第1節 富島水産株式会社

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 淡路で代表的な活業運搬業者であった富島水産は、昭和11年(1936年)5月21日、創立の発起人であり初代社長となった浜口好氏によって富島に設立された。当時、資本金52万円、活魚運搬船の数は86隻であった19)。主要役員は表の通である。
第3表 富島水産会社主要役員出買先一覧(河野道博著『漁場用益形態の研究』1961)
氏名主要出買先(主要活魚)氏名主要出買先(主要活魚)
日野嘉三右ヱ門五島、熊本田中岩太郎朝鮮(サバ、アジ)
日野恒太郎朝鮮九龍浦(ヒラメ)倉本常吉愛媛県深浦(タイ)
日野吉蔵下津井、愛媛県長浜附近倉本浅吉愛媛県深浦(タイ)
日野顕徳室積(タイ、ハモ)河合寅市釜山(ヒラメ)
日野嘉惣一五島熊本長崎坂西竹松大分県国東半島守江附近
日野春義朝鮮統営(タコ、ハモ)野口浜造朝鮮(アジ、サバ)
宗和源吉山口県家室(タイ)岡高八家室
宗和与志吉朝鮮(ヒラメ)松枝政吉愛媛県宇和島附近(タイ)
宗和春太郎朝鮮(ヒラメ)三木常吉大分県国東牛島
田中泰市平戸附近(タイ)

 これにより、親戚関係の者が多かったことがわかる、この中では、日野顕徳氏だけが活魚運搬の仕事(大日水産株式会社)を現在も行っておられる。
 富島水産は、個人・親戚グループが現物出資して、企業合同を行って設立された。現物出資とは、自分の持ち船を出資するもので、この時はそれぞれの船の評価にもめて4ヶ月位かかった様である。この時、日野顕徳氏の持ち船は2隻だった。設立当初は乗組員のなり手が少なく、1隻の船に韓国人が少なくとも2名はいたという話である。
 この会社の船の出買先は、瀬戸内海、九州東北西岸、南朝鮮で、運搬した魚は、タイ、タコ、ハモ、ハマチ、アナゴ、カニ、イセエビ、アワビなど多種にわたっていた。瀬戸内海は今治地区、下津井地区、松山地区、大島地区に分けられ、各地区に船が配船された。魚は消費地の京阪神地方に向けて運ばれ、大阪魚市場や大阪大水市場に水揚げされた。一方、産地においては、漁協、船問屋と契約を結び、そこには駐在員が必ず常駐していた。その駐在員はほとんどが淡路の人であった。
 この会社の本社は富島にあり、そこには製氷工場・エンジンの修理工場があった。最初のうちは造船部はなく、船を建造する時は富島にある阿部造船所や大崎造船所に依頼していたが、昭和32年(1957年)頃に九山九造船所という、造船部が富島に設立された。設立当初の富島水産株式会社という社名は、昭和35年(1960年)12月24日付けで富島産業に変わっている。そして、昭和47年(1972年)、富島産業株式会社となり、日野顕徳氏が社長となっている。現在では、同じく日野顕徳氏の経営する大日水産株式会社が富島産業株式会社から船を借りて経営しているという形式がとられているが、実際は大日水産一社のことである。以上が富島水産株式会社の変遷過程である20)
 これから、以上述べた会社の変遷を背景に、富島水産の活動について述べたいと思う。
 富島水産は、設立以来活発に運営されていたが、大東亜戦争が起こり、昭和16年(1941年)統制経済となり、魚の統制や公定価格が定められるようになった。魚の買い値と販売価格の差が法律で定められ、その差があまりなくなり、その為営業不振になってきていた。又、油の供給減、戦争による人員不足、徴用船として会社の船がとられていったなどの理由により、戦争中に会社の機能がマヒして魚の買売中止となった。これから、戦後の活動について述べておこう。戦時中に徴用を免れたのは老朽船のみ7隻であった。そこで、昭和20年(1945年)12月頃から、会社の株主が親戚毎のグループを作り、会社から船をチャーターし、それで五島列島へ氷詰めイワシの運搬に行った。このグループの主たるものは日野一族(第3図)で、一族そろってナマセンを持ち活躍していた。

第3図 日野家略家系図(日野逸夫氏談 1978)

