大日水産株式会社では当初、大崎造船所(兵庫県津名郡富島)や東根造船所(兵庫県津名郡岩屋)に外注し活魚運搬船を造っていたが将来の活魚運搬業の活性化に伴う船腹不足を予想し、経営者で60年余り鮮魚運搬業を経営してきた日野家九代目にあたる先代社長の日野顕徳氏が昭和38年(1963年)に大日水産株式会社内に木造船の造船部門を新設した。その頃はすでに大崎造船所では木造船から鉄鋼船を造るようになっており、多くの船大工の仕事がなくなっていた。大日水産株式会社には自社船が何隻もあるのに修理するところがなかったので、それでは「大日水産に来るか」ということで船大工棟梁や船大工を引き受けた。また当時すでに木造活魚運搬船を造る造船所はなくなりつつあり、新しく鉄鋼船の活魚運搬船が登場していた。昭和38年(1963年)大日水産株式会社富島造船所を淡路島富島に開設した(写真2)。
造船所では自社船も建造していたが、地元兵庫県や岡山県・広島県・山口県・和歌山県・徳島県・香川県・愛媛県・高知県・大分県・鹿児島県などの水産会社船主や漁業協同組合から注文があった。1隻(1パイ)の造船期間は4~5か月、秋から冬(9月~12月)に主に建造していた。この期間は降雨が少なく木材がよく乾燥するからである。主な木材は造船所木材置場(屋根はない)に自然乾燥していた。富島造船所の活魚運搬船は同業他社でも有名で、特に栓口(木栓)部の作りは非常に優れていた。昭和39年(1964年)からは受注船を造り始めた。
また、大日水産株式会社では都市部における活魚需要の増大に伴う活魚不足に対応するため、大日水産株式会社と大阪魚市場株式会社との共同で淡路養魚株式会社を設立し、昭和36年4月(1961年)に兵庫県洲本市の由良湾において、支柱式ハマチ養殖を行ったのが最初であるが、同年9月16日の第二室戸台風で大きな被害を受けた。昭和40年(1965年)9月には相次いで来襲した台風23号、台風24号、台風25号で再び大被害を被った。
昭和42年(1967年)頃には宮崎県延岡市宮野浦の宮崎養殖場や大分県津久見市に養殖場を設置し、ハマチの養殖を行い活魚を明石型生船で運んでいたことから同業他社の水産業者からは富島造船所の木造活魚運搬船のことはよく知られていた。
「先代社長の日野顕徳氏は戦後、多数の活魚運搬船を運用していたが、その多くは中古船を購入し積量変更やエンジン転換の改造を行っていた。積量変更とは船体を延長して生間を増やすことで、例えば4間8艙を5間10艙にして活魚の積込み空間を増やすわけであるが、船体は板と板で強度を保っているので単純に船体を切断して延ばすわけではなく、各船によってキール材の組合せや、外板の継ぎ目の場所が違うので船によっては生間を延ばす所が異なってくるので、長年の船大工の経験が必要となる(写真3)。当然、それに合わせてエンジンの馬力を上げる必要があった。当時は新造船をほぼ造らず、このような方法で活魚運搬船を確保していた。「エンジン(焼玉エンジン)は中古エンジンを色々な所から購入していた。中古エンジンでもピストン部がきちっと作動し動けば古いエンジンでも問題はなかった。動けばいいという考えで、自社船には中古エンジンを受注船には新品のエンジンを搭載していた。」と日野賀生氏は語っている。中古船や中古エンジンの売買については「機械船舶売買契約書綴(資料目録船舶・エンジン購入)」に契約書が残されており実態がわかる。例えば第二十五号住吉丸(HG2-983)は、和歌山県海草郡大崎村の元第一号濱丸(WK2-488)で有償譲渡を受け、延長工事で18.64屯→19.98屯→31.30屯と積量変更を行い、合せて焼玉エンジンを61馬力→65馬力→80馬力と転換している。第二十一号住吉丸(HG2-504)は、延長工事で19.90屯→43.85屯と積量変更を行い、焼玉エンジン30馬力をディーゼルエンジン160馬力に転換している。半数以上が改造工事をした船であった。