・『雑喉場誌』魚市場事務所 1928
巻頭写真 大阪市雑喉場市場着船の光景 トロ箱がうず高く積上げられた岸壁には複数の明石型生船が接岸している。
27頁 石油發動汽船 十五噸乃至二十噸積のものにして問屋の所有に属するも多くは荷主に貸與せられ産地より魚荷の運送に使用せらるゝものなり。
・野田猪左雄『明石郷土史』兵庫縣明石市大觀尋常髙等小学校 1930
3頁巻頭図版下段 明石港 繋留されている明石型生船
・『日本地理風俗大系 第十一巻 四國及び瀨戸内海』新光社 1930
111頁 内海としては大規模の漁業であるこれ等の漁業の行はれるのは、四月から六月までの間である。この期間は氣候には申分なく、風光の美と漁獲の壯快とが相俟つて、鯛漁見物の小舟が四方から集つて來る。捕獲せられた鯛は直に阪神地方の市場へ搬出せられるが、餘りに多獲せられた場合には畜養せられる。畜養するには先づ治針法といつて、竹針をもつて鰾を突きたるを活洲に蓄ふ、かくして順次出買船の需に應ず。出買船はこれを大阪の雑魚賣場に輸送する。
259頁 三津濱港の全景には、艫付された明石型生船と港内に停泊する明石型生船。写真中央には明治21年に完成した三津の魚市場のシンボルの直径33mの丸屋根がある。
383頁 岩屋港には、停泊する多数の和船の中央に合ノ子形生魚運搬船が停泊。この写真と同じ場所で撮影された絵葉書が『絵葉書で見るタイムスリップ―明治・大正・昭和―』2019の88頁「淡路岩屋全景」として掲載。
・明石市教育會『明石大観』明石市教育會 1932
26頁 鮮魚運搬船(俗稱出買船) 明治三八年、明石の恩人水産界の長老中部幾次郎氏が我が國最初の石油發動機鮮魚運搬船を造られてからだんだん普及したもので、二十噸内外の發動機船であるが遠く九州、朝鮮、北海道方面にまで出買ひして各地の魚市場へ運搬してゐる。現在明石の四十隻内外の出買船が年額七八十萬圓から百萬圓内外の買付をして居るのを見てもその活動振が知れよう。
・明石市教育會『中部翁畧傳』兵庫縣明石市教育會編 1941
巻頭図版5頁に鮮魚運搬船第一新生丸
36頁 ・・・第一新生丸が出來て運航してゐる中に、どうも具合の惡い所がある。そこで考案工夫を重ねてゐる中、乘組中の咄傞の思ひ付きで、艫を西洋型にして、中央を和船型にする様な設計圖を半紙二葉に描いて、大阪の金指造船所に註文した處、「出來ない」と斷るのを再三再四交渉して結局作らせた。これは全く翁の獨創のものであり、これなら魚艙もうまく出來るし、萬事好都合なので、現在「明石型」として利用されてゐると共に、農林省制定の標準型もこれに外ならないから愉快である。五、六十噸のものを理想とする。
37頁 明治四十五年、神戸發動機製作所が日本最初の有水發動機を造り、紀州の金生丸に二〇馬力を取附け、明石海岸で試運轉を行ったのを見學した翁は、朝鮮近海で使用する生船に入れようと神戸發動機製作所に二〇馬力三台を註文し、電氣着火であった第三新生丸に一台、第一新生丸に二台据付けた所が大成功だったので、直ちに翁は日本で誰も試みたことのない六〇馬力のものを第五新生丸に据付け素睛らしい成績であったので、矢繼早に海洋丸に八〇馬力のものを据付けて成功した。・・・
・後藤豪『水産講座漁業篇 イカ・タコ漁業 タイ漁業 採藻・採介漁業』社団法人大日本水産会 1949(1953 再販)
70頁 タイの本場は従来から大阪と言われている如く、淡路近海のタイが最も美味であって、内海及び近海のタイは活簀船で活魚として出荷され、所謂明石ダイとなって市場で取引される。それで漁獲されたタイの多くは、活魚として一應畜養される。しかし普通一〇尋から、四〇尋以上の深海に棲息しているため、漁獲の際、水壓の急激な減少により、鰾内の瓦斯が膨張し、腹部を水面に浮べて運動の自由を失い、斃死することを免れないのである。けれど從來の鰾内瓦斯の排出法は、極めて亂暴で、箸または竹管の、長さ三-四寸のものを、生殖孔から魚鰾内に挿入し、脊壁の所にある鰾を破つて、瓦斯を鰾外に排出させる。このため内臟の諸器官を損傷するので、タイは一時非常に衰弱し、一四日乃至二〇後でなければ餌に付かず、生存率も七〇-八〇%に過ぎなかつた。・・・
・勝間弘治『瀨戸内海の漁業(14)Vol.3じびき網 No.1タイじこぎ網(神崎地區)』瀨戸内海漁業調整事務局 1951
26頁 漁獲物の處理 漁獲物は濱で網から活きたまま直接行商の生船(ナマフネ)に移し、その場で賣却する。この生船は豫め契約により大分の市場又は佐賀關の問屋と連絡しておき、揚網する場所に豫め待ちかまえているようにしておく。現金は大體3日後に生産者の手に入ることになっている。
生船の運搬先は大分及び別府市場は勿論、遠く京阪神地方へも行くようである。
・吉田敬市『朝鮮水産開發史*』朝水會 1954
近代朝鮮漁業史研究の基本的文献朝鮮漁業を行っていた朝鮮水産会が編纂主体で、その依頼に基づいて地理学者である吉田敬市氏がまとめたもの。
序 緒言 第一章 朝鮮近海の自然環境と水産業の概勢 第二章 朝鮮古來の漁業と鹽業 第三章 明治以前に於ける邦人の鮮海出漁とその性格 第四章 韓末邦人開發初期に於ける水産業の實態 第五章 通漁時代の鮮海漁業開發 第六章 移住漁業の建設とその消長 第七章 自由發展時代の漁業開發 第八章 水産製造工業の劃期的發展 第九章 漁獲物の運搬と水産貿易の發展 第十章 漁業制度の確立と水産助長機關の充實 第十一章 朝鮮水産業の開發に於ける成功と失敗の原因 結言 附録 英文レジメ
岡本達明編「第三部 朝鮮をめぐる日本漁業(改題)」『近代民衆の記録7 漁民』新人物往来社 1978に再録。 朝鮮水産開發史のうち第五章と第六章および主要移住漁村年表を抜萃。林兼の創立者中部幾次郎(明石出身)の朝鮮水産開発との関わりが幾つか取り上げられている。
446頁 ・・・その頃中部幾次郎も、方魚津を根拠地としてサバ縛網漁業を開始したので、方魚津は東岸サバ漁業の一大根拠地となった。・・・455頁 ・・・大正末年まで咸南通川郡鴨竜潭には、林兼のタイ大敷漁場があり、西湖津はその根拠地で運搬船が常駐していたという。・・・456頁 方魚津はサバ漁業の一大根拠地として発展したが、・・・ついで林兼・山神組等が本港中心にサワラの鮮魚運搬を開始して以来、本格的発展となり一時サワラ流の居住者三百戸にも達し、サワラの方魚津時代を出現した。・・・458頁 明治末年頃になると、漁場は羅老島近海を中心として、更に赤金島・駕莫津・木浦及び群山近海方面まで拡大した。そして羅老島には常時数十隻の生簀運搬船が出入し、南鮮に於けるハモとエビ漁業の一大根拠地となった。林兼も布山から此地に根拠地を移し、全力をあげてハモの輸送に当った。・・・
470頁 林兼の建設者、中部幾次郎は兵庫県明石の生れで、若年の頃から瀬戸内方面の鮮魚を大阪に運ぶ業者であつたが、夙に鮮海漁業の有望性に着眼するところがあり、明治四十年発動運搬船をもって進出し、慶南固城沖の布山根拠に、香川県人のハモ・サワラを集荷運搬したのがその濫觴である。しかも、その発動機は日露戦役後氏自ら製作したもので、我が国に於ける動力漁船用発動機作製の開祖と言われている。又、サバ巾着漁船の創造や漁船用発動機の改良等を始めとして、幾多漁業上の工夫発明を完成した功労者で単なる魚類運搬業者ではなかった。・・・林兼財閥今日の基礎は朝鮮水産によって建設されたと言っても過言であるまい。473頁 ・・・氷蔵運搬船の登場は四十一、二年頃からで、林兼が明石型十九噸級の発動運搬船を、サバ運搬に使用したのがその始めだという。氷は大部分鮮魚の片荷として日本から運んだが、後には鮮内基地に於て仰ぐものもあった。
・・・496頁 全南の羅老島は、・・・明治四十二年熊本県水産試験場業務功程報告、第三回韓海出漁指導試験には本港殷盛の状態を次のように述べている。現地明石町中部幾次郎第一、第二新生丸(石油発動機船)、汽船有魚丸、小富士丸、第一、第二花咲丸、ソノ他ノ和船活洲船十数隻アリ、出漁船六十隻デ底延縄アリ、飲食店十二、釜山、統営ヨリノ淫売婦百四十人、風紀紊乱、賭博公然ト行ハル
・瀨戸内海総合研究會編『瀨戸内海総合研究会 村落総合調査報告第二輯 漁村の生活―岡山縣児島市下津井田ノ浦―*』岡山大学法文学部内瀨戸内海総合研究会 1954 6
瀬戸内海総合研究会編『瀬戸内海研究第四巻―漁村の生活―』国書刊行会 1982 再録 278頁~288頁 下津井田ノ浦における生産地魚問屋の集荷を担当する鮮魚運搬業の詳細な調査の中で、イケフネの構造とナマウオ(ナマセン)の活用方法の違いや、イケフネ活動域として、マエ・イチアケ(一夜明け)・シモイキなどの行動範囲の名称、活魚の流通経路等を定義づけた。また鮮魚運搬船の歴史として、櫓船から小汽船によって数隻のイケフネを曳航する「ボート漕ぎ」方式、発動機付き巡航船の出現による行動範囲の画期的変化などを示している。
・河野通博「瀨戸内海の活魚運搬業(第一報)―明治以後淡路富島におけるその展開過程」『瀨戸内海研究第六号*』瀨戸内海総合研究会 1954
瀬戸内海総合研究会編『瀬戸内海研究第一巻』国書刊行会 1982 再録
淡路島富島における消費地魚問屋に直結する鮮魚運搬業者の詳細な聴取調査。活魚運搬船の特質、富島町の性格、明治初年の鮮魚運搬業、明治十七年より末年までの鮮魚運搬、巡航船出現以後、戦後の活魚運搬業で総合的に整理されている。以後の鮮魚運搬業研究、水産物流通の地理学的研究に影響を与えた重要な調査報告。
392頁 ・・・明石附近と富島附近にこのように漁村が密集しているのは明石の西南方、富島の西北方ほぼ等距離の所に鹿ノ瀬と呼ばれる砂質の浅堆があり、タコ、イカナゴ等の好漁場となっているからである。明石も亦かつては鮮魚運搬の盛であった所で、明石海峡を阨し、大阪にも極めて近いと云う地理的好条件がナマセン・イケフネの発達を促したのであろうが、その起源については残念ながらわからない。
昭和26年(1951年)秋、兵庫県淡路富島を調査した際得た資料整理したもの。聴取調査された浜口好は濱口実右衛門家の政太郎の弟(富島水産株式会社創立者)、日野徳太郎は日野九左衛門家、日野顕徳の父親になる。日野吉藏は日野嘉右衛門家の日野長太郎の子にあたる。『明石型生船調査資料集・生船写真帖』50頁図1 濱口・日野家略家系図
・喜多村俊夫『わが国土9―瀬戸内海沿岸地方』国民図書刊行会 1955
90頁 いけ船と移住漁村瀬戸内海の魚はいきがよくてタイ・サワラなど高級品が多く、しかも京阪神という大きな市場が近くにあるので、むかしから活魚輸送(いけ船)が行われておりました。これは生きたままで市場へ運び、高級料理店の「生けづくり」の材料にするのです。いけ船とは両がわのふなばたの、水中に入った部分に通水孔をあけておき、海水がたえず船の中に出入して、魚を生きたまま運べるようにしかけた船のことです。下津井などにも「沖買い」といって、海上で生きた魚を買い、すぐに大阪方面へ運ぶ船がいく隻かありました。いちばん盛んなのは淡路島西岸の富島で、たくさんのいけ船をもっています。漁船の動力化が進むにつれて、いけ船の活動範囲もずっと西にのび、瀬戸内海をこえて、九州の西岸の方にまでいくものもあります。・・・
・大野盛雄「沖家室の漁業」『創立十五周年記念論集Ⅲ』東京大學東洋文化研究所 1957
98頁 沖家室の一本釣は特にいき魚を主とするために、獲った魚は一たん船入澗の「いけす」の中に入れられ、生きたまま市場に入荷される。この「いけす」を握るのが「すば業者」である。しかもすば業者は生産者に高利貸的な仕込を行う。この仕込は漁獲物の買占という意味をもち、仕込を受けた生産者は必ず漁獲物をすば業者の手に渡すことを義務づけられる。
・大佛次郎『中部幾次郎*』中部幾次郎翁伝記編纂刊行会 1958
44頁 船体は明石の小杉造船所でできあがったが、ここはエンジンをうまく据えつけることができないので、大阪に廻航し、木津川にあった金指造船所に依頼してやっと据付けを終った。幾次郎は、「新生丸」と命名した。八馬力の石油発動機で十二屯、速力約六浬、和船造りの長さ十四メートル、巾三メートル弱。帆走の用意、生簀の設備もあって、この日本最初の発動機船が木津川に浮かんでエンジンの爆音も勇ましく初の試運転に成功したのは、明治三十八年も暮のことである。檣頭にははの旗がはためいていた。
56頁 ・・・生簀船はハモ、ヒラメ、アコウ、アナゴ等の活魚を運搬し、これには生簀の設備があった。十五トン乃至二十トン級の帆船で、南鮮の集荷地から下関まで三日、大阪までは、どんな順風に乗っても一週間、悪くすると二十日もかかっていた。それに比べると、新生丸は下関まで僅か二十五、六時間、大阪までは四日とかからないのだから、これは輸送の一大改革だった。
60頁 林兼と並んで鮮魚運搬界にその名を留めた山神組が進出してきたのは大正元年だった。淡路沼島出身の山野鶴平が、大阪雑喉場の魚問屋神平こと鷺池平九郎と共同して組織し、麗水に本拠を置き、発動機船沼島丸で運搬を開始したのがその起源である。山神組の盛時には、二百ないし三百トン級の運搬汽船四、五隻、発動運搬船四、五十隻、その他トロール船六、七隻も経営し、林兼とともに鮮海漁業界の二大運搬業者であり、しかも、たがいに鎬を削る競争者であったが、その後種々の変遷を経て、大正六年に日本水産に合併された。
62頁 もはや第一号新生丸一隻では手が廻りきれなくなり、四十二年には第二新生丸を建造した。第一号新生丸はわが国で初めてできた発動機船だから、実際に使用してみるとエンジンにも船体の構造にも、いろいろの欠陥が現われたのはやむを得なかった。研究心の旺盛な彼は実地に操縦してそれらの欠陥を知得し、従来の和船型であつた船体を船尾を西洋型にし、中央を和船型にすることを考案し、第二新生丸から実現した。これなら魚艙もうまくできて、運搬船として最も合理的なもので「明石型」として農林省制定の標準型に採用されることになつた。五、六十トンのものを理想とする。エンジンも初めの電気着火から焼玉式の有水軽油機関に、更にこれを無水軽油に考案工夫を重ねて改良し、明治の末には六十馬力の大型エンジンを据付けた第五新生丸や八十馬力の海洋丸まで造りあげた。
69頁 初代第一新生丸は、林兼のためにはいわば宝船であったが、馬力も型も小さく、幾次郎の事業の発展に伴い多少物足りない点があったので、第二新生丸を建造した機会に、同業者である山口県祝島の藤本組藤本友次郎へ譲渡した。そして、この初代第一新生丸の経験から、思い切つて馬力の大きな運搬船にした。・・・
80頁 運搬船は、船尾を西洋型にし、胴中を和船型にした「明石型」を創案し、エンジンは初めの電気着火から焼玉式の有水式軽油機関に改良し、大正元年には第二、第三新生丸にこれを据付けたほか、六十馬力の第五新生丸、八十馬力の海洋丸まで造って素晴らしい成績をあげた。そして大正四年には第十一、十二、十三、二十三新生丸を新造し、全部で二十隻余の運搬船が活動することになつた。
・新川傳助『日本漁業における資本主義の発達』東洋経済新報社 1958
130頁 ・・・林兼組が朝鮮進出に当って前節で述べた独立の運搬船の必要という報告書(関沢明清『朝鮮近海漁業視察概況』明治二十七年、外務省通商局刊)のことを知っていたか、またその経済的意義を十分理解していたかどうかはこれを検すべき資料がない。『中部翁略伝』の朝鮮入りの路程から推断すれば、それは一種の冒険商人的行動である。しかしながら、その活動が当時の経済的要請にまったく合致していたところに爾後の活動の成果は約束されていたと見ることができる。林兼組よりやや遅れてはいるが、相並んで朝鮮漁場で商業資本として活動した山神組は後年、現在の日本水産に吸収合併されたものであるが、大正元年、淡路島出身の山野鶴松が大阪魚市場の神平と共同して設立し、麗水を根拠地とし、沼島丸をもって鮮魚運搬を開始している。・・・
444頁 ・・・林兼商店がまだ明石の出買商人として活動していた当時、大阪魚市場に魚をいかに早くもってゆくかに苦心し、当時常用の押送船に対抗して発動機据付を考案したことは、この生鮮商品の価格変動の関係を考慮したからである。・・・
・田中宏『日本の水産業 大洋漁業』展望社 1959
247頁 ・・・生簀船はハモ、ヒラメ、アコウ、アナゴなどの活魚を運搬したものである。いずれも十五トンから二十トン級の帆船で、南鮮の集荷地から下関まで三日、大阪まではどんな順風に乗っても一週間、悪くすると二十日もかかっていた。それにくらべると林兼の新生丸は下関までわずか二十五、六時間、大阪までも四日とかからなかったから、当時としては革命的な輸送であった。いまからみればまことに幼稚な発動機船ではあるが、当時としてはこれが発動機船かと珍らしがられるばかりか、その船足の速さからも、それまでの運搬船より歩をよく買うので、林兼の商号は一躍南鮮沿岸漁場で有名となった。林兼とならんで朝鮮漁場で活躍した山神組(のちに日水に吸収、現在の日本水産の前身)が進出してきたのは大正元年である。山神組は淡路島出身の山野鶴松が、大阪魚市場の神平と共同して設立したもので、麗水を根拠地とし、沼島丸で鮮魚運搬をはじめた。林兼が明石を中心とした鮮魚仲買商であったのと同様、朝鮮における商業資本の二大双璧が、いずれも大阪地区の漁業商業資本の手によって始められたことは、また当時の朝鮮通漁による漁獲物の市場が大阪に重点が置かれたことにもよるが、さらにこれを歴史的にさかのぼってみた場合、わが国漁業における商業資本が、瀬戸内海を中心にその基礎が築かれていたことにもよろう。・・・
・大洋漁業80年史編纂『大洋漁業80年史*』大洋漁業株式会社 1960
223頁 氷の使用がまだ普及せず、発動機船もなかった時代には、魚の輸送はすべて櫓櫂か帆をあやつって航行する和船、押送船によって行なわれていた。
関西地方ではこれを活魚船(いけふね)と呼び、水ぬるむ春から初秋に至る活魚の季節には、明石から淡路へかけての海で獲れる魚を生簀のついた活魚船で大阪へ運び、消費者を喜ばせた。しかし、これを朝市に間に合わせるためには追風のない海路は人の手で船を浜曳きしなければならなかったうえ、冬期は寒水で魚が凍って活魚にはならないなど、不便の多い時代であった。
225頁 ・・・明治30年頃には、明石から播磨にかけて、縛網によるサバ・サワラの豊漁が続いたが、これを押送船で大阪へ運ぶには時間がかかり、鮮度も落ちるため、売価が叩かれがちであった。明石の業者はこれを塩物にしたり、焼魚にして上方へ運んだが、かねて押送船の不便を痛感していた幾次郎は、いきのよい魚を早く市場に出す方法として瀬戸内海を通る汽船に着眼、淡路島通いの小蒸気船淡路丸(約100トン)を押送船の曳船として利用することを考案した。汽船を運搬船の曳船に利用したのは、日本で最初の試みであった。明治30年である。
この新しい方法によって、林兼は明石大阪間の運搬時間を短縮し、他の押送船を尻目に新鮮な活魚を消費者にむけたので、4、5割もの高値で飛ぶように売れ、巨利をあげることができた。押送船が出港出来ない荒天でも淡路丸は航行したので、のちには他の業者もこれを真似るようにまでなった。
226頁 8馬力の石油発動機を取り付けた12トン、速力約6カイリのこの和船型運搬船は、長さ14メートル、巾3メートル弱、帆走、生簀の設備もあり、幾次郎はこれを「新生丸」と命名した。
227頁 就航後の新生丸の活躍はめざましかった。明石から大阪雑喉場への所用時間は従来の半分以下、4、5時間に短縮され、積載量は約二倍、生簀の設備もあるので、これで運搬された鮮魚、活魚は雑喉場のセリ市で争って買取られた。39年から40年にかけては、下関から日本海へ出て豊漁のブリを買付けたり、福井の小浜を根拠にカレイを買付けるなど、大時化の日も休まず、他の業者を抜いて能率をあげたので、新生丸の誕生に目をみはった世人を、さらに驚嘆させた。
229頁 南鮮多島海は予想以上に豊漁の春漁期で、新生丸は慶尚南道西南のサラン島に急航、そこで出漁中の内地船からハモを買い入れて生簀で大阪に運搬した。
これは林兼商店がはの旗を朝鮮漁場にひるがえした第一歩である。
そして帆船では三日間かかった下関までの航行時間をわずか25,6時間に短縮するという発動機船による革命的な日鮮間鮮魚運搬のはじまりとなった。
230頁 これらの事業拡張と併行して林兼は、明治42年にはすでに新生丸1隻では間に合わなくなったので、第2新生丸を建造していた。
これは、エンジンを最初の電気着火から焼玉有水式軽油機関に改良し、船体も船尾を西洋型、胴中を和船型に改良したもので「明石型」と呼ばれ、農林省制定の標準型に採用されたものである。
さらに明治末期には機関を無水軽油に改良、大正元年、第2、(代船)第3新生丸に取付けたほか、60馬力の第5新生丸、80馬力の海洋丸までを建造、運搬船の強化をはかった。また、大正4年には第11、12、13、23新生丸をあいついで建造し、林兼はやがて20余隻の運搬船をもって、鮮海漁場にはなやかな新生丸時代をくりひろげっていった。
巻頭図版に第1新生丸(初代)中部流石(現社長)筆の有名な絵画 鮮魚運搬船・和船造 L×B=14m×3m 電気着火式石油発動機付8馬力 速力6浬 帆走・生簀の設備付属 箱積数・中箱160箱 製造・明治38年 製造者・明石小杉造船所の説明がある。
251頁 第1新生丸、初代第1新生丸は明治38年に日本最初の石油発動機付鮮魚運搬船として誕生したが、この新生丸は大正元年、電気着火から焼玉式の有水軽油に改良した25馬力の機関2台を据え付けて、あらたに建造したものである
259頁 雑喉場時代の河岸家の屋根より高く魚函が積まれ、その盛況を物語っている艫付した三隻の活魚運搬船が停泊している。
・河野通博「いけふね・ぶがい・くじらとり―瀬戸内海東部の漁村をたずねて―」
『世界の旅・日本の旅 第十号』修道社 1960
70頁 浜に出てまず目につくのがタコ壺の山。それと共に造船所の船台に乗っている大型木造船にも目をひかれる。普通の機帆船よりは漁船に近い構造だが、何しろ大きい。五十トンから百トン以上もあろうか。機関も百五十馬力から二百馬力のものだという。ただの運搬船でない証拠に船腹に金網を張った小孔が幾つも空けてある。生簀に海水を入れるためのものである。これを普通「イケフネ」と呼んでいるが、魚を生かしたままで運ぶ活魚運搬がこの漁村の人々の特技なのであって、船台に上っていたのは、地元の人が注文した新造船なのであった。大阪はじめ大消費地に向ける高級魚は、市場に上げる直前まで活かしておかないと鮮度が落ちて、味も悪くなる。だから生産地から魚を活かしたままで運ぶためにはイケフネが必要なのである。・・・生簀の栓がスルリとうまく入って、しかも外からの水が入らないというのが富島の船大工の腕の見せ所であった。・・・明治時代活魚運搬を盛んにやっていたのはこの付近では同じ淡路島西岸の斗之内、育波、室津があり、明石も盛んであった。・・・
・藤原正教・亀山慶一「第2章 漁法と漁撈組織」『和歌森太郎編 くにさき―西日本民俗・文化における地位―』吉川弘文館 1960
43頁 ・・・鯛を生魚のまま送るために、鯛網には必ず針師がついている。1匹1匹竹の管を鯛の尻に刺入れて気袋から空気を抜くのである。そうしないと水圧の関係で鯛を生かしておくことはできない。もし網から船にあげるまでに揉まれて生きが悪くなり、阪神方面まで生魚として送ることができないと明確に判断できる場合は、仕方なく死魚にして送るわけであるが、その際でもなるべく鮮度を落さないように自然に死ぬのを待つという消極的な方法ではなしに、積極的に鯛の頭に針を刺して殺すのである。その殺し方によって市場に並んだ時の鯛の色が違うということまで伝承されている。・・・
・河野通博「補論第3 瀬戸内海の活魚運搬業」『漁場用益形態の研究*』1961
この中で水産物流通問題を分析し、とくに瀬戸内海の活魚運搬業を地理学的に詳論されたもので活魚船を研究する上で重要な論文。
Ⅰ.明治以後淡路富島における活魚運搬業の展開過程 1.活魚運搬業の特質 2.富島町の性格 3.明治初年の鮮魚運搬業 4.明治17年より末年までの鮮魚運搬 5.巡航船出現以後 6.戦後の活魚運搬業 Ⅱ.下津井の鮮魚運搬業 附 餌の出買
・中村由信『瀬戸内海の旅 付 山陽道・四国』社会思想研究会出版部 1961
23頁 岩屋の港 中央右側は東根造船所。東根造船は大阪湾で主に活躍したイワシ漁専用の小型活魚運搬船のメーカーである。兵庫県淡路市岩屋。
・岩波書店『日本の地理第6巻 中国・四国編』1961
巻頭図版9頁 鷲羽山から見た下津井・田之浦の漁港岡山県児島市吹上港に活魚運搬船が船首を防波堤に向けて停泊。小学館『瀬戸内の海人文化 海と列島文化第9巻』1991 400頁の写真232の連続写真。
143頁 下関を根拠地とする漁業 下関港は、南シナ海・東シナ海・黄海を漁場とする以西トロール・以西機船底びき網のほか、済州島周辺を漁場とするアジ・サバまき網、鮮魚運搬船などの根拠地となっている。このうち水揚げ量が最も多いのは鮮魚運搬船で、50%で60億円も占めており、ついで以西機船底びき網が35%を占めている。鮮魚運搬船は五島・対馬など北九州の離島や、四国・中国方面からの漁獲物を運んでくるので、下関港はたんに遠洋底びき漁業の根拠地というだけでなく、西日本一帯の漁獲物の集積地という性格をもっている。
145頁 運搬船 下関港に集まる運搬船は、もとは瀬戸内海の島々をめぐって漁獲物を買い集め、阪神に出荷していた帆船が、その後朝鮮水域にまで出漁した漁船から漁獲物を買取るようになり、下関を根拠地として移ってきたことにはじまる。当時の運搬船は、魚を買取るだけでなく、漁業者に資金や資材を貸付け、魚を安く買いたたいた、林兼商店や現在の大会社の前身も、もとはこうした商人による運搬船の経営者であったものが多い。・・・
145頁 鮮魚運搬船の群 荷揚げを終わって碇泊中の鮮魚運搬船、EHは愛媛県のこと、中央のやや大きい船は中型まき網漁船。下関港で撮影、6隻の鮮魚運搬船が停泊、前から二隻目の甲板には伝馬船。
146頁 中央魚市場の水揚げ 長崎県の運搬船が運んできたアジがたもで威勢よく水揚げされている。下関には中央・下関の二つの魚市場があって競争しあっている。
NGは長崎船籍、実際に鮮魚運搬船が荷揚げしている写真は珍しい。
148頁 室戸港のカツオ漁船室戸岬に近い室戸港に碇泊中の地元のカツオ漁船、100t程度のもので、無線や方向探知機をそなえている。舷側の張りだした所に漁夫がならんでカツオを釣る。カツオ船に挟まれて小型の鮮魚運搬船。
・和歌森太郎『宇和地帯の民俗』吉川弘文館 1961
亀山慶一「第八章 宇和の漁業と信仰」『漁民文化の民俗研究』弘文堂に再録 1986 3
72頁 ・・・釣ったタイからはクダバリで空気を抜き、生魚で消費地に送ることを考えている。以前は氷詰めにして阪神方面に送ったが、現在では下津・岡山・淡路島方面から「なまボート」で買いに来る。・・・・
角田直一『風土記下津井*』瀬戸内海文化連盟1962(1973年再版)
岡山県下津井における鮮魚運搬業のことが詳細に報告されている。特に鮮魚運搬業が発達した淡路島富島や明石出身の中部幾次郎が創業した林兼商店、富島の浜口実右衛門などとの関係性が注目される。
104頁-105頁差込図版「からもの手入れにいそがしい田ノ浦港(1962年の春)」にはイケフネが、150頁-151頁差込図版「巡航船と干ダコのある田ノ浦港の風景」
