昭和25年(1950年)・26年(1951年)頃には、長崎県五島列島で網船から直接買い付けた大羽イワシを富島まで運んでいた。トロ箱に大羽イワシを並べて砕氷をかけ、船倉の仕切と仕切の間に丁寧に並べて生船で大羽イワシを運んでいた。イワシは直径2m、深さ50cmの大型のハンボウに、海水を一杯にはって塩を入れて「ちょっと味見はして」一晩漬けて置いてから加工した。初めに頭を取って腹を割って開きイワシ蒸籠に一匹ずつ並べて、乾燥具合を見てから一夜干しとして販売していた。地元の魚屋さんに電話すると加工場まで買いに来た。天秤棒を担いだ売子さんが一軒ずつ農家をまわって売り歩いていた。この辺りの大手の加工屋の多くはこのように大羽イワシを加工していた。冬の一夜干しは油がのって大変美味しかった。
育波漁港桟橋に接岸した明石型生船(左:春日丸 右:住吉丸)昭和38年(1963年)
桟橋には積上げられたイワシのトロ箱
昭和30年(1955年)代中頃から終りにかけて大阪では、大都市の人口増加による屎尿の処理に困って「ババ船」と呼ばれる専用の屎尿投棄船によって大阪湾の真中で屎尿が投棄されていた。その屎尿に大量のイワシが寄って豊漁になった。投棄するときにはイワシが60cmから70cmも飛び上がってあたかも喜んでいるようであった。また投棄船からもれる屎尿にもイワシが群がっており、そのイワシにハマチやサワラが集って漁場を形成していた。投棄船は50tから60tの中古の木造機帆船を改造したもので、船底がパカッと開くと大量の屎尿が投棄され黄色い帯が海面に描かれた。しかし海が汚れている時のイリコを湯がいて干したら油分が多くて黄色くなっていた。6月頃までパッチ網を操業して漁獲したイカナゴも赤く油まみれで食べれなかったので、枇杷栽培の肥料にしていた。今は高級食材になったシャコエビもかっては肥料としていた。
昭和30年代後半、人工化学調味料の味の素が普及すると一般家庭のイリジャコ(ダシジャコ)の使用が減って来たので、イワシを養殖漁の餌として本格的に使用するようになってきた。
現在、大型の活魚運搬船を使っているのは愛媛県宇和島(愛媛県活魚運搬船組合)を基地に20隻程度おり、400t~500tの鋼船で中国海南島からカンパチの稚魚、鹿児島から釣堀用のハマチ、ブリ、タイなどを運んでいると聞いたことがある。木造活魚運搬船には大きさに限界があるが、鉄船の場合は構造が同じで、少ない人数で大量の活魚を積載できる。この辺りより、量は減ったが東京築地市場に運んでいる。三浦半島三崎には香川県漁連、三重県漁連の中継基地があった。トラック輸送が発達するとやはり将来、生船は消えゆく運命だと思う。