保戸島の人々は昔から生粋の漁撈民族であった。彼等は、南シナ、福建、安南の高砂族や漢民族、騎馬民族の中の海に追われたものたちの子孫であると云われている。ここの人々は豊後の海部の民と呼ばれ、日本の海人族だといわれている。彼等は、先天的に外洋に出たがる気質を持っており、明治20年代にすでに土佐沖に出ていることが分っている37)。これらの事からも分る様に、保戸島の人は、豊後の他の島々の人とは人間性が違っている。他の島々では、大陸の藩主から任命されて島に住むようになったのだが、保戸島では大昔から人が住んでいたことが分っている。それは「豊後風土記」の中の一節にうかがうことができる38)。これは、天皇が熊襲(くまそ)を征伐に行く途中に、保戸島に立ち寄った時の事を書いたものである。そして、当時、近くの海に海藻が多かったので藻門と云われ、それがなまって穂門となったと書かれている。それから、現在の保戸に変わったのである。また、「ほと」の語源であると考えられる「ほつ」には、すぐれたものという意味がある39)。先ほども書いた様に、ここの人々は古くから生粋の漁撈民族であった。漁獲量は、豊後の他の島々に比べて昔から群を抜いて多く、中心的な要所だったと思われる。
保戸島と上方との交流は、江戸時代から行なわれていた様である。それは、佐伯の一部から津久見の一部にかけての寺の過去帳に淡路の人たちの名が多く見られることから分る。また、寛永年間には、浪速の人が島の海徳寺に半鐘を寄付している。
漁民信仰について述べたいと思う。
ここでも、「船底一枚下地獄」という思想を反映して、人間の力を越えた神、仏に救いを求める他力信仰が盛んである。これは、人間が海上での人力の限界を知っており、単純に加護、守護を求めるという点で、他力信仰が取り入れられたのであった。
島には、海徳寺(浄土宗)、法照寺(浄土真宗)という共に他力本願の念仏宗の寺がある。どちらも昔から島民に広く深く信仰されてきている。特に海徳寺は、豊後でも歴史のある格式の高い寺として知られている。
島のはずれには、元禄10年(1697年)に、海徳寺の5代目の和尚が建てた観音像がある。これは、本土と50m位しか離れていない狭い海峡の岬の上である。普通、仏像は蓮華の花の上にのっているが、ここの像は、その下に大きな亀の甲がひかれている。この様に仏が海の亀の上に乗るのは、非常にアンバランスな事だと思われている。昔から、観音様は大衆信仰の対象であったのだが、亀が竜宮の使いだという浦島の説話を、あまり文字を知っている人のいない無学の地の人々が元禄時代にすでに知っており、仏を亀の甲にのせていることは特異なことである。このことからも保戸島において、人々は古くから海との関わりが深かったことがうかがわれる。
お盆の行事に「浜施餓鬼」が行なわれる。ここでは、何百年も前から浜の広場で漁民の主催によって、魚の供養の為の施餓鬼が行なわれている。夜になると部落中の人が集まって供養踊りが行なわれる。他の漁村同様に、ここでも浜が一番の集会場である。また、歴史的に見ても、延宝年間には、魚を哀れんで魚の供養塔である「魚鱗塔」が建てられており、魚を大事にしてきたことが分る40)。
金融に関して述べると、この島では他で見られる様な「たのもし講」は行われていない。血縁による団結意識が強く、それにより講が作られている。この事からも分る様に、島の人々は以前は随分と周囲に対して閉鎖的だったのだが、最近では、漁撈方法の変遷に伴なう漁民意識の変化により、それも緩和されてきている41)。
島での慣習として特筆すべきものに若者組「モンテイ」がある。これは保戸島特有のもので現在でも行なわれている。これは中学を終えた男子で高校に進学せず、主に漁師になる者たちで構成される若衆宿のことである。島では、学校を終えた14・15才から結婚するまでの男子をワケーシと呼んでいる。これはワケーモンヤドまたは単にヤドと呼ばれて、気の合った者同士(ヨリアイ)5~7名である家の2階を借りて寝泊りし、食事の時だけ家に帰るもので、結婚まで続けられる。昔は、島で大きな家を持っているのは網元ぐらいだったので、網元の家が主にヤドに使用されていた。現在では、田中という姓の家を借りていれば「田中連中」という様に、借りた家の姓をとり、その下に連中をつけてそのモンテイの名が呼ばれている。各モンテイは同じ年令の者によって構成されており、すでに開かれているヤドにヤド入りする様なことはなく、必ず同年齢のものが新しいヤドを開くことになっている。ヤドを開くことをヤドビラキといい、これによってモンテイはヤドとして、個人的には一人前のワケーシとして、社会的に承認されるのである。現在ヤドビラキが行なわれる日は、中学の卒業式の日で、その日夜になるとモンテイは、かねて借りてあったヤドに集合し、酒、菓子をもって飲食することによってヤドビラキとしている。
ヤドは人生や恋についての語らいの場である。恋に関していうと、それぞれの青年が自分の好きな女性を選び、モンテイの他の者たちがその仲をとりもつのである。当人同士がいやになったら付き合うのをやめてもよく、自由でオープンな交際が行なわれている。
このモンテイ意識、結合は極めて強く、結婚、生産、文化、家庭問題で、モンテイの一員に関することであればすべてモンテイ全体で相談し、解決していくし、モンテイ意識はヤド解散後でも強く相続される42)。
ヤドとして借りている家に対しては、盆と正月に年間1万円くらいのお礼をするだけで、月々の家賃は払われていない。しかし、最近では家が新しくなってきているので、若衆宿として借す家が減少している。
モンテイの長所、短所について述べておこう。
〈長所〉
・船の上での団体生活を行なう際の人間関係がうまくいく。
・ヤド内は言うまでもなく、ヤドを出てからも互いに助け合う意識が強い。
・男女関係においては、互いに相手のことを良く知って結婚するので、離婚がほとんど行なわれない。
〈短所〉
・未成年の飲酒、喫煙の場となる。
・結婚前に性行為を行なうことは不道徳的である。
島の人の話では43)、外部から見たら非近代的に見えるが、島内では利点の方が多く、島に娯楽施設が全くないことがモンテイ成立の原因になっているということである。