146頁 大阪の雑魚場は関西最大の消費市場であったから、ここでは莫大な量の魚を必要とした。魚のネウチは新鮮味にあったから、生きたままの魚(イケモノ)を雑魚場に運ぶことが必要であった。淡路島の仮屋、育波、室津、富島の各浦では、ずーっと昔から内海各地のイケモノを買って、これを大阪に運ぶ鮮魚運搬業が発達した。淡路の魚商人はたいてい雑魚場の問屋衆から、金や船の援助を受けて、その手先になって集荷する場合が多かった。淡路の商人は、大阪を基準にして内海の活魚の集荷区域を、マエ、イチアケ、シモと三分して呼んだ。・・・「イチアケ」はいつとはなしに下津井を中心とするようになった。讃岐の観音寺、伊吹島方面、塩飽海の魚がほとんど下津井のブガイ(出買船)の手によって、下津井の魚問屋に集められたからである。
147頁 イチアケは、何隻かのイケフネを曳航してやってきた。イケフネはイケマとドウノマの吃水線以下の舷側に、矩形の小窓(通水孔)が数個切ってあり、小窓には金網が張ってあった。この小窓から自由に海水が出入できるから、中の魚は生かしたままで船を移動することができた。
148頁 日露戦争が終わるころから、イケフネはボートに漕がれて大阪に運ばれるようになった。ボート漕ぎというのは、ボートと呼ばれる内火艇型の小型汽船によって、数隻の無動力イケフネを曳航することであって、普通ボート一隻でイケフネ十隻ないし二十隻を曳航した。そのころの曳き賃は魚イケで二十円、タコイケは十五円ぐらいであった。
149頁 ・・・明治二十八年二月には富島には六十隻の回船がありそのうち三十石程度のイケフネ約三十隻が、魚島時期の鯛積みに下津井に通っていた。明治四十四年(一九一一)、富島にはじめて巡航船ができた。富島の浜口実右衛門という人が、スェーデン製の十五馬力エンジンを着けた「動くイケフネ」を初めて使用したのである。そして大正五年(一九一六)には富島の巡航船は十八隻になった。淡路の巡航船が下津井にくるようになると、ボート漕ぎはすたってしまった。ボート漕ぎが行われたのは、わずかに十年足らずの間であった。
151頁-158頁 巡航船(要約)下津井で初めて十五馬力の鮮魚運搬船をつくったのは田ノ浦の山口由松氏である。ハモナワで朝鮮出業中、林兼の買入責任者となり動力船の経験を身につけた。大正四、五年に下津井魚問屋の味万(岡村万吉氏)が第一号万福丸をつくった。大正六年(一九一七年)亀井、尼崎両氏共同の乙島丸、大正八年には笠井氏の壱岐丸、亀井氏のトキ丸が建造された。
第一号万福丸、第二号万福丸、第三号万福丸は大分県国東半島の富来を根拠地としてカレイの集荷につとめた。下津井魚問屋十三軒のひとつであった著者の生家の角七(角田七五郎)は大正十二、三年頃、小型巡航船の永寿丸第一号を十五馬力、千四百五十円で讃岐の生里(香川県三豊市詫間町生里)で購入、タコが沢山とれている香々地(大分県豊後高田市香々地)を角七の根拠地とした。
永寿丸第二号は二十五馬力、機械千二百五十円、船体千三百円で、機械は兵庫の田中鉄工所。この船をつくるために下津井の船大工渡辺与三郎は淡路の富島へ数ケ月間見習に行き、船の構造図をこっそり持って帰った。こうして下津井の大工の手でつくられた最初の巡航船ができあがった。香々地のタコを積んで大阪に通った。永寿丸第三号、永寿丸第五号は雑魚場の魚問屋佃利からタダでもらった。永寿丸第六号は六十馬力、船三千六百円、機械三千三百円で下津井の船大工渡辺与三郎が作った。永寿丸第七号は五十馬力、佃利から無償で貰った。永寿丸第八号は五十馬力、淡路の室津で買った。四号、九号、十号は縁起をかついで船ナンバーには用いないことになっていた。永寿丸第十二号は伊予の深浦で買い、深浦のタイや土佐の清水のブリ、カツオを集荷した。永寿丸第十三号は淡路の富島で買い、永寿丸第十五号は宇和島で作り、佐賀関のタイを集荷していた。昭和十年ごろには約十隻の船主となり、香々地、佐賀関、深浦、長浜に四支店をもつ内海有数の鮮魚運搬業者になった。
・二野瓶徳夫『漁業構造の史的展開』御茶の水書房 1962
266頁 ・・・瀬戸内海沿岸地域・淡路島は大阪への鮮魚供給地域になっていた。・・・沖合または各漁村を買い回る出買船の活躍は、ほぼこの地域全体をおおっていた。このような出買船によって、あるいは仲買商によって、この地域の漁獲物は、煮干いわしなどをのぞき、多くは鮮魚のまま大阪・兵庫・西宮・尼崎などに集荷されたものとおもわれる。・・・瀬戸内海沿岸漁村の漁獲物流通経路の略図は研究の上で参考となる。
・後藤陽一編『瀬戸内御手洗港の歴史』御手洗史編纂委員会 1962
127頁 第38図 胡子神社前の雁木には舳先を右に向けた活魚運搬船、248頁 第80図 桟橋とみかん山には桟橋の手前に停泊している活魚運搬船。広島県呉市豊町御手洗(大崎下島)
・稲垣足穂『明石』木村書店 1963
130頁 釣船に発動機を取り付けたのは明石浦が嚆矢であるが、漁業用石油発動機船にいち早く眼をつけたのも、やはり明石である。明治三十七年といえば、大阪の川口に荷物運搬の巡航船が二艘ほど動いていたにすぎなかった。中部幾次郎氏は、船町の船大工小杉松五郎さんを伴うて大阪まで巡航船見学に赴き、十二馬力のエンジンを買ってきて試作した。大成功であった。以来、続々と巡航船が明石の浜辺で造られるようになった。・・・
131頁 明石浦の巡航船は、一定の場所のほかに、どこでも適当な砂浜を選んで露天で作られている。・・・
・北見俊夫『和歌森太郎編 淡路島の民俗』吉川弘文館 1964
98頁 彼らの出買船は生船といわれ、生簀を上手に使って囃喉場へ生魚を供給した。富島の場合、生船活躍は大正中期まで栄え、朝鮮釜山・蔚山を根拠地にして九州漁民の魚を沖合か港で仲買して運搬した。東の方は伊勢・志摩で伊勢エビや鮑を買い込んで名古屋市場へ向かったり、東京方面へ遠乗りしたものである。東浦北部佐野では、潮流や風向の関係で大阪通いは都合よく、当浦の網元荒木屋は生船活動の中心的存在であった。・・・
・武智利博『愛媛県産業地誌』愛媛県史編纂委員会 1965
50頁 表15 伊予灘・燧灘漁村の零細漁民の生鮮魚流通過程として鮮魚運搬船役割が表されている。
65頁 図14 9月1日以東底曳網漁業の解禁をまつトーロル漁船と八幡浜港右下端に活魚運搬船の船尾が、またトーロル漁船に並んで活魚運搬船が停泊。
・野口栄三郎『水産研究叢書7 漁獲物の鮮度保持*』社団法人日本水産資源保護協会 1965
5頁 一般に魚が死ぬとしばらくして硬くなる(死後硬直)。硬直がすぎるとついで軟く(解硬)なり、最後に腐敗する。そして一般には硬直前や硬直中の魚を生きが良い魚といい、硬直がとけて軟化したものを生きが悪い。更に進んで食用にできなくなったものを腐敗またはくさったといっている。すなわち魚の鮮度は生きの良いものと、生きの悪いものおよび腐敗の3段階に区分される。また魚市場などでは生きの良いものを更に区分して、硬直がはじまらない状態のものを活魚またはイキといい、硬直中のものはシメまたはしまった魚等ともいわれて区別されている。図2表 魚の死後変化は参考になる。
・みなと新聞『みなと新聞 昭和40年9月25日(土)』1965
活魚運搬船に重点大日水産富島造船所40年の経験生かす近海漁業振興の根城最高の木船造るおれは若いぞ仕事の虫の精神大日水産社長日野顕徳氏広告欄には大日水産株式会社の取引会社の広告。
・岡本信男『近代漁業発達史』水産社 1965
190頁 動力運搬船新生丸中部幾次郎の鮮魚運搬事業を飛躍的に発展させていく更に大きな動機としては、彼が明治三八年に鮮魚運搬船「新生丸」を建造したことである。・・・幾次郎が大阪の巡視船を見て、運搬船に発動機をつけることを思いついたのが三六年の春、苦心の結果これが出来上るのが三八年の暮れ、一二トン八馬力、長さ一四メートル、幅三メートルの新生丸が出来上がるまでに三年近くもかかっている。速力は六哩、帆走、いけすもあるという、当時としてはまさに画期的なもので、これによる雑喉場通いが始まる。所要時間は従来の半分以下、積荷は二倍。いけすの活魚も市場で飛ぶように売れたというが、おそらくこの新生丸は世人を驚かし、幾次郎の商利を日々積み重ねていったにちがいない。・・・
・志村賢男『日本漁業の資本蓄積』東京大学出版会 1965
鮮魚運搬業が近代漁業の中で果たした役割について詳しく記述。
93頁 ・・・機船化と氷蔵輸送の方法によって、鮮魚運搬商は商業活動の範囲をいちじるしくひろめることができた。林兼が機船運搬船をもってハモの活魚買付を目的に来鮮するのは明治四〇年のことであり、同じく淡路出身の山野(大正元年、山神組を組織)も前後して来鮮する。そして機船運搬船は明治四〇年六隻、四四年一九隻、大正八年には三二五隻と急増していく。この機船運搬船は、すでに「主として魚問屋の強力な経済的背景のもとに発動機船又は蒸汽船で続々と南鮮漁場へ進出してきた」(大佛次郎『中部幾次郎』)という特徴をもつ。かれらは在来の塩切・活洲船と対抗して急速な発展をとげ、この中から林兼・山神組(日本水産株式会社の前身)の二大商業資本を成長させる。
・山口和雄編『水産 現代日本産業發達史ⅩⅨ』現代日本産業発達史研究会 1965
358頁 明石の海産物商中部幾次郎は明治前期から林兼組の屋号で瀬戸内海沿岸の鮮魚を買い付け、これを阪神市場に出荷する仲買商であった。明治四〇年代に、瀬戸内海・九州方面の漁業者を主体とした朝鮮沿海通漁が活発となるや、林兼組はこれらの通漁船や移住漁民に対し運搬船をもつ仕込資本として活躍し、ばく大な利潤をその手に収めた。
林兼組の運搬船は船尾が西洋型で、胴中は和船型のいわゆる「明石型」で、エンジンも当初は電気着火であったものを、大正元年、第二新生丸、第三新生丸の二隻に焼玉式の有水式軽油機関をとりつけ、さらに、六〇馬力の第五新生丸、八〇馬力の海洋丸を新造し、大正四年には第十一、第十二、第十三、第二十三新生丸を新造して、全部で二〇余隻の大型動力運搬船を活動させた。
・諸岡等『水産研究叢書14 活魚輸送』社団法人日本水産資源保護協会 1966
活魚輸送の課題である酸素補給等について、実際に活魚輸送船を使って実験を行いその成果を科学的に分析し報告している。
8頁 3.酸素消費では活魚の餌止め、活魚船への積込から受ける衝撃、傷など活魚輸送に際して注意すべき事柄が整理されている。
24頁 4.酸素補給では換水法と曝気法の方法が解説されており、船底と舷側に換水孔がある活魚船における海水の出入りを、a.船の航走b.波による上下動として説明している。活魚輸送を科学的に分析、解説した資料として重要である。
・城辺町誌編集委員会『城辺町誌』1966
447頁 ・・・明治の終わりから大正にかけて、深浦の西川源治・岡野源平・安村弥太郎が魚問屋を経営し、かなり手広くやっていたようで、当時、大阪送りのタイなどは、防腐剤を入れた密閉した容器を使っていたという。これをみても、当時から阪神方面への販路が開けていたことがわかる。その後、末金・岩亀・末千代が現われ、続いて扇千代・安平・青源などが開業するようになって、保村酒店付近にあった魚市場は活気に満ちてきた。この当時は沖買いもよく行われていたようであるが、生ボートの出現によって、前述の生す買いの全盛期を迎えるのである。昭和の初め、深浦駐在所の前には、その生すがずらりと浮んで、時折り、生ボートに移しこまれるタイやイカなどを見かけたものである。この方法は、氷が十分に出回る昭和十五・六年ころまで続き、魚問屋の前には、いつも数隻の生ボートがつながれていた。・・・
・河合正治『瀬戸内海の歴史 日本歴史新書』至文堂 1967(1977 重版)
225頁 ・・・鯛・すずき・はまち・大口かれいなど生魚として商品化する魚類は諸浦のショウヌシ(商主または庄主か)と呼ばれる仲買人が買い集め、広島や伊予三津浜など地方の魚市場だけでなく、遠く大坂方面に送られていた。倉橋島鹿老渡のショウヌシ野村氏は平生から漁師に米・塩や資金を貸し付けて世話をし、かれらから買い集めた魚は一度生簀に入れ、これを音戸・安居島・二神島などの生ヶ船によって大坂・堺方面へ送っていたという。
・『日本産業百年史上 開国から太平洋戦争まで』日本経済新聞社 1967(1977 19刷)
229頁 明治三十六年、大阪の川船に使用された巡航船は石油発動機を備えていた。同年大阪で開いた第五回内国勧業博覧会には船舶用発動機が出品された。三十八年に、中部幾次郎が国産第一号の発動機付き魚類運搬船をつくった。
・中井昭『香川県海外出漁史*』香川県 香川県海外漁業協力会 1967
115頁 明治三五、六年以降、老羅島が重要な根拠地となってからは、ハモ延縄漁業は専業となり、主として春季に通漁するようになった。この頃からタイ延縄漁業が漸次停滞的となっていったことが専業化を進めた理由と思われるが、同時に明治四〇年以降、生簀船は林兼組を先頭として動力運搬船となり、出荷能力がいちじるしく増大したこともその重要な要因であったといえよう。
133頁 ・・・明治四〇年、慶尚南道固城沖の布山を根拠に、林兼組の中部幾次郎が発動機船第一新生丸により、本県(香川県)通漁者からハモ、サワラを集荷運搬したのが、発動機運搬船の最初であった。第一新生丸は八馬力の石油発動機を備え、トン数十二トン、速力六海里、和船づくりで長さ一四メートル、巾三メートルの大きさで、生簀の設備をもち、また帆走の用意もあった。・・・発動機船は汽船よりも経済的で操縦運転が安易であったこと、その他いろいろの点で汽船より便利であったため、まもなく、朝鮮沿岸運搬船としては発動機船が急激に増加し汽船を圧倒していった。・・・従来の和船型の船体の船尾を西洋型にし、中央を和船型(明石型)として農林省制定の標準型となった第二新生丸を建造し、事業は一層拡大され、その仕込船は明治四二年、二〇〇隻ないし三〇〇隻となった。
143頁 朝鮮沿海における新興運搬業者でこの期にもっとも堅実な発展をとげたのは中部幾次郎の林兼組であった。兵庫県明石の鮮魚運搬業者中部幾次郎は明治三〇年代まで瀬戸内海各漁村を回りタイ、ハモなどの鮮魚買付けをおこなっていた。当時は本県(香川県)沿岸にも往来し、小田村の運搬業者石原与市をはじめ本県の鮮魚運搬業者とも親交が厚かったといわれる。明治三八年建造した一二トン八馬力の第一新生丸で明治四〇年、慶尚南道固城沖の布山を根拠として本県通漁者のハモ、サワラの買付を行なったのが林兼組の朝鮮沿海における事業の濫觴であった。その後間もなく羅老島を根拠としたが、当初より本県通漁者との関係は深く、最初林兼組を朝鮮沿海に連れていったのは、当時本県通漁者であった津田町北村の和田専太郎であったといわれている。当初朝鮮沿海では小田組のほうがはるかに優勢であったが、数年後には林兼組は朝鮮沿海全域で圧倒的な勢力をしめるようになった。
・・・また、運搬船の増強、運搬方法の改良なども他の業者に先きがけて積極的に行なった。明治四二年、第二新生丸を建造し、機関も電気着火から焼玉の有水軽油機関へ、さらに無水軽油機関に改良し、明治末には六〇馬力の大型エンジンを据えつけた第五新生丸や八〇馬力の海洋丸までつくりあげた。・・・
・中島町誌編集委員会『中島町誌』中島町役場 1968
629頁 二神のタイの畜魚タイは毎年10月から年末にかけてアミイケスに入れてたくわえ、主として正月用に出荷する。昭和39年度には2万6,000尾をたくわえた。正月用は12月27日に出し、あとは年を越して出す。正月用には1,200貫程度出すが、運搬途中で弱るために4倍いれておく。網でとったタイは弱く、それに対し、延縄や一本釣のタイは強い。・・・タイの販路は京阪神で、京都行は糸崎まで活魚船で送り、糸崎でしめて貨車に積むと4時間でとどき、時間的にもよい。自然に死んだのは白くなる。阪神行きは明石海峡辺でしめると、丁度市場のせり市に出すのによい。・・・
630頁 タコの養殖・・・タコは14℃がよく、8℃になると餌を食べなくなる。9月に80匁~100匁のものが、3ヵ月すると3倍の300匁になり、売り頃からみて有利である。水温が下がらぬ内に、養殖タコは60%を阪神へ、40%は広島・松山へ出す。タコの阪神行は淡路の富島の積船(生ボート)にまかして出荷する。
・松居暢夫他『養魚講座第4巻 ハマチ・カンパチ*』緑書房 1969(1988年第6版)
165頁 活魚輸送の要点はいうまでもなく輸送中の斃死をできるだけ出さないこと、魚を弱らせたり、傷つけたりして商品価値を低下させないことであるが、それには活魚槽の中の海水が輸送中、魚の活力を維持するのに充分な酸素を含んでいることが第一の要件になる。
(1)酸素の補給水上輸送のばあいは換水によって酸素補給ができる。活魚船の換水装置は、船が走っている時には換水孔を通して水槽内の水の流動と置換が起る。船底と舷側に孔のある型の活魚船では、一般に船底の孔には舷側の孔よりも水圧が多くかかり、この水圧差が水交流を起こすもとになる。・・・いづれにしても、布片を棒の先につけて、各換水孔に近付けると、布の動きによって水の動きや出入りがわかる。水が入る孔と出る孔とほぼ定まっている。活魚槽の水の出入は、このほかに、波と船の上下動の時間差によっても起る。荒天のときには水の交流量が増えることはいうまでもない。しかし、この点は船や魚槽の大きさ、構造にかかわらず起るので、換水率の基本は前述の換水孔の数、大きさ、位置、構造において考慮するとよい。・・・
換水孔の機能と水流の動きを詳細に説明。164頁第6-1図には活魚船からのハマチの出荷過程の写真。
・野網和三郎『養魚秘録 海を拓く安戸池』株式会社みなと新聞社 1969
174頁 出荷にそなえ船積みされるハマチ魚艙ハッチを開放しハマチを積込む活魚運搬船。
・岡本信男『水産人物百年史』株式会社水産社 1969
102頁 わが国初の動力付運搬船である新生丸の活躍はめざましい。明石―大阪間の所要時間は半分以下、しかも積載量は約二倍。生簀の設備もあって、その好条件は同業仲買人をびっくりさせる始末。やがて一四才になった長男兼市は機関の操作を習得し、父が船長、子が機関長という水入らずで、三十九年からは下関から日本海に出、豊漁のブリを買付けたり、福井の小浜を根拠にカレイを買付けるなどして巨利を得た。こうした慧眼と努力で、幾次郎は鮮魚仲買に自信をもち、将来に大きな望みを托すのだった。
従来帆船で三日を要した下関までの航行をわずか二五~六時間に短縮するという新生丸の鮮魚運搬は、日鮮間に革命的な意義を投じ、有漁組、小田組、山神組、のちには葛原冷蔵の進出など大正八年頭には、その数三〇〇隻にも達していった。四十二年には第二新生丸を新造し、四十三年には方魚津を根拠に、四十四年には一六才の謙吉も父を助けて渡鮮する。大正元年には第一、第三、第五新生丸、海洋丸と揃い、林兼組は朝海一方の旗頭となる。
・宮本常一『日本の離島第1集 宮本常一著作集4』未来社 1969(1980年第5刷)
17頁 西瀬戸内海の姫島のことはさきにもふれたが、この島は江戸時代の中頃以降から一本釣の盛んになったところである。この近海ではタイがよく釣れた。タイの消費地は大阪であった。釣りあげた大形魚は生かしたまま市場に運んで売るのがもっとも有利である。そこで活船や生簀で運搬するふうが早くから見られた。この島でもその釣りあげた魚は仲買人が買い、運搬船で三津ガ浜・別府・広島、遠くは大阪の魚市場まで運んだのである。そうして人口二〇〇〇人ほどの島に活船が五〇艘あまりもいたことがある。・・・
196頁 次に漁船の機械化について見てゆくと、この地で最初に発動機を船につけたのは明治の終り頃で、山本末吉氏が、明石までの渡海の荷物運搬に使用した。そして非常に能率をあげたので生魚船が機械化した・・・。岩屋には市場も問屋もない。仲買人が二〇人ほどいる。しかし昔からの仲買人は一人しかいない。それぞれイケスを持っていて魚を買っている。この仲間にはもと出買船を持っている者があって、それで大阪まではこんでいた。しかしこの出買船はすたれてしまって、いま漁船がナマフネ(生魚船)にかわって大阪・神戸へはこんでいるが、その量は一隻で一〇貫内外のごく僅かなものである。
・荒居英次『近世の漁村』吉川弘文館 1970(1996新装版)
225頁 ・・・鯛網漁業なども摂津・和泉・紀伊の他国出漁民によって近世初頭からおこなわれた。鯛は高級魚のため市場価格が高く、干鰯生産の鰯網などと同様に他国の遠隔地で漁獲され、わざわざ大阪・江戸などの大市場に送られていた。中略これら鯛網の他国出漁によって漁獲された鯛は、特殊の生簀船によって大阪はもとより、江戸まで送られていた。・・・
・北見俊夫『市と行商の民俗 民俗民芸双書 56』岩崎美術社 1970(1974年第三刷)
128頁 海の行商として、重要なものの一つであった鮮魚運搬について、もう少し具体的に述べてみようと思う。淡路島には一本釣と延縄技術を誇る岩屋をはじめ、西海岸の富島は、イカナゴ敷網漁業中心地でもあった。この浜の漁民は、活魚運搬の特技をもっていたといわれ、今日でも「イケフネ」と昔ながらによばれるところの生簀装置を備えた特別注文の木造船を所有している。
129頁 魚市場は瀬戸内海では草津(広島)、三津(松山)、妻鹿(姫路)、下津井(岡山)で、何といっても大阪が一番大きい。大阪の魚市場は川口よりかなり上手にあり、川口付近でも河水が多く混って塩分濃度が変るので、そのままでは魚が死んでしまう。だから川口の沖合にさしかかると、乗組員は素裸になって生簀に飛び込み、孔に栓をして塩分の薄い海水の流入を防がなければならない。生簀の栓がスルリとうまく入って、しかも外からの水が入らないというのが富島の船大工の腕の見せどころであった。そして市場に出す直前に魚をしめる。この付近で活魚運搬を盛んにやっていたのは淡路島西岸の斗之内、育波、室津で、明石も盛んであった。
130頁 彼らの出買船は生船といわれ、生簀を上手に使って大阪の雑喉場へ生魚を供給した。富島の場合、生船活躍は大正中期まで栄え、朝鮮釜山、蔚山を根拠地にして九州漁民の魚を沖合か港で仲買して運搬した。東の方は伊勢・志摩で伊勢エビや鮑を買い込んで名古屋市場へ向かったり、東京方面へ遠乗りしたものである。・・・
・沼島壮年会『沼島物語*』沼島壮年会編 1970
63頁 山神組 山神組というのは明治四十年頃から大正七年にかけて南朝鮮を中心に活躍した水産会社の一つで、沼島の山野音吉(南ノ丁勘蔵の人)同鶴松(明治十年生)父子が築き上げた事業体である。山神組は大阪ざこばで勢力のあった、生魚商神平商店(鷺池平九郎)が資金を出し、山野家一統が生魚船(なま船)を出して明治四十年(一九〇七)頃に始めた共同経営体であった。・・・山神組の主な事業は、南鮮出漁者に対する仕込みと鮮魚の買取り、売りさばきであった。
63頁 山神組の巡航船(下関にて)大正初年左の船は第三沼島丸(25屯)、右の船は大阪ザコバの神平商店旗を掲げた立神丸(22屯)。
67頁 大正五年から六年にかけては山神組の最盛期であった。この時の持船は第三沼島丸(二五屯)、立神丸(二二屯)、第四沼島丸(一五屯)、第五沼島丸(四五屯)、第六沼島丸(二〇屯)、第七沼島丸(一二屯)、第十沼島丸(二〇屯)、第十一沼島丸(二〇屯)、第一二沼島丸(二〇屯)、第一三沼島丸(二〇屯)、第一四沼島丸(二〇屯)、第一五沼島丸(五〇屯)、第一六沼島丸(四〇屯)、第一七沼島丸(五〇屯)、第一八沼島丸(二二屯)、第一九沼島丸(二〇屯)、第二十沼島丸(三〇屯)、第二一沼島丸(二〇屯)、高盛丸(一四〇屯)、神盛丸(一二〇屯)、小富士丸(一一〇屯)、日光丸(八五屯)、相生丸(二五屯)、大黒丸(二五屯)、源広丸(三〇屯)、昌栄丸(三〇屯)の外に庫船十数隻チャーター船十数隻(漁季により変動あり)合計汽船-五隻-五百八十トン、機船-二十隻-五百七十トン。
・玉野市史編纂委員会『玉野市史』1970
646頁 そこで岡山県がこの不利や不便を解消するため慶尚南道の弥勤島に岡山村をつくったのは前にも述べたように明治四十年のことであったが、四十四年には和気郡伊里村を中心とする六十三戸が移住していた。
647頁 このころ向日比村の移住者の一人である森野徳太郎は、大正三年に岡山村で魚問屋をはじめ、金比羅丸という運搬船を作って、ハモ、アナゴを内地へ輸送する仕事をはじめたのであるが、これは好調であった。
魚をとる漁師は、とった魚を運搬、販売してくれる問屋のいることは能率的でもあるし、その上問屋は同村の移住者仲間である。漁業者にもよろこばれたし、親村である向日比もこれに刺激された。
漁業組合が「日比丸」という活魚運搬船を建造し、春は瀬戸内海のタイ、サワラなどを、冬は朝鮮のハモ、アナゴを阪神方面へ運ぶようになったのは、大正もおわりに近いころであったという。
・谷川英一『水産物の鮮度保持・管理』恒星社厚生閣 1970
109頁 換水によって酸素補給ができるのは、水上輸送の場合だけである。酸素が減り、炭酸ガスが増し、吐出食物、排泄物などによって汚濁した魚槽内の水と、新鮮な酸素に富む魚槽外の水との間に、水の交流が行なわれる。
船が航走するときに、魚槽の換水孔に水圧がかかり槽内水の流動が起こる。換水孔の数や位置は船によって異なり、任意に造られている。船底と舷側に孔がある型の活魚船では、船が進むときに進行方向に対して仰角をもつものが普通で、船底の孔には舷側の孔よりも水圧が多くかかる。このようにして生じる水圧の差が、水を流動させる原因になる。
また活魚船には舷側孔がなく、船底にだけ換水孔をもったものがある。この場合は、同じ船底の孔であっても、その位置によって圧力の受け方が異なることが、流動を作る原因である。(布片を棒の先端につけて、その先端を各換水孔に近付けると、布片の動きによって水の動きがわかる。水が入る孔と出る孔とは定まっていて、同じ孔が出入孔を兼ることはない。)この種の活魚船は舷側孔のあるものに比べて圧力差が小さいので、換水率を高めるために、換水孔に特別に水流を受ける(あるいは水を引き出す)仕掛けをすることがある。
・大島襄二『水産養殖業の地理学的研究 関西学院大学研究叢書 第31輯』東京大学出版会 1972
28頁 なおこれらの生物を移動させることは、一応その目的が事後の養殖であるという点でここに取りあげたものの、その内容そのものは本来活魚輸送といわれる事業であって、瀬戸内海沿岸の各地から阪神へ運ぶ生簀のある船のことを「生ボート」と称しているが、水産物を市場まで生きたまま運ぶ技術は別途の発達をしている。
・西村望『瀬戸内海と山陽』山と渓谷社 1972(1974年再版)
73頁 入江にめぐまれた下津井港(昭和46年7月3日撮影) 中央左端に、下津井港の岸壁に接岸している活魚運搬船が見られる。岡山県倉敷市下津井(旧児島郡下津井町下津井)
・日本常民文化研究所編『日本常民生活資料叢書第二十一巻 中国四国篇(2)』1973
『周防大島を中心としたる海の生活誌』宮本常一 彙報第十七として昭和十一年七月刊行。
宮本常一「周防大島を中心としたる海の生活誌」『宮本常一著作集 38』未来社 1994で再録。
155頁 一方生魚會社の方では、發動機船を以て浦々の魚を集めてまはる。さうしてすでに弱ったと思われるものは、廣島へ向つて運ぶ。他は大阪へ運ぶ。明石あたりから帆船の來てゐた時代は、大阪までを相當の日數かけてタブリながら行つたものださうであるが發動機船だと一晝夜で大阪の築港外に現はれる。そこで碇をいれて、生魚をすくひあげ、一々頭にウチカギを入れて殺してしまふ。さうして、遂近頃はザコバに現はれたものであるといふ。
