷詰めにして運んでいた。縦70cm、横40cm、深さ10cm位の長方形のトロ箱(岩屋ではセイロと呼んでいた)に入れていた。イワシ用は一般的なトロ箱よりも一回り小さく、使いまわしのため、オフシーズンには洗って積んで干していた。また必要な量は自作していた。業者によっては屋号が印字されたセイロを使っていた。空のセイロは積めるだけ生間に入れ、その他はデッキに置いていた。イワシは網から船に上げる時点で氷(すて氷)を入れていた。それをセイロに移し、さらに上から角スコップで薄く氷をかけて1箱を作る。300箱から500箱を生間に積み上げていた。バラス状の破氷は舳先に近い表(さきだい)の生間に積んでいた。すぐに使用するものなので、生間に保温材などは設置していなかったが蓋に布シートをかけたりして保冷していた。
 岩屋港には製氷所がなかったので明石中央製氷冷蔵(大明石町)から三輪トラックに積み込んで、フェリーで岩屋に送ってきていた。岩屋商店街の西端には上林商店の氷保管庫があり、国道側にトラックから積み下ろし用の扉が約1mの高さも設けられている。そこから生船が接岸する所まで運び、ブロック状(120kg)の氷を岸壁にあったクラッシャー(写真5)で砕きながら鮮魚運搬船に入れていた。なお氷は市販され、切売りされていた。同じような生船に破氷を供給する設備は明石港の入口にもあった。

写真5 クラッシャー(岩屋港)

 昭和45年(1970年)頃、繁丸も活魚でなく、鮮魚運搬船としてイワシを積んで大阪湾や播磨灘で活躍していた。最後に乗っていた丸山丸は三菱製のディーゼルエンジンを搭載していて、大阪まで2時間位で行けた。生船に乗った当初は殆どが焼玉エンジンを積んでいたがその後、どの船もディーゼルエンジンに変わった。長野鉄鋼も盛んに、エンジンを作っていた。三菱製の90馬力のエンジンに過給機を付けて、120馬力にしていた。活魚は鮮度が命なので、速度が遅いと間に合わなかった。その頃は10t~20tクラスの小型の鮮魚運搬船が20隻以上も活躍していた(表1)。
表1 岩屋港の鮮魚運搬船(10t~20t)と業者名(1970年頃・濱田氏による)
船名業者船名業者
仲吉丸山末住吉丸行司
昭和丸松下住吉丸拝原
三昭丸卜七中川
住吉丸福丸平田
住吉丸神戸菱丸長八
幸丸松川菱丸長左衛門?
照福丸繁丸
栄丸西浜まるやま丸大濃
豊丸岡野重丸米ヤ
金寅丸松尾

乗船末期とその後
 昭和50年後半(1975年代)濱田さんが40歳位の頃になると、チリメンを専門に捕ることが多くなった。そのためイワシ専門の鮮魚運搬船が不用になった。イワシは周期的に増減を繰返すので減少の時期ではあったものの、仕事ができないというほどの減りではなかった。それにも関わらずイワシよりもチリメンを多く獲るようになっていった。
 その頃はハマチ養殖も振るわなくなっていたが、南淡路の丸山港ではハマチ養殖が行なわれていた。黒潮の境の流れ藻に集まっているモジャコと言われるブリ稚魚をもとめて、5月中旬から6月下旬にかけて南は宮崎県延岡市北浦町宮野浦(一昼夜かかる。交代制ではない)、東は三重県志摩半島の志摩、近くでは和歌山県有田郡湯浅町まで買い付けに、丸山丸(船主大濃)をチャーターして行っていた。ハマチの餌にはイカナゴの大きくなったものを獲っていた。
 最近はイワシがいなくなってチリメンジャコの加工に代わっているが、当時はカタクチイワシの親そのものを獲ってきて湯がいて干して、煮干しに加工していた。明石にも林崎から垂水にかけての海岸端にはイワシの加工屋がかなりの件数あった。加工屋は一軒ごとに決まった船と取引していた。岩屋にも加工屋があった。
 大濃水産ではイワシの加工もしていたので、生船を降りた後に40歳位からイワシ加工の仕事をしていた。夏場には姫路市家島諸島(播磨灘)の坊勢にカツオの一本釣りの生餌用イワシを買い付ける船が、淡路の沖を行き来する姿がよく見られた。
 また、大阪の中央卸市場に岩屋・富島のタコを積んでいったこともあった。中央卸売市場に行くには大阪湾から安治川を上がっていく。タコは水を食わすと目方が増えるが、塩分の濃度は日によって変わる。生間から手で直接海水を口に含んで塩加減を感じ、ここぞという時に栓口に木栓を閉めて、生間の海水を抜いてタコを〆てから荷揚げしていた。昭和50年後半になるとほとんどの生船が廃船していった。
 
