1.朝鮮への出漁

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 戦前の朝鮮の人は日本で言う高級魚をたべる習慣が無かったので、あまり漁にでていなかった。アナゴ漁はしていた。朝鮮における私たちの基地は蔚山でそこから今では北朝鮮になっている九連浦まで出かけて行って漁をしていた。随伴する生船が満杯になるまで日本に帰ることはなかった。10月の育波の祭りが終ってから朝鮮に出漁し正月頃に帰ってきた。朝鮮までの航路は香川県多度津、広島県大崎下島御手洗を経由し夜通し走って下関まで3日間かかっていた。そこから1日以上かけて朝鮮海峡を抜けて朝鮮半島東岸の蔚山基地まで行っていた。漁船は10t以下の小型の帆船で、天候がよければ順調な航海であったが、悪天候で遭難することもあった。当時は金宝や山九の生船が朝鮮で活魚を買入れて大阪雑喉場市場まで運搬し、よく儲かっていたと聞いている。
 大阪雑喉場市場(昭和6年中央卸売市場開場以前)は、大阪湾から安治川を遡り中之島の手前の「はたくらばし」の下を潜らないと木津川分流の尻無川に入った所にあった雑喉場市場には行けなかった。和船型活魚運搬船は2本の帆柱を倒すことが出来る構造になっていた。育波から雑喉場市場まで風がない時は全部、風が強い時は半分だけ帆を上げて走っても、櫓漕ぎで6時間程度かかっていたので、出発が早ければ家で夕食を食べたが、遅い時は弁当を持参した。安治川には漕ぎ船専門の業者がいて手間賃を稼いでいた。市場では荷卸しに2時間程度かかった。帰りは何も積まず空船で昼頃に淡路に帰った。帰路途中には海水(アカ)が漏れてくるので、空缶を排水用に工夫したもので掻き出していた。ポンプがなかった時代なので竹筒を利用した大型の水鉄炮(スッポンと呼んでいた)のような手動ポンプで排水していた。帰りの仕事はアカを排水することである。地元の漁師と契約している時は昼に帰ってきて、そのあと活魚を集めて、晩になるとまた雑喉場市場まで出かけたので、殆ど寝る間はなかった。当時は体力にも自信があったのと若かったのでよく続いた。この時が一番商売のことを教えてもらい、市場でも信用が出来た時期だったので仕事がやり易くなって行った。ある時、仕事をしている所をよく見ていた、岸和田の偉いさんが声を掛けて来て、市場の仕事は全てまかしてくれと言われてお願いすることにした。