今大阪の中央市場に販賣所を持つてゐる大きな生魚會社は多くは、買取から運搬、販賣まで一手でやつてゐる譯である。従つて魚の價も二三日毎に變改するのが當然となる譯である。現在淡路には瀬戸内海から九州に到る間の生魚を買ふ船が實に三百艘もあり、それが富島を中心に活動してゐるといふことである。淡路船が、明石船を沖家室から驅逐してからでも、もうどうやら三十年近くなる様な話であった。
『瀬戸内海島嶼巡訪日記』アチック・ミューゼアム編 アチックミューゼアムノート
第十七として昭和十五年九月刊行。
410頁 田ノ浦(岡山縣兒島郡下津井町字田ノ浦) 蛸は淡路の殿内ら生舟が來て買って行つたものである。之を蛸イケと言ひ、此船のマストにドショウといふ石をつけて船を揺がし、イケマの水を新鮮にし乍ら持つて行った。蛸の賣買は目方で爲さず一ツ何程で値を極めた。すると大きい方が値が良いから賣る方ではなるべく大きく見せかける様にした。例へば蛸をいらうて(いぢりまはす事)投げると大きく見えるもので、さうして良く投げた。すると仲買の方ではなるべく小さく見て買はねばならぬ。かういふ事で昔は仲買の買子は良い給料を取つたものである。
436頁 眞鍋島(岡山縣小田郡眞鍋島村) 漁獲物の販賣網主は出買船一艘、生舟二艘位を所有していゐて、此舟で鯛を島外に販賣した。出買船は三人乘で、主に讃岐の多度津、丸龜、備中の寄島、笠岡、鞆等に運搬した。生舟は肩巾一丈、四五十石積の帆船で、四人乘りであつた。主に大阪、堺に鯛を生かして運搬した。なほ大阪、堺の問屋からは網主に仕入金が出てゐた。・・・
・稲村桂吾・笠井健一共著『新版 漁船論』恒星社厚生閣 1973
189頁 ・・・餌料倉は往航は餌料いわしの活魚槽となる。船底に換水穴を設ける場合、その数は餌料倉の大きさにより6個から12個くらい取付ける。換水穴にはいろいろの形式があるが、なるべくその長さを短くし、径を大きくすれば、換水量は多い。木造船では活魚槽の底部に内張板を張らず、直接換水穴を外板に付けるものが多い。
換水穴は木材をくり抜いて作るもの、砲金や亜鉛メッキの鋼管を使用するもの等がある。換水穴の外板側に舌状の金物を出し、海水の出入を促進しているものもある。換水穴の上側には、餌いわしが逃げ出さぬよう、金網の蓋を設ける。・・・わが国のかつお釣漁船は、餌料倉の換水を従来は、みな自然換水の方式を採用していた。
293頁 小型運搬漁船の中には、漁獲物を活かせたまま運搬するものがある。これには船内に活魚槽を設け、その船底に換水穴を設けている。自然換水のみでは活魚の収容量が少ないので、機動ポンプで海水を注入するものもある。
この種の活魚運搬船は主として京浜地区、京阪神方面の大都市に、それぞれの近海から高級魚を運搬している。
・湯浅照弘『岡山県漁撈習俗誌―旧児島湾・下津井の漁撈習俗―』山陽図書出版株式会社 1974
36頁 カシキ網で漁獲された鮮魚をいかにして運ぶかが重要である。鮮魚運搬船が児島湾の北浦、阿津の漁浦では発展活躍している。北浦の例では、鮮魚運搬船をナマセンといった。磯上亀吉、山本喜三郎、坪田、清田、下野、松田といった家では、多いところで二~三艘のナマセンをもって主として香川、愛媛両県の魚を岡山市や京阪神に送りこんでいた。ナマセンでは魚の鮮度をおとさないようにするため、帆のところに石をぶらさげ、常にナマセンを動揺ささなければイケスの海水が変らないということである。・・・
・藤岡謙二郎・浮田典良共編『離島診断』地人書房 1975
30頁 「西日本に活魚運搬業者、いわゆる「生ボート」を持って各地で生簀に入れている活漁を集荷して阪神市場に運ぶ業態が発達したのは、西日本に離島が多いこともその起因の一つとなっている。瀬戸内海の島々から、さらに関門海峡を越えて九州の離島までをその集荷圏とするこの業態は、五島や対馬の養殖タイまでもそのルートに乗せて大阪・名古屋に捌いている。
・柳田國男・倉田一郎共著『分類漁村語彙』国書刊行会 1975(1938年 復刻原本)
306頁 デカヒ 瀨戸内の小豆島大谷などでは、魚は村に仲買人がゐて大阪の方へもって行きもしたが明石のマスイチからデガエが買ひにも來た。デガエは生魚船の事で、マスイチには之が二十も三十も居た。この船は帆柱にフラセをつけたもので、是は船がよく揺れて、イケマの水が替りよいからであるといふ。安藝の三津あたりにも出買船のある事が知られてゐる(廣島三津漁村採訪記)から或はこの船名はまだ他にも行はれてゐると思はれる。
307頁 ショウヌシ四國の日振島で、以前ショウヌシといふのは各部落に一軒宛あつた生魚専門の仲買のことであつた。これを買ひにくるのは生簀をもつて居て、魚類を之で生かしておいた。他所の商人で、多くは藝州音戸邉のもので、その生魚買ひの舟を茲ではイケフネと呼んだ(伊豫日振島舊漁業聞書)。
・北淡町『北淡町誌』北淡町誌編纂委員会 1975
454頁 出買船大正初期における水産業で特殊なものとして特筆すべきものに出買船がある。・・・その隻数は富島浦の130隻、斗の内浦の55隻、育波浦の10隻、室津浦10隻、蟇の浦6隻の211隻があったと記されている。就労人員約1,000人以上を数えた。・・・大正5・6年以降急速に盛んになり、それまではほとんど帆船であったが、それ以後は動力併用の機帆船になり60-70馬力の大型船となったのである。
そして活動範囲も朝鮮の釜山港を基地に日本海側へ、朝鮮半島南部の木浦を基地に黄海へ、西朝鮮湾各港および大連港へと水産物の買出しに行き、生魚のまま阪神の市場へ輸送した。そしてその独特の造船技術と輸送手段は本町水産史上、特に後世に迄残し置き度いものであると思われる。富島浦出買船団は38度線南部厚里浦・九竜浦を基地に日本海沿岸のさば・いわしを、また斗の内浦船団は北部羅新・清津・元山を基地にさば・いわしを取扱った。その他各浦の船団はウルソン島以南対馬海域までの漁獲物(主としてかれい)・黄海沿岸のたこ・いか・あなご・はも長山列島西朝鮮湾におけるさばはメ粕として現地において加工輸送販売していた。北淡町から北部元山までの機帆船の所要時間は下関迄約28時間、玄海灘を約15時間かかり釜山港へ、さらに元山迄48時間を要したのである。出買船の時期は毎年8月→12月と正月から3月までと非常に長期にわたっていたのである。
・・・当時の運搬量は小型船でたこ500kgから700kg、大型船で6,000kgから7,000kgであった。魚価はたこ3,75kgにつき17銭から50銭で、大阪・神戸で販売していた。・・・昭和の初期に富島水産株式会社が設立され出買船産業の合同と合理化が実施されたが、昭和10年以後になり次第に成績も悪化しはじめ、やがて戦時下に入ると統制経済時代が訪れて、人手不足と収益減少から次第に縮少されたのである。終戦後は朝鮮の独立により、五島列島・対馬・宇和島・瀬戸内海沿岸漁港の鮮魚運搬へと姿を変えていった。・・・
454頁 出買船の流れをくむ鮮魚運搬船一般的には木製ブリッジ。右端の鮮魚運搬船の操舵室には防水の為に幌カバーが取付けられている。
・武田明『生きている民俗探訪 香川』第一法規 1977
28頁 大正時代から昭和のはじめにかけて瀬戸内海の島々には鯛のシバリアミという漁法が盛んに行われていた。春になって産卵のためやって来る鯛の魚群をシバリアミで捕っていたのである。それが今では観光の目的でやっている地方は別として、本当にシバリアミをやっているのは香川県の庵治町と仁尾町のみになってしまった。・・・
29頁 ・・・捕れた鯛の中で腹をふくらせて浮いているのは、ハリシとよぶ人が竹の尖をとがらせたもので鯛のハラに注射をして腹の空気をぬいてやる。やがてナマセンとよぶ舟の中に鯛は積まれてやがては売られてゆくのである。
鯛のシバリアミ(木田郡庵治町) シバリアミの後ろで鯛の漁獲をまつ活魚運搬船。
・湯浅照弘『岡山県漁業民俗断片録*』海面書房 1977
55頁 ・・・朝鮮釜山のラクトウ川河口の干潟でウナギをとったものをチョキという生魚運搬船で運んでくる。下方伸さんという八浜町の人が大阪の堂島の魚問屋に運ぶのであるが大阪のウナギの値段のあがるまで児島湾の七蟠沖にイケスをつくりウナギのマウオになるのをまつ、児島湾の干潟でとったウナギも七蟠沖でイケスにいかしておくことがある。ウナギの生魚運搬船には第一天神丸、第二天神丸とあった。(玉野市八浜町、大塚岩次郎)
135頁~139頁 タイ網漁にともなってナマセン(生船)が活動していることがわかる。(笠岡市高島)(笠岡市白石島)(笠岡市真鍋島)
179頁 デカイ舟(出買舟)は昔はブカイで魚島の頃には山口県家室島、広島県因島、豊島、瀬戸田吉和、上ノ関まで一本釣りのタイを買いとる。愛媛県今治、宮窪にも買いにゆく、明石舟もやってきていた。明石舟と商売の競争である。・・・(倉敷市下津井東町)
248頁 魚を運搬するナマセンは神戸、妻鹿(?)まで日生近海でとれた魚をはこぶ。(和気郡日生町頭島)
一本釣り漁師の漁場にブカイが魚を買いにくる、大正~昭和初期にブカイの商人は、柏崎、串田、小山などという人がきていた。ブカイの人達が利潤をあげ問屋になった人もいる。淡路島からきていた者辻、原、味万、角七なども一本釣りの魚を買いこんでいた。(下津井杓井戸)
249頁 ナマセンは、ヒョウというものを柱にぶらさげていた。ヒョウ中には石一個を入れておく、また4斗俵に土石を入れてマストにつりさげ、この土俵をぶらぶら動かしていた。タコをイケスにいれたときには、ヒョウをよく動かした。カニは伊豫のカツノエ、西条から買って阪神の市場へ、タコは大阪の魚市場へナマセンではこぶ、新居浜から神戸まで20時間でゆく(?)櫓をこぎつづける。碇をおろしたときのみヒョウを動かす。ヒョウは、トウジン袋に土を入れる場合もあった。(下津井杓井戸)
魚の運搬船、吉福丸はデカイ舟でブカイにゆく、山口県家室島のタイ釣り漁場より広島県豊島、因島、瀬戸田、今治、上ノ関など主として一本釣りのタイを買いとる。今治、ミヤクボ(愛媛県)にはよくでかけたものである。明石からくる明石舟のブカイは、下津井、金手漁場、小槌島の一本釣り漁場にきていた。吉福丸、昭和12年頃、ナマセンとして活動し6トンの舟であった。(下津井東町)
・西日本漁業経済学会『経済発展と水産業 十五周年記念論文集』西日本漁業経済学会編 1977
213頁 大阪市場には、瀬戸内、紀伊、伊勢、阿波、土佐方面から短時間に活(い)かしたままで運ばれていた。とくに関西料理の主座を占める「活づくり」や、活物料理となるものなど美味な魚が豊富に入荷している。大阪市場でいう「活(い)かした魚」というのは、東京の活魚(かつぎょ)のように海水の中で泳いでいる状態をさすのでなく、2~3日間、活簀(いけす)で囲い、胃袋の中のものを自然に消化させ、脂肪分の消化したものを〆(シ)めて仮死状態にしたもので、朝、市場で取引されて、夕食に「つくり」や「あらい」にしても充分身が活かっているものである。この活物は最近では、大阪湾の海水が汚濁しているため、明石港(兵庫県)か和歌浦港(和歌山県)まで、各地の漁港または養殖場から生簀運搬船で運び(海上酸素補給する場合もある)陸揚時に〆めた上で、トラックの活簀タンクで酸素補給しながら、早朝2時から4時頃までに市場まで陸送し、5時10分のセリ開始時刻までに、「新箱」という薄くて長めの木箱に魚体の大小に応じて並べ、セリにかける。・・・
最近になって道路事情がよくなり、さらにフエリー輸送が可能になり、まだ少量であるが直接、関東や、下関、四国方面から活簀トラックで輸送しうるようになった。
・山口正男『タイ養殖の基礎と実際』恒星社厚生閣 1978
367頁~380頁 第7章 出荷 第1節 活魚槽の水質 1.溶存酸素 2.炭酸ガス 3.アンモニア 4.排泄物 第2節 活魚の出荷処置 1.出荷前の処置 (1)餌止め (2)健康魚の選別 2.輸送過程中の処置、取扱 (1)移し換え (2)振動、ゆれ (3)環境の激変 第3節 活魚の輸送方法 1.船舶輸送 2.トラック輸送 3.航空輸送 第4節 鮮度と体色保持
活魚を出荷輸送するに当たって、出荷前、輸送過程中の処置、取扱い、シメの操作について詳細に報告されている。
・もくせい文庫(市民の図書協会)『―聞き書き あかし昔がたり』神戸新聞明石総局編集 1979
52頁 明石はかなりの造船の町だったのですよ。もちろん漁船ですが、独特の技術を誇って生船(なません)を開発、魚の仲買人が活躍する舞台をつくりました。この成功者が大洋漁業を創業した中部幾次郎さんですね。・・・
明治は二大造船場時代です。船町(現材木町)の木本造船と小巻造船があり、木本が生船を専用に造っていました。生船というのは魚の運搬船です。船底に小さな穴があき、海水を入れるイケス構造の〝生け間〟が五つも十もおます。この生船はよそでまねがでけず、淡路の富島の造船所などからも見習いが来てました。明石が生船の元祖だす。・・・これに焼き玉エンジンを積んだ15~20トン程度の船が生船、さらに大きいのを巡航船と呼んでました。最盛期は明治末から大正でしょうか
・角田直一「国東の一漁村」『路地と港町』瀬戸内海文化連盟 1979
94頁 大阪の雑魚場は関西最大の鮮魚市場であり、ここを中心として瀬戸内の活魚を「マエノイオ」「一夜明」「シモノイオ」と三種に分けた。その日とれた魚をその日のうちに大阪に搬入できる範囲の魚をマエノイオといい、一夜を明かして運ばれる範囲の魚をイチアケと呼んだ。長い間下津井は淡路の活魚船のイチアケであったが、大正初年ごろから下津井の問屋資本は自ら巡航船をつくって活魚運搬業を始めた。下津井のイチアケは大分県の国東半島に集中した。国東にはカレイの富来、タコの香々地、イカの竹田津など豊かな漁場が多かった。私の生家は昭和初年ごろには十隻ほどの巡航船を駆使して、香々地のタコを集めては大阪上りをしていた。(昭和五二・一二・一五)
・工藤荘一 明石型木造99トン型活魚運搬船「第8大丸」『漁船第224号*』社団法人漁船協会 1979
船主マルサ水産株式会社(鹿児島市)の依頼により、大日水産株式会社富島造船で昭和54年(1979年)7月に完成した最大級の活魚運搬船。その建造工程については『明石型生船調査資料集・生船写真帖』付論明石型生船写真帳その2―日野逸夫氏の造船資料を中心に―「第8大丸」建造工程写真として詳細に報告。
・卸売市場制度五十年史編さん委員会『卸売市場制度五十年史 第一巻本編Ⅰ』社団法人食品需給研究センター 1979
442頁 林兼商店が資本漁業として発足したのは、大正一三年(一九二四)下関に本拠を構え、その資本を以西底曳網漁業に投じて集中し、個人商店を改組して、株式会社林兼商店(資本金五〇〇万円)と称してからであった。元来林兼商店は、既に詳述されているように、本拠を兵庫県明石に置く中部幾次郎が先代の業を継ぎ、主として運搬船等によって朝鮮通い漁船等に対する仕込みと買い魚を通じて資本を蓄積し、大阪雑喉場の問屋綿末などへの出荷を業としていた者である。
林兼商店は、この業界における仲間競争に勝つには、仕込み運搬船の機動力によるほかないことを洞察し、明治三〇年(一八九七)汽船曳船の淡路丸を借入れ、淡路から野〆生簀を持つ押送船を曳行急送して、大成功を収めた。越えて明治三七年(一九〇四)には本拠を下関に移して、我が国最初の発動機付き冷蔵運搬船・新生丸(一二トン)を建造した。そして逐次小型冷蔵運搬船を増加して、当時既に早くから朝鮮沿海に出漁していた北九州、山口の漁船団への仕込み、買い付けに進出して非常な成果を挙げた。明治四〇年(一九〇七)当時一〇隻未満であった所有船が、大正八年(一九一九)には小型五〇トン以上三〇〇隻を超す船容となるに至った。そして活魚ハモ等は生簀に、鮮魚は函詰にして、かつ砕氷を利用して運搬し、その鮮度と荷扱い利便をもって京阪神の市場で好評を博した。
443頁 ・・・林兼商店と並んで買い付け鮮魚運搬業界で活動していたのは、第一次日本水産株式会社の前身である山神組であった。山神組は林兼商店の新生丸に遅れること一年、発動機付き冷蔵運搬船沼島丸(二三〇トン)、神盛丸(一一五トン)によって、大阪雑喉場の問屋神平その他と組合を組織して、瀬戸内から、また九州沿岸漁場からの買い付け運搬をしていた。時あたかも林兼商店が朝鮮沿海にまで進出するのと軌を一つにして、同海域に業務を拡張する傍ら自ら漁業を経営し、大正五年(一九一六)ごろには九〇隻に近い漁船勢力を有していた。と同時に大正元年(一九一二)以後、麗水、巨文島に根拠を置いて集荷範囲を拡大し、内地はもちろん台湾、広東、上海にまで販売網を広げて行った。
・新見貫次『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 洲本』国書刊行会 1979
121頁 192由良港(3) この写真は御屋敷の浜と今でもいわれる場所で、漁獲物の集散しているところを写したもの。この屋敷の浜といわれるところは、昔蜂須賀氏の藩邸といわれる御屋敷があって、その跡に由良小学校が建てられた。小学校から屋敷の浜に通ずる道路を御屋敷の坂と呼んでいた。御屋敷の浜の最も北が洲本市役所由良支所で、その南隣の施設が漁業関係のもの。前にはここだけが漁獲物の共同販売所であった。御屋敷の浜の向こうには左の成山から延々と島が続く。写真には艫付している小型の明石型生船。
・『三原市史 第七巻 民俗編』三原市役所 1979
358頁 早瀬は対馬のほうへも行っていた。自分は早瀬の船の乗り組みになって天草のほうへも行ったこともある。出買い船をそのころはナマ船といっていた。その船にイワシ・サバなどを氷詰めにして積んできた。そして糸崎・尾道・神戸まで持って行って売った。
イセエビは生かしたまま持ってきた。船にたくさんの生け間を作って、そこへ生けて持ってきた。イセエビは、昼間はかげにかくれて見えないが、夜になると出て泳いだ。
船には生け間がたくさんあり、そこは船底に穴があけてあって海水が出入りできるようになっていた。そうしないと魚は死んでしまう。そこで船は左右によく揺れなければならない。そのため小石を入れて作った土俵を帆柱につけて、船を揺らせながら走ったが、不安定だけでは船がくつがえるので、荷ナオリといって、土俵と小石十個くらいを、舳のほうへ持っていって置いた。船は三本の帆柱をもっていた。
・『三原郡史』三原郡史編纂委員会 1979
396頁 山神組と沼島の魚商人 山神組という沼島の山野音吉が創設した水産会社が、明治四十年ころから大正七年にかけて、南朝鮮を中心に活躍した。山神組は日本水産株式会社を設立した。山神組は大阪ざこ場の有力な生魚商神平商店(鷺池平九郎)が資金を出し、沼島の山野音吉、同鶴松父子が生魚船を出した共同の企業であった。
397頁 朝鮮への出漁に伴い漁獲物を取扱う生魚船が進出するのは当然である。明石の林兼商店(後の大洋漁業)と沼島の山神組は兵庫県関係の代表的な商人であった。山神組は朝鮮麗水を本拠に発動機付きの運搬船として十数隻の沼島丸の操業で開始された。大正元年に匿名組合山神組、大正五年資本金五〇万円の株式会社山神組となり、林兼とならんで朝鮮出漁船団から大規模な買魚を行ない、この仕込みによって利益をあげた。
・神戸市漁業協同組合『神戸市漁協二十年のあゆみ』神戸市漁業協同組合 1979
12頁 設立10年度(昭和43年度)・・・漁港内の一画に大型小割生簀を設置して鮮魚の買取販売を開始し、将来、員外船の誘致によって大量の活魚販売基礎の足掛りとした。
大型小割生簀 ハマチ、タイ等活魚を一時畜養して京阪神方面に出荷生簀に接岸し作業をする明石型生船。
68頁 ・・・淡路方面はもとより四国、九州地方の漁業生産物に係る中継基地としての機能をフルに発揮し、産地と消費地を結ぶ重要な地点という高い評価と地域社会の期待を荷負っている。
外来活魚運搬船 先頭に明石型生船。
・中村勝『市場の語る日本の近代』そしえて文庫 1980(1989年改訂)
248頁 鮮魚では、すでに明治後期の鮮魚運搬船の機動化に成功して以来、冷蔵貨車の採用等、輸送手段の変革は、鮮魚の長距離輸送を可能にしていた。たとえば、一九〇七年(明治四〇)兵庫県明石の鮮魚運搬業者中部幾次郎は、鮮魚運搬船の機動化に成功し、同年春、第一新生丸が朝鮮海域への仕込み買付けを開始した。翌〇八年(明治四一)六月大阪の雑喉場魚問屋が出資した一〇トン積冷蔵貨車一〇両が鉄道省に寄贈され、鮮魚の冷蔵輸送が開始した。・・・
・桜田勝徳『桜田勝徳著作集 第3巻 漁撈技術と船・網の伝承』名著出版 1980
210頁 ナマフネ・・・瀬戸内海では生魚会社の船がダンベイをもって沖買いを盛んにするようになってから、その会社が島の生魚買取りの全権を握ってしまったという時もあったし、生きた魚の買い集めに淡路や明石の生船がこの内海の中を活躍し、一方これらを待つ島々の小さい仲買がイケス船を持って漁師の魚を買い集めている姿を瞥見してきたが、とにかくこの内海は生船活躍の別天地だった観があるように思われる。しかしこの生船が相手にした魚は地曳・船曳などの網漁による漁獲物ではなくて、釣った魚と桝網・坪網などの小型定置でとれたものをねらったであろうと思う。・・・
・角田直一『暮らしの瀬戸内海 風土記下津井*』筑摩書房 1981
下津井と淡路富島の関係や下津井の巡航船の詳細な記録は重要。
195頁のガラモの収穫(1962年春、田之浦港)複数の活魚運搬船
203頁 魚問屋の買い子は漁師の心理を読み、活魚の生理を知ることに特別のカンを持っていた。・・・この鯛が明日の朝死ぬとか、明後日の晩まではもつであろうという判断が働いた。活魚中心のそのころの問屋では魚の活きのよしあしは、魚価の決定的な条件になるからである。瀬戸内地方では、漁師も問屋も魚のことを「イオ」と発音した。・・・買い子は本ネルの腰巻を巻いてその上に帯をしめ、帯の間に矢立てを差していた。魚の取引が終ると、和紙を綴じた小さい帳面の上にさらさらと毛筆を走らせて記録にとどめた。・・・
204頁 淡路からの魚出買人のことを「イチアケ」と呼んだ。魚問屋をしていた私の生家には私の少年のころ(大正末期)、庄兄いと呼ぶイチアケが来ていた。庄兄いは淡路の富島の出買人であった。淡路の人は名前の後に「にいー」をつけて呼んだ。大阪の雑魚場は関西最大の消費市場であったから、ここでは莫大な量の魚を必要とした。魚の値うちは新鮮味にあったから、生きたままの魚(活魚)を雑魚場に運ぶことが必要であった。淡路島の仮屋、育波、室津、富島の各浦では、ずっと昔から内海各地の活魚を買って、これを大阪に運ぶ鮮魚運搬業が発達した。淡路の魚商人はたいてい雑魚場の問屋衆から、金や船の援助を受けて、その手先になって集荷する場合が多かった。淡路の商人は、大阪を基準にして内海の活魚の集荷区域を、マエ、イチアケ、シモと三分して呼んだ。
206頁 イチアケは何隻かのイケフネ(活魚船)を曳航してやってきた。イケフネは活け間と胴の間の吃水線以下の舷側に、矩形の小窓(通水孔)が数個切ってあり、小窓には金網が張ってあった。この小窓から自由に海水が出入りできるから、中の魚は生かしたままで船を移動することができた。淡路のイケフネは明治十年(一八七七)の西南戦争が終って、世の中がほぼ安定したころから下津井にやってきた。そして日露戦争が終って、金出の鯛が最もよくとれた明治二十年代の終りから三十年代にかけて全盛をきわめた。
日露戦争が終るころから、イケフネはボートに漕がれて大阪に運ばれるようになった。ボートに漕がれてというのは、ボートと呼ばれる内火艇型の小形汽船によって、数隻の無動力イケフネを曳航することであって、普通ボート一隻でイケフネ十隻ないし二十隻を曳航した。・・・
207頁 ボート漕ぎに移る前に、淡路の運搬船の中心は仮屋から富島に移っていた。明治二十八年(一八九五)二月には富島には六十隻の廻船があり、そのうち三十石程度のイケフネ約三十隻がウオジマ時期の鯛積みに下津井に通っていた。富島は最初は魚イケが専門であったが、ボート漕ぎ時代に、育波のタコイケと並んで船を走らせているうち、タコイケの技術を見おぼえてタコをやるようになった。
208頁 明治四十四年(一九一一)、富島にはじめて巡航船ができた。富島の浜口実右衛門という人が、スウェーデン製の十五馬力エンジンを着けた「動くイケフネ」を初めて使用したのである。そして大正五年(一九一六)には富島の巡航船は十八隻になった。淡路の巡航船が下津井にくるようになると、ボート漕ぎはすたってしまった。ボート漕ぎが行なわれたのは、わずかに十年足らずの間であった。
209頁 下津井の魚問屋で最初に巡航船をつくったのは「味万」(岡村万吉)であった。第一号万福丸がつくられたのは大正四、五年のころである。しかし魚問屋以外では田之浦の山口由松が「味万」より少し早く、十五馬力の鮮魚運搬船をつくっていた。山口は問屋出身ではなかったが、ハモ縄で朝鮮出漁中、「林兼」の買入責任者となって南朝鮮沿岸のハモやアナゴを買っているうちに、動力船の経験を身につけたのである。
「味万」の万福丸は、最初、愛媛県佐田岬の三机に行ったが、魚が充分にととのわないので諸所を回っているうちに、大分県国東半島の富来におびただしいカレイのとれることを知った。そこで、ここを根拠地として、一号、二号、三号の万福丸をつかって集荷につとめた。そしてやがて「味万」の全盛時代が築かれていった。
210頁 私の生家の「角七」(角田七五郎)が巡航船を手に入れたのは「味万」より七、八年おくれて大正十二、三年のころであった。・・・伊予灘を越えて姫島に行き、姫島から竹田津(大分県国東半島)に渡った。竹田津に行ってはじめて、そこから約八キロメートルほど西方の香々地にタコがたくさんとれていることを知った。香々地はその後長く「角七」の根拠地となった。・・・
211頁 ・・・二号永寿丸をつくるために、下津井の船大工渡辺与三郎(通称ヨーダイク)は淡路の富島へ数ヵ月間見習いに行った。そして船の構造図をこっそりと持って帰った。こうして下津井の大工の手でつくられた最初の巡航船ができあがったのである。こうして永寿丸は昭和の初めには五隻(一~三号、五、六号)の巡航船を持つようになったが、この間、買い場は香々地を起点にして長洲(大分県中津市の近く)、今津、佐賀関とのび、それでも足りないので伊予路の長浜、深浦、門司の柄杓田へとのびていった。長洲はカニ、今津はハモ、佐賀関は鯛の漁場であった。
212頁 こうして永寿丸の「角七」は、昭和十年(一九三五)ごろには約十隻の船主となり、香々地、佐賀関、深浦、長浜に四支店をもつ内海有数の鮮魚運搬業者になった。十隻のうち三隻は毎日大阪の魚市場に姿を見せ、別の三隻は翌日の魚市をめざして瀬戸内海を東上していた。そして残りの四隻は買場の集荷に動いていた。万福丸や永寿丸のほかに、二、三あった他の鮮魚運搬業者も、小規模ではあったが同じように大阪をめざして西海の魚を運んだ。
・瀬戸内海歴史民俗資料館『本四架橋に伴う島しょ部民俗文化財調査報告(第1年次)』1981
165頁 7.下津井漁港のナマセン(生船) 8.田之浦のナマセン(生船) イケスをもった船で、一般の船より細長く速度も速い。江戸時代からあるもので、瀬戸内海の鯛を大阪へ運んだりしている。
下津井では魚問屋がナマセンをもっている。3人~4人乗りで10t~15tである。1問屋が何隻ともっているが、下津井の魚を阪神へ九州の魚もかい、岡山から魚を買いに来るのをまった。
174頁 マエブガイは鯛を下津井の魚問屋に渡した。下津井の魚問屋の鯛は、淡路島の富島、育波あたりのイケフネで、大阪の雑喉場の魚市場など阪神地方の大消費地へはこばれた。イケフネというのは、生きた鯛をそのまま船で市場まで運ぶ船のことである。イケフネのイケスは、航行中も停泊中も常に新鮮な海水がイケスの穴から出入りできるような構造をしていた。生魚運搬に長い伝統をもつ淡路の富島や育波のイケブネの造船技術や航行技術は特にすぐれていた。
