先祖が五島にて自営業として漁業を始め、父親の代から拠点を戸石とした。私が未だ4歳~5歳の時、記憶にある最初の活魚運搬船は「㐧弐泰榮丸」(30t程度)の明石型生船で、昭和47年(1972年)まで運用していた。建造造船所は不明。ブリッジは防水のため幌カバーをしていたと記憶している。長崎県五島列島福江島に行っていた。
昭和時代には、漁船や中古エンジンの情報を収集し、お客を繋げる漁船ブローカーと呼ばれる人が存在した。泰栄丸は叔父が漁船ブローカー業を営んで居たので、そこからの情報で、兵庫県淡路市富島に売船の現状確認に出向き、売り主との直接交渉で売買が成立した。売買成約時に売買代金の何割かがブローカーの儲けになっていた。昭和48年(1973年)には「㐧弐泰榮丸」の後続船として兵庫県淡路富島の大日水産株式会社から、第五住吉丸を中古船として購入し「㐧五泰栄丸」とした。まだ、船首飾りには山九の一富士二鷹三茄子の模様が残っていたことを覚えている。
省力化と信頼性向上の為、中古船購入後は甲板にある機械を改修した。明石型生船ではデレッキクレーンの動きが主流であった。起伏旋回と上下動を油圧で電磁弁を用いてリモコン操作で荷役する機械を新設した。以前の活魚荷役では、左舷ブリッジ周辺に設置して有る主機駆動のキャップスタンを用いて300kg程度のタブに入った魚を吊り上げ、ハッチコーミング上部まで持ち上げ、定速で回転するキャップスタンに巻いてあるロープを微調整しながら、中立状態を維持しデレッキブームを人力で旋回させ、水面までキャップスタンのロープを緩めて行く事で、荷役していた。キャップスタンの操作は、腕力や即効性など特殊な作業で、其れなりの経験と腕を持った人員が要求された。デレッキ旋回も容易では無く、重量が増すと数人掛かりで旋回させていた。必要以上に動き廻らなければならず、危険度も増すということを踏まえ、油圧甲板機械を導入し安全性の確保と省力化、即効性により活魚の品質を向上させた。また、操舵装置も油圧起動し、自動操舵とリモコン操舵への改修を行った。それ以外の大幅改修はしていない。参考として150頁に第八泰栄丸の船内設備概要を示す。通常のメンテナンス等は、佐賀県唐津市呼子町や長崎県佐世保市相浦、長崎県長崎港内造船所で上架して行った。木造船の建造実績のある船大工が居る造船所では木工補修は一部可能であったが、ほとんどは自家改修した。
2-2 生船の運用
活魚運搬船を持てたのは父親(臼井保)とその弟(臼井勉)の二人が船主であり船長だったからだ。船舶職員は全て身内で、機関長を三男と私がしていた。二隻体制の泰栄丸だったがなにごとも分業だった。乗組員も身内が多く一般公募は少なかった。一隻当たりの船員数は3~4人程度で、甲板機械の省力化も有り、荷役はデレッキクレーンの操作で1人、残りの2~3人で魚を掬う作業になる。航海中は2~3人での交代当直で、1ワッチ6時間程度、4人の場合は、一人賄い方「飯炊き」で、夜航海時はスポットでミッドナイトに2~3時間の当直であった。
船名 | 船主・船長 | 船種 | 来歴/注釈 |
機帆船 数隻 | 臼井寅栄 | バラ積みカーゴ | |
泰榮丸 | 臼井寅栄 | タンカー・鋼船 白物石油輸送 | 山口県徳山港から長崎県五島列島や鹿児島県甑島へ石油輸送 |
㐧弐泰榮丸 | 臼井保 | 30t 明石型雑魚運搬船 | 1973年 後続船就航の為解体廃船 |
㐧三泰栄丸 | 臼井勉 | 19t 活魚運搬船 | 入手不明 1978年 後続船就航の為除籍 |