 この氷詰めイワシの運搬の時は、ナマセンの構造を持つ船に埋栓(ウメセン)をして、船内に水が入らない様にして運搬を行っていた。それからの日野一族の活動を年を追って見ていくと以下の通りである。
 昭和21年 春(4月まで) イワシ運搬
      夏 統制下の為休業中
      秋 五島列島のイワシ運搬
 昭和22年 春 五島列島のイワシ運搬
      夏 統制下の為休業中
 昭和23年 春 5月22日にタイ・スズキ等の九品目の高級魚の価格統制が撤廃された夏準備期。7月から地元でとれた魚を初めてナマセンで大阪市場へ運搬。(小型のナマセン10~15t)
 昭和24年 1月から各船主が新船の建造開始。
      小型(12t30馬力、約25万円程度)
      大型(30t80~100馬力)
      冬 五島・対馬へイワシ、サバの氷詰め運搬
      夏 活魚運搬を行うが、量が少なく、大阪の安治川へ停泊。
      大型船の建造が進む。
 昭和25年 4月1日に、水産物の全面的統制が撤廃された。この事は5、6ヶ月前に知らされていて、タイ・タコ・ハマチがとれる浜との契約や、生簀の設置などの準備が行われていた。
      夏 魚の大漁。
      秋~12月になると漁獲量が減り、30t以上の大型船は、五島方面へサバ積み(氷詰め)に行った。これは34年まで続いた。当時、日野氏は30の浜を持っており、その80%が漁協との契約で残り20%は庄主と契約していた。
 昭和27年 1月18日に韓国の李承晩大統領が朝鮮半島周辺の広範な水域に対し国家主権を行使すると宣言(李ライン設定)したため、日本の漁船はライン内での操業を禁止された。これにより、ラインの向う側20~30マイルにある済州島漁場(アジ・サバ)を失った。
      秋 五島・対馬のサバ不漁
      福島・岩手・宮城のサンマ運搬(氷詰め魚)(10月~1月)
 昭和28年まで港内で魚を箱詰めしていたが、その後能率が悪いのでやめて、魚場でまき網漁船から直接運搬船へまき込む作業(ずらし込み)が行われた。当時35t型の船で50tの魚が積め、氷は20~25t使用された。当時の運搬の所要の時間は以下の通りである。
     富島・下関間 (24~27時間)
    下関・五島列島間(17時間)
 昭和32年 各地でハマチ養殖が始まり、以後盛んになった。(淡路・家島・四国の太平洋岸・九州の東岸など。)
      大寒波の為、瀬戸内海のタコ不漁。
      他の天然活魚も衰退していった。
 昭和33年 冬季、五島・対馬へアジ・サバ積みに行かなくなった。その理由は長崎のまき網業者が自家運搬船を持つようになり、淡路の船は対抗できなくなってきたからである。また、淡路のナマセン業者が冬場の活魚の集荷に力を入れ始めたことがあげられる。これ以後は、船は一年中活漁船として使用された。
 昭和40年 大不漁、冬場は、壱岐・対馬・五島へタイの運搬に行った。他は寒ダコ。当時、北淡町の活漁船は、戦後自己資金で建造され、35隻あった。
      夏場はタコが主で、他にタイも運搬。
 昭和42年~昭和47年
      ほとんどの活漁運搬船が廃止(第4表)され、大日水産の船だけがハマチ養殖の為の運搬船として使われるものがあり、事業を継続していた。
         大日水産の主な養殖場
          津久見(大分)、北浦(宮崎)
          大矢野(熊本)
          星鹿・大島(長崎)
      タイは、天草・星鹿で20万匹、ハマチは、全地区で、2年もの(5~6kg、ブリ、メジロ)が60万匹、1年もの(1kg程度、ハマチ、ツバス)が約20万匹養殖されていた。1年ものの魚は全部活魚として運搬され、2年ものの魚は氷詰めにして冷蔵輸送された。
第4表 富島の主要活魚船の減少(日野逸夫氏談 1978)
廃止年次船名所有者所有隻数廃止理由廃止後
昭和35年一住吉丸倉本繁市3隻倒産
昭和36年二住吉丸浜口実右衛門2隻後継者不足
昭和40年八富栄丸宗和春太郎4隻倒産
昭和43年カ住吉丸日野嘉右衛門3隻転業不動産業
昭和45年田住吉丸田中常次2隻転業冷蔵庫砂利販売
昭和46年カ住吉丸日野逸夫2隻転業不動産業