下津井や塩飽諸島で淡路のイケブネをイチアケ、イッチャケという。一夜明けのなまったものである。魚を夕方に買い入れると、その翌日基地を出発、その翌々日の早朝に大阪の市場に着く。大阪まで一夜を明かさねばならない所を往き来するイケブネをこのように呼ぶ。魚は採捕したのち、できるだけ短期間に市場に出す方が、鮮度が高く値も高い。一夜明かさなくとも、とれた魚をその日のうちに市場に運べる範囲、大阪湾岸と播磨灘の東部の地域をマエという。そしてイチアケ(イッチャケ)の地域で最大の魚の集まる港が下津井であった。
175頁 淡路のイチアケの乗組員は、たいてい赤褌をしていた。むろん、帆と櫓が主体の、明治の頃である。船のイケスの栓を抜く時、差し込む時に、寒いころでも、赤褌一つでイケスの中にとびこんでいた。彼等を淡路の赤フンといった。
・・・下津井から大阪まで一昼夜の間、魚を生かしたまま運ぶためには、イケスの水を常に出入させなければならない。そのために、イケフネの帆柱の帆の下をささえる斜め横にとりつけられた棒の先端に、南京袋や俵に石か土砂をつめた俵を縛りつけている。機械船になっても、船の前部にある柱の、荷揚げに用いる横棒の先端に俵をつけていた。・・・
イケフネは大阪の川口に着くのが真暗い朝の2時頃になる。午前4時頃には市場が締切るので、それまでに売らなければならない。川口にはいると真水が混じっているので、イケマの栓をする。海水に真水がはいると鯛が死ぬ。鯛の目の直ぐ上の所をウチカギ(テカギ)で打って殺す。これをシメルという。シメたのち、えらを開けて、背骨のセキヅイの一部をほう丁で切る。これをエラジメという。こうした鯛は、しばらくすると美しい桜色になる。程よい頃に市場に出すと値が高い。シメ方がへただと、1時間位で魚体が硬くなって値も安い。上手にシメルと20時間以上も魚体がやわらかい。淡路島の富島の人がシメル技術は一番上手であった。
176頁 たこはイケブネで生きたまま市場に出す。大阪や岡山の川口にはいると、真水をイケマにいれる。船を止めて水をいれる。潮水が1/3か1/2位になるとイケマの栓をする。この塩水と真水の混じり具合が大切である。急に水をのますとたこが死ぬ。たこは真水をのんでからだが大きくなり、重量が増す。水加減によって5分しか増えないことがある。最大2割5分位まで増える。そんな時には、たこは生きてはいるが、船底にべたっとくっついて這ったり動いたりしない。手長だこは、水をのますと2倍、3倍になる。いかは1割ほど増える。すずき、はもは5分位増える。5分以上水で増えたものをメギレという。5分以下をメビレという。
・二野瓶徳夫『明治漁業開拓史』平凡社 1981
136頁 ・・・明治二四年ごろより大阪雑喉場の有力魚問屋酒井猪太郎、沢卯兵衛らが朝鮮ものの販売を引受けるようになり、関西方面への直販体制も生まれ、市場が拡大するにつれ、通漁者も仲買・運搬業者も増加していった。運搬船数は三一年一〇七隻、三三年一五四隻、四三年三三六隻であったという。三三年一五四隻のうち九九隻が塩切船、五五隻が生簀船であった。たい・さわら等の主要魚類は塩切船で塩蔵して運搬され、はも・うなぎ・あなご等は生簀船で運搬された。
・浅野茂夫・黒木重敏『飫肥杉の歴史 日向文庫 12』日向文庫刊行会 1982 復刻
114頁 この弁甲造材について丸太材の相対する二面を削り取る習慣は、背板として捨てられるべき部分をはじめから除去しておきこれによって少しでも重さを減じて運搬の便をはかり、後に述べる牛曳などの場合、山の斜面における轉落を防ぎ、また船積に際しても丸太のままよりも多くの量を積み得てしかも安定である利益がある。
130頁 弁甲材として最も賞用せられるのは、飫肥杉のうちでも赤杉系統のものであって「あか」を最良とし、「あらかわ」も大体これとならび賞せられている。・・・明石型生船も主に弁甲材の赤杉系統のものを造船材としていた。
・森本孝 他『海の暮しとなりたち 日本人の生活と文化 3』株式会社ぎょうせい 1982
144頁 一本釣りは魚の生態や習性に細かく対応して一匹一匹を相手にしていく。芸の細かい漁法である。一度に大量の漁獲をねらうことはできず、マダイやチヌ(クロダイ)、メバル、ハマチ、スズキ、サワラ、タチウオといった概して値の高い、そして他の漁法では獲りにくかった魚を釣っている。そして高く売るには鮮度を保たねばならず、氷のない時代は生かしたまま消費地に運ぶ他なかった。そのため船腹には海水の自由に出入りする活間を持った活舟が活躍することになるのだが、何といっても、こういう高級魚を消費できる町が近くにあることが条件になった。
149頁 ショウヌシは大きな生簀を持ち、漁師から買った魚をそこに生かしておき、自分の活舟で町に運んで売ったり、他所から買いにくる活舟に売った。活舟は昔は明石や淡路といった大阪付近のものが多く買いにきたという。帆前船時代の活舟は帆柱にヒョウダマという砂や石をつめた俵をぶら下げていた。ヒョウダマを振って舟を左右に傾け、活間の水を替わりやすくしたのである。
175頁 養殖ハマチの出荷(長崎県五島椛島・S53・8)の活魚運搬船には、デッキに酸素供給用のボンベが設置されている。
・宮本常一 岡本定『東和町誌』山口県大島郡東和町 1982(初版) 2004(再版)
433頁 伊保田・油宇・小泊・沖家室などにはショウヌシとよぶ仲買人がいて、それが漁船から活け魚を買いとり、生け簀に活かしておいて、一定の量になると活け船に積んで運ぶのである。
434頁 活け船のことをコドリといっていた。活け船というのは船の胴の間を活け間にして、その間へは海水が出入りするようにしてある。そして船を走らせるとき、船ができるだけ左右にたぶる(ゆれる)のがよいので、帆柱にヒョウダマという小さい俵をぶらさげていた。俵の中には砂や小石がいれてある。丸い石をぶらさげた船もあった。このヒョウダマを左右にふらせると、船は左右にたぶる。すると生け間の中の水がよくかわって魚を死なさないで運ぶことできた。それでもタイは時に腹をふくらまして浮くことがある。すると尻の穴から松葉を挿しこんでその空気をぬいた。ヒョウダマのことをフラセとも言った。大正時代までこの船が広島湾を往来していたのを見かけたものであるが、発動機船の発達によって、発動機船の活け船がこれにとってかわった。
・みなと新聞『昭和57年(1982)7月29日(木)3面』1982
昭和57年度全国豊かな海づくり大会(7月27日)において、皇太子殿下・同妃殿下がお召船の大日水産㈱所属の活魚運搬船「第81住吉丸」=九九トンにご乗船された。
お召船の第81住吉丸は昨年六月二十六日、兵庫県北淡町富島の大日水産㈱富島造船所で本進水した木造の活魚運搬船で、伝統的な明石型。船体部は耐用年数を三十年としてさまざまな工夫がなされている。
まず船体の外側は日向杉が使われ、この日向杉は別名「弁甲」と呼ばれ、普通の杉ではなく曲げても折れない性質を持っている。要所要所にはケヤキ材がふんだんに使われ、これまで鉄を使っていたところは全部ステンレスにかえている。最高速力は十一ノットで、荷役装置は全て油圧式でリモコン操作ができる。漁槽の栓も腐触しないステンレス製の自動栓。また同船はハマチにして一度に約十五トン運ぶが、運搬中の酸素不足を防止するための百ミリの揚水ポンプを五つある活間ごとに一台ずつ装備している。このポンプによって海水を循環させ酸欠による活魚のへい死を防止する。もちろん航行中の安全も考えレーダー装備は完璧だ。わが国の伝統的な造船技術をいかんなく発揮しまさに技術の粋を集め、近代的な最新鋭の装備と木材の持つ海水に強い有利な条件をかね備えた活魚運搬船である。
・・・すでに同船は五島、天草、対馬の他に九州全域、四国全域でハマチ、マダイなどの海の幸を活かしたまま各地の消費地まで運んでいるが三十年という耐用年数からみても二十一世紀の〝豊かな海〟を航行する明石型活魚運搬船となる。
・森本孝「瀬戸内の釣漁の島・沖家室」『あるく・みる・きく 195号』日本観光文化研究所 1983
『あるくみるきく双書 宮本常一とあるいた昭和の日本 5 中国四国②』社団法人農山漁村文化協会 2011(再販)
137頁 ショウヌシは港内に大きな生簀を持っていて、地元操業の漁民の釣った魚を引きとって活かしておき、それを自らの船で市場に送る人もいれば、外から来る仲買人に売る人もあった。・・・外から来る仲買船は淡路や六島の船が多かったという。仲買船は船の胴の間に大きな生簀を持っていて、そこに魚を生かし大阪、神戸といった大都市の市場に運んで売ったのである。他に広島の草津市場や伊予三津浜の市場にも沖家室の魚は運ばれていった。
138頁 上漁師の釣ってくる魚を商ったショウヌシ(仲買人)。昭和8年頃
・湯浅照弘『児島湾の漁民文化 岡山漁撈習俗誌』日本経済評論社 1983
49頁 カシキ網で漁獲された鮮魚をいかにして運ぶかが重要である。鮮魚運搬船が児島湾の北浦、阿津の漁浦では活躍している。北浦の例では、鮮魚運搬船をナマセンといった。磯上亀吉、山本喜三郎、坪田、清田、下野、松田といった家では、多いところで二~三艘のナマセンをもって、主として香川、愛媛両県の魚を岡山市や京阪神に送り込んでいた。ナマセンでは、魚の鮮度をおとさないようにするため、帆のところに石をぶら下げ、つねにナマセンを動揺させなければ、イケスの海水が変わらないということである。この石をドンブリ、ドンブリイシ、ドヒョウイシなどといっていた。風のないときなど、どうしてもナマセンのイケスの水がよどむので、潮のとろいときなどは、ナマセンの船頭は苦労をした。イケスがよどむと魚が死ぬ。八浜に宇野線の国鉄が開通すると、主として貨車送りで京阪神や下関に漁獲物を運送した。
・神戸新聞出版センター『兵庫県大百科事典 上巻』1983
1468頁 鮮魚運搬船 せんぎょうんぱんせん 一般には、漁場から港まで、あるいは集荷された鮮魚を産地から消費市場へ輸送する船をいう。鮮海出漁が盛んになるに伴い、鮮魚運搬の専門業種が発達し、鮮海出漁漁獲物の運搬業種、または、その船の呼称として用いられるようになった。明治末期、明石の鮮魚運搬業者、中部幾次郎が発動機付き鮮魚運搬船を開発したことから、鮮魚の輸送範囲、集荷量は著しく増大した。出買船とも呼ばれ、魚の買い付け方法は、出先漁場での直接取引や産地魚問屋、出漁船団への仕込み制がとられていた。大正中期、生船の活躍によって全盛期を迎え、明石、淡路島、沼島では数多くの鮮魚運搬業者が活け魚運搬に従事する一方、明石、淡路島岩屋、富島の造船所では独特の生船の建造が、盛んにおこなわれた。戦後も、昭和30年代中ごろまで瀬戸内海、九州西北部を中心に、こうした鮮魚運搬船の活躍がみられたが、保冷自動車輸送の発達などにより急速に衰退した。/出口晶子
・神戸新聞出版センター『兵庫県大百科事典 下巻』1983
242頁 出買船 でがいぶね 漁場あるいは産地漁港で漁民との直接取引や、産地魚問屋との契約などによって活け魚や鮮魚を買い付け、市場へ運搬する船。明治後期から大正末期にかけて、兵庫県内では明石、淡路島、沼島の出買商人の活躍がめざましく、出買先は、瀬戸内海沿岸から五島、壱岐、朝鮮半島にまで拡大された。当初、鮮魚運搬で始まった出買船は、大正327期には動力化した生船が活用されるようになり、大阪市場への鮮魚運搬から活け魚運搬にウェイトが移っていった。/出口晶子
377頁 生船 なません かって、淡路島の富島・室津・湊・都志・岩屋・森・由良・福良・沼島・明石などを拠点に活躍した生け魚運搬船のこと。主として富島、岩屋、明石の造船所で建造され、魚倉部の船腹に換水孔を持つのが特徴(写真生船/換水孔の見える船腹昭和39年富島で建造中のもの)。換水孔は、剣道の面程度の大きさで、剣道の面のような鉄格子をやや透き間をつめた形のものがはめてある。この換水孔によって、魚倉への海水の換水を図るが、換水孔はそれほど多いものではないにもかかわらず、運行中は海水の吸出入が促され、魚倉の換水は十分に行えた。元来、鮮海出漁に伴って出現した鮮魚運搬船の改良型として、大正中期に開発された。第2次世界大戦中の生鮮食料品統制などにより一時衰微したが、戦後の統制撤廃後急速に復活し、盛時には淡路島船籍だけで100隻を超えた。これら生船の中心拠点は富島で、30トン前後のものが多かったが、昭和40年代に入って、船が小型であることなどから優位性を失った。その後、大型タンカー型運搬船が出現し、保冷トラックの普及するなかで、ほとんど姿を消すに至った。/倉田亨
736頁 兵庫県鮮魚運搬船組合 ひょうごけんせんぎょうんぱんせんくみあい わが国の鮮魚運搬発祥の地は、淡路島、明石市といわれる。兵庫県鮮魚運搬船組合は、昭和15年(1940)に設立されて以来、国内、朝鮮半島からの鮮魚運搬に従事してきた。第2次大戦後、食糧事情の窮迫に伴いますます重要視され、組合員も250人にも上ったが、戦後の混乱の中で組合運営に混乱を生じた。昭和24年、組織の統一が図られ、組合員60人により新生兵庫県鮮魚運搬船組合が設立され現在に至っている。華々しい歴史を有する韓国からの鮮魚運搬事業も、韓国内消費の上昇や韓国業者の手による輸入などにより低調となりつつあるが、九州、四国地区の養殖魚類の運搬に400トン級の大型運搬船を登場させ、タイ類はその90%約3万t、ハマチ、ブリ類は40%約6万tが傘下の運搬船によって、京阪神、遠くは中京・東京の大消費地市場に運搬されている。/本下堯敏
・岡本信男『日本漁業通史』水産社 1984
106頁 鮮海に進出 日本で最初とされる動力付鮮魚運搬船第一新生丸を建造した林兼の中部幾次郎は、明治四〇年、朝鮮海域に進出した。当初、根拠地をサラン島に置いたが、後に、羅老島に移し、春漁期は南鮮多島海の漁場、秋漁期は東岸方魚津を根拠とし、幾次郎の指揮の下、長男兼市、次男謙吉の協力で活動を続けていた。鮮魚買付運搬業者は有漁組、小田組、山神組などが競っていたが、林兼組が断然群を抜き四二年には支配下の仕込船は二〇〇隻以上にもなり、大正四、五年頃には一千隻を越える大勢力となった。こうして林兼は約一〇年間、問屋仲買資本として成長したが、このあと漁業経営と問屋業務を併行して行うことになる。
・四国新聞社『港・みなと町 東瀬戸内海 74港の探訪』丸山学芸図書 1984
153頁 商品の中継港として発展してきた引田港 クレーンの後ろに漁船に交じって活魚艙の蓋を開けて停泊する明石型生船。
・六車功「調査ノート 明石型生船と讃岐の船大工」『瀬戸内海歴史民俗資料館だより 第19号*』1985
5頁 明石型生船という名は機械船による鮮魚運搬の発祥地にちなんで呼ばれている名前で、大正元年、明石の鮮魚仲買商中部幾次郎の第二新生丸が最初とされる。この船の特色は船尾を西洋型に胴中央を和船型棚板造りにしたもので、ほぼ垂直に立った水神と操舵室の下から船首に向かって並ぶ活ノ間にいくつもの魚槽を持ち、吃水線から下の部分には必要に応じて海水を出入りさせるための通水孔を設けている点である。富山丸では大間・中ノ間・三ノ間がこれにあたる。
瀬戸内海は春になると鯛・鱸・鰆などのイリコミノイオと呼ばれる高級魚で賑う。播磨灘の鹿ノ瀬、備讃瀬戸の中瀬・金手のソワイは瀬戸内海東部の代表的な魚場で、この季節になると地元のほか明石や淡路島方面から鮮魚運搬船がやって来た。船の通水孔を開いてこれらの高級魚を生かしたまま運ぶ時は特にイケモノブネとかイケスブネと呼んだ。こうした高級魚の運搬は通常夏半年の商売であったから季節外には通水孔に栓をして魚を運んだ。氷室はその為に氷を入れて置く所である。この時はシオキリブネと呼んだ。この鮮魚運搬業の中心は明石や淡路島の富島の人々であった。
富山丸は木田郡庵治村の奴賀弥太郎の船で大正13年7月、荘内の生里にあった大北造船所で進水している。庵治漁業組合史には大正14年末調査の機械船所有状況の記録があり、同船の総噸数6,81tと報告されている。奴賀家では庵治沖で獲れた新鮮な魚を高松北浜にあった東魚市場まで運んでいた。この明石型生船はその後も朝鮮近海や海外出漁で目覚しい活躍をしている。
第八住吉丸(淡路島北淡町富島にて)写真と明石型生船富山丸板図が掲載。
・大阪市水産物卸協同組合『水産物流通の変貌と組合の三十年 資料篇』蒼人社 1985
16頁 昔は瀬戸内海の魚やったら、ナマ船(生簀船)で直接市場の岸壁までたくさん入ってきたもんや。ところが海が汚染されてから、大阪湾に入ったら生簀の魚が死んでしまうので、汚染されてないところで揚げて、そこからトラックで運んでくるような状態に変わってきたんです。
22頁 ・・・昔の韓国は、どんなものがあったんですか。活ハモ・活ヒラメ・アブラメですね。それにアナゴ、赤貝などの貝類、みんな活かしてきたんです。明治の初期から、日本の漁業者が朝鮮まで出かけて、大量の魚を運んできました。アジ・サバ・タチウオ・ヒラメなどです。活物の場合は、生簀船に積んで活かしてきたんです。・・・神戸で陸揚げします。瀬戸内海と土佐沖航路ですね。
56頁 生簀船とトラック便とがありましたが、船の場合は、淡路方面から安治川を上って市場の岸壁に着きました。船で運んでいた時分は、船が安治川にさしかかると、生簀の栓を抜いて川の水を入れてタコに飲まします。すると、タコの目方が増えます。塩水と真水を半々ぐらいの割合にするのがよいといわれていました。
・加瀬野久志『滅びゆく機帆船』丸善株式会社岡山支店出版サービスセンター 1986
72頁 生船とは鮮魚運搬船のことを言う。この船の特色は、西洋型のような肋骨(フレーム)を並べて造るのではなく、和船のように棚板造りであり、船首から船尾にかけて数ケ所の戸立がある。船腹にはいくつもの通水孔があり海水が入れ替わるようになっているので魚を生かしたまま運ぶことができる。非常に波には強いので、瀬戸内海ではいくら海がシケても船を停めるようなことはめったにない。
13頁 生船 兵庫県淡路島富島にて 漁船登録番号HG2-3773から昭和56年(1981)6月に大日水産株式会社富島造船所で進水した第八拾壹住吉丸。16頁 木の色も美しい建造中の木造船兵庫県淡路にては大日水産株式会社富島造船所。72・73頁 希刈瀬戸を下る明石型生船、後ろに大浜崎灯台をのぞむ。漁船登録番号OT2-2141から大分県蒲江港の(有)戸高水産所属で、昭和55年(1980)進水の第拾壱盛漁丸。 74頁下津井瀬戸にて稚魚を放流している所。75頁 上架中の明石型生船淡路島、富島にて。大日水産株式会社所属の伯銀。76頁香川県高松にて船首部の唐草模様が美しい等多数の貴重な写真が掲載されている。また、90頁 建造風景 木造船建造風景淡路島、富島にて 昭和58年7月は大日水産株式会社富島造船所。
・社団法人漁船協会「日本初の発動機船、新生丸の誕生 杉本良樹(大洋漁業(株)船舶事業部副部長)」『日本漁船史』日本漁船史編集委員会 1986
348頁 ・・・8馬力の石油発動機を装備した12トン、速力6ノットのこの木造和船型鮮魚運搬船は、長さ14メートル、巾3メートル弱、で帆走と生簀の設備もあり、幾次郎はこれを「新生丸」と命名した。林兼はその事業の拡張と共に明治42年には第二新生丸(25トン)を金指造船で建造した。この船はエンジンを最初の電気着火から焼玉有水式軽油機関に改良した船である。船体は金指造船の考案による船体の船首と船尾を西洋型、中央部をフレームなしの和船型に改良したもので、「明石型」と呼ばれ、農林省制定の標準型に採用された。
・角田直一『雁木のある風景 角田直一随筆集』山陽新聞社 1986
119頁 玉島湊の古い魚問屋「中屋」は、天保三年(一八三四)三月の創業である。大正八年には巡航船(活魚運搬船)をつくり、大正十二年から朝鮮通いをはじめた。朝鮮通いというのは、朝鮮の魚を買い入れ、巡航船で日本に運ぶことである。また玉島中屋は、春の鯛網には詫間(香川県)一縄、伊吹島(同)四縄、音戸瀬戸(広島県)二縄の計七縄のしばり網を契約していた。しばり網を七網も契約できる魚問屋は瀬戸内ではそうザラにはいない。春のしばり網がすむと、相州小田原や伊豆伊東へ鰤を買いに行った。冬は朝鮮へ鰯や鰤を買いに行った。朝鮮で鰆を買うこともあった。
・志度町史編さん委員会『新編 志度町史 下巻』1986
149頁 鮮魚運搬業 朝鮮通漁発展の裏には、通漁者の仕込資金を提供する運搬業者や魚問屋がある。通漁者は、これら運搬業者や魚問屋から出漁仕込資金を仰ぐ関係で、漁獲物をその代償としてそれらを業者に売り渡すことが義務づけられた。漁業金融機関の設立でしだいにその方から融資を受けるようにはなるが、昭和七、八年ごろまではまだこの仕込制度のきずなで固く結びつけられていた。
その運搬業者には、林兼組・山神組など世にときめく大規模のものがあったが、早くから朝鮮沿海で活躍した本町関係の業者もあった。その代表的なものが萱野忠吉・熊吉・与四郎の三兄弟であり、いま一つは石原与市・善六・金三・伝吉の四兄弟であった。これら運搬業者は朝鮮通漁開拓当初からその先駆者としての役割を果たしてきた。
・森本孝『東和町誌 各論編第三巻 漁業誌』山口県大島郡東和町 1986
251頁 商主は港に大きな活簀を持っていた。活簀は竹で編んだ四角い籠で、他に木でできたものもあったが、それは別にダンベーと呼ばれ、もっぱらタコをいれる為のものであった。昭和四、五年頃にはそのような活簀が洲崎、本浦の港に六十余個あったという。
そして漁民の釣ってきた魚を買い活簀に畜養しておき、島外から来る積み船(生買い船)に売ったり、また、島内の運搬業者に頼んで、広島草津や大阪の鮮魚市場に送っていた。
島外からやってくる積み船は大正から昭和の初め頃までは岡山県の六島から来たが、以後は淡路島の清宝丸がやって来て、島に常駐していた。
島の旧運搬業者で聞くと、大阪の鮮魚市場には生きのいいタイやハマチを持って行き、草津方面には弱った魚を持って行ったという。生きのいい魚を持って行っても、一・二割の魚が死んだものらしい。しかし、タコだけは、活簀に茶の木の枝を入れてさえおけば死なず、積み船業者はタコは喜んで積んだという。タコは市場に着く前に沖で活簀の潮水をかい出して、真水を入れておくと、タコが水を吸って重くなる。そのようにして目方を増やして市場にかけることも行なわれていた。
・岡本信男『嵐に向って錨を巻け 大洋漁業の源流を辿る*』いさな書房 1986
大洋漁業の源流にあたる林兼商店、中部幾次郎を知る上での必読書。水産ジャーナリストとして岡本信男氏がまとめたもの。
序文 一 中部家の系譜 二 江戸時代の中部家 三 明治前期の林兼商店 四 明治後期の林兼商店 五 大正期の林兼商店 六 昭和前期の林兼商店 付 その後のマルは 参考資料 凡例 あとがき
・瀬戸内海歴史民俗資料館『瀬戸内の漁船・廻船と船大工調査報告(第1年次)*』1986
基本的に明石型鮮魚運搬船として掲載されている写真及び船図面を選択した。
6頁 29.ドックに入った鮮魚運搬船(兵庫・北淡町) 富島造船所 第八住吉丸 30.古くなった船材を取り替える。(兵庫・北淡町) 円形換水孔 空気圧駆動の自動開閉装置
12頁 23.ナマセン 引田から明石へハマチを運ぶ明石型鮮魚運搬船『幸栄丸・19.95総t』。昭和44年進水。 24.ドックのナマセン 引田から阪神方面へハマチを運ぶ。『住吉丸・49総t』昭和29年進水。(香川・引田町引田)
16頁 49.ナマセン 明石型鮮魚運搬船『第8住吉丸・126.31総t』。ナマセンでは最大級の船。表の魔除けの飾り板には唐草と屋号、そして『一富士二鷹三ナスビ』の彫り物があり、金箔を貼っている。(兵庫・北淡町富島) 『一富士二鷹三ナスビ』の船首文様は大日水産株式会社山九の目印。
18頁 59.ナマセン 防勢の奈座港に並ぶ明石型生船(鮮魚運搬船)。阪神の大消費地を控えて活動も盛ん。(兵庫・家島町防勢)
19頁 62.ナマセン 鮮魚を積んで小豆島から入港する運搬船。周辺には機械船も見える。正本亀撮影。(岡山・牛窓町、大正時代末)
46頁 図063 ナマセン 大正15年(1926)、明石型生船(鮮魚運搬船)第22久吉丸から堀安吉が採寸、作図した板図。図064 ナマセン 昭和10年頃(1935)、明石型生船。船主・木内和平(小田村)、船名・善丸。図065 ナマセン 昭和35年頃(1960)、明石型生船。道路交通網が整備されたことによって生船の仕事がなくなり始めた頃の船。
51頁 図086 ナマセン 大正14年(1925)、鮮魚運搬船。引田沖の松島漁場(大敷網)にちなんで命名。キール長42尺、船底板は新造毎に再利用、出世船として松嶋丸の名を継がせた。
54頁 図096 ナマセン 昭和35年(1960)、鮮魚運搬船の練習用図面。昭和35年頃の明石型生船の特色が出ている。
64頁 図137 ナマセン 昭和12年(1937)、明石型鮮魚運搬船。
79頁 図188 ナマセン 大正時代 鮮魚運搬船。
80頁 図189 ナマセン 大正時代 鮮魚運搬船。
・瀬戸内海歴史民俗資料館『瀬戸内の漁船・廻船と船大工調査報告(第2年次)*』1987
基本的に明石型鮮魚運搬船として掲載されている写真及び船図面を選択した。
10頁 29.ナマセン 明石型生船『第十五広隆丸』、前後の反りが大きくオモテのカザリが美しい。(愛媛・津島町尻貝)
122頁 図355 ナマセン 昭和10年頃(1935)、鮮魚運搬船。宇和島市日振島能登の田原章三の船
135頁 図415 ナマセン 大正時代、鮮魚運搬船。田頭宗一郎の明石型ナマセン。
147頁 図462 ナマセン 大正11年(1922)、鮮魚運搬船。明石型ナマセンと呼ばれるもののうち、生里で最初に進水したもの。図463 ナマセン 大正13年(1924)、鮮魚運搬船。明石型ナマセン真栄丸。この船は、図462と同型船。
152頁 図477 ナマセン 大正13年(1924)、鮮魚運搬船。明石型ナマセン、明石のホンガタと呼ばれている船型。図478 ナマセン 大正13年(1924)、鮮魚運搬船。明石型ナマセンと呼ぶもので図474・図475に次いで流行した船型。図479 ナマセン 大正14年(1925)、鮮魚運搬船。愛媛県越智郡魚島村の山口寅次郎の明石型ナマセン。
・六車功「特別展 瀬戸内の船図面―木造船の変遷とその保存」『瀬戸内海歴史民俗資料館だより 第25号』1987
6頁 『ナマセン』は生きた魚をそのまま消費地の市場まで運ぶ鮮漁運搬船のことである。瀬戸内海は、タイ・サワラ・ハマチ・タコなど新鮮な高級魚が多く獲れる所で、獲れた魚はこの船ですぐに大阪や神戸などへ運んだ。明治時代の末までは手漕ぎや帆走式の和船型ナマセンが多かったが、兵庫県明石港の鮮魚仲買商の中部幾次郎は、大正元年(1912)船尾を西洋型に、胴中を和船型とする明石型生船「第2・第3新生丸」を建造し焼玉エンジンを搭載して活躍している。この明石型生船は、大正時代の終わり頃までには、金箔を貼った美しい表の飾りや船名板とともに瀬戸内地方一円に広まって行った。
板図から採集した木造漁船の図 明石型ナマセン:大正13年
・瀬戸内海歴史民俗資料館『瀬戸内の漁船・廻船と船大工調査報告(補遺)*』1988
基本的に明石型鮮魚運搬船として掲載されている写真及び船図面を選択した。
15頁 図518 ナマセン 昭和25年頃(1950)、鮮魚運搬船。明石型生船。
