当時はまだ養殖が始まっていなかったので、天然魚を求めて熊本県天草諸島、長崎県五島列島、壱岐、対馬まで航海していた。また瀬戸内海西部の山口県柳井市平郡島付近にはタコを積みに小型生船で2日に1航海していた。冬場は大陸から吹きつける北西から西の強風で玄海灘や五島灘は特に荒れた海域であった。下り航路の狭水道で注意しなければならなかったのは、山口県室津半島と長島との間にあった上関海峡で大型船が見えたら速力を落して待っていた。昼間も夜間も通るが夜間の通過は見通しが悪く注意が必要であった。また愛媛県伯方島と大島の間にある宮ノ窪瀬戸(舟折の瀬戸)は潮流が速く、向い潮の8ノットを受けるとエンジン馬力が無かったのでなかなか進むことが出来なかった。大瀬戸(伯方瀬戸から鼻栗瀬戸)の方に迂回することも出来たが、中央に岩礁があり昼間は確認しながら航行出来たが夜間は危険なため航行しなかった。近くでは昭和32年、昭和33年頃(1957年、1958年頃)に小豆島福田港にタイを積みに行った。頭が小さくて形が整った綺麗なタイだった。
小豆島 福田港
天然魚の場合は漁港の生簀に入れて一日か二日慣らす必要があった。漁船から買取って直接生船に積込むと落着きなく泳ぎが速くなって、痩せて鱗が浮いて傷がついてしまい商品として見栄えが悪くなり価値がなくなってしまうので、必ず慣らす必要があった。生船で輸送中も当時はまだ瀬戸内海も濁っていたので、毎日、朝昼晩、全乗組員が集合して生間ごとに箱メガネで魚を観察して、活きが悪い魚は手ダマという小さなたも網ですくって、〆て箱詰めにしていた。活きの悪い魚を放置しておくと他の魚にぶっかって悪影響を与えた。神戸では第一、第二兵庫突堤に接岸して活魚を降ろしていた。そこから市場まで大日水産専用トラックで運搬していた。取引は現金取引で、当時はまだ1万円札が無かったので千円札を束にして新聞でくるんでいたのを見た時は驚いたことを覚えている。給料は昭和32年(1957年)のカシキの時で5,000円、機関員免許取得時の昭和34年(1959年)で21,000円、船長は30,000円位であった。