室津で最も大きかった活魚運搬船は、浜田家の経営していた金宝丸である。現在の浜田三郎氏が活魚運搬業者としては3代目である。以下、順を追ってその変遷を見ていきたい。
初代浜田氏の時代は、明治の中頃からである。当時は動力化船ではなく帆船であった。船は6~8t位、10mくらいの長さで、3人位の乗組員だった。冬期は朝鮮のウルサンを根拠地として、ヒラメ、カレイを対象としていた。当時は、自分たちで魚を捕り生簀に1ヶ月~50日位かけて自分の船に収容できるだけの魚をため、大阪へ運搬していた。そして、途中、壱岐・対馬・上ノ関・下津井などに寄港した。又、合いの季節には、山口県の島々、松山市の三津浜やその沖合いで、問屋からアナゴ、タコなどを買い、大阪へ運搬していた。
2代目浜田仙次郎氏の時代は、大正~昭和初期にかけてである。当時、巡航船が6隻あり、日韓併合時代で、根拠地を朝鮮の麗水に置いていた。昭和初期~13年(1938年)にかけて、全羅南道には指定商人が10数軒あり、金宝丸もそのひとつだった。当時は、漁業組合に取り引きを依頼し、地元に生簀を設置して、出張員(浜居り)を置いていた。この出張員は、重要な所は日本人だったが、その他のほとんどは韓国人だった。彼らの仕事は、自分の浜の生簀がいっぱいになったら手紙で麗水に連絡したり、広い漁場の管理であった。対象となった魚を季節を追って見てみると以下の通りである。
冬 アナゴ(主)、メバル、アブラメ、タコ
春 タコ(主)、タイ、スズキ
夏 ハモ、タイ、スズキ
秋 タコ
当時、朝鮮への航海は2昼夜、現地で魚を積んで回るのに1昼夜かかり、一航海は、6~7日位であった。
又、朝鮮行きの大型の船とは別に、小型の船で、北淡近海、小豆島、愛媛、対馬の長浜のタコ、大分の津久見、大入島、保戸島、佐賀関のタイなども運搬していた。
3代目浜田三郎氏の時代は、戦後からである。彼の時代になってから、船数も13隻となり、最盛期を迎えた。この大きな原因となったのは、彼が、戦争直後、廃船同様だった「金宝5号」で長崎の生月島(いきつきじま)へ行き、サバ巾着網でとれた魚を大量に買い、それを冷凍にして阪神地方に運搬し、大成功をおさめたことである。
彼の出買先を見ると以下の通りである。
・鹿児島、泉郡付近、長島、天草群島、対馬 [タコ・ハモ・タイ]
・釧路、八戸、銚子[サバ](6月末から12月20日頃までだけで、活魚運搬船ではなく、氷詰めにして現地の市場に出荷していた。)
浜田氏が活魚運搬から手を引いたのは、昭和49年(1974年)7月である。その理由として次のことをあげられた。
・瀬戸内海の海水汚染(赤潮)
・天然漁場の減少
・経営に危険性が多いこと(経済、人命)
この3つの中で最も強く言われたのは、経営に危険性が多いことである。魚の価格が非常に不安定で経営が安定しないからである。又、一旦事故が起これば、活魚船の場合補償が徹底していないので、会社は大損害を受けることになる。それに加えて人身事故ともなれば大問題となるからである。しかし、幸いなことに金宝丸は、人身事故は起こしていない。現在の浜田氏は、室津に2,000tの魚用の冷蔵庫を作ったり、明石の方にマンションを経営しておられる23)。