第1節 保戸島

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 保戸島は大分県津久見市に属し、津久見湾と佐伯湾を分つ四浦半島の先端からわずかに100mの水道で隔てられた面積0.86km²の小島である。島にはほとんど平地がなく、標高184mの遠見山を頂点とする急峻な傾斜で、そのまま山地が海岸に迫り、起伏の激しい岩石によって囲まれている25)(第5図)。

第5図 保戸島土地利用図『大分県保戸島における漁村の構造とその変化』1976

 現在は、人口の88%が漁業に従事する遠洋漁村である。遠洋漁業は明治22年(1889年)のフカ縄漁業に始まりそれがカジキ突棒漁業に変わって、明治37年(1904年)には漁船20隻が根拠地を対馬、長崎、高知に置いていた。日露戦争後マグロ延縄漁業に切換えられ、大正7年(1918年)からは動力船も出現し、昭和8年(1933年)にはマグロ漁船80隻の乗組員1,000人が北は北海道、三陸沖から南はフィリピン近海にかけて出漁した。昭和20年(1945)176の終戦時には廃船のみ3隻の状態になったが、昭和27年(1952)保戸島港が第4種漁港に指定され、さらに昭和28年(1953)に離島振興法の適用を受けるに及び、昭和36年(1961)には電気がつき、昭和44年(1969)には対岸の四浦半島から簡易水道が引かれた。昭和48年(1973)には島の南西部の中ノ島に新漁港が建設され、出買船と連絡の無線基地もできた。昭和46年(1971年)にはマグロ延縄漁船が63隻になり、遠洋漁港として復活を見るに至った。島はまた豊後水道を漁場とする一本釣りの漁村である。動力漁船200隻を越え、タイ、ブリ、サワラ、タチウオなどの高級魚を漁獲して、漁業は活況を呈している。
 このため島の人口は昭和47年(1972年)3,137人で昭和初期より5割近く増加し、人口密度は1km²当り3,647人となる。住宅建築の余地もないので、狭い路地を挟んで鉄筋3階建てのビルが立並び、全国屈指の過密漁村となっている26)
 保戸島と淡路との結びつきは古くから行われていた。それは、江戸時代の文化・文政年間において、保戸島の船問屋「大黒屋」が、淡路の漁船と取り引きのあったことが伝承されていることから分る。江戸時代、保戸島は佐伯藩に属し、当時の藩主毛利公が殖産興業政策として、漁民に対し魚を捕って商売を行なうことを奨励していた。そこでとれた魚は干物に加工されて、大黒屋を通じて大阪へ運ばれていた。その後も保戸島と淡路との交わりは続けられやがて活魚運搬船が登場したのである。
 それを物語るものとして、島の海徳寺の過去帳には数多くの淡路の人の名が見られる。また、島には淡路の人の墓も残っている。それに、海徳寺の半鐘は、寛永年間に浪速の人が寄付したものである27)
 昭和の初め頃から保戸島に来ていた活魚運搬船は、淡路と岡山県下津井の船である。淡路からは「金宝丸」「富栄丸」「住吉丸」「清宝丸」などが来ており、下津井からは「岩福丸」「万福丸」が来ていた28)。ここでの活魚運搬船の最盛期は昭和27・28年(1952年)頃で7隻の船が来ていた。淡路の活魚運搬船が最後に島に来たのは昭和40年(1965年)頃で、現在保戸島に来る活魚運搬船は近くの佐賀関の船だけである。現在活魚運搬船により運ばれる魚は、全部一本釣でとれた魚で、現在の島の漁獲高全体の2%位で、残りはマグロの遠洋漁業によるものである。この一本釣の対象となっている魚は、タイ、ブリ、サワラ、タチウオ、イカ、イサキ、アジ等でこれは昔と同じ内容である29)
 魚の売り方は、以前は総て魚問屋を通しての競争入札であった。島には3軒の問屋があり、淡路、下津井の活魚運搬業者はそれぞれ特定の問屋と契約していた。3軒の問屋とは、「二村」「高瀬」「大川」である。二村の取引先は岩福丸、清宝丸、高瀬は金宝丸、大川は住吉丸であった。この問屋を通しての入札は昭和27・28年頃まで続けられた。ここの入札制度は期間を決めての入札で、たとえば3日の期限ならば、入札して落札した人は3日間全部の魚を買うことができたのである。業者は、問屋に電報、電話で指示を与え入札させていた。だから、淡路、下津井の人が浜居りすることはなかった。入札し落札した魚は、問屋が現地での生簀に保管しておき、船の到着を待ったのである。淡路からだと島へ1日で来れたが、船は保戸島だけに来るのではなく他の浦の魚も積んで回るので、入札当日に来る時もあったし、3・4日後に来る時もあった。この生簀は当時は竹枠だったが、現在は鉄枠が使用されている。
 問屋との取引がやめられてからは、漁協との直接取引きになっている。それは、漁民が問屋を通すと手数料をとられ利益が少なくなるので、漁協を通しての取引を行なったためである30)
 現在、保戸島漁業協同組合の組合員は1,065人で、その内一本釣りに従事している人は、212人で、残りはマグロ遠洋漁業の従事者である。昭和54年(1979年)3月の時点では、マグロ延縄漁船19t型36隻、49tから79t型まで101隻、合計137隻を有し、年間総水揚高106億円となっている(第5表)。また、昭和52年(1977)の例で言うならば、全国総漁獲高約1,000億円の内、保戸島で120億をあげており、日本有数の漁村であると言える31)

第5表 まぐろ延縄漁業の漁船数及び漁獲金額の推移

 現在の保戸島の一本釣り漁業は、漁場の豊後水道において魚が減少しているため、以前のように盛んに行なわれていない。現在の一本釣り漁業はマグロ延縄漁業との関係が強く、年代別従事者数について見ると20代、30代では一本釣り漁業者は一人もいない。この第6表により15~30才代位までマグロ延縄漁業に従事し、その後は島に帰って一本釣り漁業を営む循環が行なわれていることが分る。この様に島の漁業は二重構造的な生産機構によって維持されてきているが、実はこの生産機構こそ、島民の長い生活経験が生み出した最上のものなのである。
第6表 年齢別従事者数の比較(保戸島漁協調 1977)
年令マグロ延縄一本釣
15~20650
21~25590
26~30600
31~35450
36~40320
41~45287
46~50711
51~55915
56~60016
61~65113
66~70310
71~7505
76~8001
30678

 その理由は以下の通りである。マグロ船に乗ると高級を得ることができるので、島では中学を卒業する男子を高校に進学させることは極めて少なく、中学の斡旋する集団就職には10人中3人位が出かけるが、7割位が遠洋漁業にひかれて帰ってくるという。しかし延縄漁業の労働は非常に体力を有し病気で倒れる者もあり、年齢的に早くも定年に達する。そこで、一般に40才を過ぎるとマグロ船を下りて島に帰り、地元で一本釣漁業を行なう様になるからである32)。また、島の周囲は今なお好漁場には違いないが、それでも3,000人という人口を支えるほどの力はなく、若い間は遠洋に出なくてはならないということもあげられる33)