㐧五泰栄丸 | 臼井保 | 41t 明石型活魚運搬船 | 1973年 㐧弐泰榮丸後続船として大日水産「第五住吉丸」を1,050万円で購入。 1976年 山口県角島灯台沖座礁海難事故。現地廃船。 |
第八泰栄丸 | 臼井保 | 49t 明石型活魚運搬船 | 1976年 㐧五泰栄丸の後続船として吉徳水産「吉徳丸」を購入。1997年後続船就航の為解体廃船 |
第十一泰栄丸 | 臼井勉 | 40t 明石型活魚運搬船 | 1978年 戸高水産「盛漁丸」購入 1995年 事業廃業の為解体廃船 |
泰栄丸 | 臼井晃 | 19t FRP 雑魚運搬船 | 1997年 第八泰栄丸の後続船として田代海運「第十成栄丸」を購入。2002年 廃業の為転売 |
弊社は漁船登録がないので、買い付け業務では無く活魚運搬業になる。得意先は九州西部各県漁連、魚市、漁協、各養殖生活者、水産庁、旧スーパーダイエー、イオン等であった。主要な集荷地域は西九州で九州各県、日本海側富山、福井、京都、兵庫、山口。瀬戸内海側方面の兵庫、徳島、愛媛、広島、山口。以東では三重、和歌山。南九州が奄美大島、さらに沖縄本島まで活動範囲としていた。
運搬する業種はモジャコ・ヤズ・ハマチ・ブリの青物系魚種に加えタイ・フグ・アジ・アラ・イシダイ・クロダイ等の高級品を扱っていた。通常、活魚運搬船と言えば、生きている魚を何でも運べると思うかもしれないが、実は人工的に飼い慣らされたり、餌付けされた物しか安全に運ぶ事は出来ない。基本的には畜養物が主として運搬する魚種である。天然物の運搬といっても、タイ・フグ・モジャコの稚魚系も一旦、養殖筏で飼い慣らしてからの運搬になる。そのため業者の実績や信頼性の面から、活魚運搬の荷主・依頼主の顧客様は活魚を買う側が運賃を負担することが多い。また、魚の値段に「着の幾ら」という事が有るが、これは市場や漁連・漁協等の手配業社が利益と経費等(運搬賃)を含めたあとの金額のことだ。また、「浜値」は生産者が魚単体を売るだけで、その他の経費は含まれていない。そこから運搬を必要とする者が運搬経費を負担する事で、運搬依頼と成る。
ブリ系の青物以外は、活間の四方からロープで水色の網を張り、その中で移送していた。底物系の魚種は、船底に張り付いて掬うのが困難な為、網を張り揚荷役時に網で魚を寄せ掬い上げて、取り漏れがなく短時間で荷役を終らせた。生き物なので短時間丁寧が魚に対してストレスにならないので、商品価値を下げない対策だった。網は使用後に魚の滑りや鱗をホースで丁寧に洗い落して折り畳み、マスト前の空所で保管した。また、網の四隅のロープを活間のU字型の釘に通し、デッキから引くと弛みなく活間に張れるようになっていた。
航海中に、数匹死ぬ事は有りましたが死亡原因は健康状態が良くないことが主である。搭載計量の際、数匹分は「水引」と言って、エラ等に含まれる海水を指しい引いた指数で計算する時の減量分に含まれる。積載する魚種にも寄るが、例えばハマチの場合、魚の健康状態と活魚としての運搬条件を満たしているかを現地で荷役前に見る。健康状態は肌の色艶に虫の付着、各鰭のすれ等で判断する。運搬条件として活魚の餌止め期間と航海予定海域の水温や赤潮等の海水の状態が重要である。悪徳業者は前日に魚の目方を増やす為、餌を大量に遣る事も有り、そういった魚は、航海中に死んでしまう。状態の悪い魚種は、泰栄丸では現地で荷主と相談の上、運搬を断ってリスク回避はしていた。
2-3 生船の構造・設備など