16頁 図519 ナマセン 昭和25年頃(1950)、鮮魚運搬船。徳島県鳴門市北灘漁業協同組合の明石型生船『協生丸』。最終的には明石型の船首のものを製作した。図520 ナマセン 昭和26年(1951)、鮮魚運搬船。引田町引田の松田恒雄の明石型生船『旭生丸』。図521 ナマセン 昭和27年(1952)、鮮魚運搬船。香川郡直島の明石型生船『三栄丸』。
17頁 図522 ナマセン 昭和33年(1958)、鮮魚運搬船。大川郡志度町鴨庄の小松水産の明石型生船『讃栄丸』。
31頁 図581 ナマセン 昭和16年(1941)、鮮魚運搬船。愛媛県宇和島市日振島の田原氏の明石型生船。図582 ナマセン 昭和24年頃(1949)、鮮魚運搬船。愛媛県宇和島市日振島の明石型生船『第八号國榮丸』。
51頁 図687 ナマセン 大正時代、鮮魚運搬船。明石型ナマセン。表のカザリの部分にアの印あり。愛媛県越智郡魚島村の漁民の船か。図688 ナマセン 大正時代、鮮魚運搬船。明石型ナマセン。図689 ナマセン 大正時代、鮮魚運搬船。明石型ナマセン。
・宮本常一『海の道 旅の民俗と歴史 10』八坂書房 1988
113頁 そうした船の中で特にかわっているのは活け船であろうか。中略船の中に活け間といって海水の入り込んで来る間をつくり、そこへ魚を入れておく。タイ・スズキ・ハマチ・カレイなどをはじめ、生食に適した魚を活かして運ぶのである。・・・このような活け船の多かったのは明石の西の林崎、淡路島の富島、児島半島の下津井、笠岡諸島の六島などであった。129頁には活け船(播磨室津)
・光田弘「史話 明石海峡」『明石大門Ⅷ 特集 新明石八景』明石ペンクラブ 1988
49頁 ・・・当時の幾次郎の青年期に、大阪の雑喉場へ魚類を運搬するということは大へんなことだった。そこで苦慮した末に、淡路と岩屋のあいだを走っていた連絡船に目をつけ、淡路の横山福蔵氏の所有する淡路嶋丸をチャーターして活魚をつみ「なま船」に仕立てれば、時間短縮で魚の鮮度が落ちない。これを利用すれば、遠く土佐・大分・五島方面への魚の買付けも可能で飛躍的に拡大できる・・・
56頁 ・・・三田屋は沖仲業と言って沖で魚買いをしては「生船」に活魚をつんで大阪へ運んで商いをした。当初は押送り船でエンジンなどついていなかったが、近代に入って、中部に負けまいと、第一山三丸から第三山三丸と焼玉エンジンの巡航船を走らせていた。・・・
・兵庫県教育委員会「144.造船(和船)」『兵庫県の諸職 兵庫県諸職関係民俗文化財調査 兵庫県民俗調査報告 11 昭和63年3月*』1988
164頁 144.造船(和船) 調査対象者 宗和豊松
明治期以後、富島、斗ノ内、育波、室津に鮮魚運搬業(ナマセンによる商業)が出現した。大魚市場を有する大阪にも極めて近いという地理的条件は、大正、昭和にかけての鮮魚運搬業をより発達させ、このことと相まってナマセンの需要は高まり、この船をつくる造船所も設立された。
日本で初めてのナマセン(木造の動力付鮮魚運搬船。以後ナマセンという)による商業は現在の大洋漁業の創始者中部氏が明治41年頃、明石で始めた。ナマセンは当初、明石でつくられていたが(したがって明石型とよばれていた)、まもなく対岸の淡路大工が造船技術を学び、それ以降主として淡路でつくられるようになった。その中心は富島(大崎造船所-現在では主に鉄船をつくっている)と岩屋(東根造船所-現在では主にプラスチック船をつくっている)であった。富島では大正末期浜口実右衛門氏がつくったのが最初である。この時つくられた船にはスウェーデン製15馬力エンジンが備えられていた。以後、昭和5年頃には50馬力、昭和8年頃には105馬力のエンジンを搭載したナマセンが出現し、大型化精巧化していった。
165頁 ナマセンによる鮮魚運搬業の戦前の最盛期には、地元の有力者20名前後の共同出資による富島水産株式会社が設立された(後消滅)。昭和12年頃のことである。この時期を第一ナマセン時代という。この時船は120隻を数え、出買先も、中国、四国、九州、さらに南朝鮮までそのエリアにしていた。・・・昭和22年頃から鮮魚運搬業は再び活況になり、第二ナマセン時代を迎えた。
169頁 セン 魚の活を保つのに欠かすことのできないセン(通水孔)の数は船長の知恵・技術・経験から決る。100トン型で100個程度ある。センはエイヤ(エアー、つまり空気圧)を使った装置で開閉する。油圧装置だと油がもれ、イケマの水が汚れて魚が死ぬ危険性がある。また現在は、ほとんど丸いセンをつくるが以前はカクセン(長方形)をつくり、開閉は人がイケマに入って行い、センをたたく時はセンヅチ(木槌)を使っていた。
173頁 船各部の構造・名称としてナマセンに関する模式図が記録されており、特にイケマの構造(断面図)には、イケマの中に板や角材を取付けて、航行中の海水を安定、静止させ、魚の活きを保つ装置が確認される。
・角田直一『児島の日本一物語』児島ライオンズクラブ 1988 初版(1971)
59頁 たこ一本釣りの本場―田の浦漁港一部山景にかくれて多数の活魚運搬船が停泊している。
・『津名町史 本編』津名町史編集委員会 1988
329頁 魚船とは生魚の出買船であり、生簀を使って大阪の雑喉場へ生魚を運送し販売する魚商である。この船を「生船」ともいう。
佐野浦の魚出買商は北淡西岸の富島・室津とともに明治初期には全盛期を迎えている。佐野浦の記録の喜兵衛は荒木家であり、佐野浦の最大手であった。同家の家譜によると、創家より雑貨商を営み、四代弥三郎(文化八年没)に至って「当国物産中ノ最モ著大ト称スル綛糸商」を開業し、五代伊兵衛(文久二年没)のころに佐野浦庄屋岡田四郎次郎が代々営業していた生魚出買商敷株(敷とは金穀を貸しつけ魚を一年中に受けとるしくみ)を譲り受けて生魚出買商を始めたとある。魚船を買増し営業地域を広め、六代喜平(明治七年没)に至り大阪湾より東は伊勢熊野紀伊、四国は阿波、土佐、伊予。瀬戸内海より豊後、日向(大分、宮崎)玄海灘辺、五島、平戸、対馬にまで拡張し、魚族魚期の異なるに応じ買船を派し、とその盛況を記している。七代喜平(明治四十一年没)のころ蒸汽船のため利潤の減耗を来して本業は衰えたとある。
・中西一隆 角田直一『下津井懐古 手帖舎フォト・エッセイ 1』手帖舎 1989
2~3頁 巻頭写真の鷲羽山より下津井海岸を見る 岡山県下津井吹上港を出港した活魚運搬船。27頁 下津井港のドブネ(昭和14年) 下津井港と巡航船(昭和14年頃) 38頁 がらも活魚運搬船、41頁 西波止と巡航船(昭和35年)に第八壹志丸
26頁 ・・・下津井沖でとれた魚はすべて魚問屋に集められ、問屋の手から小売人に売り渡されたり、また淡路の巡航船に転売されたりした。
戦前、下津井四カ浦には大小十三軒の魚問屋があった。
「丸長」、「丸八」(以上大畠)、「小橋」、「岩源」(以上田之浦)、「味万」、「亀林」(以上吹上)、「辻源」、「笠伊」、「笠松」、「笠五」、「角七」、「丸福」、「山秀」(以上下津井)の諸店である。「魚問屋十三軒」にはそれぞれの家風特色があった。・・・」
問屋に集められる魚は、いわゆる無塩と称せられる活魚であった。活魚を保存するためには特別に工夫された設備が必要である。それが俗にドブネといわれるイケフネ(活魚船)である。ドブネは活魚を生かしたままで保存するために、船の大半が活け間からできている。活け間というのは船底、船腹に適当な間隔を置いて長方形の小さな孔をあけ、活魚が遊泳するに必要な海水を導入する間仕切りのことである。船底、船腹の孔には木製の栓がついていて、栓を詰めれば海水が遮断される。例えばある特定の活け間にあるタコを捕えようと思えば、孔に栓をつめて海水をくみ出せば、タコの捕捉は容易になる。また栓をつめて孔をふさがなくても、大小さまざまの手網を操作して遊泳中の魚を捕捉できるようになっていた。
ドブネにはさまざまな付属船がついていた。漁船を改装した程度の小型のドブネ、タコを活かすタコ船、陸とドブネをとりもつ伝馬船などである。これらは互いにロープでつなぎ合わせて一つのかたまりになっていて、台風や大しけがこない限りいつもきまった場所に固定していた。
・山陽新聞玉野支社『宇野港物語』山陽新聞社 1989
130頁 韓国活魚船船員相手に店 活魚船を宇野港に呼び入れた仕掛け人は、大阪・堺市の活魚卸売業者らである。・・・なにわ商人の要請で昭和四十年に創業、宇野港に営業所を持つ海外水産物輸入業者・金剛物産の相田正之専務はこう説明する。
活魚船は、船底に小さな穴がいくつもあいた〝動くいけす〟だ。アナゴやタコを生きたまま水揚げ港へ届けるには、水のきれいな海域を通らねばならない。なにわ商人は地元まで韓国の活魚船を呼び寄せたかった。しかし、相田さんは「宇野港より東の海、特に姫路より向こうは活魚船が走れるほど水はきれいじゃなかった。活魚の歩留まりを落とすわけにはいかなかったのだ」と話す。
131頁 宇野港に着いた韓国の活魚船からタコやアナゴが次々といけすに(昭和42年)
132頁 活魚を積んだ韓国船の入港はいまも続いている(昭和62年)
205頁 活魚船が入港すると、率先して汗を流す相田さん(左)
・神戸市漁業協同組合『神戸市漁協合併三十周年記念誌 三十年のあゆみ』神戸市漁業協同組合 1989
15頁 第10年度(昭和43年度)・・・漁港内の一画に大型小割生簀を設置して活魚の買取販売を開始し、将来、員外船の誘致によって大量の活魚販売規模拡大の足がかりをつかんだ。
16頁 大型小割生簀ハマチ、タイ等活魚を一時畜養して京阪神方面に出荷生簀に接岸し作業をする明石型生船。垂水港(垂水基地)の整備に伴い、大日水産の生船は昭和45年(1970)頃以降になると、全て垂水漁港に入港した。
・安積弘泰「造船―鮮魚運搬船(ナマセン)について―」『あわじ第6号 淡路地方史研究会会誌第22号*』淡路地方史研究会 1989
1987年に鮮魚運搬船(通称ナマセン)を大日水産株式会社富島造船所で造っていた船大工である宗和豊松氏(北淡町富島在住)の聞取り調査の記録。「宗和豊松氏の木船づくり」は非常に参考になる資料。
30頁 鮮魚運搬船にはイケマ(生簀のこと)が五~六個設けられており、船底部に通水孔が数個(数は船の大きさなどによって違う)切ってある。鮮魚運搬業者は、漁獲地へ出買に行って購入した活魚をイケマに入れて、消費地の魚市場まで運搬するが、航行中は通水孔から新しい海水が流入し、魚を生きたまま運べるという仕組みになっている。このようにして活魚の運搬を行うが、その際運搬者には、さまざまな技術や知恵が必要であった。例えば、荷揚げ前港湾に入る時には、船員がイケマに飛び込み時期をみて通水孔に栓をする。というのは、港湾には河口から淡水が流れ込み、塩分が減少して魚が斃死するのでこの措置がとられた。また、タイは底魚(大陸棚の海底近くで棲息)であるが、これをイケマ(海面近くの浅い海中)に入れて運搬するので、水圧の関係から鰾が膨張し腹部が上を向いてうまく泳げない。そこで鰾に針を指し、中の気体を調節して正常な泳ぎができるようにする。このような熟練も、乗組員には要求された。
31頁 日本で初めて、木造の動力付鮮魚運搬船(=ナマセン、今日ではイケフネとナマセンを使い分けず、通称ナマセンというので以後これに従う)による商業は、現在の大洋漁業の創始者中部氏が一九〇八(明治四一)年頃、明石で始めた。イマセンは当初、明石で造られていたが(したがって明石型とよばれた)、まもなく対岸の淡路の大工が造船技術を学び、それ以降主として淡路で造られるようになった。その中心は富島(大崎造船所―現在では主に鉄船をつくっている)と岩屋(東根造船所―現在では主にプラスチック船をつくっている)であった。富島では大正末期、浜口実右衛門氏が造ったのが最初である。この時造られた船には、スウェーデン製一五馬力エンジンが備えられていた。以後、一九三〇(昭和五)年頃には五〇馬力、一九三三(昭和八)年頃には一〇五馬力のエンジンを搭載したナマセンが出現し、大型化・精巧化していった。
・田代和生『海と列島文化第3 玄界灘の島々』小学館 1990
367頁 180 鰐浦 朝鮮へ向かう船、または帰国した船は、密貿易の防止と風待ちのため、冬はこの鰐浦、夏は佐須奈浦へかならず入港した。古代に和珥ノ津で知られる対馬北端の鰐浦は、今も前方の海栗島に自衛隊基地をかかえる国境の港である。撮影 浅井優一
長崎県対馬市上対馬町鰐浦には、大型の活漁運搬船が停泊。
・酒井亮介『みなと新聞』(社)大阪中央卸売市場本場市場協会資料室 1990
活魚流通の現状<1>70年代から本格化 トラック輸送に変わる
・酒井亮介『みなと新聞11月10日(土)』(社)大阪中央卸売市場本場市場協会資料室 1990
活魚流通の現状<2>異なる鮮度保持法 関東はセリ前に締める
もともと関西では瀬戸内海を中心に西日本の各港から、大阪や神戸の魚市場に生魚運搬船で泳ぎの魚を運んでおり、上場する前にすべての魚を活締めしていた。この鮮魚運搬船を「ナマ337セン」または「イケフネ」といっていた。
・酒井亮介『みなと新聞11月14日(水)』(社)大阪市中央卸売市場本場市場協会資料室 1990
活魚流通の現状<3>都市部に〝納め屋〟 大手含め多様な市場拡大
・・・瀬戸内海を中心とした西日本一帯の活締め物の出荷は、古くから「鮮魚運搬船業」といって、出荷業者が直接輸送用の自前の船舶で産地で集荷し、消費地市場に出荷していた。・・・
・酒井亮介『みなと新聞11月19日(月)』(社)大阪市中央卸売市場本場市場協会資料室 1990
活魚流通の現状<4>活魚の概念で混乱も 諸問題をクリアし隆盛へ
・酒井亮介『みなと新聞11月22日(木)』(社)大阪市中央卸売市場本場市場協会資料室 1990
活魚流通の現状<5>集荷範囲も国際的に 年追って量、品種が拡大
・酒井亮介『みなと新聞11月24日(土)』(社)大阪市中央卸売市場本場市場協会資料室 1990
活魚流通の現状<6>輸送経費、安定供給など 諸問題克服し定着へ
・河野通博『光と影の庶民史 瀬戸内に生きた人々*』古今書院 1991
187頁 ・・・氷詰めにした鮮魚を輸送するものと、活きたままで船のイケスに入れて、魚を送るタイプとである。前者をナマセンといい、後者をイケフネという。
このような大量輸送型の魚の運搬に対して、その触手のように、沿岸の漁村をこまめに回って魚を買い集めて、イケスに入れて大漁港まで運ぶのがブガイまたは出買いと呼ばれる人々である。
・・・イケフネは船艙がイケスになっていて、船腹にあけられている小孔から海水が自由に出入りして、船艙内の魚を活かしたままで輸送できる。とはいえ、狭い船艙に魚を詰め込むと酸素不足のおそれもあるし、そこまで行かなくても、やはりストレスで魚の身がやせるという。だから時間との競争になるから、無動力船時代には八挺櫓で押し送ったものであった。
189頁 ・・・明治に入ってとくにはっきりしてくるのは、淡路島の活魚運搬船の活躍である。その中心が、近世には机浦の名で知られた、北淡町の富島と、その南の斗の内、育波、室津などであった。明治前半は八挺櫓の押送りで、大阪天保山沖まで一気に漕いで来るが、淀川の水が混って、塩分濃度が下る水域になる直前に船艙のイケスの海水の出入口に栓をして、塩分の薄い水の進入を防ぐ。冬などは身を切るように冷たい水に入って栓をするので、身体が凍えてしまわないように醤油を飲んで、水にとび込んだという。栓を施したイケフネは安治川を漕上って、雑魚場で水揚げする直前に魚の頭に手鉤を打ち込んで、しめるのである。こうすると仲買の手を経て得意先(主に料亭)の板前の手に渡るまで、死後硬直の状態を続けることができるのである。
・・・明治三〇年代にはボート漕ぎが行われた。これは何艘ものイケフネをつないで小型汽船を先頭に行列をつくつて、曳いて行ってもらうのである。人件費が少なくてすみ、曳航費も何隻かで分担したわけでだから、今までより経済的だったが、自分だけ抜けがけで早く着いて高く売ることはできなくなった。それでも時間が従来より早く大阪に着けるし、それだけ長い時間集荷ができて、多く積むこともできたわけである。
191頁 シモの方ではタコがたくさんいるのに、タイばかり獲ってタコなど獲ろうとしない漁村もあったが、こんな漁村にタコ壺縄の漁法を教えて、運ぶ対象を増やしたのも淡路の業者だった。愛媛県の三崎半島などがこの例だというが、淡路富島は明石海峡の鹿の瀬で、昔からタコ壺縄漁業を営んでいた村だったのである。
・・・明治四一年(一九〇八)、明石の中部氏が動力を装備したイケフネを建造して、鳴門行きに就航させたところ、ふつうのイケフネが鳴門-大阪間をやっと一往復する時間で二往復することができた。これに自信を得た中部氏は、次々と動力付きの運搬船(巡航船と呼んだ)を就航させ、やがて朝鮮南部に出漁していた岡山など瀬戸内海漁民と協力して、ハモ縄で漁獲したハモを入れたトロ箱の上にトタン板を置いて、その上に氷をのせる方法で、高鮮度で大阪までハモを送ることに成功し、巨利を得た。これを契機として、遠洋漁業の経営に乗り出し、○はのマークの林兼水産、つまり今日の大洋漁業の基礎を築いた。
これに刺激されて、明治四四年(一九一一)三隻の巡航船を建造した富島のイケフネ業者は、活動範囲をまず瀬戸内海中部以西、とくに山口県の大島、上関、室積と大分県の国東半島や豊後水道の佐賀関、蒲江に拡大し、さらに九州西北部の平戸、生月、五島、長崎へと手をのばした。それとともに船型も大型化し、またスピードアップのため大馬力エンジンを装備するようになってゆく。
192頁 ・・・大型輸送船は長江溯航作戦用などに次々と「徴用」されることになった。そして、船の大部分は太平洋戦争中に撃沈されて、二度と戻らなかった。戦後、イケフネはもう一度復活はしたのだが、高度経済成長とともに保冷車が出現し、また自動車による活魚輸送も実現し、五島からは活魚の空輸が行われるようになった。イケフネの時代は、かくしてその終りを告げたのである。
・大林太良 他『瀬戸内の海人文化 海と列島文化 第9巻』小学館 1991
447頁 活魚運搬とは、運搬船の船倉をそのまま生簀とし、その中に、魚を生かしたまま消費地の市場まで輸送する方法である。魚は生簀の中で生きているとはいっても、狭い空間に押しこめられていると、海の中とは勝手が違うため、あばれまわって体を生簀の壁にぶつけ、魚同士で衝突して、途中で死んだり弱ったりしやすい。このため、長距離を運搬することや、大量運搬ができないので、対象とする魚は値段が高い魚-タイ、サワラ、タコ等にかぎられた。これらの魚が獲れるのは夏の間であるが、冬の間は、活魚運搬業者は、船の通水孔に栓をして五島列島や九州に出かけ、ブリ、イワシ、サバなどの輸送に従事した。
448頁 ・・・大坂では、魚問屋は直接、魚を集荷するのではなく、「イケフネ」等と呼ばれる活魚運搬業者にゆだねており、このため運搬業者は、運営資金を大坂の魚市場の問屋に依存していた。彼らは、それぞれ勢力範囲をもって、その地域の生産地にある魚問屋に集荷された鮮魚を買うか、または漁獲現場である海上で、直接、漁船から買いつけた。後者の形態を「出買」とか、「沖買」といった。
淡路島の富島町(現在、北淡町)机浦は古くからの廻船業の浦であった。河野通博によると、明治五年(一八七二)には、机浦の五七戸のうち二五戸が鮮魚の運搬に従事していたという。彼らは、「イケフネ」の場合には、「イチアケ」といって、前日に獲れた魚を生かしておき、翌日中に出航して、次の日、下津井(倉敷市)で開かれる市に間に合わせるという方式で、瀬戸内海沿岸および鳴門方面へ出かけた。船は、当初は櫓船であったが、のちに明治三〇年代に入ると、小型汽船によって数隻の無動力イケフネを曳航するボート漕ぎに変わり、行動範囲も、瀬戸内海の燧灘を越えて芸予諸島東部にまで広がり、明治末には、動力つき運搬船へと変わった。さらに興味深いことに、「イケフネ」の運搬では、もともと机浦の人々は、タイの運搬を専門としていたが、ボート漕ぎの時代にはタコに変わった。これは、タコのほうが、タイより同じ船でたくさんの量を積むことができ、そのうえ、輸送中に身が細るということがないため、より利潤を生むことがわかったからである。このように、運搬業は、市場の経済合理性と密接に連動している。また、船の通水孔に栓をして魚を運ぶ「ナマセン」では、九州や五島へ通い、戦前には、朝鮮海域への通漁にしたがって、ブリ、イワシ、サバなどの輸送に従事した。
450頁 富島町机浦では、瀬戸内海中部以東の出買いでは、明治初期には沖合で漁民と取り引きしていたが、大正末期からは、漁村の地元魚問屋と特約関係を結び、そこの魚を買い占める方法をとるようになった。つまり、運搬業者は、「商主」と呼ぶ特約を結んだ問屋にたいして仕込みをし、浜を支配するようになった。一方、運搬業者のほうも、自己資金だけでは商主への仕込みができない場合が多かった。机浦では、イケフネは大阪の魚問屋から融資を受けていた。融資は無利子で、返済は魚を持って上がるたびに、少しずつ差し引くという方式で九割がた返済したところで、帳消しにされた。しかし反面、問屋口銭(仲介手数料)を取られるという形で、イケフネは問屋に縛られていた。
400頁 232 下津井港 鷲羽山からみた景観。遠方の祇園神社の丘があり、丘の下から手前に、下津井、吹上、田之浦と三つの港が連なっている。これに大畠を加え、「下津井四か浦」と総称された。1961年。撮影 中村昭夫
吹上港に船首を防波堤に向けて停泊している活魚運搬船。
・植松岩實「備讃瀬戸東部海域の出買いについて―香川県豊島(てしま)におけるその展開過程―」『操山論叢第26号*』岡山県立岡山操山高等学校 1991
84頁 出買いとは、根拠地以外の漁村や他海域で操業している漁船へ商品たる魚介類を買い入れに行き、これを魚市場に出荷することである。
・・・出買船は船艙を生簀(いけす 地元の人はイケンマという)にし、その中で魚を活かしたまま輸送できる構造になっている。この船を使用して専業で出買いが成り立つには、次のような条件が整のっている場合である。①生産者である漁民の根拠地の漁港付近で魚介類の購買力が小さい。②魚市場が生産地から遠い。③漁船が無動力船か漁船のエンジンの性能が劣り漁獲した魚を生産者が直接魚市場に出荷できない。
第二図 瀬戸内海沿岸における歴史的な水産物の流通経路
83頁 備讃瀬戸東部海域の出買いは、南部と北部に分けてみる必要がある。南部海域は近くに大きな高松の魚市場があるため、漁民が直接市場に出荷する場合が多く、出買いの活躍舞台があまり与えられなかった。・・・北部は、近くに大きな魚市場がなかった。さらに瀬戸内海東部における出買い(鮮魚運搬業)の二大勢力(一つは明石・淡路、もう一つは下津井)の進出の空白海域であった。このため、この海域では零細な出買業者が多く生れた。この海域で漁獲された魚は、これらの出買業者によって主に岡山の魚市場と結びついていた。
84頁 ①出買船の船艙の底の部分 栓をして船艙を空にしている状態。栓を抜くと海水が流入してイケンマになる。79頁 ②船型のドブネ 船底と舷、船尾とも穴を開けて海水の流入、流出をよくしている。甲板近くまで沈水する。海岸から沖合50~100mの海域に投錨して固定させる。78頁 ③角型のドブネ船底、舷ともに金網を使用して海水の流入、流出をよくしている。製作費は、船型のドブネより安くつくが、寿命や管理に劣っている。④出買船手前と後方の大きな船が出買船。手前の小さい舟がドブネにタコの餌(アジやいかなごなど)を持って行く時に使用されたもの。貴重な写真記録。
・長崎福三『日本人と魚―魚食と撈りの歴史―』はる書房 1991
115頁 大阪の雑魚場は関西最大の消費市場で莫大な量の魚が集荷されていた。大阪の市場の特長は瀬戸内海という好漁場をもっていたために、活魚の取り引きが多かったことである。魚を生きたまま運ぶためには生簀を帆船でひくか、船底に小さな穴をあけた活け間をもつ活船を用いるかである。活船の場合には活け間の海水がたえず換らなければならないために、帆柱に小さな俵などをつけて船が揺れ動くような工夫もしていた。それだけに航海上の危険が多かった。
このような生きた魚の市場への流通は淡路の魚商人が行っていた。淡路の魚商人は大阪を基準にして、活魚の集荷区域を前・一明・下と三つに分けていた。・・・その境界は運搬船の動力化にしたがって西へと伸びた。・・・これらの船は活け間と胴の間の吃水線の舷側に矩形の小窓が切ってあり、小窓にはかなあみが張ってあり、海水が出入りできるようにしてあった。
淡路のいけぶねは明治十年ごろ下津井にやってきて、その活動を開始し、金山のあさりの鯛が最もよくとれた明治二十年代の終りから三十年代にかけて全盛をきわめた。その後、動力船の出現により、いけぶねの活動範囲も広くなり、隻数も増加した。そして下津井はもはや、一明の中心地ではなくなり、四国の西端や九州の東部が下津井に代って新しい一明の根拠地になった。
・前田博司『波乱の半世紀を探る 下関をめぐる国際交流の歴史』長周新聞社 1992
74頁 四〇年にわが国最初の機船の鮮魚運搬船新生丸で朝鮮漁場から大量の漁獲物を買い取り、当時としては記録的な短時間で運搬して大成功をおさめた林兼の中部幾次郎は、大正二年(一九一三年)には下関の竹崎に林兼商店(大洋漁業の前身)を設けて操業部門に本格的に進出した。「この時下関の地理的優位性を、的確につかんだのである。日露戦争にともなう物資移動の流れをみて、これからの日本の総合ターミナルは、大陸と日本本土とを結ぶ下関だと彼(中部幾次郎)は断定した。・・・・・・」(『中部謙吉』)のである。
・織野英史「展示解説 道具から技術を見る―瀬戸内地方の船大工展の見どころ」『瀬戸内海歴史民俗資料館だより 第37号』1993
5頁 鮮魚運搬船は五十集型から大正初期以降徐々に洋式機帆船の形態を一部取り入れた明石型生船へと変化したが、双方の図面が残り構造的変遷が分る。
生船(出買船)の変遷 板舳の五十集型に似る小出買船(上・香川県詫間町)と明石型生船(下・香川県志度町)
・楠本正『玄界の漁撈民俗 労働・くらし・海の神々』海鳥社 1993
92頁 西日本漁業の支配的位置を占めた「林兼」の創設者・中部幾次郎は、もと大坂・雑喉場(魚市場)の鮮魚仲買運搬業であった。彼の事業が飛躍的に発展する契機となったのは、明治三十八(一九〇五)年、鮮魚運搬に機械船を用いたことである。以後四年間、これによって下関から日本海に出て、豊漁のブリを買い付けたり、福井の小浜を中心にカレイを買い付けるなど、常に同業者を圧倒した。
明治四十年には朝鮮半島に進出し、タイ、サワラ、ブリなどの高級魚を目指して通漁する邦人漁民から魚を買い集め運搬した。鮮魚仲買運搬は、いかに多くの漁業者から魚を買い集めるかに成否がかかっている。そのため仲買業者は漁民に資金を提供し、鮮魚買い付けの支払金から何回かに分けて差し引くという形態をとっていた。これによって利益をあげた「林兼」は、こののち本格的な漁業経営に乗り出し、今日の大を成すに至った。「林兼」が南朝鮮近海の魚買付けに狂奔しているころ、大島、鐘崎の漁船団もその傘下に属し活躍した。
93頁 当時は大きいサワラ一本、四十五銭くらいでした。サワラで舟が満船になると『林兼』の母船が集めに来ました。母船は『林兼』と『山神』と二つありまして、サワラとりの小舟はどちらかに所属していました。あとになって思うと、それぞれの船頭が、『林兼』なり『山神』と契約を結び、雇われていたようです。・・・
・川越耐介『油津―海と光と風と―』鉱脈社 1993
