株式会社木下鐵工所の『焼玉機関出荷台帳』を読みとく

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阪神内燃機工業株式会社
取締役監査等委員 山本幸二

 木下鐵工所は1905(明治38)年の創業以来、明石の地から日本全国の漁業者ほかに石油発動機を提供し、漁船の動力化が進むと石油発動機の製作台数で池貝鉄工所に次ぐ全国第二位になるまでに発展。その後も石油発動機から焼玉機関、ディーゼル機関へと技術的発展を成し遂げてきた。1965(昭和40)年に阪神内燃機工業と合併するまで60年もの長きにわたって、船舶用動力機関の生産を通じて海上物流の近代化に貢献してきた企業として存在していた。
 現在、阪神内燃機工業明石工場の資料展示室には、木下鐵工所時代の大正14年末頃から焼玉機関が役目を終える昭和28年頃までの約2400隻分が記載された『焼玉機関出荷台帳』が保存されている。
 この出荷台帳はこれまで歴史的資料として利用されることもなく倉庫の片隅に埋もれていたが、2018(平成30)年に突如、陽の目を見ることとなった。松原隆一郎放送大学教授(元東京大学大学院総合文化研究科教授)が著した著者の祖父である松原頼介の伝記『頼介伝』(苦楽堂発行)が発行され、第五章「船を造る」の中で写真付きで紹介されたのだ。『焼玉機関出荷台帳』の264ページ19~26行目に記載の情報で松原頼介の名前が出てくる。一企業の単なる製品出荷台帳に歴史的価値が見出された瞬間であった。木下鐵工所と松原頼介が結びついた詳しい経緯、内容を知りたい方は『頼介伝』を是非お読み頂きたい。
 『焼玉機関出荷台帳』はそれが船舶のエンジンであっただけに、これを読み解くことによって、わが国の漁業の近代化や日本の漁業者による朝鮮半島等への進出状況や戦時中の軍部による生産統制、戦後すぐの漁業奨励、やがて訪れる焼玉機関の衰退など歴史の一コマと言ったものまで垣間見ることができると考えている。木下鐵工所は漁船用のエンジンメーカーとして定評があり、当然のことながら明石型生船と呼ばれる生魚運搬船へも多数の焼玉機関を提供してきたと思われる。『明石型生船 調査資料集・生船写真帖』の203~205ページに掲載の発動機売買契約証等(森永廣吉殿)の事案の出荷記録は『焼玉機関出荷台帳』253ページ8行目に、第二菱丸(型式D1GB-2520馬力、氏名森永廣吉、住所岡山縣浅口郡玉島町大字乙島)との記載があり情報の正確さが確認できた。