活間は戸立によって仕切られ、数は5艙あったが船首側の1艙は使用せず、4艙8区画で運用していた。1番取舵・面舵~4番取舵・面舵と呼んでいた。内寸は1~3番は同一で一番後ろの4番の長さが1尺ほど長く造られていた。4番は半分がブリッジ下に位置しており、開口部は区画の半分だった。西九州の生産者は生間のことを、活間(いけま)若しくは生簀(いけす)と呼ぶことが多かった。活間によっての魚種の指定はないが、数種類の積み合わせの場合は、密度の関係で尾数が多いと広くて深い艫側、少ない場合は艏側に分配した。活間の内面は水色に塗装されており、夜間の荷役や海水の濁りが有る場合に魚を見やすくする為で、最後のサラエ時や、積み込み時の魚の密度を見る際にも活間の船底が確認しやすかった。
2-4 木栓について
木栓は総数150個。底部4個3列の12個が8艙で、棚板(側面)は1~2番2個3列の6個が4艙、3番の1列だけ3個の7個が2艙、4番3個2列、2個1列の8個が2艙である(図3 第八泰栄丸栓配置図)。開口部の位置は全く等間隔ではなく、開口位置は不規則である。その位置が活魚にとって都合が良いと言う訳ではない。私は、船舶模型製作で木材を使用するが、その経験から言うと、この不規則な開口の理由は、木材の節目部位を利用した為であり節目周辺は目筋が多く木材の繊維密度が高い部位でもあり、節目の処理にも成る事で、不均等の配列に成ったと思う。船底材は節目が多い杉の木を使用していた。
図3 第八泰栄丸栓配置図
潮受けは、船底材及び棚板に開けられた(開口部=栓口)の外側に取付けられた、幅10cm、長さ20cmの木製の突起で、より栓口に船外の新鮮な海水を強制的に取り入れるものである。その形状は底板に対して約120度の鈍角三角形をしており、海水を受けるために底辺を凹型に加工してある。この受け部には50mm~80mmの高さのものがあり、その大きさにより「主受」「補受」と呼ばれる。船底材、棚板には4本の釘で釘止めされている(図4 栓口及び潮受け構造図)。第3図第八泰栄丸栓配置図を見ると、潮受けは主に底板に取付けられており、棚板には3・4番取舵・面舵に各3箇所あるだけある。底板への取付け位置は船首側から船尾に向けて多くなる傾向はあるが、各生間における取付け位置は対象的に配置されている。潮受けには船底塗料が塗られており、船を整備のため上架した際もほとんど目立たない。
図4 栓口及び潮受け構造図
ハマチ類を運ぶ時は全部開栓したが、タイや小型魚の場合は1艙当り底部の7~9カ所のみ開栓していた。積む魚種に寄って開栓する数や場所は変更になる。
木栓開口部には、厚さ0.5mmの銅板を内側から四方に折り曲げて張り釘打ちし、その内側に縦2本、横3本の格子状に5mmの銅棒を渡して魚が逃げないようにしていた。木栓の栓口に差し込まれる部分が緑になっているのは、この開口部に張られた銅板からの銅成分(緑青)の転写で、先端部分のピンク色は船底塗料である。木栓を閉めると船底が汚れるのと同じで、木栓にも船底塗料を塗っていた。木栓への船底塗料の塗付は船をドックに上架した際に、栓を挿した状態で船底と同時に塗るが、栓口に格子状の銅棒が入って居るので、栓を外し陰になった部位を刷毛塗りで対処していた。栓は取り外した際に空気に触れ乾燥するので、付着物が付く訳でもないという理由で船底よりは重視していなかった。
<閉栓作業>