165頁 弁甲は造船材だから、水によく浮く事、腐りにくい事、曲げたりする加工に強い事等が大事である。弁甲は比重が軽く、油分が多く、年輪の他に偽年輪があり、又夏と冬の細胞の大きさ等の差が少ない等の特性がある。よって造船材として最適であると言われる。
造材つまりその形は、両面を削る事により、まずもって集運材や船積する時、安定し且つかさばらないようにした。第二に材質がはっきりわかるように、第三に、船板等木取りしやすいように、第四に、他の木材とは違いますよ、高級で高いですよ、と番切、極印などの化粧をほどこし、管理しやすくしたのであろう。このように、安全性、経済性、利便性、特殊性等を勘案して、弁甲という世にも稀な木材商品ができあがったのである。・・・
・宮窪町誌編集委員会『宮窪町誌』1994
754頁 宮窪にも歩買商がいた。元村長矢野有志夫の先代が明治中期頃には既に営業をしているが、正確な時期は不明である。昭和八年頃まで大道の現在の矢野家で営業していた。
宮窪の矢野歩買商が行った経営事例は次のようであった。
釣漁で釣った鮮魚を、宮窪出口沖に浮かべている簀舟に持ち込み、簀舟管理人の立合で、魚の種類・重量等を規定の伝票に記入し、その伝票を歩買商に持参、簀舟管理人より回送した元帖と引合照合の上、現金を授受した。そして簀舟に鮮魚が満された頃、鮮魚運搬船(生船と称した)が来て消費地に輸送した。
矢野歩買商の場合は岡山県下津井の魚問屋と特約を結び、手数料を貰っていた。他の歩買商も似たような取引であったと思われる。
・三浦庸子・北村皆雄「写真で見る巨文島」『日本植民地と文化変容―韓国・巨文島』御茶の水書房 1994
8.一九三〇年(昭和五年)船溜まりの臨海部を埋め立てて建てられた巨文島製氷株式会社前より島の表玄関を臨む。森の中央の長屋根が木村忠太郎の家、右上の高台には忠太郎の別宅も見える。左の長屋に煙突の立っているのがイリコの製造所と倉庫である。真ん中の二階屋は商業基地のシンボルとなった長門屋旅館・中吉商店。大野栄太郎の次女ツネが漁師の中村吉蔵に嫁して商売をはじめてから発展し代を築いた。
日本本土の沿岸漁業が行き詰まり、朝鮮半島へと一斉に目が向けられた。巨文島は西日本全域から訪れる漁業船団の一大集結地へと発展し、島はもはや一漁村にとどまらず一大補給基地、商業基地へと変貌を遂げようとしていた。
イリコの製造所と倉庫前の岸壁に多数の活魚運搬船が接岸している。
9.一九三〇年(昭和五年)頃の港の賑わい。左手前は製氷会社。向かいの島の集落は徳村(トクチョン)で朝鮮伝統の藁屋根の家屋が巨文島の日本村と好対照をなしている。松浦儀一が松浦医院辺りで撮影したもの。
巨文島港に停泊する多数の活魚運搬船が見られる。いずれの写真も貴重なもの。
・瀬戸内海歴史民俗資料館『瀬戸内海の船図及び船大工用具―重要有形民俗文化財調査報告書―*』1994
6頁 ・・・高級魚の上方への輸送にあたった瀬戸内で生まれた弁財船の小形である五十集は出買船とも呼ばれる生船として使われたが、後に、その後継者として一部洋式機帆船の特徴を取り入れて誕生した明石型生船も瀬戸内が生んだ運搬船である。・・・
14頁 ・・・魚を上方へ運搬する伝統の上に生船が改良され、明石型生船を生んだのもこの地域である。・・・
調査において多数の船図が収集されているが、明石型生船として船図が掲載されているものを選択した。
47頁 図14 生船(出買船)の変遷 Ⅰ-2-46 カミズ 香川県大川郡志度町小田 堀安吉 左表側平面重図 昭和10頃明石型生船
183頁 Ⅰ-1-6 ズメン 兵庫県津名郡北淡町富島 宗和豊松 杉板 鉛筆側面図 昭40年代 小形明石型生船
195頁~196頁 Ⅰ-1-4 ズメン 兵庫県津名郡北淡町富島 宗和豊松 杉板 墨側平断面図 昭20年代 大形明石型生船 Ⅰ-1-5AB ズメン 兵庫県津名郡北淡町富島 宗和豊松 杉板 墨側平面図 昭40年代 大形明石型生船
203頁 Ⅰ-2-105AB カミズ 愛媛県北条市柳原町 成瀬淳二 表裏側平断面線図 明石型生船
※Ⅰ-1-5Aは大正丸、Ⅰ-1-5Bの第八大丸は鹿児島県鹿児島市のマルサ水産株式会社発注、昭和53年12月21日起工、昭和54年6月12日進水、昭和54年7月11日完成、工期約6ヶ月、請負金額126,700,000円。長さ(登録)29,33m、幅5,15m、深さ2,22m、主機関ニイガタ6MG22X型700PS(農林430PS)、空気圧駆動の活魚そう用自動開閉弁132個を装備した明石型生船
・『香川県漁業史 通史編*』香川県漁業史編さん協議会 1994
香川県の漁業の歴史を総括的に記載している。
196頁・・・タイなどはいったん、活船から簗(スブネともいう)に移し、数日「休泳」させたあと、再び活船に移して、浜から直航で大阪・兵庫・岡山・徳島などへ輸送して売却する。
活船はイケマとドウノマの吃水線以下の舷側に、長方形の通水孔を数個切ってあり、通水孔には金網が張ってある。海水が自由に出入りできるからそのまま生簀となり、魚を生かしたままで市場まで運ぶことができる。しかし狭い空間のため、魚同士で衝突したり、生簀の壁に体をぶっつけたりして、途中で死んだり、弱ったりするから大量運搬はできず、値段の高いタイ・スズキ・タコなどに限られてくる。大量に運搬するためには一度に何隻もの船で運べばよい。タイやスズキは鮮度の善しあしによって値段に影響するから市場まで早く運ぶのがよいが、タコは途中でゆっくり水を飲ませて目方を増やす方が、もうけになるという。
出買船とイチアケ「イケフネ」などと呼ばれた活魚運搬業者(多くは阪神の大消費地に運送する)が鮮魚を買い入れるのは、魚問屋に集荷されたものか、又は海上の漁獲現場においてである。海上で、漁船から直接買い付けるのを「出買い」とか「沖買い」といった。
出買いは特に一本釣漁師と交渉することが多い。金手の釣り漁場には季節になると下津井から出買船が多くやってきた。燧灘の伊吹・観音寺にも下津井・笠岡などから買いに来たという。下津井の魚問屋は活魚運搬業者を介して直接大阪の魚問屋と結んでいたから、備讃瀬戸の高級魚を扱う集荷地にもなっていたのである。
下津井の魚問屋には「イチアケ」と呼ばれる淡路島の活魚出買人(運搬業者)が何隻もの活船を組んでやってくる。淡路の出買人は大阪市場を基準にして、活魚の集荷区域をマエ(前)、イチアケ(一夜明)、シモ(下)と三分して呼んだ。マエは大阪湾、淡路島周辺、播州沿岸で、とれた魚は翌朝には市場に運び込まれる。イチアケ(一夜明)はマエに比べて一晩だけ古い魚を運ぶ区域で、下津井が中心地であった。下津井では淡路からやってくる出買人を「イチアケ」と呼んだのである。シモはイチアケより西の地方を指している。淡路の出買人は瀬戸内海東西沿岸ばかりでなく、鳴門方面にも出掛けていた。
イチアケの運ぶ活船は、金山鯛の最もよくとれた明治中ごろが全盛期だったという。やがて同三十年代になると、小型汽船によって数隻のイケフネを曳航する「ボート漕ぎ」に変わった。またこのころから、タイの運搬よりタコの方を多く積み込むようにもなった。タコの方が多く積め、それだけ利潤が多いからである。
882頁 ・・・生産者から沖売りは、中讃・西讃地方に多く存在していたケースで、高級魚のタイ等を活魚船で直接漁場で漁船から買い受け、京阪神などに出荷していた。主な活魚船業者は岡山県下津井の業者であった。
なお、東讃地方でもこのような業者がいて、特に直島・豊島等の阪神向けのタコ運搬船は有名であった。しかし、高級活魚の漁獲が少なくなった昭和三十年代からは、次第に減少し、現在ではほとんど消滅した。
・織野英史「第二章 生産・生業 第三節 漁業」『引田町史 民俗*』引田町 1995
129頁 出荷には、多く明石型ナマセンと呼ばれる船が使われた。明石型ナマセンという名は、機械船による鮮魚運搬の発祥地にちなんで呼ばれているもので、大正元年、明石の鮮魚仲買商中部幾次郎の第二新生丸が最初とされる。
この船の特色は、船尾を西洋型に、胴中央を和船の棚板造りにしたもので、ほぼ垂直に立ったミヨシと操舵室の下から船首に向って並ぶイケノマ(活の間)にいくつもの魚槽を持ち、喫水線から下の部分には必要に応じて海水を出入りさせるための通水孔が設けられている点である。引田には、引田のハマチのほとんどを扱う香川丸ほか、共栄丸・和丸・幸栄丸・誠栄丸がある。
このナマセンのもう一つの特色は、船首に金箔のオモテカザリがついていることで、ケヤキの一枚板に船大工が唐草文様を彫刻し、ウルシを塗って金箔をはりつけている。これには魔よけや縁起をかつぐという意味があるのだという。
130頁 明石型ナマセンの移りかわりと各部の名称(ミヨシの形が変化の特色をよく表現している。)図面があり、ナマセンの形状変化が解りやすいので参考となる。
132頁 ハマチを運ぶ明石型ナマセン
・出口晶子「魚商人と出買船―近世末期、淡路島机浦における鮮魚流通の分析―」石井謙治編『日本海事史の諸問題 対外関係編』文献出版 1995
406頁 さらに後年、淡路島や明石の漁村から大洋漁業や日本水産といった二大漁業会社が出現し、動力つき鮮魚運搬船による鮮魚輸送が、近代漁業の幕開けの契機となったことはよく知られているとおりである。鮮魚輸送には、魚を生かしたまま市場へ運ぶ、船艙に海水を通す穴をもった独特の構造の船が用いられてきた。通称、ナマセン、イケフネなどと呼ばれ、輸送中は、艙内をできるだけ海中に近い条件に保つため、通水孔をあけて走行し、市場に近くにつくと、河口付近の淡水によって海水が薄まらないよう船員が艙内に飛び込んでダボセンをはめ、水の流れを遮断するしくみであった。明治期には改良が加えられ、明石型の名で呼ばれる動力つき鮮魚運搬船が出現しており、富島(机浦)ではその建造が現代まで続けられてきたのである。
・西宮市教育委員会『西宮の漁業 兵庫県西宮市の西宮浜の漁業調査報告書』西宮市文化財資料第40号 1995
43頁 ナマセン 鮮魚運搬船のことをナマセン(生船)という。淡路の岩屋の加工屋からイワシを買いにやってくる船のことをナマセンとよんだ。昔は、西宮でとれたイワシは、西宮の加工屋にだしていたが、ジアミ(地びき網)からコギ(エンジンがついた船)になって、網をどこへでもひっぱっていけるようになると、淡路からもイワシを買いに来るようになった。淡路からナマセンが来るようになると、(沖まで)漁にでるときに「今日は沖の方に行く(漁をする)ので来てくれ」と連絡しておくと、ナマセンが取りに来るというようになった。淡路の岩屋にそういう鮮魚運搬船がたくさんあった。・・・・・・
ナマセンのよいところは沖へでて漁をして西宮まで戻ってきていたら、その間にイワシの鮮度が落ちてしまうが、ナマセンだと氷を積んでいるので、イワシの上から氷をかけて箱に詰めておいたら、上から冷たい水が落ちてきてもちがいい。イワシに少々脂がのっていても3~4時間かかって淡路まで持って帰ると、きれいでよいジャコができる。あまり鮮度がよすぎると脂が抜けきれなくて色が赤くなったりするが、秋の頃でもときどき脂がのっているかなというようなイワシは、西宮で加工するよりも淡路までもって帰る方がよいジャコができると聞いていた。西宮に持って帰って売っても、ナマセンに売っても同じように売れる。ナマセンだと漁をしてるところについてきてくれるので、西宮まで運搬船でもって帰るだけの燃料がかからないので、ナマセンに来てもらう方が得である。淡路から来るナマセンは15トンや20トンの40馬力の力がある船だった。ナマセンは力があるので、冬になると酒造用水を運搬するために来てもらった。・・・・・・
・徳山宣也『大洋漁業 長崎支社の歴史』1995
1頁 大正5年当時、林兼商店は、鮮魚運搬船を使って遠隔地離島における漁船の漁獲物を買い取っては、下関に運送し、消費地に販売していた。鮮魚の運搬には新生丸を主とする数十隻がフルに活躍していた。鮮魚の最たる集荷地は韓国(当時は朝鮮と呼んでいた)と五島列島であった。
つまり、林兼商店は西日本における鮮魚の集荷・運搬・販売をその本業とするものであり、商業資本からスターとしていることが他社に見られない特色である。その傍ら、副業的に漁船の必要資材を補給する商事行為も行っていた。
・丸亀市史編さん委員会『新編丸亀市史3 近代・現代編』1996
401頁 出買船と活魚輸送 活魚運搬業者が、魚問屋からでなく、海上の漁師、特に一本釣漁師から直接買いつけるのを「出買い」とか「沖買い」とよんだ。金手の釣漁場には季節になると、下津井から出買船が多くやってきた。
下津井の魚問屋は活魚運搬業者を介して直接大坂の魚問屋と結んでいたから、下津井は備讃瀬戸の高級魚を扱う集荷地にもなっていた。下津井出入りの活魚運搬業者(活魚出買人)の活動は、金山タイ(金手海で獲れるタイ)の最もよく獲れた明治中ごろが全盛期だったという。やがて明治三十年代になると、小型汽船によって数隻の活船(イケフネ)を曳航する「ボート漕ぎ」が主流となった。このころから、運搬にはタイよりタコを多く積み込むようになる。タイは狭い生簀でキズモノになりやすいが、タコはむしろ水を飲んで貫目も増え、利潤が多いからである。
・芦屋市立美術博物館『手々かむイワシいらんかぇ―芦屋の海と暮らし―』1996
71頁 ナマセン ナマセンとは生魚を運搬する船のことである。加工屋が持っていた。和歌山や淡路からも来ていた。ナマセンとは生まれる船と書く。
・辻唯之『戦前香川の農業と漁業』香川大学経済研究叢書 9 香川大学経済研究所 1996
167頁 零細な漁業組合が多いなかで、庵治浦漁業組合は伊吹や引田の漁業組合とならんで県下では最大規模の組合員を擁する漁業組合であった。明治四五年に県下でいちはやく鮮魚運搬船を購入したのはこの庵治漁業組合である。瀬戸内海でも当時、動力付きの鮮魚運搬船の存在はめずらしく、大正三年の『大日本水産会報』も「四国漁村めぐり」と題する記事で庵治浦を鮮魚運搬の漁村として紹介した。庵治浦丸と名付けられたこの運搬船は、庵治の沖合で操業中の漁船から漁獲物を集めて高松の魚市場に運ぶ。運搬船のおかげで通常で二時間、風浪のときは三時間もかかった高松の魚市場までの所要時間が一時間に短縮されたという。
・『永き航路 播淡聯絡汽船株式会社 75周年記念誌』播淡聯絡汽船株式会社社史編纂室 1997
51頁 昭和38年~昭和44年(1963年~1969年)満帆、海をゆく高度成長期を迎え、人々の生活も潤い、ゆとりが見られるようになり、明石港は休日ともなると、阪神、姫路方面から淡路島へと遊びに出かける家族づれや、グループが目立ちはじめた。・・・岩屋の船着き場から、ずらりと並んだ人、人、人・・・・・・。岩屋の絵島まで行列がつくられ、待ち時間も2時間以上という状況が、続いた。52頁、53頁夏のピーク時には、岩屋港から、絵島まで人の波ができる行列の最後尾に上架された明石型生船の船尾部分が確認できる。
・森本孝「移動・集散する漁民社会―沖家室島の一本釣り漁民の事例」『海人の世界』同文舘 1998
373頁 沖家室は一本釣り漁村として発展する条件をそなえた島であった。一本釣り漁は文字どおり魚を一本、一本釣りあげる漁法で、大量漁獲は期待できない。そこでマダイ、クロダイ、メバル、スズキ、サワラ、ハマチ、タチウオといった、概して値の高い魚を漁獲対象とした。そして値を高く維持するには生きたまま消費地に運ばねばならず、そのために漁船も運搬船も、船腹に海水が自由に出入りする生簀をもった船が使われた。かつ、高級魚を消費できる経済力の高い町が近くにあることが要求された。この点、瀬戸内の西部に位置しているとはいえ沖家室は恵まれていた。瀬戸内は北前船の回廊であり、多くの港町や城下町が付近に形成されていたからである。
・愛媛県かん水養魚協議会『愛媛県魚類養殖業の歴史*』1998
70頁 ・・・昭和48年(1973)には16,000トンの生産量となり、販路を拡大する必要が生じてきたことから、京阪神方面へ出荷が行われるようになった。京阪神地方は、当時から活魚取引きが主力を占めていたことから、愛媛から和歌山(和歌の浦)まで大型の活魚船で運搬し、和歌山で締めてトラックで京阪神の各市場へ出荷するようになった。
昭和40年(1965)頃には、天然魚を輸送するために所有していた活魚船を利用して出荷していたが、その後、運搬を専門とする業者が現れ、45年(1970)には10社が20~50トン級の活魚船を所有し営業するようになった。49年(1974)には100トン級のマグロ運搬船を改造した鋼船の活魚運搬船が出現し、大量かつ長距離輸送が可能となった。現在、宇和島市内には22社で55隻の運搬船がある。これは全国保有隻数の70%を占めている。43隻が200トン以上の大型運搬船である。
1970年半ば以降の木造活魚運搬船から鋼船活魚運搬船に移行状況が分る。
71頁 昭和36年(1961)は愛媛県における海面養殖のスタートの年である。本県の先駆者の一人である山本獐の話によれば、従来から所有の19.9トンの木造活魚運搬船を使って、養殖ハマチを一航海500尾約2,000キロを東九州や広島市を中心とした山陽方面など、比較的近くの市場へ活魚で出荷していた。当時の運搬船は、船足が遅く、広島までの時間は約15~16時間かかったため、投餌等の養殖場での作業を休まねばならぬ状況であった。同氏は昭和41年(1966)に国・県の補助を受けて7百万円で新鋭の木造運搬船(同トン)を建造して、大阪まで(当時で25時間の航海)出荷を行ったが、時化等の関係で冬期は不可能であった。
・いよぎん地域経済研究センター『業界調査報告書 愛媛の魚類養殖業』1998
33頁 愛媛の活魚運搬船業者は真珠母貝や鮮魚の運搬からスタートしたが、現在では養殖業者が種苗生産業者から稚魚を購入する際の稚魚の運搬や、養殖業者が活魚を市場に出荷する際の運搬、さらに養殖業者間の中間魚の運搬を行っている。また愛媛産だけでなく、他県の活魚348も多く運搬している。さらに国内のみならず、香港、中国・海南省、ベトナム等からカンパチやスズキ等の稚魚を運搬するケースもある。
物流量としては、成魚が最も多く、次いで稚魚、中間魚の順となっている。成魚の出荷先は東京、大阪、名古屋方面が多いが三重、焼津、大分、下関などにも運搬している。魚種別にはハマチが最も多く6~7割、マダイ・カンパチで1.5~2割となっている。全体の物流量は稚魚の運搬が集中する4~8月の時期に多く、船の稼働率もこの時期9割以上となる。
35頁には鋼船活魚運搬船、第五十八神洋丸(愛媛県船籍、1979年10月竣工、322トン、全長47,90m)の写真がある。舷側に多数の円形換水孔が見られる。
・二野瓶徳夫『日本漁業近代史』平凡社 1999
142頁 ・・・大阪や東京市内の河川に用いられていた巡航船には、石油発動機が備え付けられていた。また明治三六年三月から七月まで大阪で開かれていた第五回内国勧業博覧会に、船舶用石油発動機が出品された。このようにして漁業者も、船舶用石油発動機に接する機会を持てるようになっていた。そうしたことが、漁船動力化の大きな刺激になったと思われる。明治三六年に初めて大阪の巡航船を見た大洋漁業の創始者、中部幾次郎は、三八年に大阪の清水鉄工所に発注して、わが国最初の石油発動機付き鮮魚運搬船「新生丸」を建造している。
・大分県魚類小割式養殖業の歴史編纂発起人会『魚 林 大分県魚類小割式養殖業の歴史*』1999
272頁 ・・・昭和55年に建造した11号盛漁丸(100屯・35m)は、国内では最後に建造され、しかも最大の木造明石型活魚運搬船で、11号を含め8号(100屯)、18号(80屯)3隻が、我が社の販売専用船として活躍している。魚類養殖業発展の歴史の中で活魚運搬船の担う役割は大きく、養殖の普及と拡大に伴い、船も大型化・近代化していった。・・・魚類養殖業は漁獲物運搬船とは違い、各地に昔からあった小さな活魚船を持って商売をしていた人たちによって始められた場合が多く、独自の販売網を活かしながら、その地域の主導的な役割を果たして来た。また、その指標ともなっていたのである。例えば、宮崎県北浦湾で昭和36年に初めて養殖を始めた兵庫養殖漁業生産組合の、その創始者は大日水産(住吉丸)社長日野顕徳氏であり、九州各地に天然魚の買い付けの浜を持ち、その他に魚類養殖場を開設して大々的な養殖事業を展開していった。もちろん、この業界では日本一である。
・横山昭市『愛媛・新風土記』財団法人愛媛県文化振興財団 2000(2004年初版3刷)
343頁 ・・・動力船の生簀(イケフネとよぶ)が登場したのは明治41(一九〇八)年で、日本漁業の近代化に登場したはマークの林兼水産(現大洋漁業)の前身である明石市の中部氏によるもので、その船は巡航船とよばれた。このほか淡路島の富島(北淡町)もイケフネ輸送に進出し、愛媛県の三机(瀬戸町)や深浦(城辺町)にも支所をおいて鮮魚を運んだ。
この富島のイケフネは、櫓をこいでいたとき、別の舟がゆすって漕いでくるので何かと見たらタコだった。タコはゆすられると水を多くのんで体がふくらみ、体重が多くなって水増しになり値がよくなったことを知り、愛媛県の佐田岬の漁村などにタコツボ漁をすすめて、船で運ぶ種類を多くしたといわれる(河野通博、一九九一)。・・・
マダイはイケフネ運送でも最も値がよかったが、長崎では「メヌケダイ」とよばれている。これは生簀からあげて時間がたつと目のまわりがくぼんでくるからで、値が下がってしまう。また、刺身に作ったあと頭部を味付けしてアラダキにして有名になったのは神戸で、この発想は松山の出身者で大いに儲けたといわれる。
・『東浦町史』東浦町史編集委員会 2000
688頁 ・・・漁獲物運搬船(生船・母船)も含まれる。「韓海出漁日誌綴」(淡路水交会蔵)の大正元年の日誌には「十月三十日 本日仮屋浦母船藤栄丸、鰈積入ノ為当港(細竹洞)ニ入港ス」「十一月九日 仮屋浦母船藤吉丸、入船ス」「十一月十六日 仮屋町藤栄丸、満船ニ付出帆登船ス、積荷鰈千八百枚、穴子百五十貫」「十一月二十六日 予而登船中ノ仮屋町母船金比羅丸、海路無事当港ニ入港ス、全船ニ就キ、内地阪神地方ノ大口鰈相場ヲ聞クニ壱貫ニ付キ壱圓三十銭、鮑モ壱貫目壱圓三十銭位」と記され、母船名とその活動の一端がわかる。
仮屋町の母船は主に仮屋町の出漁船から漁獲物を買い入れたようである。積み荷がそろうと大阪雑喉場を目指して帰っていった。時には途中の下津井や明石で積み荷を売りさばくこともあった。九月から一月までの漁期中に、大阪と朝鮮の間を二往復するのが一般的だったようである。
・渡部文也、高津富男『伊予灘漁民誌』財団法人愛媛県文化振興財団 2001
231頁 中島町二神島でも漁港内の生簀に魚種別に畜養して、松山市や北条市の卸売業者や仲買業者と取り引きしている。その運搬はもちろん活魚船によるものである。・・・『中島町誌』によれば、明治一四~一六年の小浜村(現中島町小浜)の魚類の販売はすべて松山市三津浜で「生ノママウル」とあり、加工せずに出荷していたようである。また、タイは糸崎(広島県三原市)まで活魚船で送り、そこでしめて貨車で大阪方面に送ったということである。二神島では、明治末期には、畜養生簀のタコを淡路島の富島の積船(生ボート)にまかせて出荷していた。
この淡路島富島の活魚運搬については、河野通博氏の「瀬戸内海の活魚運搬業」に詳しく展開過程が述べられている。それによると、富島の活魚運搬業者は、動力付鮮魚運搬船の出現以前の明治時代から中島町津和地島を地盤としていた。「明治時代の魚問屋だった米屋の没落後、浜の権利を獲得した」らしいが、当時はまだ櫓船時代で、イケモノの阪神方面への輸送は距離的に難しく、「三津浜市場で捌くか、または鮮魚として氷詰にして大阪へ汽船で送った」ということである。活魚運搬船の出現によってその行動範囲は瀬戸内海西部にまで及ぶようになり、「大正時代には三机(瀬戸町)、明神(三崎町)が勢力圏に入り、ここから二手に分かれて、一つは大分県国東半島を目指し、他は豊後水道を南下した」ようだ。実際、昭和初期の富島水産株式会社支部所在地の中に、愛媛県西宇和郡三机村(現瀬戸町)、南宇和郡深浦(現城辺町)の名が見える(河野通博『光と影の庶民史』)。
・牛窓町史編纂委員会『牛窓町史 通史編』2001
898頁 岡造船所の新造船一覧(大正13~15年)に生魚船、生魚運搬船の記録がある。
5 (船名)三代丸 (船種)生魚船 (船主)鹿忍町西脇 片岡谷次 (重要寸法)キールの長さ 39尺 最広部の幅7尺5寸 中央の深さ3尺4寸5分 (進水年月)大正14年3月24日 (請負価格)1,950円
15 (船名)瀧丸 (船種)生魚運搬船 (船主)香川県小豆郡小江 (重要寸法)キールの長さ 38尺 最広部の幅7尺5寸 中央の深さ3尺 (請負価格)船体1,930円
20 (船名)幸丸 (船種)生魚運搬船 (船主)記載なし (進水年月)大正14年11月 (機関)牛窓鉄工所 15馬力 (請負価格)2,950円(船体1,700円 機関1,250円) (摘要)塗、金物一切付
25 (船名)亀島丸 (船種)生魚運搬船 (船主)大石嘉太郎 (進水年月)大正15年4月26日 (機関)山陽工作所製 50馬力復筒 中古品を下関で無水式に改造したもの。 (請負価格)6,000円
・太田雅士『食い倒れ大阪発 単なる魚好きが語る鮮魚と商内』文芸社 2002
72頁 大阪における活物の流通 江戸時代より、大坂では魚をイケフネ(生間という船艙を設けた運搬船で海水が循環するように通水孔を開けている)で泳がせたまま搬入する習慣があった。イケフネに積んだタイ、ハモ、タコなどは天保山沖で〆て血抜きを行い、雑魚場魚市場に上場してセリにかけられた。したがって大坂の人々は近世から朝活〆にして、夕方にはほどよく熟成した魚を食べることが可能だったわけである。このイケフネよる運搬は春から秋にかけて行い、冬場は鮮魚運搬船(ナマセン)に転向した。
当時からすでに遠く肥前からもタイが運ばれているが、とくに前日の夕方に明石などの集荷地を出発し、翌日の市に上場することができる範囲(淡路島周辺や大阪湾などの近郊)の品物は前の物と呼ばれ評価が高かった。
こうした運搬方法は、実に昭和四十年(一九六五年)、国道四十三号線が通り、物流がトラックにシフトするまで続いた。この時期以降になると水質の悪化が顕著になり、また昭和三十六年(一九六一年)に、第二室戸台風の被害による防災対策で護岸の嵩上工事が行われ、物理的にも荷揚げすることが困難になり、陸上輸送に切り替わることになる。この歴史的、地理的に形成された運搬・処理方法が白身にこだわる大阪の食習慣や商内の習慣を醸成した。
・渡邊茂智「香川県東部、小田・北山の朝鮮半島沿海通漁について―明治時代後半期に於ける地元鮮魚運搬業の盛衰から―」『瀬戸内海歴史民俗資料館紀要第16号*』2003
27頁 ・・・仕込金とは通漁前に通漁漁船の漁業者に貸与される契約のための前金であり、漁業者側はこの仕込金を基に準備を行い、通漁中に漁獲物を運搬船に売却することで仕込金の返済を行う。また運搬業者にとっては、仕込金を貸し付けることによって、漁業者を確保し、漁獲の利益を上げる事が可能となるわけである。漁獲対象となった魚種のうち、タイは延縄によって、サワラは流網によって捕獲された。北山は延縄に秀でた者が多いとされ、もともと萱野佐平と結びつきが強かった。一方小田はサワラ流網漁業を主とし石原与市と結びつきが強かったとされる。この両者が積船組合を結成し共同経営方式を採ったことによって津田・小田の海外出漁は県下における大きな勢力をもち得たことになったのである。
