5.淡路の漁業と金比羅詣り

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アナゴ漁
 当時は淡路でもアナゴ延縄漁でかなりの漁獲があった。それを岩屋港内に繋留してあった母船で入札して、生簀に買い溜めておいて、注文に応じてアナゴ専門で堺や大阪へ生きたまま生船で運んだ。大阪港安治川河口の天保山(昔関西汽船が着いていた所)には寿司屋組合が母船を置いていた。母船には竹製の胴丸籠がついていた。アナゴはハモと違っておとなしいので、そのまま生間に入れていた。アナゴの漁が少なくなってきたのと同時に中田商店との取引が始まった。山口県下関の中田商店は大型の生船である正運丸(20~30t)を所有していて韓国とアナゴの取引をしていた。その中田商店が下関で我々の船に積替えて一度に大量に岩屋に運び、岩屋で預かって調整して出荷した。岩屋には森野、森本、佐奈喜、石部などのアナゴ専門の加工屋があった。
 
タイ漁
 昔は富島でもゴチ網で沢山タイが捕れ、その当時、タイは高級魚で値がしたので、毎日のようにマエ通いと言って大阪へ運んだ。大阪あたりの人はこの辺りで捕れたものをマエモンといって重宝していた。紀伊水道北西部にある南あわじ市の沼島にも鮮魚運搬漁をする人が沢山いたが、今は由良港に生船一隻が残っているだけである。大阪湾に面した淡路市の仮屋にも生船があった。今なら活魚トラックで運ぶところを、船で運んでいたので漁港には、大なり小なりそういう生船業者がいた。
 
金比羅さん参りについて
 昭和60年頃(1985年)までは、毎年5月、6月になると漁船で高松港まで行き、四国の金比羅さんにお詣りをしていた。昔は船が出来上がると、大阪の住吉さんか金毘羅さんに行っていた。お詣りに行くときは何々丸と書いたお神酒を奉納していた。一升瓶を2本、多いところは5本を紐でくくって持って行っていた。よく行くところは10本入りの木箱で、銘柄は白鶴が多かった。それを船に積んでいくので金毘羅参りに行くことは見てわかった。まるやま丸では5,6時間程かかっていた。岩屋でも昔はみんなで行った。今でも毎年冬に、車で嫁さんを連れて金毘羅へお礼参りに行っている。