4.生船での生活と航海

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 航海時の食事は「カシキ」と呼ばれる専門の人が担当していた。米8分、麦2分のご飯に南瓜やわかめの味噌汁、たくわん、かぶらや大根、人参などの長持ちする根菜類を食べていた。菜っ葉などの青物はすぐにしおれてしまうので適さなかった。煮炊きは重油バナーを使っていた。活魚を積んで帰ってくるときは(上り)、運んで来た魚の中で弱ったものや死んだ魚をおかずにしていた。風呂は香川県多度津港で時間調整のため停泊した時などに近くの銭湯に行っていた。基本的に宿泊は船内であった。淡路島富島港を朝に出港すると香川県小豆島大角鼻までの約3時間の間に食事をとり、小豆島地蔵埼を経て、夕方には多度津港に到着していた。砕氷を積む場所は瀬戸内海から港に入ってすぐの岸壁から直接積込むことが出来た。

生船内での食事風景(昭和20年代)


小豆島 大角鼻
右側が風ノ子島


小豆島 地蔵埼(釈迦ヶ鼻)から大角鼻を見る

 トイレは「箱トイレ」がロープで船尾に吊られて設置されていた。匂いがなく自然排泄型の便利なトイレであった。殆どの生船はこのトイレで、船大工に頼んで作ってもらった。富島港では食料の積込や、燃料補給をして出港した。燃料タンクは船尾の右舷と左舷に分かれて配置されており、船のバランスを考えながら片側ずつ燃料を使っていた。途中での燃料補給はしなかった。

播磨灘から見た富島港
かんぽの宿淡路島の手前

 大日水産株式会社で生船は合計18年間乗っていた。途中一時期は遠洋トロール船に乗っていたこともある。はじめに第八住吉丸、第一住吉丸、第二十一住吉丸、最後に伯銀などの生船に乗った。第八住吉丸ではカシキとして乗船し、乗船履歴を持ってから機関員免許を取得し機関長として乗船した。第一住吉丸のエンジンは新潟MD型ジーゼルエンジンで「チョロラン、チョロラン」「シャキン、シャキン」と特長的な音がして遠くからでもどこのエンジンか判った。伯銀はヤンマージーゼル120馬力インタークーラターボ付き(中速エンジン)を搭載しており優秀な生船であった。昭和45年頃(1970年頃)、最後に乗船した伯銀には船舶電話は付いていたが通話料金は現在の10倍位高かったことを覚えている。A範囲とB範囲と呼ばれるものに分かれていた。航海中に香川県引田の生船と出会った時には汽笛を「プー」と鳴らして挨拶を交わしていた。ある時「伯銀よく行きよるな~エンジンいれかえたんか!」と船首に受ける波が白くなって走っているので船舶電話を通して他の生船が連絡してきた事があった。それほど伯銀のエンジンは優秀であった。
 船が自動化していく中でブリッチと機関室を鎖とワイヤーで繋ぐテレグラフが装備されると、船長の指示が直接に機関室に伝達できるようになった。機関員はその指示に従ってエンジンを操作していた。大日水産99トン型の大型生船では船長以下、甲板員4名(カシキ1名)、機関員4名が乗り込んで6時間の四交代制24時間無寄港で航海していた。エンジンの調子を見ながら1時間ごとにオイルを差す他は甲板に上がって船長と話をすることもあった。伯銀には新しく新潟コンバーター逆転機(遠隔操縦装置)が初めて装備された。これは船長が直接にエンジンを操作できるものでジーゼルエンジンになってから使うことが出来た。機関員はエンジン点検とオイルを差すのが主な仕事だった。機関室には機関日誌が備え付けられており、出発港でエンジンを始動してから到着港でエンジンを停止するまでの詳細な時間が記録されていた。これは50トン以上の船が2年に一度受ける船検に必要なものであった。