30頁 ・・・明治40(1907)年に「小田組」を結成し、本格的な運搬母船団としての活動を展開した。
すなわち、全国的にも、いち早く汽船による運搬船「小富士丸」を朝鮮半島沿海に運搬船として導入し事業の拡大を目指していた。また、このことは一方では、石油発動機船を使った県外の運搬業者との競争を意識したものとも考えられ、その結果は明治42年の如く香川県の朝鮮半島沿海通漁の漁獲高が全国一位を獲得するまでに発展を見せた。
31頁 また、運搬業を続けた「小田組」関係者の中では、多田金三らの「丸六組」があげられる。「丸六組」は大阪の魚問屋からの資金的後ろ盾を得て活動を展開した。大正時代には「明石型」の鮮魚運搬船「阪栄丸」を含む約10隻の運搬船を所持し、甘浦を主要拠点として、同海域に通漁した小田の流網漁業者の仕込みと自営流網を行った。漁獲物は大阪へ運搬し、その活動は昭和4(1929)年まで続いたのであった。
(写真7)「明石型」の鮮魚運搬船「阪栄丸」『石原家文書』より
34頁 ・・・「小田組」が「小富士丸」を朝鮮半島沿岸に出動させたのは明治39年からとされており、本県で発動機船が誕生したのは明治42年の「第一恵比須丸」が最初である。一方、「林兼組」が日本で初めて石油発動機付運搬船「第一新生丸」を建造したのは明治38年のことである。そして初めて慶尚南道固城沖の布山を根拠として本県通漁者のハモ・サワラの買付けを行ったのは明治40年のこととされている。その後間もなく羅老島を根拠としたが、当初より本県通漁者との関係は深かったようで、最初「林兼組」を朝鮮半島沿海に連れていったのは、当時本県通漁者であった津田町北村の和田専太郎であったといわれている。・・・
35頁 このうち、新生丸は「林兼組」の中部幾次郎が開発した石油発動機運搬船で、第二新生丸からは船体の構造を船首と船尾を西洋型、中央部をフレームなしの和船型に改良し、「明石型」と呼ばれ、農林省制定の標準型に採用され全国に広がった船型であった。中部幾次郎は、「明石型」の特許権申請を勧める人々に対して、船が改良されるのは鮮魚運搬業界発展のためになることだからと、それに応じなかったというエピソードも残っている。・・・
36頁 (写真12)引札に描かれた「明石型」の鮮魚運搬船『森家文書』(当館蔵)より
・神谷丹路『韓国歴史漫歩』明石書店 2003
163頁 「10 サワラ漁の根拠地から林兼の拠点へ〈慶尚南道・方魚津〉」には韓国における中部幾次郎の記載がある。
192頁 ・・・運搬専門の帆船が活魚(ハモ、アナゴ)または塩蔵処理(サワラ)で日本へ運搬したが、朝鮮の漁場から大阪まで二〇日もかかった。日露戦争後になると動力運搬船が登場し、漁場と市場を効率よく往復するようになり、販路の確保された漁業は、飛躍的に漁獲高を伸ばす。漁獲物は下関・神戸・大阪などの大市場へ運搬された。
203頁 「この辺り一帯は、魚の宝庫だった。無尽蔵だったよ。特にアナゴ、タイ、ボラ、タコ、アコウ、アワビ・・・。はじめ岡山村組というのが、魚類運搬船を始めた。私のいた頃、南龍丸の船は、運搬船、母船、活洲船が大小合わせると六、七〇隻はあった。主にアナゴだな。アナゴは死んだらダメ。鮮魚というのは氷詰めだが、活魚というのは生きてるやつのこと。ここから神戸港まで、活洲船(活魚運搬船)が一週間で往復したよ。魚は、近隣の朝鮮人漁夫が獲ってきた。日本の男は運搬船で、女は畑で働いていた。」
204頁 「・・・魚を獲るのは朝鮮人、それを買い取り日本の市場へ運んで売るのは日本人というふうに住み分けたんですね。岡山組単独で運搬船一〇隻はありました。ハモ、アナゴが主ですから、活洲装置のついた運搬船です。船は前方が大きな活洲になっていて、海水がつねに流れ込む仕かけです。後方には船員が寝泊まりできるスペースがあります。私の記憶では、下関、神戸などに寄りながら最終は大阪の中央市場でした。」
247頁 ・・・中部幾次郎が羅老島へやってきたのは、一九〇七(明治四〇)年頃だったらしい。彼は日本で初めて石油発動機のついた魚類運搬船を開発すると、その最新式の船に乗って羅老島へやって来た。船の名を新生丸といった(『大洋漁業八〇年史』)。新生丸は漁期の間、朝鮮海の漁場と下関を昼夜兼行でフル回転し、鮮度の高い魚を売りまくった。漁場で魚を満載したら、一睡もせずに下関の魚市場へまっしぐらに船を進めた。彼は瀬戸内で経験を積んだ明石出身の名うての鮮魚仲買業者だった。
248頁 それが、発動機運搬船の開発によって所要時間は大幅に短縮された。帆船時代に比べて二分の一から三分の一になった。下関までほぼ一昼夜で、運搬が可能になったという。この動力運搬船の登場によって、漁獲物の販路が確保され、朝鮮海出漁漁業は飛躍的に「発展」することになった。
・出口晶子「瀬戸内海の海上交通をめぐって―淡路島・船大工の語りより」『神戸の歴史と文化*』甲南大学総合研究所叢書 74 2003
32頁 ・・・イケフネは、明石や淡路島北部で造られたものをとくに「明石型」と呼び、その技術の優秀さを誇ってきました。イケフネの構造は、船にしつらえた魚艙の底にたくさんの穴をあけ、そこにダボ栓と呼ぶ槙の木栓を着脱し、海水の出入り・遮断を可能にしたものです。つまり、魚艙を海中と近い状態にするため、瀬戸内海を移動する間は、栓をあけたまま、海水を循環させながら、走ります。淡水のまじる大阪湾の雑魚場近くに着きますと、あけたままでは魚が死んでしまいますので、男たちは、寒いなか、醤油を飲んで、魚艙にとびこみ、ダボ栓をひとつひとつはめて、水を遮断した。そして市場近くでようやく活け絞めにするか、活きたままで出荷したのです。イケフネの利用が、タイ・ハモなどの高級魚とタコを主力としたのは、狭い魚艙内ではうろこなどが落ちやすく、多くを運べないため、単価の高い魚に限られること、さらにタコは多くを一度にいれても輸送中の問題が少なかったことがあげられます。
33頁 このようにイケフネは、魚艙の着脱構造が特徴的で、播磨灘に面した淡路・明石一帯でとくにその技術が発達し、数多く造られてきたことから、イケフネなら「明石型」といわれるほどでした。また、春から夏、これらの活魚を運搬したイケフネも、冬場はダボ栓を締めてナマセンになり、より多くの鮮魚を、距離を伸ばして運びました。
イケフネやナマセンの活躍は、明治・大正・昭和の近代漁業の発達により、新たな漁場開拓がなされたことや、消費者の鮮魚・活魚を求める傾向の高まりによって、一層広がりました。近代以降は、瀬戸内海の西側からさらに壱岐・対馬・朝鮮海域にまで拡大し、瀬戸内漁民の出漁とともに、これらの出買船もそうした海域に出かけ、港や沖で魚を買い付け、市場へ運搬することになりました。つまり、イケフネが「活かして運ぶ」ことに重点をおいた呼び方であるのにたいし、出買船は、「出て買う」という取引行為から呼び慣らわされてきたもので、この用語は淡路の近世文書にも登場します。沖で直接漁師から買う、あるいは瀬戸内海の西方等へまで出かけて魚を買い付け、運搬する船という意味で、出買船の活躍は、瀬戸内海漁業の発展と不可分なものでした。・・・
34頁 播磨灘周辺は、近代資本による多くの水産会社を輩出した地域であります。[河野1962]。繰り返しますが、それに付随して活魚運搬用の特殊技術をそなえたイケフネの木造船業が栄えました。明石型の名で知られましたが、とくにその造船の中心は北淡町富島や淡路町岩屋といった淡路島北部でした。淡路島南部の洲本や南淡町福良などでも木造船業はさかんであり、イケフネは造られたものの、やはり「淡路北部が優秀」との評価は、淡路島南部船大工の側にもありました。
・金柄徹『家船の民族誌―現代日本に生きる海の民―』東京大学出版会 2003
92頁 明治40年以降、帆船の代わりに汽船や発動機船が運搬船として導入されるようになったが、この過程で林兼(後の大洋漁業)・山神組(後の日本水産)などの商業資本が、運搬船の機船化と氷蔵鮮魚運搬という技術革新をもとに従来の在村商人的な塩切、活洲船に対抗し、朝鮮での支配力を広げ、巨大独占資本として成長していった。林兼の創設者中部幾次郎がハモの活魚買付を目的に発動運搬船で進出したのは1907年(明治40)であるが、2年後の1909年(明治42)には、林兼の仕込み漁船が早くも千隻を越えたといわれるまでに急成長したのである。一方、山神組が鮮魚運搬を開始したのは1912年(大正1)のことである。そして、1907年(明治40)に6隻だった機船運搬船が1911年(明治44)には19隻、1919年(大正8)には325隻となった。
・NPO法人浪速魚菜の会事務局『大阪「食」文化専門誌「魚島(櫻鯛)」特集 浮瀬No.5*』2004
特集として、6頁 島本信夫「明石鯛の復活 マダイの形態的特徴と資源の動向」、14頁 酒井亮介「大阪の風物詩 魚島の食慣習」、23頁 「素晴らしき、うおじま季節 活魚運搬船卸業・仲積船元機関長インタビュー」等は、活魚運搬船業を知る上で参考となる。
・東かがわ市歴史民俗資料館『瀬戸内海~魚類研究と養殖漁業の歴史展~』2004
28頁 生船・幸栄丸 生船は活魚専用の運搬船のことである。この幸栄丸はハマチ専門の運搬船として昭和44年から約20年間にわたり就航していた。
・印南敏秀『東和町誌 別編 島の生活誌 くらし・交流・環境*』山口県大島郡東和町 2004
806頁 河野通博氏は「瀬戸内海の活魚運搬業」で、近世の大坂を中心とした魚の流通を、次のようにかいている。
近世には瀬戸内各地から、高級魚のタイやサワラなどを、明石や淡路の活魚運搬船が大坂にはこんだ。中級魚のタコもはこんだが、近くの大坂湾や東瀬戸内にかぎられていた。西瀬戸内海のタコが大阪に運ばれるのは、活魚船が動力化した近代からである。タコはタイやサワラのように、輸送の途中で死ぬことは少なかった。そのため淡路島の北淡町富島が、タコ専門の活魚運搬船として西瀬戸内海に進した。明治末には、愛媛県や大分県、山口県は周防大島や熊毛郡に進出していた。三県をかこむ伊予灘はタコが多く、愛媛県の二神島や青島、山口県の周防大島や柳井市の平郡島ではタコ漁がさかんになる。
807頁 昭和二七、八年ころからは、富島のタコ専門のイケフネ(活魚運搬船)住吉丸が毎日のようにきた。平郡島から大阪にはこぶ途中で立ちよった。タコナワが盛んだった油宇では、一日に一トンのタコの水あげがあった。一トンのタコが買えるのは、大阪に運んだ富島の船だけだった。
油宇漁業協同組合でタコを計ってダンベ(生簀)にいれ、住吉丸がタコを積んではこんだ。生簀は一畳ほどの大きさで、多いときは一〇ほど沖につないでいた。タコを計量する漁協のタマドリが、タコが喧嘩しないよう生簀に木の枝をいれた。
807頁 東和町漁業協同組合の第二東和丸と第三東和丸 第二東和丸は明石型生船であるが、第三東和丸は舳の角度が緩やかなことから、造船地がことなる。
808頁 昭和三八年に、東和町漁業協同組合に統合して、直営のイケフネ東和丸をつくる。タコの水あげがさがり、値段も安くなっていたため、東和丸ができて住吉丸はこなくなった。
834頁 タコは、伊保田の仲買松林家のダンベ(生簀)にいれた。それを富島の住吉丸が、三日ごとにとりにきて大阪に運んだ。住吉丸は、このあたりとはちがい大きなナマセン(活魚運搬船)だった。住吉丸がこなくなり、広島県三原市糸崎に船で運び、大阪まで貨車で運んだこともあった。今は浜丸(浜本水産)が、広島市の草津市場に運んでいる。
840頁 タコの流通 藤井家がスバ(生簀)を持ち、産地仲買として市場に運んでいた。藤井家は、大波止の根元に家があった。また、淡路島の田中常次郎氏が駐在してタコをイケフネで運んだ。続いて淡路島から日野家もくるようになる。昭和二五年の統制解除までは、闇でタコを運んだこともあった。
841頁 田中氏は値立でおしきられ、平郡島から撤退する。日野家だけがのこり、生簀と駐在員をおいて一手にあつかった。
日野家は、小さなポンポン船から、大型船を新造して毎日タコをはこぶようになる。大型船にしてからは、朝鮮半島沖にもいくようになった。日野家は、タコの活魚運搬で、大きな収益をあげた。日野家の先代は「平郡に足を向けて寝るな」といっていた。そしてタコナワ組合員に、稲藁などの購入資金を貸した。・・・
同じ富島の活魚運搬業、中島家がくるようになる。中島家は、タコナワ組合員に毛布を配るなどして、契約業者を増やしていった。日野家と中島家は競争をさけ、タコナワ組合員を半分の二四軒でわけた。値立てを別々にして、高いほうにあわせた。
生簀番は、日野家は富島から、中島家は安下庄の人をやとった。日野家の生簀番は、平郡島の娘と結婚して住みついた。
842頁 昭和四〇年代に、富島の活魚運搬業者がこなくなる。柳井市や大畠町の仲買業者や、大分県の姫島や岡山県の下津井の活船運搬業者が買いにくるようになる。ただし平郡島はタコの漁獲量が多く、一軒では売りさばけず、続かなかった。
日野家の紹介で淡路島の大日水産と、山口県漁連で入札するようになる。大日水産の入札価格が高く、いつも落札した。
・倉敷市史研究会『新修倉敷市史 第六巻 近代(下)』倉敷市 2004
604頁 漁業が生業として成り立つ、重要な条件の一つは、漁獲物をいかに新鮮な状態で消費者のもとに届けるかということである。・・・昭和十年代の鮮魚運搬を示す資料を紹介する。瀬戸内海歴史民俗資料館編『本四架橋に伴う島しょ部民俗文化財調査報告(第1年次)』1981
606頁 これによれば、下津井が魚の最大の集散地であり、そして、大阪湾などの大消費地にとって鮮度が高い魚を供給できる最も西の地であった。もちろん、それは「イケブネ」(活船)という活魚運搬船の存在によって、可能になったのである。
・NPO法人浪速魚菜の会事務局『大阪「食」文化専門誌「蛸」特集 浮瀬No.9』2005
34頁 全滅した明石の蛸 何年前でしたか、明石、淡路のタコが全滅したときがありましたね。それで、大分県の姫島のタコを持ってきて放流したことがありましたが、その間、五~六年はぜんぜんダメでした。どうしてそんなことになったのかと言えば、寒波がありまして、その寒さのためにタコの子が全滅したからと言われています。・・・
同様なことは、『明石型生船調査資料集・生船写真帖』 56頁に記載されている。「昭和38年(1963年)播磨灘一帯が異常低水温で明石ダコは全滅したのではないかと思われる程激減した。熊本県天草から蛸を運んで来たことは聞いていた。兵庫県からの要請があり、大日水産(株)が天草から何回にも分けて運んできた。」・・・この時使われたのが明石型生船である。
・兵庫県淡路町「三 岩屋の生船(鮮魚運搬船)」『文化・歴史を後世に伝える 淡路町誌』2005
126頁 魚介類の豊富な大阪湾・明石海峡・播磨灘を控え、昔から漁業が盛んであった。京阪神に近く、漁獲物が潮流の関係から美味で、他地方のそれより高値に取引されていた。
戦前戦後は「生船」といわれた鮮魚運搬船も数多く運航し、地元の魚介はもちろん、遠く長崎県・高知県へも鮮魚の買い付けに往来し、大阪や神戸の市場と取引していた。
340頁 ・・・昭和に入って、漁船などに内燃機関が取り付けられるようになると、鮮魚を運搬する船も大型化され、船内に魚を生かしておく生簀を設備した「生船」が登場した。生船を所有していた鮮魚仲買業者は、岩屋の魚介類だけでなく、西は瀬戸内海の各地、壱岐・対馬・五島列島、南は徳島・高知・和歌山など西日本の各地で魚介を購入し、阪神の市場へ運搬販売していた。終戦後の統制時代から昭和三十年に至るまでは好景気であったが、トラック輸送の発達に伴い、現在は全船廃業している。
390頁 ・・・港内にも潮流が流れ込み、生魚の貯蔵も安全で都合がよかった。地元はもちろん、他地方から輸送してきた生魚をここに蓄えて、時機を見て市場に売り出す商法も盛んになった。淡路岩屋の生船の活躍については「淡路岩屋港における生船―鰯鮮魚運搬船として活躍した小型生船― 浜田幹雄さんの聞取りから」としてこの報告書で報告している。
・瀬戸内海歴史民俗資料館 2005『企画展展示解説 魚を生かす―漁具と漁師の知恵―』
大阪向け鮮魚流通模式図 魚を生かす―様々なイケス― タイを生かす タコを生かす 魚を運ぶ―魚問屋・仲買人の活躍― 運搬業の発達―無動力船から動力船へ― ボート漕ぎによる運搬 汽船による運搬 石油発動機船による運搬 養殖イケスの変遷
・森本孝『舟と港のある風景 日本の漁村・あるくみるきく』農山漁村文化協会 2006(2007第2刷)
210頁ショウヌシは港内に大きな活簀を持っていて、地元操業の漁民の釣った魚を引きとって活かしておき、それを自らの船で市場に送る人もいれば、外から来る仲買人に売る人もあった。大正元年に父がショウヌシをはじめ、後にそれを引きついだという洲崎の桑村照夫さんの話では、外から来る仲買船は淡路や六島の船が多かったという。仲買船は船の胴の間に大きな活簀を持っていて、そこに魚を活かし大阪、神戸といった大都市の市場に運んで売ったのである。他に広島の草津市場や伊予三ッ浜の市場にも沖家室の魚は運ばれていった。
・宮本常一『宮本常一 農漁村採訪録Ⅲ 兵庫県淡路島漁村・漁業調査ノート*』周防大島文化交流センター 2006
49頁 水温ト生ケ船 夏ノ暑イトキニ宇和島ノ方カラノボルトスルト、三津浜マデハ水ガツメタイ、ヒウチナダニ入ルト26-7°クライニナル。ソーナルト魚ハヨワツテクル。全速力デハシッテヌクイトコロヲヌケル。
ハコノミサキヲヌケテコンピラオキハ水ガツメタイ。小豆島ノ東ハ又ヌクウナル、27°クライニナル。江井ノセニナルト又冷クナル、20°クライ。大阪湾ニ入ルトモットモ温度ガ高イ。ソノトキ船長ハタエズ魚ヲミツメテヰナケレバナラヌ。アガッタモノハコーリニキッテオク。冬ハコーリ水ヲノガレルヨーニシテオク。日向カラ来ル場合ハ土佐沖ヲトーッテ由良ヲケイユシテ大阪ヘモッテ来ル(・・タイノ場合)。カレーハ冷イ水デアッテモ生キテヰル。
タイノハラノ大キクナッタトキ、チクダヤカンゾーニサワルトメガトビ出テシマフ。ハラニハリヲサシテクウキヲウマクヌクト又イキカワル。ソシテヒレヲマワスヨーニオヨゲバゲンキノ出テイルショーコデアル。シカシ下手ヲスルト三分ノ二ハ死ンデシマフ。
・淡路島今昔写真集刊行会『保存版 淡路島今昔写真集』樹林舎 2006
63頁 城山から眺める岩屋港 淡路市岩屋(旧淡路町)昭和20年代 城山から見下ろした岩屋港の全景。浜辺には船が上げられている。桟橋の先に見えるのは播淡連絡汽船の乗船場で、当時は待合室から乗船場まで国道を横断しなければならなかった。(提供=岩屋公民館)
岩屋港には生簀が設置され、大型の明石型生船が接岸している。また、大阪湾で活躍していた鰯鮮魚運搬船が艫付けで接岸している。
・『三原市史 第三巻 通史編三・各説編』三原市役所 2007
135頁 昭和七年(一九三二)には漁業不振の打開策として、京阪神方面へ活魚輸送を計画し、第一回の試みとして、糸崎仕立て午前六時五〇分の列車で、タイ・スズキ・ハモ・エビなどを輸送した。タイは糸崎では一〇貫目当り三二円、京都では三五円で取引きされ、運賃などで二~三割高くなるものの、活魚輸送への期待は大きかった。(中国新聞昭七・六・二八)。昭和十一年(一九三六)七月には、瀬戸内海産のタコが糸崎から鮮魚列車で京阪神に送られた。糸崎水産市場だけでも毎日六〇〇~七〇〇貫目の鮮魚が輸送されて、年四〇~五〇万円にのぼり、隣接地に売り捌かれるものを合わせると、年額一〇〇万円近くになっている(中国新聞昭一一・七・二三)。
・宮本常一『宮本常一 農漁村採訪録Ⅵ 対馬調査ノート(1)』周防大島文化交流センター 2007
115頁 生魚運搬 帆船時代ノ生魚ハトイヤ業ヲヤッテヰルモノガ持ツテヰテ、ハカタ下関へ持ツテイツタ。順風デ3日デ博多へ行ツタ。ハン船デハコブトキニハ、魚ノハラワタヲトリカラダノ全体ニツケ、アギヲキツテオク。之ヲチギリトイウ。スルトハカタヘ持ツテイツテモアラウト生々シテイタ。夏ニハ、ハラヲワッテシオヲシテ出シタ。キカイ船ニナッタノハ大正10年ゴロカラウンパン船ヲ持ツテヰルモノハ、モトリョーシデアッタノガ船ヲモツヨーニナッタ。ハジメハ講デクミタテ丶船ヲカウタ。ザイサンノ出来タ母体ハ講デアッタ。
116頁 生魚運搬 長谷合(ハセアイ)氏、権堂亀次郎氏(ツツノ人)ガ生魚ヲウンパンシテヰ358ル。市丸氏、大谷氏モウンパン船ヲ軍ニチョーハツサレテ戦後ノコッタノハ1ソウデアッタ。
154頁 魚ノ運搬 タイヲトルトシオニキル(ハラヲワツテ)三枚ニオロシテ、フネノドウノマニ、ソコニツメテオク。タイ1万ヲイレルコトガ出来ル。ソレヲハカタヘモツテイツタ。コレハ冬ノコト。夏ハシオヲツケル。1匹(1〆-800目)ニ三合ノシオヲツケル。ナマノママハコブヨーニナツタノハ明治35年ゴロデアツタ。魚ヲツッテ、ソコニタケノスヲオキ魚ヲタテ、又スヲオイテ三段クライニシテモツテ来タ。2、3日ツルトモツテ来タ。ソノトキジウセン(カタフネ)デ1方ガハカタ、フクオカヘモツテ行ツタ(チョーセンヘユクヨーニナッテカラ)。コノオキデツッテヰタトキハ、トツタ魚ヲゾーキンデフイテ、スデタテタ。ウンチンデヤトウテ、ウロ船ヲヤトウテトイヤガハカタノ方ニツンダ。
157頁 生魚船 明治40年ゴロカラナマウオブネヲツクリ、フクオカマデ出シタ。中ニハ大阪マデ出シタモノモアル。但シ魚ヲツッテイカスノハ、コノオキデツッタモノデアル。イカシタ魚ガトクニナル冬ノイオハイカスコトハナイ。ウオヲタテタマ丶持ツテ来タ。
・『焼津市史 図説・年表』焼津市 2008
188頁 図は昭和三〇年代に活躍した焼津のカツオ船「第一二東洋丸」を復元したものである。東洋丸は一二五トンのカツオ一本釣木造漁船で、一九五〇年(昭和二五)に清水の昭和造船で建造された。・・・
中央の甲板下には魚艙が仕切られ、一二〇トン級のカツオ船の場合、「三カメ(魚艙)、四ハラ(腹)、二ホータン(頬)という。これは中央縦一列に三艙、両脇に二つずつ四艙(または六艙)、前方左右にも一つずつ、合わせて九艙あることを表わしている。「三カメ」には船底に換水孔があり、海水を循環させ、餌のイワシを生かして運ぶ。餌を使い切ると栓をして排水し、今度は氷を入れてカツオの保冷庫となる。
第12東洋丸のイラストには、魚艙内部のようすが具体的に描かれ、直径15cm程度の船底換水孔を若い船員が潜って栓をする姿が描かれており、非常に参考になる。
・酒井亮介『雑喉場魚市場史 大阪の生魚流通*』成山堂書店 2008
まえがき 大阪は魚の美味しい街である。大消費地でありながら好漁場に近く、漁獲後一定の時間が経過した魚を、「美味しく食べられること」で知られていた。漁場で漁獲したものを周辺の湊で一定期間活込み、余分な脂肪分を消化させて、「活魚船」や「生魚船」で泳がせながら、大阪の雑喉場の浜まで運んでいたのである。近世以前から生魚は、大阪湾や大阪湾につながる瀬戸内海、紀伊水道とその沿岸、周辺海域から生魚船で大阪まで運ばれてきた。
121頁 ・・・それでは、海魚がどのような方法で船場や西船場まで運ばれて来たのか。中世まではあまり変わらないが、近世になると和船の構造から見て「イケフネ」という帆船に「生間」という魚艙を設けて魚を泳がせながら運んでいた。これは、出土した魚の遺物から判然できる。この方法は、昭和四〇年(一九六五)まで続いていた。
生間とは、舟が進行するにつれ通水孔から海水が環流するようにした魚の収容艙のことである。このイケフネで産地から魚を泳がせながら運び、大坂・安治川河口の天保山沖に近づくと、生間の孔に木栓をして川水の侵入を防ぎ、一尾一尾取り上げて「手鉤の一本〆」で活〆にし、血抜きの作業をしながら一時間ほどかけて上流の雑喉場まで運んだ。その上で活〆にした魚をセリにかけ、一定の時間がたって魚肉が成熟してから食味する。この方法が大坂の昔からの生魚の輸送と生魚食材の調理前処理方法であった。・・・
260頁 中部幾次郎の登場 一方、漁場が瀬戸内海から朝鮮海峡、五島沖、東シナ海へと拡大していくにつれ、漁獲物を大消費地である京阪神に輸送する方法として、艪漕船・帆船から機動力のある動力運搬船が考えられるようになった。兵庫県明石・林崎漁港の中部幾次郎もその一人で、第五回内国勧業博覧会の時、大阪市内の堀川を運航していた巡航船を眺め、この船のエンジンを何とか魚の運搬船に搭載できないかと思案していた。・・・
・・・幾次郎は、明石からの魚荷を運ぶ帆船による生魚船が、天候次第で、荒天には運航不能であったことから、運搬船の動力化を何としても成功させたいと努力していた。第五回内国勧業博覧会の二年後に、明石の小杉造船所で建造した生魚船に、大阪の清水鉄工所が製作した石油発動機を同じく大阪の金指造船所で搭載して就航したが、これが日本最初の石油発動機付鮮魚運搬船「新生丸」(十二トン・八馬力)とされている。この運搬船の建造には綿末商店の資金援助があった。
281頁 昭和期最後の活魚運搬船 大正期から構造的にはほとんど変わっていない。(日野逸夫氏提供)船首のオモテカザリが一富士二鷹三茄子の模様となっているので、大日水産株式会社所属の生船。活魚運搬船構造図(日野逸夫氏提供)は大日水産株式会社富島造船所で昭和54年7月に完成した第8大丸。
284頁 雑喉場浜に積み上げられたトロ箱(『大阪魚市場調査』より) 岸壁に接岸した3隻の活魚運搬船。
・濱田武士『弁甲材の経済と産業システム~国内唯一のブランド造船材の盛衰、昭和四十年代の姿~』日南地区木材協会会長川越耐介 2009
「明石型生船の造船―淡路島・最後の船大工の聞き取り調査から―」『明石型生船調査資料集・生船写真帖』109頁には、大日水産富島造船所では明石型生船の外板には宮崎県日向産の弁甲材を使用していた。その弁甲材は岡山県牛窓の高祖木材店から仕入れていた。」産地である飫肥において弁甲材の委託買い付けを行う代行業者である島田産業株式会社(製材業者でもあった)は岡山県の高祖木材店などの代行業を行っていたことから、弁甲材の入手経路は島田産業株式会社(代行業者)→高祖木材店(消費地問屋)→大日水産富島造船所(造船所)となる。
・東かがわ市歴史民俗資料館『古写真でみる東かがわ~その2~ 東かがわ市歴史民俗資料館叢書 4』2010
49頁 122 ハマチの出荷風景 昭和28~29年(1952~53)/東かがわ市引田出荷のため、生船の安戸丸にハマチを積み込んでいる作業風景。このころは10月から11月ごろに出荷していた。
・武田尚子『海の道の三〇〇年 近現代日本の縮図 瀬戸内海』河出書房新社 2011
52頁 鯛網を経営していた麻網問屋の一人は、1818年(文政元)に、町集落の往来に石造りの記念塔を建てた。鯛網のもうけの大きさを象徴するような、大きな塔が現在も道端に立っている。町集落には水揚げした鯛を、いけす付きの運搬船に載せて、生きたまま大坂の市場へ運ぶ生船問屋もいた。・・・
・小藤政子『大阪の漁業と暮らし―海に生きる人々の漁撈生活―』初芝文庫 2011
166頁 こっちゃの方へ打瀬の船と巾着の船とな、ほて、ナマセン(生船で、獲った鰯を生のままで積んでくる船のこと)、鰯つむ船やら、いっぱい寄せて置いてあったぜェ。昔やったら、砂浜へ船つけてあったんを、小っちゃい舟でセドって来てな、ほで、イリ屋が買うてきて炒ったんを浜へ一杯干してあったな。昔はいり屋があって、この浜へみな干してあったわ。(平成二十三年七月三十日)
・酒井亮介 2011『市場史研究会秋季大会・大阪大学 活魚船輸送による天然マダイの活〆文化 大阪の魚はなぜ旨いのか』社団法人大阪市中央卸売市場本場市場協会資料室
