6.東根造船所

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 岩屋あたりの船主の間では東根造船所(写真6)で生船を造って乗りたいというのが願望であった。東根造船所の生船は浮かしても格好が良く、船自体を大変丈夫に造っていた。東根造船所の船は船大工それぞれの専門分野を生かして上手に作られていた。淡路市富島、たつの市室津辺りでは20t以上の大型の生船を造っていたが、東根造船所では大体20t位までの小型の生船を造っていた。その当時の船大工は誰もいなくり、岩屋で商売しているものはFRP(繊維強化プラスチック)の船に代わっていった。大日水産富島造船所(山九九)の生船は、ブリッジ前面が曲線で造られたり、煙突やマストが独特の形をしていたりしたので見分けがつきやすかった。平成4年(1992年)まで生船(明石型生船)を使っており、大日水産株式会社が最後であったのでその名前が有名になったのだと思う。

写真6 (株)東根造船所(岩屋港)

 岩屋には岩屋港東隅、一文字防波堤の付け根の所に(株)東根造船所(屋号ヤサ)、その西寄りに主に鉄鋼船の造船や修理をしている淡路造船が現在も操業している。終戦後の活魚運搬船復興期に東根造船所は、昭和22年(1947年)に第十五住吉丸(62尺)、第十五金宝丸(65尺)、昭和23年(1948年)に第十六住吉丸(67尺)、第六金宝丸(70尺)の大型の活魚運搬船を次々に建造した。当時は北淡町富島の大崎造船所とともに活魚運搬船を造船していた淡路島の二大有力メーカーとなった。現在、FRP漁船やアルミ漁船を作っているが昭和50年代(1975年代)まで生船造船においてはメーカー中のブランドであった。現在は国道28号線で造船所と事務所兼資材倉庫に分断されているが、昭和36年(1961年)の岩屋港航空写真を見ると現在の国道まで海岸線が迫っていた。
 一階の資材倉庫・作業場には生船を造っていた頃の船大工道具が道具箱の中に一括して残されており、摺合せ鋸、両鍔鑿、接合面の隙間にマキハダをつめるときに使用する鑿打、釘締めなどが確認できた。また倉庫内には購入当時のダンボール箱に入った亜鉛掛けの縫釘、皆折釘、棚には鋼鉄製ボード、丸タック釘等とともにチョウナ、日向弁甲材でできた生間の蓋(サブタ)が残されていた。なおこの蓋は弁甲材の板材2枚を縫釘で合せ、釘穴を埋木で埋めているもので木造船の技術で作られていた。また、作業場の奥にある図面場の天井には、生船の建造に使われた型板が複数確認できた(写真7)。

写真7 型板

 二階の事務所には、生船(第八一榮丸)の進水式等を写した写真(写真8)や、船霊さんとその中に入れる二つのサイコロが一つになった作成モデルなどが残されている。その奥にはアクリルケースに保管された約150cmの明石型生船の模型が残されていた。同様の生船模型は上林商店、淡路市北淡歴史民俗資料館(淡路市浅野南240大日水産株式会社日野逸夫氏寄贈)などがあり、非常に精密に作られていることから船大工の手によるものと考えられる。生船が見られなくなった現在では東根造船所とともに調査対象として重要なものである。令和2年3月5日の予備調査の際に、あかし市民図書館に資料として槙の柾目で作られた4点の木栓の寄贈を受けた。まだ、残っていることに大変驚いた。

写真8 第八一榮丸進水式(東根造船所 昭和45年頃)