4.育波の町の風景

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 育波の町も昔は若い衆がたくさんいて賑やかだった。獲って来た魚を加工すると夜中の1時や2時頃までかかった。風呂屋に「まだ入浴するので風呂の栓を抜くなよ。」とよく声をかけに行った。うどん屋も若い衆が一杯でよく流行っていた。
 昭和30年(1955年)代頃の大型生船(巡航船)には8人~9人が乗り込んでいた。三交代24時間止まらずに走るので、デッキ4人、機関部4人、飯炊き(カシキ)1人が乗船していた。藤本水産は小型生船だったので4人が乗船していた。遅い船に早い船が寄せて来てよく競い合っていたことも思い出である。また、高知県須崎で養殖ハマチを共同で経営していたが、2,3年経過すると色々ともめごとが出来て止めてしまった。また、生船で運んで来たタコの中からコダコだけを抜いて若い衆が横流しして売って小遣い稼ぎをしていたこともある。若い衆の中では当然の習慣になっていたようである。

育波港に停泊する明石型生船 昭和35年(1960年)頃

 初めての電気着火エンジンは大阪の小林鉄工所から購入した。富島の上田鉄工所、山添鉄工所が焼玉エンジンを始めたので、育波の近野鉄工所も焼玉エンジンを始めた。昭和30年代の焼玉エンジンは油が悪かったので焼玉を熱する時に顔が黒くなっていた。エンジンを始動させるには上部にギザギザのネジが切ってあり、そこに火薬をねじ込んで重油を送り込んで圧縮しエンジンを回していた。エヤー駆けと呼んでいた。ホイールは一人で回らない時は、紐を駆けて二人駆けしていた。
 富島には阿部造船所、大崎造船所、大日水産(株)富島造船所があったが、育波には浜が狭く造船所はなかった。阿部造船所で新船を造った時は神戸中央卸売市場の近くにあったガンギ鉄工所の70馬力の焼玉エンジンを搭載したが、焼玉エンジンの型が大きい割には、船が走らず効率が悪かった。3年から5年使ってディーゼルエンジンに置換えた。焼玉エンジンはニツパツ、神戸発動機(神戸赤)、阪神内燃機、木下鐡工、木代などの大手メーカーのエンジンが有名であった。淡路では由良の焼玉エンジンが有名で和歌山県の漁師達にも知られていた。家島に魚の買付に行った時、後から追ってくる船のエンジン音が静かだったことを記憶している。
 育波には明石から生活物資や雑貨を積んでくる機帆船(海渡船)が5、6隻あった。イワシのシーズンには船を改造してイワシを積んでいた。北淡町轟木から富島にかけては淡路枇杷の生産地で、初夏6月下旬の枇杷の出荷最盛期には枇杷を姫路まで運んだ。富島港には富島枇杷集荷場の建物があった。記憶に残るのは姫路市飾磨まで耕作用の牛一頭を運んだことである。機帆船の船腹は深く、大きなクレーンも無い時代なので、牛の足にロープをかけて大勢で船底に下すのに苦労した。子供の頃、淡路島にはトラックなどはなく、この辺りでは江井から馬車が来ていた。自転車は高価だったので何処に行くのも歩いていった。交通機関としてはバスの後部に炭俵と着火用木材をひっかけたボンネット型の木炭バスが走っていた。浅野の西に急坂があって馬力が無い木炭バスが登れないと乗客みんなで押して坂道を登った。また、止まっているバスの後ろに子供が遊びでしがみ付いてよく火傷をしていた。本当に牧歌的な時代だった。
 昔はこの辺りもイカナゴがよく獲れたので、西浦の仮屋や佐野からもイカナゴを降ろしに来ていた。一日の漁が終ると漁師は富島港に漁船を止めおいて、淡路交通バスで自宅に帰っていた。仮屋の漁師と契約していたある年「イカナゴが上がる上る」豊漁過ぎて加工が追い付かなかったので、獲れたイカナゴを1パイ500円払うから沖に捨てて来てくれと頼んだこともある。当時は機械がなく手作業を行っていたため処理できなかったのである。今は獲れなくなったが、こんな年があった事をよく覚えている。育波でも兵庫県の許可をもらって巾着網を導入してイワシ漁をしたことがあるが、イワシの腹が切れてうまくいかなかったのですぐに止めてしまった。春日丸も漁船について沖獲りしていたが品質が悪かった。巾着網は潮が速く、せどる時間が長いとイワンが擦れて痛むし、網の底を早く締めてしまうとイワシが切れる事が多く熟練の技術がいる。生きたイワシは価値があるが死んでしまうと値打ちが無くなる。家島のイワシ漁師は生きたイワシをカツオの餌に売るために、網で獲れた飛び跳ねているイワシだけを曳航するドブネや他の船に移すのである。バケツ1杯で8,000円位する。