はじめに Ⅰ瀬戸内海から雑喉場魚市場まで Ⅱ瀬戸内海の天然マダイと大阪との関わり 近世期のマダイの取扱 1600年代 ①船場地域の旧魚市場の遺跡 ②『日本永代蔵』井原西鶴 1680年代 ③『摂津名所図会』秋里籬島 1790年代 (2)明治期のマダイの取扱記録 1880年代 ①「鹿の瀬」のマダイの漁場の開拓 ②雑喉場魚市場の市況 (3)大阪市中央卸売市場開業後の記録 1930年代 (4)戦時統制経済下の経緯 1940年代 (5)戦後期の記録 1950年以降 (6)活魚トラックの登場 1970年頃 (7)間近のマダイの取扱記録 2011年 Ⅲ活魚船輸送と魚島 (1)「魚島季節」と海水温 (2)鯛縛網漁法の実態 ①活魚船 ②活〆について ③活〆の仕方と旨みの成分 (3)近世・近代の大阪の商家の慣習 (4)明治期の輸送船の動力化の発展 (5)活魚船の大阪への輸送の終焉 おわりに 参考文献
・宮本常一『宮本常一 農漁村採訪録Ⅻ 淡路沼島調査ノート』周防大島文化交流センター 2011
47頁 ナマ船 「ナマ船」ノ出来タノガ、山野トイウ人デ、明治40年ゴロデアッタ。土佐、チョーセンノ方へナマウオヲツミニイッタモノデアッタ。デガイハイズミ路ヲオシテイッタモノデアル。
・酒井亮介「桜鯛と魚島季節 活魚船輸送から活魚トラックへ」『水産振興 第536号*』一般財団法人東京水産振興会 2012
42頁 マダイを積む生間には、船尾側から大間、二の間、三の間があり、船首側の氷蔵室に三トンの氷を積んでいる。泳がしながら活かして運ぶが、輸送中に弱ったマダイは〆めて、すぐに魚箱に立て氷詰にする。
船首側には鱧や蛸などを積む。活魚船の生簀はすべて開口し海水を環流させている。マダイを積込むには、他の浜で鱧や蛸を積込んだ後に、二神島(愛媛県中島町)に入港し、マダイを積込み大阪に向けて出航する。マダイを船尾に積むのは時化た時に生間内の海水の動揺が最も少なく済むからである。
43頁 ・・・活魚船の乗組員たちは、この高灯籠の灯が海上遠くほのかに見えはじめると、船の生間の開口部に栓をして、安治川の川水が入らないようにして一尾づつ〆めていく。作業を始めてから安治川を遡上して雑喉場の濱に着くまでの間に、積み込んだマダイの活〆作業を終える。
48頁 桃山時代以来、大阪に天然マダイが「艪式活魚船」で輸送されてきたが、明治期に入ると、輸送船の動力化が始まるが、その間の実態について紹介する。
河野通博氏の『漁場用益形態の研究』(一九六二年)によれば、淡路島の机浦には明治五年に五七戸の回船業者が存在していた。そのうち鮮魚運搬船業者は二五戸で六三%が従事していた。淡路島周辺の漁業者や関連の業者は、明石海峡に近い「鹿の瀬」で漁獲した〈明石鯛〉を大阪まで運搬している。
49頁 日清戦争頃(明治二七~二八〈一八九四~九五〉年)から活魚船はますます増加し、三〇石程度の活魚船が約三〇艘、魚島季節のマダイ積みに通っていた。
朝鮮海域から野〆物(氷〆物)の輸送が本格化したのは、やはり日清戦争以後のことであった。明石と沼島の運搬船業者が熱心に押送船で鳴門海峡や近辺の漁場の漁獲物を大阪の雑喉場魚市場まで輸送していた。
朝鮮海域からの野〆物運搬競争の中から明治末年(一九一二)に動力附運搬船=巡航船が生まれている。明治三〇(一八九七)年代の後半に動力化への過渡期ともいえる時期があった。いわゆる「ボート漕ぎ」といわれた運搬方法を採用した時期である。
50頁 ボート漕ぎとはボートと呼ばれていた内火艦型(小蒸気船)の小型汽船によって数隻の無動力活魚船を曳航する運搬方法であった。普通ボート一隻に活魚船七~八隻を曳航した。
ボート漕ぎになると、活魚船の行動範囲も拡大し、燧灘を越えて愛媛県越智郡大島の宮窪、広島県御調郡因島の土庄等の芸予諸島東部まで行動範囲が拡がっている。しかし地域的拡大があったとはいえ、当時の岡山県倉敷市下津井が最大の集荷地であった。ボート漕ぎによると、下津井―淡路島・富島間の所要時間七~八時間であったから、下津井を午前九時~一〇時頃出港して、富島に午後四~五時頃に到着し、しばらく待機した後、時刻を見計らって富島を午後六~七時頃出て、今度は独航で雑喉場に向った。
51頁 ボート漕ぎ時代は無動力船から動力船への転化の過渡期であって、中小運搬船業者はしばらくの間は、ボートの曳航力に頼らなければならたかったが、大規模営業者は間もなく巡航船と呼ばれた動力附運搬船の建造を開始し、活魚船運搬の快速化を図った。
動力附鮮魚運搬船の登場は、鮮魚運搬船業者の中から日本最大の資本漁業である大洋漁業(旧林兼)現マルハニチロと日本水産(旧山神組)が出現する契機になって、日本漁業史上画期的な意義をもつものであるが、一方、鮮魚運搬船業者の立場から見れば、従来の独立経営の鮮魚運搬船業者はその過程で自主性を喪失し、没落するものも多数出てきた。
52頁 鮮魚運搬の発展にとって重要なことは、昭和六(一九三二)年の満州事変から始まった一五年戦争の影響である。昭和戦前期に大きくなっていた出買業者のクラスは、日中戦争の揚子江遡江作戦以後、大型鮮魚運搬船の大部分は徴用になる。
・・・戦争の激化に伴い輸送船の沈没で大型鮮魚運搬船の数を減少させたが、換わって瀬戸内海の鮮魚運搬に活躍し始めたのはその次の出買クラスである。外洋航行には適しないため幸い徴用を免れた小型運搬船の出買業者たちは、大型船の出買業者壊滅の空白を埋めるため、活動範囲を拡大して、豊後水道まで進出し、一部は関門海峡を越えて長崎の平戸、五島列島まで延長している。
53頁 昭和三八(一九六三)年一月、国道四三号線が神戸市から大阪市の此花区春日出まで高規格道路・第二阪神国道が開通して以来、長年にわたって播磨灘、瀬戸内海一帯、冬季は長崎県の壱岐・対馬、五島列島から天然マダイを大阪本場に運んでいた出買船の鮮魚運搬船業者が、神戸垂水漁港から活魚トラックで陸上を輸送するようになり、古来からの伝統のある活魚船輸送は大阪へは陸上輸送に切替わった。
・竹国友康『ハモの旅、メンタイの夢 日韓さかな交流史』岩波書店 2013
206頁 『韓国水産誌』(一九〇九年)に、「活州船」の記述がある。主に帆船で活魚の運搬がおこなわれていた時期の記録である。
活州船で輸送する魚は、網で獲った魚は損傷しやすく運搬の途中で死んでしまうものが多いから、一本釣りか延縄による漁獲物を運んだ。漁船が出漁している漁場近くの湾内に活州船を停泊させておき、漁船が獲った活魚はまず湾内に設置した畜養用の生け簀籠(「とめば」ともいう)にいったん移しておく。・・・生け簀籠に畜養している魚が適当な数になれば、停泊中の活州船に移し替え日本へと輸送する。初期の運搬船は帆船だったので、集荷地のひとつ、麗水(全羅南道)から大阪までは、途中潮待ちや風待ちなどのためおよそ二〇日を要したという。しかし、動力運搬船となってからは輸送時間が一気に短縮され、所要日数は三日くらいになった。
207頁 活魚運搬船に関してもうひとつの資料を見てみよう。その資料は「活魚輸送試験」と題された朝鮮総督府水産試験場による報告である(『朝鮮之水産』四一号 一九二七年)。この輸送試験は、「岡山村」の南浦漁業協同組合が所有する活魚運搬船(二〇トン、五〇馬力)を利用し、船内の水槽に給水装置を付けることによって活魚の斃死率を減少させることを目としておこなわれた。この試験報告書を読むと、すでに運搬船も動力船になった一九二〇年代後半に、どういうかたちで活魚が日本へ輸送されていたかがよくわかる。
活魚運搬船には、船倉に左右二列三個ずつ、計六つの水槽が設置されていた。ひとつの水槽には二一五〇キロ、六槽全部で約一三トン近くの活魚を積むことができる。・・・途中、統営下関間において、約三時間にわたる故障と、下関港および山口県柳井港に各一時間余の寄港をなし、約六十時間を要して統営より神戸に到着し」た。船舶の故障などの問題がなければ、統営と神戸間は、60時間弱、約二日半くらいかかっていたことになる。・・・
207頁 図54 南浦漁業協同組合の活魚運搬船『朝鮮殖産銀行十年志』(1928年)による。南浦漁協は朝鮮殖産銀行などから数次にわたる融資を受けて活魚運搬事業を拡大していった。
『十年志』では水産分野での成功例として紹介されている。
複数の活魚運搬船が停泊している姿が撮影されている。
・神奈川大学日本常民文化研究所『神奈川大学日本常民文化研究所共同研究「瀬戸内海の歴史民俗」島の写真帖vol.1 二神島写真資料集』2015
91頁 祭り 476、477には二神港に停泊する活魚運搬船。205頁漁業1153~1157は矢野雅俊家の活魚運搬船、206頁1159の漁船登録番号EH-2836は愛媛県船籍、207頁1164は浮き桟橋に接岸している活魚運搬船、209頁1177は常盛丸。229頁船1284~1303は二神港に停泊する活魚運搬船。236頁二神島の風景1325は砂浜に上架された活魚運搬船、1326の活魚運搬船の傍には活生簀、238頁1338は絵画に描かれた活魚運搬船。
249頁 魚類は二神島で取れるもののほか、近辺の津和地島・中島や山口県の周防大島からも買い付けた。運搬船も専用のものを3隻保有していた。船の名は「常盛丸」、常一氏の名と商売が盛んにという気持ちを込めて付けたものであろうことが伺える。集めた魚類は、種類ごとに大きさごとに仕分けをして箱詰めをした。そして、広島の草津港および糸崎港、松山の三津浜港の3か所に魚類を市場まで運んだ。糸崎港へは昼過ぎに島を出て夕方くらいに入り、貨物列車で京阪神に運ばれた。
・宮本常一『私の日本地図 12 瀬戸内海Ⅳ 備讃の瀬戸付近【宮本常一著作集別集】』未來社 2015 原本は、昭和四八年七月一日、同友館刊『私の日本地図 12 瀬戸内海Ⅳ 備讃の瀬戸付近』
188頁 この島でとれる魚にはタイ・サワラ・スズキのような高級魚が多く、それを船で活かして大阪へ運んだのが、属島の六島の人びとであった。六島はそのために発展して、小さい島だが二〇〇戸をこえるほどの家があり、真鍋の魚をはこんだばかりでなく、冬分になると西瀬戸内海の島々にも活船を出して、主としてタイを大阪へ運んだのであった。西瀬戸内海の漁浦で六島の活船のことを記憶している古老はまだ居る。
189頁 冬になると帆前船が活簀をいくつもひいてやって来る。それに活魚をいれて、西風の強い日に東へひいてゆく。六島の活船がやって来ると、正月の近いことを知った。
春になると活簀をひかないで一艘だけでやって来る。大阪まで一気に乗りきるほどの風が吹かないから活簀をひいてゆくのは困難で、船の底に穴をあけて、船の中に活け間をつくり、そこにタイやチヌなどの魚を活かして大阪までもってゆく。活け間の水がかわらないと魚はすぐ死んでしまう。それで船をよくゆれるようにして、穴から海水が出たりはいったりするように工夫した。そのため帆柱の中間に小さい俵―中に砂の入ったもの―を吊りさげていた。そして船の重心を高くして船がよくゆれるようにした。この俵をヒョーダマとかフラセとかいっていた。私の少年の頃までは、このヒョーダマをつけた活船が郷里の周防大島あたりまで来ていたのをおぼえている。六島の船が多かったという。
190頁 私も後に活船にのせてもらって島わたりをしたことがあるが、その頃にはもうポンポン船になっていた。活船が多かったのは六島のほかに明石の林崎、淡路の富島、下津井などがあった。
・神奈川大学日本常民文化研究所『神奈川大学日本常民文化研究所共同研究「瀬戸内海の歴史民俗」島の写真帖vol.2 二神島写真資料集』2016
207頁 船1155には二神港に停泊する渡海船孝栄丸の後ろに活魚運搬船が停泊。
・東かがわ市歴史民俗資料館『東かがわ市歴史民俗資料館年報・紀要第13号(平成27年度)』2016 「引田の船大工と漁業(補遺)」
25頁 大共丸46尺 昭和27年4月15日と旭成丸 引田港にて進水50尺幅8尺5寸 焼玉エンジン 50馬力 昭和27年撮影が掲載されている。船の形状から明石型生船。
・神奈川大学日本常民文化研究所『神奈川大学日本常民文化研究所共同研究「瀬戸内海の歴史民俗」二神島 葬送と墓の民俗 資料編』2017
78頁 聞書き資料 聞書き 10 矢野家の商売 ・・・ゴチ網いうてタイ専門のゴチ網ができましたからタイが多かったですね。組合から受けてね、うちが魚を買い取って市場まで運んで持って行ったんです。仲買というのかね。広島県の三原の近くに糸崎港というのがあるんです。あそこで魚を締めて荷造りして、そこから神戸、大阪、京都の市場に行ったんです。うちは船で糸崎まで魚を生かして運んだんです。昭和40年(1965)から50年(1975)はトラックもないそういう時代だったんです。大きい船3バイあって、糸崎までこっちから生船で持っていくんですよ。・・・
・金井清「明石型生船~シリーズ①最後の木造活魚運搬船」『税のたより かけはしvol.93』公益社団法人明石納税協会 明石納税貯蓄組合連合会 2017.7
・金井清「明石型生船~シリーズ②明石型生船の歴史」『税のたより かけはしvol.94』公益社団法人明石納税協会 明石納税貯蓄組合連合会 2017.10
・金井清「明石型生船~シリーズ③明石型生船の風景」『税のたより かけはしvol.95』公益社団法人明石納税協会 明石納税貯蓄組合連合会 2018.1
・金井清「明石型生船~シリーズ④明石型生船の活躍」『税のたより かけはしvol.96』公益社団法人明石納税協会 明石納税貯蓄組合連合会 2018.3
・宮本常一『宮本常一 瀬戸内文化誌』八坂書房 2018
79頁 こうした出買船は、京大阪をひかえた淡路や明石のあたりに特に多かった。そしてそれが大阪中心の魚市場と結束して、殆ど瀬戸内海全般にわたって買いあさっていた。
上方には大きな魚市場が三つあった。堺、大坂、尼崎がこれである。その中でも尼崎が最も古くから栄えた市場であった。ここは淀川の分流三国川(神崎川)に接しており、中世にはこの川が淀川の本流のようになっていて、京へのぼる船はみなこの川を利用した。そこでその川口に近い所に、尼崎の発達したのは当然のことで、そこにまた魚市場ができ、その魚を京の魚屋に運んで、市中に販売した。そのために尼崎には質のよい魚が多くもたらされた。質のよい魚とは釣った魚である。網でひいたり突いたりした魚はいたみ易い。
81頁 ・・・大坂の魚市場が淡路の出買船たちと手をつなぐに至ってから、次第に瀬戸内海全域に根を張ってくる。そして出買船にもブエンダテでないものがあらわれるようになってきた。即ち魚を生かしておく生簀を帆船にひかせる方法がこれで、いわば海の貨物列車である。これには風が相当強くなければならぬ。その強風の中を命がけで三つも四つもの生簀(船の形をしていた)を曳いて行く人たちには、讃岐の六島の者が多かった。晩秋、アナジの風(西北の風)の吹く頃になると、生簀をひいた出買船が浦々を訪れてきた。そうしてこれはポンポン船の出現まで続いた。(初出「月刊中国」昭和二十一年十・十一/十二月)
342頁 ところが、タイは多く生きたままを輸送することになる。この船を活け船または生船などと言った。明石の林崎・淡路の富島・備中小田諸島の六島に多かった。そして、東瀬戸内海の魚を大阪へ運んだのだが、冬になると西瀬戸内海のタイも大阪へ運んだ。この活け船はイサバと同じほどの大きさのものであったが、西瀬戸内海では小型の活け船もあった。別府・草津・三津浜などの市場へ運ぶもので、距離も短く、市場も近かったためかと思われる。活け船は、胴の間という船の中央部をいくつにも仕切り、船底から海水がはいるようにしておいて、そこに魚を活かしたまま船を走らせる。そのとき活け間の水がかわらないと水がよごれて魚が死んでしまうので、水がかわるように船をたぶらせたのである。(初出『広島県史』民俗編 広島県 昭和五十三年一月)
・神谷丹路『近代日本漁民の朝鮮出漁―朝鮮南部の漁業根拠地 長承浦・羅老島・方魚津を中心に*』新幹社 2018
213頁 兵庫県明石の鮮魚運搬業中部幾次郎(屋号・林兼)は一九〇五年十月に石油発動機船新生丸(一二トン、八馬力)を建造した。小富士丸に比べてはるかに小型の運搬船だった。新生丸は、船長一四メートル、船幅三メートル、速力六ノット、和船仕様、生け簀装置を備え、帆走もできるという、在来の帆船型運搬船との折衷様式であった。中部幾次郎は、長年、在来型運搬船で瀬戸内海の鮮魚を大阪などに運ぶ営業を行ってきたが、無動力船なので、風があれば帆走するが、風がなければ櫓こぎか浜曳きであった。漁獲物は、鮮度が市場価格を大きく左右するので、漁場と市場を迅速に結ぶための運搬船のスピード化、すなわち動力化は、鮮魚運搬船業界の喫緊の課題だったが、政府の法改正と日露戦争中の好景気に押され、運搬船の動力化が始まった。
214頁 中部幾次郎は瀬戸内海での動力運搬船新生丸の成功をもとに、日本海側の島根県美保関まで魚買いに出動し、日本海の荒海の経験も積んだ。その経験をもとに、さらにその翌年一九〇七年春、香川県小田村の鮮魚運搬業者和田専太郎に導かれ、初めて朝鮮沿岸漁場へと出動した。最初は目指した南岸より北方の慶尚南道九竜浦についたようだが、岸伝いに南下し、南岸のハモ漁業にわく慶尚南道蛇梁島へ向かった。当時、日本漁民から「サラン島」と呼ばれていたハモ漁業の根拠地の一つである。新生丸は、ハモの活魚を生簀装置に積み込むと、休む事なくその足で下関へとって返した。南岸の漁場から昼夜兼行、運搬船を走らせると、下関までおよそ二五、六時間、大阪まで遅くとも四日足らずで着いた。従来型の無動力の帆船の活洲船では、朝鮮南岸から下関まで三日、大阪まで順風で一週間、悪天候にあえば二〇日もかかっていたので、大幅に時間短縮された。
215頁 新生丸は一九〇七年当初は蛇梁島を根拠としたが、その翌年一九〇八年には根拠地をさらに西の羅老島へ移した。この時期、羅老島は、釜山、麗水、統営、長承浦、方魚津などとともに、日本の鮮魚仲買業者の運搬船の根拠地として大いに賑わうことになった。
235頁 中部幾次郎は、一九〇七年に初めて朝鮮へ出動したときは慶尚南道蛇梁島を根拠にしたが、翌一九〇八年には、西の全羅南道の羅老島鎗浦にやってきた。彼は瀬戸内海で活動していたころから、岡山や香川の漁業者や鮮魚運搬業者とは関係が深く、朝鮮へ出動の当初から、香川県小田村、津田町の出漁者のハモ、サワラを買い付けては大いに発展した。
236頁 また一九〇九には、二五馬力の第二新生丸を建造し、さらに一九一二年頃には六〇馬力の大型エンジンを搭載した第五新生丸や八〇馬力の海洋丸まで建造した。一方、運搬船の動力化で運送時間が短縮されたことに伴い、鮮魚の氷蔵運搬が始まるが、他の運搬業者は、「植民地的環境での荒稼ぎ」という風潮が強く、質より量という運送方法で、氷は大きな氷柱のままで魚は船艙内にバラ積み状態だった。たが、幾次郎は質を重視し、現地で魚を箱詰めし、氷を細かく砕いてその上にかぶせる方法を案出した。今も使用されている〈トロ箱〉方式である。これは冷蔵効果が高く、魚の傷みも少なく、荷揚げにも便利だった。こうして林兼組の魚は鮮度がいいと評判になり、市価の二、三割高で売れたという。一九一五、一六年には、林兼の仕込み漁船は、一〇〇〇隻を超える。幾次郎は、朝鮮の魚を買いまくり、昼夜兼行、自慢の動力運搬船を日本の消費地と朝鮮漁場を休みなく走らせた。
299頁 中部幾次郎は、一九〇九年には第二新生丸(二五馬力)を建造したが、この年、すでに林兼組の第一、第二新生丸と仕込み関係を結ぶ漁船は、二〇〇隻以上に達した。動力運搬船の登場は、日本漁業者の朝鮮沿岸漁業を大きく変化させたのである。小漁民は、漁期に先立ち、漁網の修理代、漁期中の米代、留守中の家族の生活費などの工面に苦労していたので、前貸しを行ってくれる運搬船業者のもとに、しだいに吸い寄せられていった。当初、鮮魚買い付け運搬船業者は、林兼組のほかにも、有漁組、小田組、山神組などが競っていたが、林兼組が群を抜き、一九一五、一六年には、林兼組の仕込み漁船は、朝鮮沿海全域に一〇〇〇隻を超える大勢力になった。
兵庫県明石出身の中部幾次郎の朝鮮出業について知る上で重要な資料。
・神奈川大学日本常民文化研究所『神奈川大学日本常民文化研究所共同研究「瀬戸内海の歴史民俗」島の写真帖vol.4 二神島写真資料集』2018
146頁 暮らしの一齣 798 中央男性の右後ろに二隻の活魚運搬船
154頁 家 844 港に二隻の活魚運搬船
163頁 漁業 895 鯛生簀に接岸しているEH2-2854愛媛船籍の活魚運搬船
165頁 漁業 904 生簀に接岸した活魚運搬船常盛丸が撮影されている。
・明石市立図書館「明石型生船ってなに?」『図書館ニュース プレスプラスあ』No.493 2018
・片山俊夫「中部幾次郎~明石から朝鮮へ~」明石型生船研究会発表資料 2018.09.24
1.銅像と石碑が語るもの 2.「林兼」の誕生とその発展 ①明石における鮮魚仲買運搬業 ②発展の契機 3.日本漁業の「朝鮮」進出と「林兼」の発展 ①日清・日露戦争と日本漁業「通漁」から「移住」へ ②「林兼」の動き ③「林兼」の社会貢献 4.「中部幾次郎」フィールドワーク ①景観に歴史を読む ②在朝日本人の聞き取り調査から 参考文献
・川元克幸「生船の動力 焼玉発動機の出現」明石型生船研究会発表資料 2018.11.18
漁船用として使われた発動機 吸入瓦斯機関 石油発動機(電気点火式) 焼玉機関(注水式と無水式) ディーゼル機関 焼玉機関とは・・・ 漁船への発動機搭載の歴史(1)(2) 全国津々浦々で生産された焼玉機関 明石は焼玉機関の一大生産地 船型の変化(私的考察)
・山本幸二「木下鐵工所の略史(初代木下吉左衛門を中心に)」明石型生船研究会発表資料 2018.11.18
・増崎勝敏『現代漁業民俗論 漁業者の生活誌とライフヒストリー研究』筑波書房 2019
154頁 イワシを漁獲するとその目印に網船にハタ(ノボリともいう:大漁旗)を立てた。これを見たイリヤ(イリコ加工業者)のナマセン(運搬船)は網船に近づいてゆき、海上で直接イワシを買い付けた。これをデガイ(出買い)といった。各網船は他船と競い合って、いち早くハタを立てようとした。イリヤは決まった漁業経営体から買い付けを行う場合があり、1漁撈体につき、6、7軒が契約を結んでいた。この特定のイリヤのナマセンを、ツキブネといった。漁獲物の販売がツキブネで賄える場合は、ハタを立てなかった。漁獲物の購入時は「巾着組合」の焼印を押した4貫目の升で量った。この升1杯でトロバコ1つに相当した。決済はツキブネにはつけ払い、他には現金で行った。
・明石市立図書館『生船研究会・あかし市民図書館ふるさと資料室共同研究 明石型生船調査資料集・生船写真帖*』2019
昆政明【書籍紹介】「明石型生船調査資料集・生船写真帖」『民具マンスリー 第53巻1号』神奈川大学日本常民文化研究所 2020
凡例 明石型生船事調―まえがきとして― 明石型生船絵葉書に描かれた明石型生船 明石型生船の魅力 中部幾次郎と生魚運搬船 木下吉左衛門と明石型生魚運搬船 生船の動力焼玉 発動機の出現 淡路島富島の生船(なません=活魚運搬船)の推移 明石型生船の造船―淡路島・最後の船大工の聞き取り調査から― 付論 日野逸夫氏が書き残した「活魚船史」 明石型生船写真帳その1―瀬戸内海で活躍した生船資料を中心に明石型生船写真帳その2―日野逸夫氏の造船資料を中心に ―明石型生船関係文献目録 謝辞
・金井清『明石発動機工作所 百年史*』株式会社明石発動機工作所 2020
76頁 明石型生船 明石港は生船(活魚運搬船)のメッカで昔は焼玉エンジンで動いていました。戦前は朝鮮方面に中部幾次郎の林兼や富島水産の基地があり沢山の日本人がいたようです。弊社(明石発動機工作所)もこの方面に出荷していたと聞いています。明石港の入り口付近に製氷所があり毎日生船に氷を一杯積み込んでいました。鰯を積んでいたのでしょう。生船は大型の木造船でそのころは二〇屯、一七米、五〇馬力が多かったようです。明石で生まれ一目でわかる独特の美しい姿は明石型と呼ばれ瀬戸内海、九州で活躍していました。明石の宗田造船所でも盛んに明石型を作っていました。そこへ発動機を持って行ったとききました。淡路岩屋や富島の造船所が明石型を作るのが上手ということでした。四国の香川、愛媛でも作っていました。
28頁 昭和30年 岩屋神社と東戎町、新浜界隈右上の赤丸は明石発動機製作所宗田造船所の前に明石型生船が浮かんでいます
33頁 昭和34年 大黒橋 明石港奥船溜まりの明石型生船
76頁 明石型生船 第一住吉丸「昭和34年4月1日 大阪魚市場(株)の前岸壁」安治川下り
142頁 明石港へ入る最後の明石型生船「第拾壱盛漁丸」平成28年7月など明石型生船の写真が掲載
143頁 番外編 10 明石型生船 金井清
明石型生船 最後の木造鮮魚運搬船 「明石型生船」という船を知っていますか 明石港の西側 明石浦界隈 明石型生船の歴史 明石型生船のデザイン 「明石型生船」の動力 焼玉発動機
・生船研究会『最後の明石型生船第拾壱盛漁丸*』2020
はじめに 第拾壱盛漁丸の諸元 ①明石入港の第拾壱盛漁丸 ②母港 大分県佐伯市蒲江浦の第拾壱盛漁丸 ③第拾壱盛漁丸撮影記 ④第拾壱盛漁丸の航跡 ⑤第拾壱盛漁丸のキセキ ⑥唐草文様 ⑦明石型生船の誕生と変遷 7-1 明石型生船の誕生 7-2 明石型生船の特徴 7-3 明石型生船と明石の発動機産業 7-4 懐かしい明石型生船 ⑧明石型生船模型 ⑨日本の木造船 ⑩謝辞 編集後記
・家戸敬太郎『マダイの科学 シリーズ水産の科学⑤』朝倉書店 2021
149頁 活魚運搬船 生きた魚を運ぶための専用の船舶である。船の甲板に、最小で4つ、最大で12の活魚槽が設けられており、運搬の際は喫水域まで海水が入るようになっている。魚の積み込み時や停船時には給水ポンプを使って外部の海水を活魚槽に注水し、輸送時には活魚槽の喫水域に設けられた扉を開放し、外部の海水が活魚槽に流入する仕組みになっている。しかし外部の海水に、魚に対して害をもたらす要素(赤潮や低酸素など)が含まれている場合には、活魚槽の扉を閉じて外部の海水の流入を防ぐ、そして海水中の酸素が不足している時は、酸素を注入する場合もある。
150頁 ・・・積み込む方法は、船の活魚槽の喫水域横に設けられた扉と、生簀をトンネル状の網でつなぎ、生簀の網を絞りながら魚を活魚槽へと追い込み扉を閉める。ブリやカンパチの活魚運搬船への出荷は、生簀から直接大きな玉網にて魚をすくい電子計量器で計量しながら積み込むが、マダイを同じ方法で出荷すると眼球の擦れによる白濁や脱鱗が生じ、マダイの品質として大切な外見の美しさを損なってしまいかねないため、マダイに関しては前述の出荷方法をとっている。
・有瀧真人・虫明敬一『栽培漁業の変遷と技術開発―その成果と展望』恒星社厚生閣 2021
149頁 漁船などの船体内の一部を仕切って海水を導入する水槽のことを活魚艙という。・・・船舶輸送のメリットは、船外から活魚艙に新鮮な海水を取り込む「換水」が可能なことである。このため、種苗が排泄したアンモニア(糞)や粘液等を換水によって船外へ排出することが容易となり、水質の悪化を緩和できる。換水は、①活魚艙の底の換水孔を開けた上で、船舶を航行させることによって自然に海水を導入する方法と、②ポンプを用いて海水を汲み上げ注水し、オーバーフロー口から排水する方法がある。
150頁 輸送船の活魚艙 輸送中は光の変化で魚が暴れることを防ぐため蓋をあけるか照明等を点灯させる。