4.生船生活日記

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 船内生活の中で一番大切なものは清水ある。清水タンクに約1,000リットルを搭載していたが大変貴重なものであった。当然、入浴は基本的にしなかった。夏場でも1週間や10日入らない事もあった。夏場の雨量が多い時には、レーダーで雨雲を見つけ、そちらに進路を向け、先に海水で体を洗っておいてブリッジ上部のバケツに溜めておいた雨水で塩気をとる事も有った。当然、洗濯など出来ないので、着替えは其れなりの数を用意して行く。昭和時代や平成初期は、活魚積み込みの前日に活魚養殖生産者先に入港すると、活魚船の生活事情をご存じの方が多く、自宅に招かれたり風呂入りに誘われたりした。寄港時に銭湯やサウナ等が有る場所では、風呂に入りに行く事が有ったが、銭湯が年々廃業して減ってきている。
 『明石型生船調査資料集・生船写真帳』に記載されている山九の第6住吉丸が、五島列島福江島荒川に良く寄港して居る航海日誌が有ったが、荒川港には岸壁の前に荒川温泉が有った為、入浴目的であった。住吉丸の乗組員と何度か御一緒しました。洗面等に関しては1人1日柄杓1~2杯程度(1杯500cc位でした)に節水して、洗面等を終わらせた。
 陸上給油施設では飲料水はバンカー(燃料補給の事)の際、給水も同時に出来るので、飲料水は給油の際に調達した。他の入手先は、漁業組合等の施設や製氷業者から分けてもらったりした。給水時は、衣類の洗濯が必須でした。タンクの水を新替えする意味も有りましたが、水がふんだんに使えるので、給水出来る入港前は居住区等の掃除や金属部分の錆防止の為の塩抜き等で、清水を使えた。戸石港では、港に停泊する船まで自宅から100mの水道ホースで給水した。
 船内の食事では出港直後の数日は肉も出たが、小型(60リットル程度)の直流24Vの冷蔵庫(ビジネスホテルの部屋に有る様な小型の物)に冷凍室は無く、保管が難しかったので、肉料理は少なかった。寄港先の港で現地調達することはあった。新鮮な肉や野菜が入手出来るのは嬉しかった。おかずは、ほぼ毎日魚だった。(高級魚は幾らでも居ますので)空船に成る事も考え、おかず用に確保した。中には混ざりものの魚が入って居る事も多く、当直中にブリッジの落とし窓から活間を眺めつつ、通常輸送魚以外の魚を見つけると、ブリッジからダッシュして捕獲に行った。2口のガスコンロと、5合炊きのガス炊飯器1台がありました。米砥ぎは海水で行い、清水で炊飯し、食器は海水で洗って清水で塩分除去をしていた。
 食事は、本船は停泊中、朝食7時00分、昼食12時00分(12時前のNHKの天気予報を見てから食事)夕食17時00分。航海中も基本的には同じだが、当直に合わせて個人的に擦らす事も有った。航海中は賄い担当者が一時的に当直交代し、残りの全員が食事を取った。(1度に全員が食べるのも省力化と節水、節約の為)
 トイレは船内にはなく、船尾に取り付けられた「吊り便所」を使った。構造は簡単で、板で箱状に囲まれた内部の左右に板があるだけで、板に乗りしゃがむだけである。
 コーヒー等飲料品は、各自自前で用意していたが、酒に関しては購入する必要がなかった。活魚生産者や荷主から御神酒として頂く事が多く、日本酒や焼酎、夏場はケースごと水氷に入ったビールを貰った。熊本県天草地方以南の鹿児島方面では酒と言えば焼酎を指し、酒屋に酒下さいと言うと焼酎が出て来た。なので、天草方面は焼酎が多かった。
 居住区はブリッジに寝台が上下2個所あり、上部に船長が寝て、下部は船長の私物と船用品の物置として使用した。寝台サイズは長さ1,800mm、幅750mm、高さ850mmであった。艫の機関室後部の区画が船員室で、左右2段の4個所寝台があった。機関長・賄員・甲板員の3名で使用し1個所は物置として使用していた。寝台サイズは長さ1,650mm、幅750mm、高さ850mmで長身者にはきつい空間だった。足を曲げるか、「く」の字型に寝ていた。時化で動揺が有る場合には、踏ん張りが利いて良い事も有った。寝台を挟んだ部位に1,650mm×1,600mmの空間があり、通気の為、350mm×500mmの機関室に通じるドアが冬場以外は開けたままだったので、航海中は主機機関の騒音の中での就寝だった。夏場、艫のデッキ(食事を取るデッキ)は風通しが良かったので、そこで寝る事も多かった。空調は、一切なかった。使用出来る電力の問題でも有るが、DC24Vの小さい扇風機が艫の居住区に1台有るだけだった。冬場、操舵室(ブリッジ)には、さすがに当直者は寒いのでガスストーブが有った。
 寄港先では、外泊は無く船内就寝だった。寄港先は、離島や郡部の宿泊施設などが無い地域であった。朝のスタンバイが早い事も有るので、外泊はなかった。
 外部との通信手段は昭和50年後半には、船舶電話(現NTT DoCoMo)が普及し本船は早期導入したので、陸上の電話回線と直通で連絡出来た。船舶電話の搭載以前は、寄港地での公衆電話で各荷主・生産者と連絡し、長崎市戸石の自宅経由で輸送依頼を受諾していた。船舶電話の導入や同時期の小型冷蔵庫導入により、通信目的や仕込みの為の寄港回数は減ったと思う。郵便物の発送は、寄港地で可能であったが、受け取りはすべて自宅での受け取りであった。
 私自身は、船舶電話の緊急時以外の私用利用が出来ない(当時、通話料が160km迄7.5秒で10円の課金で高額)ので、自動車電話と言われていた時代の携帯電話を私物で所有してた。当時、出先への連絡手段としてポケットベルが有ったが、船の上では一方通行の通信でしかなかったので、ショルダーフォンを所有してた。通話料金は船舶電話と同じであった。