4.生船での生活

121 ~ 121 / 370ページ
 船には船長、機関長を含め4名から5名が乗っていた。
 生間は船の大きさによって変わる。呼び方はブリッジから船首に向けて「大間(おおま)、中の間(なかのま)、一の間、二の間、・・・」であった。生間にある換水口は一間あたり30箇所ほどであり船では栓口や木栓の大きさは全て同じである。それは船大工によるところが大きいと思われる。換水口には銅製の目処(めど)が組まれ、穴のまわりも銅板で巻かれていた。木栓をはめるときは、栓口に木栓をあてがい、足でドンドンと押した。横(舷側部)は力が入れづらかった。外すときは木槌をつかって前もってゆるめておき一斉に外した。浮いてくる木栓は木箱に入れて保管していた。また、換水の量を調整する時には半分に切ったような形の木栓を使うこともあった。冬場も生間内に潜らないといけないことは大変で、酒や辛いものを摂って潜っていた。最後の方にウェットスーツが出始めたが、当時着られたのは大手の進んだところだけであった。
 また、今回のようなイワシ鮮魚運搬を専門に行うためには、海水による換水を行う必要が無かったが、空の生間で作業をするには、木栓が出っ張ってトロ箱を積みにくかった。そのため、全ての栓口に和紙をかませてアカ止め(水漏れ防止)として使い、木栓は削って薄い栓に変えていた。この段階で生船から鮮魚運搬船への改造がされた。また生船として使うときは栓を作りなおしたら使えると考えられていた。
 生船乗りは、過酷な仕事(寒さ・酒や辛い食べ物の摂取)であったため、早く亡くなる人が多かったように感じる。仲間同士でも生船乗りは早死にするという話をしていた。
 網の関係で岩屋に戻らないときは、出先の港に停泊し船内で寝泊まりしていた。船で食事もするため船尾部には小さな台所があり、食材や酒、醤油、味噌、カンテキ、プロパン、生水タンクなどを積込んでいた。カシキと呼ばれる調理見習いが食事を作っていたが、凝ったものは作れなかった。出先の街での買い物や娯楽も楽しみであったが、基本的に寝るのは船であった。トイレは適当で、船によっては船尾の後ろに突き出した釣り便所がついているものもあった。
 賃金は給料制と1年総決算の二つの方法があった。濱田氏は必要な分をもらって都度使っていたため、詳しい金額は覚えていない。自分で細かく管理はしていなかった。
 岩屋でも当時のことを知っている人はいなくなったが、船の模型を作っている人が何人かいるのを知っている。その人達ももとは船大工かもしれない。岩屋でもよく探したら生船の模型や写真を持っている家があるかもしれない。以前に聞いたとき、家を建て直した後で「資料は全部捨ててしまってない」と言われたことがあった。しかしヒサマルであれば、昔の家のままなので何かあるかもしれない。世代交代しているのでわからないが、いずれにしても生船を調べるにはもう20~30年遅いと感じる。その当時であれば資料が沢山あったと思う。