昔は、活間に潜って閉栓作業をしていたと良く言われますが、人員が少なく成るにつれ、潜りでの閉栓作業を行わないようになった。その理由として、潜る事による入浴の問題がある。50t程度の生船の清水搭載量は1トン足らずで、10日以上を8割の限界水位とするので、そのうち生活用水として使用出来る清水はとても少なかった。その為、清水を節約するために、潜り行為を行わなかった。他に、潜る行為での体力消耗を抑える事も理由の1つであった。体温を下げる事も体力消耗に繋がるし、荷役が終わり帰路に就く際、体力消耗したまま、当直に出る事は居眠り等に寄る事故につながるからである。魚種や積載方法に寄っては、揚げ荷役時に水位を下げる事が有るので、その際は仕方なく潜っていた。
通常の木栓を挿し込む道具は、木製(檜か杉)で、長さ2,5m程度、直径40mm程度の竿の両端をステンレスパイプで補強してある。栓側に2本の4mmのステンレスの釘状の棒が40mm程度出っ張りおり、これを栓の中央付近に挿し、開口部に勘で刺し込んで金槌で叩き固定。棒を左右に動かし栓を離脱。栓だけが残り仮はめ込みが完了し、水位が下がり各栓を金槌で増し締め、と言う流れである。その道具を「栓刺し」と呼んでいた。『明石型生船調査資料集・生船写真帳』54頁 図5 木栓実測図の木栓天面にある5つの人工的な穴は、栓刺し棒で刺した痕跡と思われる。
1艘の木栓の仮はめ込みが完了すると、主機駆動の3インチギャーポンプと2インチのギャーポンプにて排水作業を開始する。第八泰栄丸で約50tの海水が有った。排水作業に1,5~2時間は要した。水位が下がると活間に入り、足で栓の挿入圧を高めて自然離脱を防ぎ、木栓が水面から出ると、木栓の頭を金槌で増し締めして作業は完了した。空船での荒天航海時に、船が波で船底を叩き、木栓が抜ける事もあった。
<開栓作業>
通常は最低2人態勢で両舷に分かれて作業を始める。昔は股まで丈の有るゴム製の長靴を使用していたが、重い事で動作が鈍くなるので近年では、胸まで有る胴付き長靴(渓流釣りとかで川に入って釣りする時に見られる物)を装着し作業を開始する。木栓の上部を足で踏みつけ、玄能ハンマ(両端が同じ丸い形状)の金槌で、木栓頭部を左右交互叩き木栓の密着を緩める。この際、水圧に寄って海水が栓口から噴き出すが、少量に留めないと船体中央部で艫側の高低差が低い部分に海水が集まり、開口作業時に支障を来たす。
図5 木栓操作時の様子(3点)
第八泰栄丸 活間は5艙、船首側の1艙は使用せず、4艙8区画で運用していた。
1番取舵・面舵~4番取舵・面舵と呼んでいた。戸立の上に次に詰める木栓
1989年6月27日
底栓を詰める作業。左舷前方のプラスチックの箱に木栓が整理されている。昔は専用の木箱があった。
活魚運搬船における栓口の木栓による開閉は最も重要な作業
活間の全栓(片舷18から20個)を緩めると、左右の作業員で意思を図り、同時に一気に金槌で木栓を叩き開栓していく。瞬間的な事で、10秒足らずで満水状態に成るので、速攻性が需要である。瞬間的に水位が2m近くに達するので、いち早くデッキに上がり、浮いた木栓をタモで掬い一間の作業が5分程で完了する。一気に木栓を打ち抜くが、打ち損ねた栓は、水位上昇し安定してから長さ2,5mの竿が付いた長い専用の金槌で木栓の両端を叩き開栓する。他にも長さ2,5mのペンチ状の木栓を挟む道具もあったが、ほとんど使わなかった。木栓による開栓作業は短時間で終了するので、部外者の目に入る事も無く、開栓作業の詳細や写真・動画は無いと思う。魚種に寄っては、船速からの水流に泳げない魚もいるので、魚の泳ぐ速さに合わせて流量調整を行う。