補足:イワシの増減と漁
 イワシの減少には大阪湾で行われていた屎尿投棄も関係しているのではないかと考えている。
 昭和48年(1973年)まで大阪湾周辺の自治体は、屎尿処理施設や下水道終末処理場が未整備なまま都市人口の急増した結果、処理不能になった大量の屎尿を大阪湾に海洋投棄していた(清掃法昭和二十九年法律第七十二号による特別清掃地域内の汚物処理の一環として、やむを得ず海上投棄を行っていた)。神戸、尼崎、芦屋などの沿岸主要都市から専用の屎尿投棄船(ババ船)を使って、毎日、何回も投棄しに来ていた。船の下側の扉が「ぱかっ」と開くと、海水より比重が軽い屎尿は、もくもくと排出され幅広い黄色い帯になって海面に広がっていった。漁師は屎尿で変色した海を「黄色い海」と呼んでいたといい、生船でアナゴを運んだ時には、周辺に屎尿投棄船がいないにも関わらず糞尿特有の臭いがするときがあった。屎尿投棄は沖合で行われていたが、たまには海岸に漂着することもあった。しかしイワシはこの屎尿投棄物に沸いて豊漁になったと漁師仲間はみんな言っていたという。海洋汚染防止法の改正により昭和48年(1973年)4月1日以降、瀬戸内海への屎尿の海上投棄が全面的に禁止され、和歌山県沖の外洋に投棄するようになると、イワシが徐々に獲れなくなった。現在であれば衛生面で批判を受けるかもしれないが、逆に海の為にはそれが良かった。このような理由で以前ほどのイワシの豊漁が期待できなくなった為、チリメン漁に移行していったのではないかと考える。『尼崎市の清掃事業史』尼崎市環境事業局1988によると、昭和26年7月に屎尿投棄船「左門丸」が竣工し、大阪湾への屎尿投棄が始まった。昭和30年5月には「第二左門丸」も竣工し、海洋汚染防止法により禁止になる昭和47年8月まで、屎尿の大阪湾投棄が続くことになる。船には約300石入りのタンクが積載されており、このタンクからホースで水面下5mのところに航行しながら注水する。この方法により海水と屎尿の比重の関係で、屎尿が水面に浮かないという。大阪・神戸では、底開きといって、船の底を開いて、一度に流すので水面に浮かび上ってくるという。近い所で捨てると、底曳網に脱脂綿や紙が引っかかって、漁船から苦情がでるので船は一万二千米沖合まで出た。この内容から濱田氏が目撃した屎尿投棄船は大阪・神戸から投棄に来たものだったことかわかる。
 現在、大阪でも淡路でも煮干しは無く、大阪では時期が来たら沿岸の漁港から何隻かの巾着網漁船が出るだけである。以前は巾着網にともなって大阪にも小型の生船がいた。大阪湾でも岸和田あたりの漁師がシラス捕り専門の船曳網に変わってきた。そのシラスが大きくなってカタクチイワシになる。冬になると大阪湾のイワシは明石海峡を抜けて下(播磨灘)に落ちていく。全部のイワシがいくのではなくかなりは残るけれど、昔の人は時期が来たらイワシを追って播磨灘に獲りにいっていた。最盛期の10月、11月頃、明石海峡を抜けて播磨灘に入った辺りが、イワシのあぶらが抜けて煮干し用に最適になる。下津井あたりでは大掛かりな巾着網はやっていないがイワシ専門の漁師がいる。ちょうどその時期に油のぬけたイワシが獲れる。夏場でもイワシはいるが、油をもっており品質的には劣る。正月前にイリコを送るという風習は、その時期に良い製品ができるためである。