 昭和49年~当初は天然魚の運搬が主で、養殖魚がそれに続いていたが、この頃から、売り上げ高においてそれが逆転した。
 現在 ほとんどの活魚運搬船は、養殖魚の運搬の為に使われている。
 今、日本の活魚運搬船業界は大日水産により成っていると云える。以前は室津の金宝丸21)等と競争していたが、今は全く対抗する会社がない。大日水産という社名は、大阪大水市場の大と日野氏の日からとられたものである。このことは、市場から船の建造資金を借りたことを示している。今でも資金の貸し付けは行われている。これは、船主が担保がない為に市中銀行から借り入れないからである。しかし、市場に借金をしても金を返済できない船主もいたし、中には計画倒産(返済するあてもないのに借金して、倒産し、うやむやにして返さずじまいでいること)した船主もいた様である。
 大日水産には現在4隻の活魚運搬船があり、大きさは80~126t型である。現在では、天然魚の運搬では収入にならないので、養殖ハマチの運搬が主に行われている。天然漁で収入にならないというのは、魚がいないこと、乗組員の人件費が高いこと、魚の産地値が高いのに販売値はせりで決まるので経営が不安定だということがあげられる。こういう中で現在、西日本遠隔地から天然魚を京阪神へ運搬する重要な役割を果たしている。
 昭和53年度(1978年)の会社の経営状態を数字の上から見ると以下の通りである。
   ・高級天然活魚       9億円
   ・養殖魚(ハマチ、タイ) 13億円
   ・造船部門         3億円
              計 25億円
 天然魚の数字が大きいのは、魚の量が増えた為ではなく、むしろ減っているのであるが、魚価が上った為である。
 今後の経営方針として会社の方が言われるには、船の数を増やすことは考えられなく、省力化の自動化船(鋼船)になるだろうということだった。
 冬のイケダイの運搬の具体的な例をあげると以下の通りである。
 1月から3月にかけて、壱岐、対馬方面へ出かけるのであるが、地域別に水温を比べてみると、対馬海峡13℃、瀬戸内海西部10℃、明石海峡7℃とだんだん低くなり、魚がその水温の変化に弱く、運搬は難しいものであった。これの対策として行われる事は、水温を上げる為に、船のエンジンの冷却水(40℃~35℃)を水槽の中に入れ、生簀の栓の20枚のうち、あいてる栓を1枚又は1/2枚だけにすることで対処している。
 運搬中の魚の目方の減少について云うと、タイの場合、10~15%目切れする。そして、シメダイ(弱った魚が自然死すると白くなり、商品価値が下がるので、早めに見切りをつけて殺してしまうもの。)が20%位あるので、結局めどまり率は70%となる。又、タイは他の魚に比べて一番輸送コストが高い魚である。これは、数量的に多く積めないからである。例をあげると、35tの船の場合、タイは1,500kgしか積めないが、タコだと6,000kg、ハマチなら3,000kg積める。特にタコは、「水をくわす」(海水中に淡水を40%入れると、目方が15%ふえる)という事が以前は行われていて、割の良いものだったが、昭和40年(1965年)頃からは行われていない。これは、タコは90%位がユデダコとして売られており、ゆでられたタコは65%位の重さになるので、仲買人が水をくわしたタコをきらい、敬遠されたためである。
 これから、富島の漁師や日野一族が活魚運搬を始める以前の様子について少しふれたいと思う。
 明治年間、富島では冬期はあまり魚が捕れなかったので、生活は苦しかった。そこで、冬になると出稼ぎに行っていた。それは、堺、岸和田の打瀬船、紀州・串本のマグロ船、大分・保戸島の船で東シナ海へカジキマグロの突ん棒などであった。この半年地元で漁を行い、冬期に出稼ぎに行くという生活は、活魚運搬が始まるまで行われていた。しかし、これらの出稼ぎの仕事はきついので、出稼ぎに行かない人もいて、彼らは、島内の仮屋へイカナゴの刺し網の手ずきの賃仕事をやりに出かけ、生活は貧しかった様である。日野一族を例にあげておこう。
 明治42年(1909年)、九カ三という3つの日野一族の網元があり、地元でイワシの地引網を行っていた。しかし、量が少ないので魚を求めて大阪湾へ漁師60名くらいをひきつれて出かけた。当時、淀川の河口に福村という村があり、その堤防に土手松(エノモト・松之助)という親方がいた。彼の指導のもとに河川敷に飯場を作り、尼崎、西宮まで行ってイワシ、タチウオ、セイゴ、コノシロなどを捕っていた。そこでとれた魚は親方がさばいてくれた。これは4年間行われたが、結局、当時の金で600円の赤字が出て、その赤字分を網元の3軒で分けて、淡路に帰ってから返済していったのだが、たいへんだった様で、返済し終わるのに5・6年かかったとのことである22)